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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
156/237

我儘と恐怖を抱えて

ストックが、なかなか貯まらない……今週に限っては、週半ばに投稿した3万字超問題作のせいですが。

誤字脱字は遠慮なくご指摘くださいませ、いつもありがとうございます!


「いったい、どの面下げて面会など申し込んできやがったんですかあの皇子は!!」


 リタが、近年稀に見る大爆発状態となっている。憤懣やる方ない様子で、それでもお仕事ゆえに仕方なく外宮からの知らせを持ってきたミアが、思わず三歩下がるくらいの勢いだ。

 取り敢えずミアが可哀想だったので、ディアナは軽く息を吐きつつ、自ら彼女へと歩み寄った。


「お疲れ様、ミア。あなた方には本当に苦労をお掛けして、申し訳ないわ」

「いえ、そんな。いちばんご苦労されているのはディアナ様ではありませんか」

「苦労に上も下もないでしょう。それぞれの立場で、苦労はそれぞれあるものだけれど……今回の件に関して言うなら、わたくしがもっと上手くやり過ごせていれば回避できた可能性もあるから、やっぱり謝るべきだと思う」

「ディアナ様は何も悪くありません!」

「……えぇ、私もリタに同意します。仮にディアナ様に何かしらの瑕疵があったとしても、今回の件はあまりにも常軌を逸しております」


 爆発中のリタと、静かながらひたひたと怒りが漂っているミアの言葉に、室内に揃っていた『紅薔薇の間』の侍女全員が一斉に頷いた。スタンザの皇子来国以来、彼女たちのストレスは限界へと達しつつあったが、今回の一件で遂に最後の糸が切れてしまったようだ。

 いつもは朗らかな服飾担当侍女、アイナが、彼女にはまるで似合っていない冷笑を浮かべて。


「何でしたっけ? 帰国を目前に控えた彼方様が、突然、いきなり、藪から棒に仰った〝提案〟――『我らが貴国にて手厚いもてなしを受け、エルグランド王国の素晴らしさを知って考えを改めたように、エルグランド王国の方々にもスタンザの良さを知って頂きたい。両国の真の友好のため、急な話ではあるが我らの帰国に合わせ、エルグランド王家のどなたかをスタンザへお招きしたい』とか、そんな寝言だったと記憶しておりますが」

「こんなに分かり易い『人質寄越せ』構文も滅多にありませんよね。エルグランド王家の方って、陛下を除けば、今の我が国にはリファーニア王太后様しかいらっしゃらないのに。外宮側がやんわりそう言って断ろうとしたら、『おや。エルグランド王国では、後宮にいらっしゃる側室方を王族に数えてはいらっしゃらないので?』って――!」


 アイナとタッグを組んでいるロザリーも、普段の控えめな姿勢をかなぐり捨て、かなり熱くなっている。本来ならそんな二人を戒める立場のミアとユーリも。


「あの一言で外宮側の空気がガラリと変わりましたね。四十人以上いる側室なら、誰か一人くらい国の外へ出して、最悪戻って来なくても問題ないかという計算が働いたのは明らかでしょう」

「側室方の中にはお立場が弱く、ご実家との折り合いも悪く、孤立無援状態の方が数名いらっしゃいます。そういった方なら、ご実家へいくらか見舞金を出してスタンザへの贄にすれば国の損害は最小限で済むと、そういう魂胆なのでしょう。特に保守派の方々の間で、〝側室なら良いのではないか〟論が強まっているそうですね」


 スタンザのみならず、自国の貴族たちにまで冷淡に怒り、かつそれを隠すつもりもない。少し前までなら外宮の様子がこれほど(つぶさ)に後宮まで伝わってくることはあり得なかったが、今の『紅薔薇の間』は外宮室と連携を密にしているので、全員がしっかりばっちり情報共有できているのだ。

