早朝の作戦会議
相変わらず推敲が不十分です……誤字脱字報告、いつもありがとうございます。
「……で、何か言いたいことは?」
「…………正直ここまでグイグイ来られるとは思ってなかったです」
「だから、最初からお茶会そのものを断っておけば良かったのでしょう?」
「ホントにねー。ディーの言ってた理屈も分かるけど、俺としてはぶっちゃけ『見込みが甘かった』と思うよ。……いろんな意味で」
ディアナがうっかりスタンザの皇子相手に本音をつらつら述べてしまったお茶会から、およそ一週間。カイと、週に一度の正妃教育休養日を利用して朝から『紅薔薇の間』へ足を運んでいたシェイラの前で、ディアナはしょんぼり肩を落として二人のお説教を受ける羽目になっていた。
理由は明白。そのお茶会で「紅薔薇様を訪問する権利を陛下直々に頂戴した」と言質を取ったスタンザ皇子が、ほとんど連日、午後のお茶の時間にディアナの元を訪れていたからだ。
「それ見ろ言わんこっちゃない」とデカデカ顔に書いてある二人の前で、ディアナははあぁ、とため息を吐く。
「スタンザ皇子が『紅薔薇』の籠絡目的で、適当な質問を口実にやって来るなら、いくらでも無視するし拒絶するんだけども。……ぶっちゃけ、持って来られる質問はどれもハイレベルで、きちんと勉強しなきゃそもそもその質問すら抱かないようなのばかりで、着眼点も鋭いのよね。だからついつい本気で相手をしてしまって……」
「……クリスさんも言ってたけどさぁ、クレスター家の知識欲というか勉学意欲というか、『知』をどこまでも極めたがるその習性、時と場合を鑑みてちょっと脇に置いとけないの?」
「…………昔、お兄様もお義姉様に怒られてたし、聞いた話だとお母様もお父様を叱ったことあるらしいんだけど、誰かに言われて脇に置いとける程度の欲望なら、数千年単位で『賢者』なんて継げないと思うのよね……」
「あー……クレスターの知識欲って、どっちかといえば霊力の質から来るのか。だとしたら抗うのは厳しいけど……」
「そういうものなのですか?」
「生まれ持った核にもよるけど、クレスターの人たちを見る感じだと、俺のと同じで融通利かなそうではあるよね。俺が自力では武力方面の霊術しか使えないのと、似たような理屈」
「それってつまり、『賢者』の謎は霊力と核について深く調べれば解明されるかもしれないってこと!?」
「うん。そうかもしれないけど、そういうこと調べるのは目の前の問題にケリつけてからにしようか」
長年クレスター家が取り組んできた『賢者』の謎の手掛かりに興奮したところを、あっさりカイに流された。……し、さすがにディアナも、今はそんなことを悠長に研究している場合ではないと分かってはいる。
(お茶会が何事もなく終われば、カイの機嫌も元に戻ると思ってたのに……)
うっかりキレてしまったディアナの自業自得ではあるけれど、だからといってここまで頻繁に訪ねて来られるのは、さすがに想定外だ。一度断ってみたところ、その翌日の訪問時間が倍以上に延びたので(一日断った分、質問量が増加していた)、それからは断らないようにしている。……ディアナとて、いくら後宮という己のテリトリー内とはいえ、それほど気を許していない男性とほとんどマンツーマンで話し続ける時間に、疲れないわけではないのだから。
そして、ディアナが皇子にグイグイ来られているこの状況は、当然ではあるが関係者全員が苦々しく受け止めていた。とりわけカイは、当初から人一倍皇子を警戒していたこともあり、ずっと機嫌がそこはかとなく悪い。どれほど機嫌が悪くてもディアナには優しいし、周囲へ無闇矢鱈と当たるわけでもない辺り、ディアナと一つしか違わないのに人間的にできた人だなぁとしみじみ申し訳なく思う。
カイに心労を与え続けているこの現状は、もちろんディアナにとっても長く続けたいものではない。どうにかして皇子の興味を他へ逸らしたく、外宮室やストレシア侯爵にも協力してもらっては居るのだけれど、スタンザ国使団はそのアプローチを上手に捌いて皇子とディアナの時間を確保していた。その有能さはもっと別のところで発揮してくれと、ここまで来ると八つ当たりしたくなる。
「……ねぇ、ところで」
