若獅子の葛藤
さーてさて、前回に引き続き、苦味の用意はよろしいですか?
腕の中のディアナが深い眠りに落ちたのを確認し、カイは静かに天を仰ぐ。視線の先には、憎らしいほど美しく輝く月が、何もかもを見通したかのような澄んだ光を放っていた。
心中でため息を吐いて、ほんの少しだけ腕に力を込め、ディアナを抱き締める。
(自分がこんなに心の狭い奴だとは知らなかった……)
そもそもカイは、たとえ恋人や夫婦であっても相手の行動を制限する権利はないし、交友関係とて自由であって然るべきだと考えている。世間には、彼女や妻に男性の友人が居るだけで不機嫌になり、関係を断つよう迫る了見の狭い男が溢れていることは知っているし、実際そういった連中の自分勝手な主張を幾度となく聞き流してきた。
「妻が、彼女が、他の男と仲良くしているなんて許せない。自分だけのものであるべきだ」――彼らの主張は大概自分本位で、第三者のカイから見れば「別れた方が相手のためだし、固執する存在が居なくなって自分も楽になるんじゃない?」としか言いようのないモノではあったが……今になって、その一部でも理解できてしまうことに自己嫌悪だ。
(これが……嫉妬、ってやつか)
ドヤ顔でディアナを庇いに割り込んでいたスタンザの皇子は、もちろんのこと。ディアナと楽しく踊っていたヨランダの弟アベルや、やけに親しそうだったアルフォードの兄だという男、宰相の息子とやら。
挙げ句の果てには、ディアナが本気で厭い、怒りを爆発させていたクリスの兄、グレイシー男爵に対してまでも覚えた、心中が焦げるような不快感――敵味方、与えた影響の陰陽すらも関係なく、特別なただ一人の心を動かす存在全てに対し、憎しみにも似た感情が湧く。その心の動きを、人は〝嫉妬〟と呼ぶのだろう。
まず大前提として、ディアナはカイの恋人ではない。将来の約束をした仲、と言えばそうかもしれないが、それは別に貞操を誓い合う間柄と直結するような〝約束〟ではないのだ。この先ディアナが誰を特別に愛したとしても、そこにカイが物申す権利は無いし、物申すつもりもない。
それなのに――。
(理性と感情は別、か。分かるけど……自分の中で矛盾してるって、スゲー気持ち悪いな)
ディアナの心身の自由を尊び、彼女の心があるがまま輝く様を守りたいのは、紛れもないカイの本心だ。
それなのに、自身の内で日を追うごとに育つ恋心は、浅ましくも彼女の心が己にあることを望み、彼女の心を動かす存在を妬み、彼女の目を塞いで自分だけを見せようとする。
相反するその心は矛盾の極みだと、客観的な自分が冷静に分析するけれど……その気持ち悪さ、居心地の悪さすら、困ったことに愛おしいのだ。
――腕の中ですぅすぅ寝息を立て、安心しきった様子で眠るディアナに、昏い満足感と罪悪感が同時に心中を渦巻き、今度はため息を殺しきれず、腹の中の空気を吐き出した。
「……随分と辛気臭い雰囲気じゃないか、仔獅子」
「そっちもね、エドワードさん」
不意に背後から聞こえた声と気配に、意識を思考の淵から現実へと戻す。腕の中のディアナを起こさないよう細心の注意を払いながら、上半身だけで振り返った。
視線の先にいたエドワードは、声だけで大体の想像はついていたが、実に分かりやすく消沈した様子でこちらに近づいて来る。
「クリスさん、大丈夫なの?」
「会場組の判断で、今日は戻らない方が無難ってことになった。後宮まで送って、問答無用で寝かしつけてきたところだ」
「ま、それが最良策だよね」
お貴族サマの難しいアレコレは分からないし分かるつもりもないが、天井裏から全体の様子を見ていただけでも、会場の空気が〝グレイシー男爵家〟に冷淡だったのは感じ取れた。男爵の意見そのものには賛成でも、行動が非常識な時点で弾かれるのが貴族社会というものらしい。男爵の非常識が記憶に新しいうちは、無用な噂を生まないためにもお貴族サマの集団からは遠ざかっておいた方がクリスの精神衛生上良いだろう。
ベンチの横まで歩み寄ったエドワードは、しかしそのまま座ることはなく、背凭れに軽く体重を預けて。
「……ディアナの様子はどうだ?」