 ――スタンザが全力で血迷った〝提案〟を持ちかけてきたという第一報が舞い込んできたのは、後宮にてディアナが案内していたスタンザ皇子と、中庭で話をしていたシェイラとジュークが出会ってしまった、その翌日のこと。あの日の二人は、早朝にシェイラがディアナを訪ねて話し合った内容について共有していたところであり(いつもなら普通にシェイラの部屋で話すが、一応不法侵入者なカイも同席していた以上、あまり彼の存在を広めない方が良いだろうという二人の気遣いで、人気のない中庭へ移動していたらしい)、ジュークはシェイラの話を聞いた上でスタンザ皇子とディアナの茶会にどう割り込むか決めるつもりだったそうで、予定を壊してしまったことは素直に申し訳なかったと思う。

 国内貴族を騙して時間を稼いでいる状況下で、よりにもよって油断ならないスタンザ皇子に、シェイラが真の寵姫で唯一の正妃候補だと知られるわけにはいかない。今後、かの国と真の友好を築くことができればカミングアウトする機会はあるだろうけれど、少なくともそれは今ではないのだ。

 だからディアナは、思いもよらない事態に動揺した次の瞬間には、『紅薔薇』として二人へ話し掛け、和やかな時間を精一杯演出した。皇子に見られたことを焦る二人をフォローし、シェイラと仲の良い様を見せることで、シェイラが王の寵姫であるという疑いを持たれないよう立ち回った。対外的にはディアナが寵姫とされている状態で、王と二人きりで話していた側室とディアナが普通に仲睦まじければ、「紅薔薇がこれほど好意的に接しているのだから、この側室と王に特別な関係はないだろう」と思ってもらえるのでは、と考えて。……ディアナは恋愛ごとに疎いが、王の寵愛を奪おうとする相手に親切な寵姫は普通いないことくらいは分かる。

 そんな感じで中庭の時間を終え、後宮を辞去するジュークと皇子を見送ってから、ディアナはシェイラに平謝りされたわけだが――サロンでお勉強の予定を勝手に変更したのはディアナなのだから、シェイラとジュークに落ち度はない。むしろ、ディアナの側に警戒が足りなかったのだ。皇子の気分を変えるため散策するにせよ、その前にマグノム夫人と繋ぎを取り、散策予定場所の人払いくらいお願いしておくべきだった。そうすれば、あんなニアミスは起こらなかっただろうに。


 近年稀に見るヘマ、どうにか誤魔化しはしたつもりだが、皇子側がどのように受け取ったかは分からない。次の茶会で突っ込まれたらどう切り抜けるべきか――そんなことを考えていた翌日、驚いたことに皇子からの面会希望は寄せられず、もっと驚いたことに、スタンザ国使団からの『エルグランド王家の方をスタンザ帝国にご招待したい。側室でも可』という申し出が舞い込んできたのである。

 この第一報に、後宮内関係者は残らず激怒した。スタンザ国使団にももちろんだが、「側室なら良いんじゃね?」という空気になったという保守派含む外宮側にも激怒した。昨年の貴族議会で後宮側にとっちめられたのにまだ懲りてないのか、という呆れと、そして。


「――外宮側がどのように計算しようと、ディアナ様がいらっしゃる以上、後宮から人身御供を出すような真似は決してなさらないと理解していない方々が、まだこれほど大勢いらしたとは。外宮側の見る目のなさには、ほとほと愛想が尽きました」


 現在の側室筆頭――ディアナを軽んじていることへの、純然たる怒りだ。微笑みすら消し去って淡々と述べたルリィに、全員が一斉に首肯する。

 侍女たちの怒りを、割と真面目に怖がりつつもありがたく受け止めたディアナは、ミアが持ってきた紙切れに視線を落とし。


「……でも、まぁ、今日の面会申し込みは断れないわね。皇子殿下へ直接、その〝提案〟の真意について探る、絶好の機会だもの」


 ぽつりと、静かに、呟いた。

 瞬間、全員の熱量がぶわりとこちらを向いて燃え上がる。


「ディアナ様! いい加減にしてください!!」


 先陣を切ったのは、もちろんリタだ。こういうとき、ディアナの非常識に慣れているというアドバンテージはとても大きい。


「そうやって、ディアナ様がスタンザ皇子と外宮側を甘やかすから! お優しいのも結構ですし、争いごとを嫌われてできるだけ波風立たないようにと配慮しておいでということは分かっていますけれど、だからって今回のディアナ様はちょっと引きすぎです!」