会話が途切れ、室内に訪れた静寂を、控えめながら揺るぎないシェイラの声が破った。ディアナが視線を向けると、シェイラは少し考える素振りを見せながら、ゆっくりと言葉を紡いでいく。
「ディーは、スタンザの皇子殿下のことを、どう思っているの?」
「シェイラさん……?」
「どう、って……それは、彼の考えとか策略について?」
「それもあるけど、単純に人間としてどう思っているかを聞きたいの。……ディーのことだから、油断のならない相手ではあっても、きちんとその人の人間性を見ようとしているでしょう?」
シェイラの信頼が伝わってくる質問に、胸の奥が複雑に疼く。……確かにこの一週間、皇子と様々な会話をする中で、見えてきたモノは多くあった。
「そう、ね。……悪い人では無いんだろう、と思ってる」
静かに断言したディアナに、カイとシェイラが揃って息を飲んだ。
二人の反応に、ディアナは苦笑しつつ首を横に振る。
「もしかしたら、彼にとって私への〝質問〟は、『紅薔薇』との接点を作る口実に過ぎないのかもしれない。けれど、仮に口実であったとしても、彼の学びへの姿勢はとても真摯で誠実だわ。エルグランド王国の価値観や考え方は、モノによってはスタンザ帝国の在り方そのものを否定しかねないけれど、彼はそれすらも拒絶ではなく『何故そのような価値観が生まれたのか』まで遡って理解しようと努力している」
ディアナの言葉に、カイも、シェイラも口を挟まない。短く息を吸い、ディアナは目を閉じた。
「たぶん彼は、本質的な部分で学びを、『知』を大切にできる人なんでしょうね。……そして、何か一つでも心から大切に思うものがあって、それに敬意を払ってきちんと大切にできる人を、本質的な部分で相容れない悪人だと、私は思えないから」
エルグランド王国を学ぶ彼の瞳には、新しい知識への意欲と敬意だけがあって。ディアナへ持ってくる質問も、口実云々の思惑はともかく、本当に疑問に感じたのだろうなと分かるものばかりで。国使の仕事もしっかりとこなしつつ、空いた時間で猛勉強して、貪欲に――何より真摯に『エルグランド王国』を知ろうとしていると、理解できてしまった。
身分が高いゆえ、独善的な面もあるけれど、本質的な部分で彼はとても真面目かつ誠実だ。大切なものを、独りよがりで無くちゃんと大切にできる人だ。……少なくとも、ディアナが絶対に分かり合えない類の存在ではない。
――ディアナの言葉に驚き、声も出せずに固まっている二人に、ほんの少しだけ苦笑した。
「……でもね、それだけよ」
「……、え?」
「ディー……そう、なの? もっと深く分かり合いたいとは思わない?」
「えぇ。だって……彼と本当の意味で分かり合うべきなのも、友好を築くべきなのも、私じゃなく陛下とシェイラだもの」
今度は、カイとシェイラの目が揃って丸くなる。特に名指しされたシェイラは、ぽかんとした表情になった。
「わ、私?」
「だって、そうでしょう? スタンザ皇子はずっと『王族同士、親しくお付き合いできれば』と言っているんだもの。私はそもそも王族じゃないし、この先王族になる予定もないし、それじゃあ誰が彼やスタンザ帝室と友好を築いていくのかとなったら、陛下と、陛下の妻になるあなたと、いずれ生まれるあなたたちの子ども――未来のエルグランド王室よ」
「ディー……」
……正直、当たり前のことを言っただけで、これほど唖然とされるとは思わなかった。現状、ディアナは『紅薔薇』という名の正妃代理として正妃の代行業務をこなしているだけなのだから、いずれシェイラが正妃となれば――もしくはその前からでも、少しずつ業務を移行していくのは既定路線だと勝手に考えていたのだけれど。
「ディーは、それで良いの?」
ややあって、シェイラが恐ろしく真面目な顔で問うてきた。質問の意味が分からず、ディアナは首を傾げる。
「それで良いの……って?」
「『知』を大切にできる、異国の皇子様でしょう? ディーにとっても、個人的に親しくなりたいお相手ということはない?」
「……まぁ、皇子殿下と個人的に親しくなれば、スタンザ帝国をより深く知ることはできるでしょうね。でも正直、別に皇族との個人的なツテに固執しなくても、現地へ行けばその国の歴史や風土を肌で感じ取ることはできるし、いくらでも学びの機会は転がってる。取り立てて皇子と親しくなる必要性は感じないし、この状況で無理して親しくなりたくもないかな」