「自分の状況を客観的に把握する余裕すらない感じ。無理もないだろうけどさ。ちょっと今夜は、色んなことが一度に起こり過ぎだよね」
「確かにな。ダイナ殿とフィガロ殿の夜会参加もイレギュラーだったし、何よりグレイシー男爵の暴走とその後の展開は、さすがに関係者全員の想定外だ」
「あの変なお兄さんたちって、普通に味方で良いの?」
「クレスター家の内実を知っている、という点から見ればな。ダイナ殿は昔からディアナのことを可愛がってくださっているし、フィガロ殿もあの通りの方だから、そもそも誰相手でも〝副音声〟を聞き取られない」
「あー、クレスター家的には楽に付き合えるけど、お貴族サマの中では浮く感じの人、ってこと?」
「そういうことだ。フィガロ殿の研究は俺としても興味深いから、何度か直接お会いして話をしたが、あれほどこちらが発した言葉を直截にそのまま受け取られる方も珍しいだろうな」
「けど別に、そのときのエドワードさん、話してる言葉に別の意味を含ませたりしなかったんでしょ?」
「当たり前だ。相手の研究について話がしたくてわざわざ訪ねたのに、無駄な貴族的言い回しで時間を浪費する筋合いがどこにある」
数多の女を泣かせていそうな優男フェイスから、スパスパ切れ味の良い言葉が飛び出してくるのを見るのは、なかなかに面白い。コレで実はディアナよりずっと器用な性格をしているエドワードだから、やろうと思えば自分の顔に合った甘ったるい言葉遣いと振る舞いもできてしまうところがミソだ。先ほどまで大広間で社交をしていたエドワードは、クレスター家でのざっくばらんな彼にすっかり慣れてしまったカイから見れば、「え、その身体誰が入ってるの?」レベルで別人だった。
「ダイナ殿とフィガロ殿のことはともかく……問題はグレイシー男爵だ」
「ねー。クリスさんのお兄さんがあそこまでヤバい人だったの、今日イチの衝撃かも。妹さんはあんなに有能で優秀なのに、その兄が男として以前に人としてダメダメって、そんなことあるんだねぇ」
「さすが、容赦ないな」
「ディーをあそこまでコケにした野郎に配慮する道理なんてゼロだし。クリスさんのお兄さんだったとしても、アイツが人間のクズって絶対真理は変わらなくない?」
「その言い方から察するに、ディアナが何を言われていたのか、大まかには把握できてるんだな?」
「まぁ、周囲の目とか一切気にせずハキハキ喋ってくれてたから、読唇は普通にできたよ。ディーはさっき『耳が腐る』って言ってたけど、見てた俺からすれば、確かに目が腐りそうな物言いだったよね」
「なるほど。詳細を聞こう」
思った通り、先ほどエドワードがディアナから詳しい話を聞き出そうとしなかったのは、後でこちらから情報収集するつもりだったから、か。その予想はついていたし、実際カイもこれは報告案件だなと思っていたので、特に抵抗はせず淡々とディアナと男爵の会話を再現した。
聞いていたエドワードは、さすがに貴族らしく表情を崩すことはなかったけれど――。
「……で、ディーが最後通牒を突きつけて離れたのを見た男爵サマが逆ギレて、服の内側からちっさい武器を取り出して――って流れ。取り敢えずエドワードさん、その殺気しまおっか。ディーが起きちゃう」
「なかなかに難しい注文だな。お前なら、腕の中の宝物を殺気に晒さないようガードするくらい朝飯前だろう」
「できるけどさぁ、別にディーにとって危険な相手じゃないのに、わざわざガードするのも変じゃん」
「悪いな。今すぐ始末しに行きたいのを全力で我慢してるんだ、殺気が漏れるくらいは許せ」
さすがはディアナの兄。方向性は違えど、我が道を行く気質は妹によく似ている。カイは素直に諦めて、言われた通りディアナを抱え直し、エドワードの殺気が届かないようそっと庇った。顔だけ見れば冷静そのものな分、殺気だけが鋭利に尖っているのが同業者的には余計に怖い。
「……ディアナがあれほど怒りを露わにすることも滅多にないからな、余程のことを言われたのだろうとは思っていたが」
「ディーは感情豊かではあるけど、本気で怒ることはほぼ無いもんね。そんなディーの怒りのツボをピンポイントで刺しまくった男爵サマは、ある意味とんでもない逸材だよ」