「心の底から、リタに同意致します。ディアナ様、これ以上スタンザ皇子と関わり合いになるのはお控えください」

「スタンザ皇子の思惑なんて知ったことじゃありませんよ。向こうがどういう真意でこんなふざけたことを言い出したのだとしても、こちらは毅然として引かず、後宮からスタンザ帝国へ送り出して良い人などいないと拒絶すれば済む話です」

「皆の言う通りです。ディアナ様、スタンザ皇子の真意を理解することに、今となっては利点などほぼありません。反対に、ディアナ様の御身が危険に晒される不利益の方が圧倒的に多いでしょう」


 リタに続いて、ロザリー、アイナ、ルリィが圧倒的な正論を述べてくる。仲間たちの言葉に、ユーリとミアも深く、深く頷いた。


「もうこれ以上、ディアナ様を矢面に立たせるわけには参りません。外宮側も、こうなった以上は面会の申し出そのものを断れば良さそうなものを……」

「この通知が届いてしまえば、ディアナ様がはっきりと拒んでくださらない限り、私どもの方で握り潰すことはできないのです。マグノム夫人がどれだけ、職務とディアナ様の間で揺れていらしたか……どうかお願いです、ディアナ様。一言、『スタンザ皇子からの面会申し出をわたくしまで上げるな』とお命じください。そうすれば私どもの方で、このような申し出はきっぱりと切り捨てますゆえ」


 優しい、優しい、皆の言葉。彼女たちの言葉は正しくて、ディアナのために、ただディアナのためだけに、これほど必死になってくれている。

 その気持ちが、痛いほど伝わってきて――けれど、だからこそディアナは、頷くわけにはいかなかった。


「……今日会ってみて、皇子と話をしたその展開次第では、拒絶する必要もあるのかもしれない。けれど、今日は断れない」

「――ディアナ様!!!!」

「だって!!」


 リタ一人ならともかく、侍女全員の前で駄々をこねるのは、考えてみれば初めてのことだ。『紅薔薇』としてより、これはもうほぼ『ディアナ』の意地だろう。


「今のままじゃ……彼らの真意を何も知らないままじゃ、わたくしはきっと、この後宮を守り切れないもの」


 全員の表情が、悲壮に染まる。特にリタは、「そう言い出すのを恐れていた」と言わんばかりの表情だ。

 ……そう。ディアナがリタや皆の気持ちを分かっているように、皆とてディアナが何を考えているのかくらい、きっともう、分かっている。分かっているからこそ、その未来を回避したくて、これほど必死になってくれているのだ。

 全部分かっていて、それでも己を曲げられない自分は、カイの言う通り本当に我儘で欲張りだな……と自嘲しながら、ディアナは静かに言葉を紡ぐ。


「スタンザ国使団がどうして『エルグランド王家の誰かをスタンザ帝国へ招きたい』と言い出したのか……今の時点では、ロザリーがさっき言ったように『人質寄越せ』くらいの意図しか読み取れない。外宮側もそれくらい分かっているだろうから、このままだと人質として〝亡くしても惜しくない〟誰かに白羽の矢を立てるだろうことは明白だわ」

「ディアナ様……」

「支度金目当てで娘を後宮へと入れた者たちなら、同じように莫大な補償金目当てで、娘をスタンザ帝国へ遣ろうと考えるでしょう。……何人か、心当たりもある」

「です、が」

「そうやって、実家が了承を出してしまったら、今の段階で後宮がそれを拒絶することは不可能に近い。正式に擁立された正妃であれば、その権限を以って外宮から後宮への干渉を撥ね退けることができるけれど、わたくしはあくまでも側室筆頭に過ぎない。……皆を守れる権限なんて、持っていないの」


 クレスター家は権力を厭う。理由は実に簡単で、自分の考え、言葉で他者を従わせることができる権力という〝力〟は、他のあらゆる種類の〝力〟に比べ、圧倒的に人間を歪ませる率が高いからだ。