もちろんディアナとて、人間性がそれほど悪くない相手を警戒し続けなければならないのは疲れるし面倒だから、この先本当にスタンザ帝国が方針転換してエルグランド王国と友好を結ぶような日が来れば、普通に話がしたいとは思う。そもそもディアナは、表面を美々しく取り繕いつつ心中で厳戒態勢を強いて相手の隙を窺う、いわゆる貴族の諜報は全力で苦手だ。社交デビューする直前まで、平和なクレスター領で領民たちとのんびりのほほんと過ごしていたのだから、相手を警戒することそのものに慣れていない。二年の社交経験と去年の後宮でのアレコレで多少マシにはなったが、今でも相手を警戒して探りながら、表面だけにこやかに話をするのは疲れが先に立つので、そんな相手は一人でも少ない方が助かることは助かる。
――ディアナの断言に、シェイラが何度も目を瞬かせる。
「そうなの? なんだか意外……」
「どうして?」
「ディーの知識欲に底が無いのは、クレスターで一緒に過ごして、十分過ぎるほど分かっていたもの。そんなディーなら、お茶の時間いっぱい使って討論できる……まずディーと討論できるほど『知』に貪欲な人とは、もっと親しくなりたがるんじゃないかしらって、そう心配していたから。しかも異国の方……ディーの大好きな、知らない世界を見せてくれる方なら、尚更」
「まぁ……否定はしないし、いつかもっと打ち解けてお話しできれば良いな、とは思うけれど。スタンザが仮想敵国な現状ではこれが限界だろうし、陛下やシェイラを押し除けてまで特別に親しくなりたい気持ちもないわ」
笑って答えつつ、ディアナは密かにシェイラの分析に舌を巻く。
(確かに……こんな風に思えるようになったのは、カイが私の思い込みを払拭してくれたからだけど)
貴族の責務に、『紅薔薇』の役目に雁字搦めになっていたままだったなら、ディアナに新しい価値観を吹き込んでくれる皇子殿下との関わりはより魅力的だっただろうし、知らない世界、新しい世界を見せてくれる彼との繋がりを逃してなるものかと、必死になったかもしれない。彼がディアナに好意的であれば尚更、エルグランド王国の貴族社会に拗ねていたことも相まって、のめり込んでいた可能性は大いにある。
今、ディアナが皇子の『スタンザ式社交辞令』をさらりと流せるのは、後宮で過ごした経験があったから。分かり合えない人は確かに多いかもしれないけれど、きちんと心を込めて向き合えば、分かる人には必ず届くと信じられるようになったから。
そして、何より――。
(カイの言葉が、あったから――)
――いつか、行こうよ。『ショウジ』と、それを使った家と、その町並みを見に。想像もできないなら、実際に見た方が早いでしょ?
ディアナの目の前にあった見えない檻を粉々に砕いてくれた、カイの言葉。あの瞬間、自身の未来は果てなく広がって自由であることを、ディアナは知った。
知らない世界を本や人伝で知った気になるより、自分の目で見て、耳で聞いて、肌で感じた方が、より深く知ることができるのは当たり前だ。ディアナの手足は思うがままに動かせて、別にどこへ行くことを咎められるわけでも無いのに、あのときまでそんな簡単なことにも気付けなかった。『紅薔薇』である以上はこの国のために生きねばならないと、そればかりを考えていた。
そんなディアナに、カイは無限の『未来』をくれた。世界は広く、望めば何処へだって行けるのだと、気付かせてくれた。
だから……今のディアナは、知らない世界を知る相手に、それほどの羨望は覚えない。皇子は確かにスタンザ帝国をよく知っているのだろうけれど、彼の知る『スタンザ帝国』に拘らずとも、知りたくなれば自ら帝国へ赴けば良いのだ。その方が、ずっとずっと深く、ディアナの知的好奇心を満たすことができる。
カイにはどれだけ感謝しても足りないな――と思いつつ本人を見ると、彼は少し戸惑ったように、ディアナを見つめ返してきた。
「……どしたの、ディー?」
「……私、あなたには貰ってばかりだなぁと思って。カイが沢山のものをくれたから、私は本当に大切なものを見失わずに居られるんだわ」