「まるで敬えんし、一欠片も羨ましくないがな」
「そこは心底同感。ディーって普段怒らない分、本気で怒るとマジで怖いし。側で見てるだけで怖いのに、あのオーラを真正面から受ける気にはなれないよね」
「だが困ったことに、ディアナを怒らせるヤツはいつも、ディアナが発する怒りのオーラの恐ろしさが分からん連中と来ている」
「逆に、分からないから怒らせることができるんじゃない? ディーはちゃんと段階踏んで怒ってくれるから、ちょっとでも分かるヤツなら最初の方で引くでしょ」
あの無礼と女性蔑視が服を着て歩いているようなグレイシー男爵に対してさえ、ディアナは何度か警告を発して様子を見ていた。あんな男、カイからすれば、初見で弾いて完膚無きまでに叩きのめしても良さそうなものだったが、本質的な部分で人間が好きなディアナは、どんな相手であってもまずは対話して見極めようとする。……だからこそ余計に、本気で怒って〝見放す〟瞬間が怖いわけだが。
「〝女如きが〟って自然に言えちゃう神経の持ち主って、これまでどんな女の人と付き合って来たんだろ。そりゃ、女の人だって色々だから、中には浅はかが過ぎるんじゃない? って言いたくなる人もいるけどさ。俺がこれまで関わってきた女の人は概ね、男の人より頭良いし生活力高いし、精神的にも強いよ。確かに力の強さは男の方が上だけど、別にパワーと戦闘能力が必ず比例するわけでもないし。父さんなんか、純粋なパワーだけならたぶん今の俺より低いけど、それでも勝てたこと一回もないもん」
「ソラ殿は例外中の例外だろうが、言いたいことは分かる。まぁ貴族社会の中に居れば、お前の言う〝浅はかが過ぎる〟女と付き合う率が高まることは確かだが……あれは付き合ってきた女云々というより、〝類は友を呼ぶ〟の典型例だろうな。アイツと親しくしている輩は男女関係なく、揃いも揃ってアイツと似たようなことをほざく連中ばかりだ」
「は? 女の人が〝女如きが〟って自分のことを馬鹿にするの? おかしくない?」
「『高貴な女の役目は綺麗に着飾って殿方の癒しとなり、下の者を上手く使うこと。女だてらに剣を振り回したり、賢しらに政に対して口を挟んだりするなどはしたない。同じ女として恥ずかしい』って感じだな」
「えぇー……分かり合えない」
「分かる必要もないだろう。ディアナも一応彼女たちが言うところの〝高貴な女〟に該当するはずだが、面と向かってそう言われたときの反応は見ものだったぞ」
「どんな風だったの?」
「目を点にしてきっかり三拍停止してから、傍目にも苦しいと分かる笑顔で『そのような考え方もあるのですね』って返してた。例によって例の如く、〈そんな考えで満足しているから、所詮あなた方はその程度の地位なのよ〉的副音声が追加され、『馬鹿にされた!』って憤慨されて悪評を流されてたな。ディアナとしては裏も何もなく、これまで生きてきた中で出会ったことない価値観だったからある意味新鮮で、本心から出た言葉だったんだろうが」
「クレスター家とクレスター地帯じゃ、そんな価値観にはお目にかかれないもんね」
「『女のくせに』が効果的な罵倒に一切ならなくて、それどころか言った男の自爆にしかならん風土だからなぁ……」
心なしか、エドワードが遠い目になる。『森の姫』を代々擁してきた土地柄ということもあるのかもしれないが、クレスター地帯は他に比べ、女という性に対して尊敬の念が強い。他所からやって来た男がうっかり「女の分際で偉そうに」なんて口にしようものなら、言われた当人が相手を見限るのはもちろんのこと、近隣住民揃っての〝お説教〟が始まる。――断定できるのは、昔クレスター地帯を横断した際に一度、ついこの間ディアナの里帰りに同行した際もう一度、現場に遭遇したからだ。
「……そういう諸々考えても、あの男爵サマはクレスターと縁続きになって良い人じゃないよね」
「そうなんだが……現状、奴以外にグレイシー男爵位を継げる人間が居ないからな。クリスはもう充分過ぎるくらいに色々なものを喪って、色々なものを諦めてきた。せめて、アイツが父君から託されたグレイシー男爵家と、騎士の家としての誇りくらいは守ってやりたい」