 人は弱い。どれほど崇高な志を持っていようと、賢明な頭脳の持ち主だろうと、深い慈愛の心があろうと、権力の甘い汁を一度(ひとたび)吸えば、その魅力に抗えなくなる。そうして、何より大切にしていた志を、頭脳を、心を忘れ、いつの間にか権力の恩恵を受け続けることを最優先にしてしまうのだ。

 長い歴史の中でエルグランド家に寄り添い続けたクレスター家は、そうやって権力に溺れて沈んでいった者たちを飽きるほど見てきた。「ヘタな麻薬なんかより、権力の方がよっぽどタチが悪い」と言ったのは、確かデュアリスだったか。……悲しい死を遂げた、ソフィアの兄ライノとてそうだ。『紅薔薇』の、正妃の権力があれば、今の世の理不尽も変えられると夢見て、そして散っていった。

 だから、ディアナは意地でも権力は欲しがらない。――けれどだからといって、権力があれば確実に守れるはずの者たちを、己の意地で失うのも嫌なのだ。

 守りたいものを、権力を使わず、それでも守り抜くためには。


「……使える権限がないのなら、知恵を絞るしかない。スタンザ帝国の真意がどこにあるのかを探り、彼らが本当に求めているのは〝人質〟なのか、それをはっきりとさせる。もしも〝人質〟は建前で、本当に得たいものが他にあるのだとしたら、交渉の余地は広がるはずよ」

「だと、しても。それをディアナ様がする必要など、どこにもないではありませんか」

「……昨日一日、ヴォルツ小父様がどう粘っても、彼らの真意は分からなかった。であれば、これ以上は無理よ。時間をかければ何とかなるかもしれないけれど、スタンザも早期帰国を目指しているし、それはエルグランド側の希望とも合致する。国使団の帰国を急がせたい一派は、支度金目当てで娘を後宮へ入れている者たちへ密かに話を持ち掛ける程度には、もう動き出しているはず。――時間がないのよ」

「ディアナ様……っ」

「リタ。みんな。私のことを思って、守りたくて、怒ってくれているのは分かってる。その気持ちは本当に嬉しくて、ありがたいとも思ってるわ。でも……お願い、分かって。みんなが私を守りたいと思ってくれているように、私もみんなを守りたい。私に大切なことを教えてくれた後宮から、もうこれ以上、国の犠牲になって悲しい思いをする人を出したくないの」

「……っ」

「ヴォルツ小父様の探りを躱したスタンザ側が、向こうからやって来たのよ。少なくともあちら側には、『紅薔薇』と話をする心算があるということだわ。この機会を逃すわけにはいかない。――大切なものを、守るために」


 全員が、悔しそうな表情で俯く。リタが、ぐっと拳を握りしめた。


「いつも、いつも、……いつも。ディアナ様はそうやって、我儘ばかりおっしゃいます」

「……うん、そうよね。自分でも我儘だと思う」

「それでも――譲られないのですね」


 静かに尋ねたのは、ユーリだ。悔しさを隠さず、それでもどこか覚悟を決めた表情で。


「うん。……譲れないの、何一つ」

「……ディアナ様のお気持ちは、分かりました。少し、皆で相談してもよろしいですか」

「…………分かったわ」


 今度こそ、愛想を尽かされるのかもしれない。それくらいの我儘を、今ディアナは言っている。

 侍女たちが主人を外して相談するとなれば、いったん下がるのが普通だろう。事実、下がろうとした彼女たちを、ディアナは笑って引き止めた。


「せっかく皆が集まっているのに、また場所を変えるのも面倒でしょう。……私、ちょっと寝室で休んでいるから。茶会の用意をする時間になったら、起こして」

「ディアナ様……ありがとうございます」


 私室(プライベートルーム)に居れば主室(メインルーム)の会話は漏れ聞こえるかもしれないけれど、寝室まで行けばそんなこともない。ディアナはゆっくり頷いてから、一人静かに踵を返し、私室を突っ切って寝室へと入る。

 その、寝台の前で――糸が、切れた。


(……っ、ごめん、なさい)


 寝台にすら向かえず、扉を閉じたところで蹲る。抱えた膝に頭を埋めて、ディアナは荒れ狂う怒濤の感情に翻弄された。

 心中を吹き荒れる嵐が、ディアナの深い深い部分を揺らす。

 込み上げてくるものを、深く息を吸って、押し留めた。


(泣け、ない。今、泣くのは卑怯)