「スゲー唐突に持ち上げられたけど……それを言うなら俺の方こそ、じゃない? 敵として出会ったのにちゃんと話を聞いてくれて、父さんのこと助けてくれて、……貴族どころかエルグランド国籍すら持っていない俺たち親子のこと、当たり前みたいに受け入れてくれてる。ディーが居なきゃ、俺たち、今こんな風に笑えてなかったよ」
「あなた方親子を受け入れない人なんて、探す方が難しいと思うけど……」
「そう? 父さんの黒髪黒目も、俺の目の色も、この国じゃ受け入れ難いでしょ」
「ルリィがしょっちゅう言っているけれど、そんな下らない理由で他人を弾く人はそもそも同じ『人間』にカテゴライズしなくて良いわよ。『黒』が忌色だなんて、出所も判然としない大昔の迷信なんだから」
ソラは人種が違う故だが、ルリィの例もあるように、エルグランド王国人でも少数ではあれど黒髪黒目は普通に生まれる。『黒』を忌色として排斥対象にしていたのは、およそ三百年前までエルグランド王国とこの半島を二分していたアント聖教国の教義で、故に今でも、特にマミア大河以西では黒を忌避する習わしが根強い。生まれ持った身体的特徴で不当な差別が起こらないよう、歴代のエルグランド王家やクレスター家も気を配り続けてはいるけれど、なかなか拾い切れていないのが実情だ。
ディアナの断言にカイは少し笑い、シェイラがやや複雑そうな表情になった。
「ディー……それって遠回しに、カイさんの実のご両親を貶していることにならないかしら?」
「へぇ、珍しいねシェイラさん。俺のこと気遣ってくれてるの?」
「気ぐらい、普通に遣いますよ。私のことを何だと思っているのですか?」
「シェイラさんだと思ってるけど?」
カイと軽口を叩き合うシェイラも、彼の大まかな事情はクレスターを訪れた際に聞かされている。「一種の同族嫌悪」らしくあまり和気藹々と話すことはないシェイラとカイだが、だからといってお互い別に本気で嫌い合っているわけでは無いのだろう。シェイラがカイを気遣うのも、その逆も、まぁ別段おかしな話ではない。
カイは、生まれて間もない頃に捨てられたところを、ソラに拾われ育てられた経歴を持つ。捨てられた理由は不明だが、拾ったソラ曰く、「おそらくはカイの瞳の色が原因だろう」とのこと。宵闇を写し取ったかのようなカイの紫紺の瞳は、暗い場所ではより黒に近くなる。そんな瞳を持った我が子を厭い、カイの実親は育てることを放棄したのだろう――と。
瞳の色如きで他人を判別する者は『人間』ですらない、というディアナの意見は、確かにカイの実親をとことん貶すものではある。――が。
「……正直、そんな人間未満のとんでもない輩にカイが育てられなくて良かった、って思っちゃうんだけども」
騒ぐ二人の前で気持ちを吐露すると、カイとシェイラの掛け合いはぴたりと停止した。
苦笑しつつ、ディアナは続ける。
「第一、カイは実のご両親のこと、本質的な部分で『親』とは思ってないでしょう」
「まぁねー。俺の親はたった一人、『黒獅子のソラ』だけだと思ってるよ」
「しかし……そうは言っても気になりませんか? 自分が何処の誰なのか――」
「別に? 俺は『黒獅子のソラ』の息子で、名前はカイ。それだけ分かってれば充分過ぎるくらいじゃない?」
「ついでに、まだ若いながらも『仔獅子』の異名を持つ、裏社会の凄腕稼業人ね。――確かに、それだけ分かっていれば充分だわ」
父一人娘一人で育ち、叔父夫婦に冷遇されてきたシェイラが、血縁のありがたさと難しさを案じる理由は分かる。……けれど、実のところ血縁は、それほど重要視するものでもないのだ。
「血縁なんて、髪と目の色、顔貌をある程度親子で似せる程度の力しかないもの。大切なのは、生まれた子どもとどのように向き合い、育てたか。子どもとの間に、どんな絆を結んだか――よ。カイと向き合ってひたむきに育てたのも、親子の絆を結んだのもソラ様なのだから、血縁があるだけの何処かの誰かを敬う道理は、私にはないわね。カイを無事にこの世へ送り出してくださったことにだけは感謝するけれど」
「え、そうなの? 俺は捨ててくれたことにも感謝してるけど。じゃなきゃ絶対、俺は父さんの息子になれなかったし」
「結果論ではそうだけど、私も自分勝手に赤ん坊を捨てるような人よりソラ様に育てられた方がカイにとって幸せだったと思うけど、さすがに瞳の色一つで寒空に放り出されたことは怒るべきでしょ?」