「よく分かんないけど、お貴族サマって親戚とか分家とか、イロイロあるじゃん? グレイシー男爵家ってそこそこ歴史長そうなのに、そういうのはないの?」
「そりゃ、代を遡れば見つけられんことも無いだろうが、基本的に親戚関係は遡る代が少ないほど近いんだ。グレイシーの遠縁を探し出したところで、別の家の縁戚が優先される可能性の方が高い。分家に関しては問題外だな。グレイシー男爵家は、分けられるほど規模の大きい家じゃない」
「待って待って、意味分かんない」
割と真面目に、貴族のアレコレはカイの専門外なのだ。貴族はあくまでも依頼を受けた際にちらっと関わるだけの対象だったから、その内情や社会の仕組みを詳しく知る必要がまるでなかった。父は勉強家だからある程度把握しているだろうが、カイは実のところ、それほど知識欲旺盛な方ではないゆえに、興味のない方面への理解は乏しい。
カイの反応に、エドワードは一瞬止まってから、改めて口を開く。
「そうだな。分かり易く、ディアナを例にするが」
「うん」
「まず、ディアナは当代クレスター伯爵と夫人の間に生まれた娘だから、万一俺に何かあった場合は、クレスター家を継ぐ権利がある。それは分かるな?」
「エドワードさんに何かある事態が想定できないけど、言わんとすることは分かる」
「よし、続けるぞ。クレスター伯爵家当代夫人である母上は、リアラー子爵家の生まれだ。諸々あってリアラー家そのものは既に断絶しているが、もしもリアラー家が健在で、しかし後継が不在の場合、リアラー家直系令嬢の母上の娘であるディアナに継承権が回ってくる。母上自身は既にクレスター家に籍があるが、生まれが消えるわけではないからな。この場合、ディアナとリアラー家は親戚関係になるわけだ」
「あぁ、何となく分かった。貴族の女の人は結婚したら結婚相手の家の人間になるけど、生まれた子には自分の実家との関係があって、それを『親戚』って呼ぶんだね。それを〝遡る〟ってことはつまり、母方の血筋をどんどん辿っていけば、それだけ『親戚』が増えるわけだ。ディーに関して言えば、今はエリザベスさんだけ辿ったけど、デュアリスさんのお母さんからだって辿れるし、もっと前へ遡ればエリザベスさんのお母さんの実家とか、エリザベスさんのお父さんのお母さんの実家とか、そんな感じで際限なく増える」
「……つくづく、お前の理解力は宝の持ち腐れだな。その地頭で勉学意欲旺盛なら、稀代の学者になれたろうに」
残念そうにため息をついて、エドワードは続けた。
「お前の言う通り、そうやって遡ればキリがない。別に『我が家は遡れば王家にも縁がある』と自慢するだけなら害はないが、『だから王位継承権がある』って言われると困るだろ?」
「確かに」
「それを防ぐため、爵位の継承には『縁戚の近い者を優先する』って決まりがあるんだよ。つまり、さっきのディアナの例だと、クレスター伯爵家、リアラー子爵家、サーモ男爵家、ルッコラ子爵家、リッティ伯爵家――って具合に親戚関係が遠のいていくわけだな」
「後半三つは初めて聞いた家名だけど、まぁ大体は分かる。それで?」
「で、例えば一番遠いリッティ伯爵家に後継が居なくて、遡ってディアナへ辿り着いたとする。この場合、確かにディアナにリッティ伯爵家を継ぐ権利はあるが、同時にクレスター家を初めとして、上にまだ継承の可能性がある家が存在しているわけだ」
「となると、ディーはリッティ伯爵家を継げない?」
「絶対継げないわけではないが、最低限、リッティ家より親戚関係が近い家全てに承諾を取り付ける必要があるな。近年少しはマシになってきたとはいえ、どこの家もできれば血の近い後継者を確保しておきたい風潮は変わらんから、まず間違いなく承諾は出さない」
「あー、そういえばこの国のお貴族サマって、割と血筋に拘るんだったね。……なるほど、そういう社会なら親戚から後継者を探すのは厳しいか」