 不安だと、嫌だと、……怖い、と。子どものように泣き叫んで、幼い頃のように母の膝に縋り付いて泣けるなら、どれほど良かっただろう。

 心配し、怒ってくれる皆に甘えて、「助けて」と言ってしまえたら。


「ディー」


 ふと、目の前に影が差した。……気配すら悟らせないこのひとは、先ほどの一幕を見ていたのか居ないのか、そんなことすら分からない。

 分からない、けれど。


「ごめん、なさい。あんなに、心配してくれたのに。……私はどうしたって、誰かが喪われる未来を、肯定できない」

「……うん」


 顔も見られなくて、膝に顔を埋めたまま発された言葉を、優しいたった一言が肯定する。

 肩に柔らかな熱を感じ、そのまま頭に大きな温もりが乗った。……ディアナの隣に腰を下ろした彼が、そっと頭を撫でてくれている。


「大丈夫。ディーの気持ちは、分かってるから」

「でも……! みんなが、あなたが、こんなに……っ」

「それを実感して、『ごめん』って言葉が出るようになった分、ディーはちゃんと成長してるよ。忘れてるかもしれないけど、去年の今頃、園遊会の準備に奔走してるディーのこと心配して、あの頃の俺としてはかなり踏み込んだこと言ったけど、笑顔でキレーに拒絶されて終わったからね。誰かが自分を大事にしてるって、頭だけじゃなく心でちゃんと理解して、その思いを踏みにじってしまう自分を苦しめるようになったのは、ディーとしては辛いだろうけど、大きな成長の証なんじゃない?」

「カイ……っ」


 どうしてこのひとは、こんなときまで優しいのだ。もっと怒って、責めて、詰れば良いのに、そうしたい気持ちは山のようにあるだろうに、それすらも深い慈しみに(くる)んでしまう。

 この、ひとなら、きっと――。


(――っ、ダメ。それだけは、絶対に、駄目)


 過去に一度、カイを頼った。彼の命を危険に晒すことを承知の上で、大切な親友の命をどうしても諦められなくて。「たすけて」の言葉を、音にした。

 あのときだって、葛藤したけれど。カイを信じれば、それが最良策だと自分を納得させることができたから、あの葛藤を乗り越えるのに必要なのは信じる心だけだった。ディアナが大切にするものは、喪いたくないものは、何一つ捨てずに済んだ。


(……今は、違う。こんな、理由も原因も分からない不確かな私個人の恐れなんかに、他の誰かを巻き込めない)


『紅薔薇』としても『ディアナ』としても、守りたいものは同じだ。大切なものを守り抜くためには、皇子との面会を避けては通れない。ならば、立ち向かうしかない。

 けれど――同時に今、ディアナの中に原因不明の恐れが生まれている。……あの日、ジュークとともに後宮を辞したスタンザ皇子が、別れ際ディアナに向けた眼差しが、これまでと同じようで、まるで違ったもののように思えて。


(あの瞳と、もう一度対峙するのが、怖い……なんて)


 逃げられないのは、逃げてはいけないのは分かっているのに、逃げたいのだ。後宮を守りたいと願い、ならば戦わねばと思う側から、これまでにないほど不安な気持ちが忍び寄ってくる。気を抜けば、「本当は嫌なの」と口から飛び出てしまいかねないほどに。