「父さんは未だに怒ってるけど、俺は別に……ぶっちゃけ、赤ん坊を着の身着のまま放り出すような奴、縁切るなら早い方が良いに決まってるし。生まれてすぐ向こうから縁切ってくれてラッキー、ぐらいの感覚だった」
「……ごめんなさい、ディー。当事者の感覚があまり一般的ではなかったから、私の気遣いもズレてしまっていたみたいだわ」
「……うん、それはシェイラのせいじゃないわね」
捨てられた張本人がその事実を悲観するどころか「ラッキー」程度に捉えているのなら、その件や実の両親への気遣いなど、路傍の石ほどの値打ちもない。どころか、下手をするとしつこい押し売り並に〝ありがた迷惑〟だ。この話題はここで切るのが無難だろう。
そして――いつものことだが、話が大幅にずれている。この場合、言い出しっぺのディアナが軌道修正するべきか。
「てかさー、俺のことはどうでも良いって。今はあの皇子の話でしょ」
と思ったら、カイにサクッと話を戻された。うぐ、と言葉に詰まったディアナとは対照的に、どこか明るい表情でシェイラが頷く。
「えぇ。ですが、ディーが皇子殿下に対し、特筆すべき思い入れが無いのであれば、彼やスタンザ帝国がディーを手中に収める展開も有り得ないでしょうから、これまで通り警戒しつつ失礼でない程度に流していくのが得策ではありませんか?」
「……そんなことを気にしていたの? 杞憂にもほどがあるわよ」
「でも、皇子殿下との論争は白熱したのでしょう?」
「そりゃ、彼は着眼点の鋭い、優秀な学者だからね。けど、いくら彼が優秀な学者でも、だからってエルグランド王国よりスタンザ帝国を魅力に感じて、皆に背を向けるようなことはしないわよ」
「そういう心配が一瞬でも浮かぶほど、あなたと皇子殿下の会話は盛り上がって見えたということよ。――ねぇ、リタ?」
ずっと私室の隅に控えていたリタへシェイラが問い掛けると、信頼する侍女は苦笑しつつ頷いた。
「私は『あり得ません』と即否定しましたけどね。クレスターの方々が学術論争となると人が変わったかの如く饒舌でいらっしゃるのは見慣れていますし……ですが逆に言えば、そういうディアナ様を見慣れていない『紅薔薇の間』の皆にしてみれば、皇子殿下と話すときのディアナ様はいつもにも増して楽しそうだと、殿下に何か特別な情でも抱かれたのではと、そう案じてしまったのではないかと」
「えぇー……誤解曲解はクレスターの専売特許とはいえ、議論が白熱しただけで相手との個人的な仲を勘繰られるのは、さすがに初めてなんだけど……」
「クレスターの皆様は、学びに関して相手の人間性をそもそも考慮していませんからね。学問関連でどれだけクレスターの皆様が楽しそうにお話しされていても、それは単に学術論争が楽しいだけであって、別にそのお相手を個人的に好かれているわけではありません」
「それを皆に説明してくれれば良かったのに……」
「しましたが、皇子殿下とお話しするディアナ様はあまりにもイキイキしていらっしゃるように見えたようで……『後宮内でこれほど楽しそうにしておいでのディアナ様は初めてです』とユーリさん筆頭に、それはもう皆様落ち込まれていて」
「……最近部屋の空気が何となく重いような気はしていたけれど、スタンザ皇子の連日訪問に疲れ果てていたわけじゃなく、そんな心配をしていたのね」
「はい。ですので、わざわざ朝早くからシェイラ様にお越し頂いたのです。ディアナ様が本当に皇子殿下を気に掛けていらした場合、あまり大人数で問い詰めるような真似をするのは良くないだろうというお気遣いで」
「いやうん……気遣いはありがたいけど、杞憂だからね?」
「私は最初から、『そんな回りくどいことしなくても、直接ディアナ様へお尋ねすれば全否定が返ってきますよ』とお話ししていたのですが。子どもの頃から見慣れた光景だったので何も感じませんでしたが、ハイレベルな討論をしておいでのクレスター家の方々は、よほど楽しそうに見えるのですね。あのユーリさんが、『分かってはいるけど、万一ということもあるから』と〝念のため〟を重ねられるくらいですから」
「……後でユーリに謝っておくわ」
「お願いします」