「あと、グレイシー男爵家が騎士の家系だっていうのも大きいな。代々騎士職を継いできた家の娘は、ほとんどが同じ騎士の家へ嫁ぐ。騎士の家――特に子爵、男爵位にある家の男児は、長男以外は貴族籍を離れて一兵卒として軍に入ることが慣例化しているから、そうなると爵位継承権そのものが消えるんだ。爵位継承権があるのは、貴族籍を有している者だけだからな」
「うわー、ダブルで詰んでるね」
頷いて理解を示し、ついでにもう一つの疑問も尋ねておく。
「じゃあ、分家っていうのは? 分けられるほど規模が大きくない、ってどういうこと?」
「分家というのは要するに、本家が与えられている領地の一部を分けて、新しい家を立てることだ。主に領地の広い高位貴族が、次男以降の男児を独立させる手段として使う」
「あ、そっか。この国って長男相続がほとんどだから、次男以降は貴族籍にあっても爵位は継げないんだよね」
「だな。基本的に次男以降は、娘しか居ない家の入婿になって嫁ぎ先の爵位を継ぐか、親戚関係を遡って継げそうな家の爵位を継ぐか、完全に後継が居ない家の養子になってその家の爵位を継ぐか、騎士団に入って一代限りの騎士位を貰う、ないしは官職を得るなどして、手柄を立てることで叙爵されるのを目指すか、爵位継承権を放棄し貴族籍を離れて市井に降りるか――王宮の許可を貰って分家し、新たな爵位を得るか。この六択だ」
「なるほど。歴代のクレスター家の次男さん以降は、五番目の選択肢一択なワケだね」
「ウチは例外中の例外だろうな。大抵の家は次男が生まれたら、親戚筋に後継の話を持ち掛けるか、娘しか居ない知り合いに婚約を願い出る」
そこで一度言葉を切り、エドワードは軽く呼吸を整えた。
「つまり分家できるのは、そこそこ広い領地を持つ高位貴族に限られるわけだ。この国の貴族はごく一部の例外を除いて、地位の高さと領地の広さは完全に比例する。先祖代々男爵位のグレイシー家は、とてもじゃないが分家できるような規模じゃない」
「ここでもクレスター家が例外だよね。確か領地の広さだけなら、王家とモンドリーア公爵家に次ぐんでしょ?」
「厄介で面倒な土地を押し付けられているだけ、とも言えるな。ガントギア特別地域なんか、本来なら王領として国が面倒見る案件だぞ、あんなもん」
「確かに」
仕事で何度か行ったことがあり、あの土地の内実もちょこちょこ見聞きしているカイから見ても、あの特殊な土地をクレスター家が管理しているのは、羨ましいより気の毒が勝る。かなり気を使って世話をしなければならない割に、領主に入る実入は少ないのだ。……有事となれば、話はまたがらりと変わるのだろうけれど。
――まぁ、それは置いておくとして。
「……話を聞く限りじゃ、あのお兄さん以外でグレイシー男爵家を継げるのは、この先生まれるであろうエドワードさんとクリスさんの息子――それも次男以降ってことになるね」
「俺たちもそれを考えてた。あの兄貴の悪巧みと婚姻をちまちま潰して貴族社会からフェードアウトさせつつ、生まれた子に剣を仕込んで二十年後くらいに継いでもらうのがベストだろうってな。それならクリスからグレイシー男爵家の精神を伝えることもできるし、騎士の家としての誇りも守れる。――ま、子ども自身の希望が最優先なのは言うまでもないが、選択肢の一つとして提示するくらいなら許されるだろ」
「それって、クレスター家的には良いの? 長男以外は貴族籍から離れるのがセオリーなんでしょ?」
「別に我が家は、次男以降は貴族籍に留まるなと強制しているわけじゃない。単にウチの気質的に、貴族社会が性に合わんだけだ。クレスター家じゃむしろ、長男に生まれた奴の方が〝貧乏くじ〟だな」
「あー……じゃあ子どもにグレイシー家を継いでもらうのも、結構頑張ってお願いしないとだね」
「あの兄貴が馬鹿やらかしたせいで、子どもが生まれるより先にグレイシー家が無くなりそうな勢いだがな。クリスも諦めかけていたし……ディアナのお陰で、どうにか踏み留まってくれたが」