「――ディー」


 黙り込んだディアナを、優しい彼の声が呼ぶ。彼の瞳と顔を見たら、間違いなく泣いてしまう確信があって、ディアナは指一本動かせなかった。

 そんなディアナに何を思ったのか、彼の気配が静かに動いて。


「……っ、カイ、」

「いつまでもそんな座り方してたら、足が痛くなるよ。――大丈夫だから」


 座った彼に半ば抱え込まれる形で抱き締められる。どのように動いたのか、カイはディアナを足で挟むような体勢で、背後からすっぽり包み込んでくれた。

 何もかもを承知したような「大丈夫」が、思った以上に深く深く、心に響く。


「ディーが、リタさんたちや俺に申し訳ないって思いながら、それでも譲れないのも。……一人で必死に膝を抱えて、いろんな気持ちと戦ってるのも」

「!」

「全部、分かってる。その上で言うよ。――ディーは、大丈夫」

「カイ……!」

「ねぇ、ディー。逃げたい?」


 背後から、優しくて柔らかくて、なのに誤魔化すことを許してくれない声がする。

 首を横に振りかけて……でも、そんな『嘘』はつけなかった。


「…………にげ、たい。たぶん今、生まれて初めて、逃げちゃダメなのに逃げたいって、そう思ってる」

「うん」


 温かな腕が動き、ディアナをほんの少し強く、抱き締めて。


「ディーが本当に逃げたければ、俺はいつでも、攫って逃げるよ。こんな後宮(ばしょ)からディー一人連れ出すくらい、俺には何でもないからね」

「ダメ……! 戦っているみんなを置いて私だけ逃げるなんて、そんなことはできない!」

「ホラ。間髪入れずにそう返せるから、ディーは〝大丈夫〟なんだよ」


 ふわりと、カイが笑った気配がして。


「たぶんディーは、逃げ出したいほど怖い〝何か〟があることも、そのせいで逃げたくなっていること自体も、怖いし不安なんだろうね。ディーっていつも清々しいくらい真っ向勝負してるから、逃げたいって気持ちそのものが初めてだろうし。誰だって、初めてのことは不安だよ」

「そう……いう、もの?」

「そうそう。それに、逃げられないのは分かってるけど逃げたいって思うことなんて、別に珍しいことじゃないからね。俺だって、クレスターでの父さんとの〝稽古〟は、できれば全力で回避したかったよ」

「あぁ……」


 ソラとの〝稽古〟に遠い目をしていたカイを思い返し、少し気持ちが解れて楽になる。

 身体に入っていた力が少しずつ抜けていることは、抱き締めているカイにも伝わっているようで、その手が優しくディアナの髪を撫でた。


「だからディーは、怖いって思ってることも、逃げたいって思ってることも、引け目になんて思わなくて良いから。怖がってても、どれだけ逃げたくても、ディーは絶対に逃げることを選ばない。リタさんたちだって俺だって、そうやって怖いなら素直に逃げてくれた方がよっぽど楽だし全力で守れるのに、ディーは自分が逃げることで大事な世界が喪われることの方を嫌がるんだもん。……そうやって、己の中の恐怖と戦って、それでもなお立ち向かうことを迷いなく選べるディーは、恐怖を知らなかった頃より、ずっとずっと強くなってるよ」

「カ、イ……」


 耳元で響く、いつもより少し低めの優しい声が、何故か子守唄のように聞こえてくる。抗えずに瞳を閉じると、耳にふわりと、濡れた柔らかな熱が触れた。


「怖い気持ちも、逃げたい自分も、『悪いこと』って否定しないで受け入れてあげて。俺は全部受け止めるけど、それでもやっぱり、ディーが抱えてる気持ちをディー自身が否定する様を見るのは辛いよ。――どんな感情であれ、産まれた〝それら〟は殺すより、認めて受け入れてあげた方が、いつかきっとディーを支える力になるから」

「う……ん」


 カイの腕の中で、いつの間にか恐怖は遠くなっていた。ゆっくりと世界が闇へと溶け、再び光が差すときこそ、逃げられない戦いの始まりなのだろうけれど。……今はもう、目覚めることがそれほど怖いと感じない。


(ありがとう、カイ……)


 もう口は動かせず、心の中だけで呟いて、ディアナの意識は完全に閉じた。


そろそろ恋愛色強くなってきましたかね??(ジャンル恋愛詐欺じゃねぇかと言われる度に、いつかはディアナも恋愛するから! と言い訳して8年が経ちました)

前書きにある3万字超問題作ですが、『悪役後宮番外編』(涼風のマイページの作品欄から入れます)に投稿しておりますので、興味がある方はそちらもどうぞ。カイディーの現代パロです。どこがどう問題なのかは、注意書きに記してあります! 地雷な方は個人で回避を!

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