そこまで話して、はたと気付いた。……皇子との茶会(という名の質問会)に控えていた『紅薔薇の間』の侍女たちがそこまで不安に思うほど、ディアナが楽しそうに見えたということは。
「えっ、まさかとは思うけど、カイも同じこと思った!? 私がスタンザ皇子を個人的に気に入ったんじゃないかって!」
「……まぁ、そこまでは思わなかったけど、楽しそうには見えたよね」
「――っ、違うからね!?」
何故か突然、急激な焦りの感情が湧き上がる。ソファーから立ち上がり、ローテーブルに手をついて、ディアナは正面のカイヘ身を乗り出した。
「さっきリタも言ってたけど、楽しいのはあくまでもハイレベルな論戦であって、相手じゃないから! 『賢者』の一族はどうしたって『知』をぶつける討論を楽しんじゃうけど、だからってすぐにその相手を好きになるほど短絡的じゃないわ!」
「ちょ、分かったって、落ち着いてよディー」
「と、いうか!」
考えが纏まらないまま――焦りだけがどんどん募って。
「ただ会って話をするだけで、ここまであなたに心配かけるような相手と、個人的に親しくなりたいなんて、まず思うわけがないから! 私が『紅薔薇』じゃなかったら、とっくの昔に面会なんて断ってる!!」
勢いに任せて飛び出た本音は、思った以上にディアナの深い部分を揺らした。心の底の奥底で、〝何か〟がざわりと動こうとする。
けれど。その正体を、見極める前に――。
「……そっか」
目を丸くして、ディアナの勢いに驚いていたカイが。
ふわり――、と。信じられないくらい、綺麗な顔で笑うから。
瞳と心を奪われて、ディアナの思考は完全に停止した。
「……ダメだねぇ、俺。ディーにここまで言わせちゃうなんて、まだまだ未熟にもほどがあるよ」
「え……」
「けど……ありがと、ディー。めちゃくちゃ身勝手だけど、俺、今、本気で嬉しい」
「えぇと……言葉の意味が、よく分からないんだけど」
「分からなくていいよ。俺が嬉しくて、ディーにお礼を言いたいだけだから」
「……本当、ディーはここぞってところでカイさんを喜ばせるのが上手よね。あんまり甘やかしちゃダメよ?」
言葉の通り、とてもとっても嬉しそうなカイに戸惑うディアナを見て、シェイラが深々とため息を吐く。忠告してくれているらしいが、その内容も意味不明だ。というか、今のくだりのどこに、カイを甘やかす要素があったというのか。
甘やかすというなら――。
「……けど、皇子殿下との討論がカイや皆の心配の種になっているのなら、今日からはあまり盛り上がり過ぎないように、控えめにした方が良いわよね?」
せめてこれくらいは、配慮する必要があるはずだ。別にカイを甘やかしたいわけではないけれど、彼に与える不安要素は、一つでも少ない方が良いに決まっている。
ディアナの問いかけに、カイは少し考えてから、ゆっくり頷いた。
「ディーが楽しいなら、心いくまで討論させてあげたいけど……俺はスタンザ皇子との会話は、どういう方面であってもあんまり密にしない方が良いと思ってる。急に素っ気なくなるのは不自然だから、段階を踏んで徐々に淡白な感じにできるなら、そっちの方がいろんなリスクを減らせるし、安全なんじゃないかな」
「その点については、私もカイさんに同感。ついでに皆も賛成だと思う」
「ですね」
カイのみならず、シェイラとリタにまで頷かれてしまった。……スタンザ皇子と『紅薔薇』があまり仲良くなるのは(実際はそれほどでもないが、親しい者たちにまで誤解を与えるほど、周囲から良好な関係に見えてしまっているのは確かだ)、確かに現時点ではあまり良いことではないので、ディアナは素直に頷いた。
「分かったわ。友好を崩さない程度に、不自然でないように、徐々に会話を減らしてみる」
「クレスターの本能的には難しそうだけど、平気?」
「難しいけど……あなたや皆に不本意な誤解をされる方がもっと嫌だから、頑張る」
「……ありがと、ディー」
そう言って笑うカイは、やっぱり綺麗で、嬉しそうで――。
この笑顔のためなら本能にだって抗える、と強く感じるディアナであった。
この三人の会話が2000〜3000字で終わると思っていたおバカさん、手を挙げて〜!(はーい!)
見込みが甘いにもほどがある……いい加減長い付き合いなんだから分かっとこうぜ……
というわけで、午後のお茶会は来週へと続きます。