……実は今のエドワードの話を聞いて、即座にグレイシー男爵を排除しつつ男爵家を未来へ継いでいく方策が浮かんだことは浮かんだのだけれど、間違いなく公権力を濫用した悪巧みの部類に入るので、提案するとしてもクレスター家関係者にではないな、とカイは冷静に判断した。腕の中ですやすや眠るディアナもそうだが、クレスター家の人々は個人的に王家と近しいこともあってか、意図的に公権力から遠ざかっている節がある。エドワードもその部類だろう。
〝悪巧み〟に関しては後でソラにでも相談することとして、カイは取り敢えずからりと笑った。
「踏み留まってくれたなら良いじゃん。ディーだってこの騒ぎが原因でグレイシー家が窮地に陥ることは望まないし……だからこそ、あの皇子を拒まずにあの場を離れたんだろうし」
最後まで笑えたら良かったが、さすがにその後の流れを考えるとずっと笑顔ではいられなかった。思わず声まで低くなったカイに、今度はエドワードが笑う。
「お前がそんな顔をするとは……よほど気に食わないんだな、スタンザの皇子が」
「……まぁ、ね。ディーに対して手のひらくるりんなのも気に食わないし、裏がありそうな口調とか、無駄に有能そうなのも腹立つんだけど」
「ほぉ。有能そうなのか?」
「少なくとも、ディーの『悪人面』は見かけだけで、中にいるのがお人好しで優しい女の子だってことは見抜いてたよ」
「なるほど。敵としてはなかなかに厄介な相手のようだ」
〝クレスター家マジックに騙されない〟イコール善人の図式は成立しないし、仮に相手の人柄が良いとしても、立場が違えば敵になる。確実なのは、スタンザの皇子は見かけではなく言動で相手を判断する冷静さの持ち主であり、その判断能力、推察能力も高いということだけだ。彼の人柄云々はともかくとして、現状彼の立場でディアナ側の味方であれるわけもなく、取り敢えず敵として警戒しておくべき対象なのは間違いない。
それは、間違いないのだが――。
「どうした? やけに複雑そうな顔だな」
「いや……別に」
「その返答は、〝何かある〟と言っているようにしか聞こえんぞ。まぁ、言いたくないなら無理には聞かんが」
「……スゲー嫌な予感がしてるんだけど、まだ確証は無いんだよね。だから、口に出したくない。言ったら、現実になりそうな気がする」
そう、確証はないのだ。ディアナもそれほど気にした様子はなかったし、カイが心配し過ぎなだけかもしれない。
けれど。あの皇子がディアナを見る、その眼差しに。
『エルグランド王宮内で協力者を得たい』以上の〝熱〟があったような――そんな不安が過ぎって、どうしても消すことができない。
だから、焦って。助けに来てくれたジュークはありがたい存在だったのに、無駄に妬いて。「もっと早く来いよ」なんて、理不尽な怒りを抱いて。
その、押し殺した感情が、無防備なディアナを前に溢れ出た――。
「……まぁ、あまり思い詰めるな」
我知らず、眠るディアナに縋るような体勢になっていたカイの頭上から、ぶっきらぼうなのに温かい言葉が降ってくる。淡々と人を気遣うその雰囲気は、どこかシリウスを彷彿とさせた。
反応を返せないカイの上で、エドワードの言葉は続く。
「惚れた女が男に囲まれて、べたべた触られて、それで平気な男は圧倒的少数派だ。別にお前が飛び抜けて情緒不安定なわけじゃない」
「……確かエドワードさん、ディーと俺の仲、超反対してなかった? 反対も何も、俺たち別にそういう関係じゃないけど」
「お前のことは気に食わんが、ディアナがお前を好きなら、別にそういう関係にも反対はしない。ついでに言うと、俺は妹のことを〝女〟として見る野郎が気に食わんだけで、お前個人のことは別に嫌いじゃないぞ。どちらかといえば気に入ってる」
「……そりゃどうも」
「まぁ、ディアナを好きなことは気に食わんけどな。好きになる気持ちは分かるし、その想いを否定する気もない。俺が勝手に気に食わんだけだ、気にするな」
「スッゲー分かり易く理不尽……でも、ありがと」
ここまで開き直って勝手なことをズケズケ言われると、却って気が楽になるから不思議だ。少し顔を上げて笑ったカイに、エドワードも微笑む。
「……お前が望むなら、貴族社会に堂々と顔を見せてディアナを守れる立ち位置を用意できるぞ?」
「要らないよ。ディーの望みは王宮の、貴族社会の外にある。望む未来を得て、その中で幸福に笑うディーの傍に居続けるのが俺の望みなんだから、一時の衝動でそこから遠ざかるような真似はしないって」
「お前のそういうブレないところが好ましくて、同時にこの上なく憎たらしいな」
「褒め言葉と受け取っとく。――そういうわけだから、貴族社会でのガードはそっちに任せたよ。今回みたいなことは、できるなら極力減らして欲しいね」
「言ってくれる。アレでも、ジュークとアルは相当急いだんだぞ?」
「ディーが男爵サマと踊ってるときから見なかったけど?」
「一度控室に戻って人払いした状態で、ダイナ殿とフィガロ殿の挨拶を受けてたんだと。で、フィガロ殿が緊張しすぎてパニック寸前になったから、落ち着いてもらうため軽くお茶しながら話すことになって、それで初動が遅れたらしい」
「……あのお兄さん、マジでディー以外はダメなんだね」
「集団の中にいるだけで卒倒しかねない程度には、人付き合いが苦手な方ではあるな。慣れればそれなりに打ち解けてお話くださるが、彼がどもらず、屈託なく笑顔ではきはき話すのは、俺が知る限りディアナだけだ」
「ふぅん」
それはそれでじりじり焦げるけれど、やはりスタンザの皇子に覚えたような不安感はない。……彼にだけ感じるあのどうしようもない焦燥感が、余計に〝嫌な予感〟を募らせてしまう。
(……考えたってしょうがない。今ある情報だけじゃ、どう足掻いても確証は得られないんだし)
腕の中で眠るディアナは安心し切ったあどけない表情で、それもまた罪悪感とほの甘い喜びを喚び寄せるのだから、この感情は本当に厄介だ。
そろそろディアナを部屋へ送ろうと、彼女を起こさないようゆっくりと立ち上がる。
「戻るのか?」
「そうする。後は任せて良い?」
「あぁ」
「……エドワードさんさぁ、しれっと見送ろうとしてるけど良いの? 俺別にディーのこと、不可侵の女神みたいに崇め奉ってるわけじゃないよ?」
「お前みたいな人間には、『間違っても手を出すなよ』と怖い顔で警告するより、敢えて全面的に信頼して任せた方が枷になると思ってるだけだ。実際、俺が警告しようがしまいが、お前は眠っているディアナに手を出すような卑怯かつ味気ない真似はせんだろうしな」
「うっわぁ……」
コレが噂の『賢者の慧眼』か、とたった今実地で理解できた。自身の性癖含め、いつの間に見抜かれていたのか……考え出すと無駄に怖い。
――それはともかく。
「てことは、ディーのあの無防備さも敢えてそのままにしてるの?」
「何の話だ?」
「いやだから、ディーが無防備過ぎるって話。いくら親しい間柄でも、男と二人っきりでいるときにアレは危ないでしょ」
「……確かにディアナは親しい相手と距離を取ることはしないが、だからといって無防備ではないぞ?」
「いや。『離れないで』までは怖かったんだししょうがないかなと思うけど、『直接触って』はダメでしょ。あんなの、親しい間柄であればあるほど勘違いするよ」
「…………なるほど、そうか、そうだな。分かった。ディアナに直接言っても意味ないだろうから、リタ辺りに言っておく」
「うん、よろしく」
懸念事項が一つ減り、心なしか少し落ち着いた。隠し通路がある壁まで進み、もう一度振り返る。
「それじゃあね、エドワードさん」
「あぁ。ディアナを頼む」
優しい兄の言葉に笑って頷いてから、カイは後宮へと向かうべく、隠し通路へと入るのだった。
「あの、ディアナが? 男に触られるのは苦手なディアナが? 恋愛は理屈でなく本能でするものだとはよく言うが……にしたって本能が先行し過ぎてるだろ」
残されたエドワードの呟きは誰に届くわけでもなく――、
小さな中庭の空気を揺らし、消えていった。
前話に沢山のご感想、ありがとうございました。普通に書き進めていたら無駄にいちゃつきだしたので、びくびくしながら投下したのですが、予想外に好意的な反応を頂けて、誠に嬉しく思っております。
予定は未定ながら、『にねんめ』はもしかしたらR15の限界に挑戦する展開になるかもしれませんので、「それはアウトー!」な描写があれば、どうぞご指摘くださいませ。