バルコニーでの語らい
久々の1万字超え……お時間あるときにでも、ゆっくりとどうぞ。
衆人環視の中、異国の皇子に手を引かれ、辿り着いたのはバルコニー。手近な避難先としては、そこそこに妥当なところだろう。そういえば去年も、諸々の事情があって派手にすっ転んだ後、エドワードに救出されてバルコニーで休憩したなと、こんなときだがディアナは何となく思い出した。
「申し訳ありません。エルグランド国王陛下のご側室に、断りなく触れるなど」
手摺り際まで進んだところで、謝罪の言葉とともに手が解かれる。正直、皇子の思惑が読み切れない現状では、勝手に手を握られた云々以前の衝撃と疑問が山積みすぎて、そこに引っかかる余裕もなかった。
「いえ……」と曖昧に呟きつつ、ひとまずお行儀よく両手を重ねて姿勢を正し、スタンザの皇子へ向き直る。
改めて真正面から見てみると、皇子の様子は先日の尊大なものとはまるで違うように感じられた。
「ご無礼だろうとは思ったのですが……堪え切れなかった。あれ以上、あなたをあの心無い人々の中傷に晒すことは」
「殿下……」
「どうか、何も仰らないでください。心が弱っているときに、無理に強がる必要はありません」
……よく分からないが、取り敢えず何やら気遣われているらしい。言葉遣いまで先日と何もかも違う皇子に、ひとまずディアナは無難なところから切り込むことにした。
「殿下のお気遣いに感謝致します。先ほども……危ういところを助けて頂き、誠にありがとうございました」
「御礼など。親善のために訪れたお国の方が困っていらしたら、出来る限りお助けするのは当然のことです。ましてやあなたは、エルグランド王のご寵愛深い、高貴なお人なのですから」
「とんでもない。わたくしは、殿下にそこまで仰って頂けるような者ではございません。確かに、何をまかり間違ったか、畏れ多くも現後宮では最高位である『紅薔薇』を拝命しておりますが、分不相応であることは自分が一番よく分かっているつもりです」
「ご謙遜を」
「本当のことですわ。わたくしは伯爵位にある家の生まれですから、侯爵位のお家からいらしたご側室方より、王宮での身分は低いのです。にも拘らず、陛下のお情けで『紅薔薇』の位を頂いている現状は、良識ある方々にとって決して良いものとは映らないでしょう」
通じるかどうかは分からないが、婉曲表現で「だから周囲の中傷もある程度は仕方がないのだ」と説明してみる。……皇子の表情を見る限り、正しく伝わっているかは微妙なところだ。
「……確かに古来より、王の寵愛を頼みに分不相応な権力を得、政を恣にする傾城の悪女は数多存在する。しかし、あなたはそのような女と同列ではないでしょう」
しばしの沈黙の後、皇子に言われたのは意外な言葉だった。エルグランド語を間違えてるのかな? とまで邪推したが、皇子の完璧な発音と文法、滑らかな話運びから判断するに、その可能性は低そうだ。
言葉は返さず、軽く首を傾げて疑問を示してみると、彼は琥珀の瞳に不思議な光を宿してこちらを見つめ返してきた。
「誤解を恐れず申し上げれば、今回同行した国使団の者たちも、ほとんどがあなたをそういった〝悪女〟だと判断していた。後宮で私と言葉を交わす様は、まるで我らを取るに足らない存在だと見下しているかのようで、エルグランドの王宮に蔓延している噂から考えても、その心象は概ね正しいだろうと。エルグランド王国の側室筆頭『紅薔薇』の君は、噂以上の悪辣な女だとね。――私からすれば、皆はいったい何を幻視したのだろうかと、不思議で仕方ないわけですが」
「部下の皆様方のお目が正しいとは、お考えにならなかったのですか?」
「この話題にそう返答なさる時点で、少なくともあなたは、ごくありきたりな〝悪女〟ではあり得ない。ありきたりな悪女なら、ここは艶やかかつ儚げに微笑んで、『殿下だけは、わたくしの真心を信じてくださったのですね』といった具合に私を上げにかかる場面ですよ」
「……」
さらりと言われ、ディアナは思わず無言で考え込む。
――なるほど、さすがは美女三千人を擁する後宮育ちの皇子だ。それだけの数の女性が一所に集まれば、当然比例して悪女率も高まるだろう。それこそ、エルグランドの現後宮などとは比べるのもおこがましいほどの数と種類に富んだ悪女を、幼い頃から目の当たりにしてきたに違いない。そうやって悪女慣れしてきた側からすれば、確かにディアナの言動に〝悪〟を感じるのは難しい気がする。クレスター家は顔が悪そうなだけで、言動そのものは(自分で言うのも何だが)至極真っ当なわけだから。
ディアナの沈黙をどのように解釈したのか、皇子はどこか切なげに微笑んだ。
「私のような者に案じられても、姫にとってご不快なだけだろうとは思ったのですが。私の目から見て、この国の貴族階級の者たちが語る〝あなた〟は、あまりにあなたの実情とかけ離れている。あのような悪意に常日頃から晒されているのかと思うと、胸が痛みます」
どうやらこの皇子は、後宮でのやり取りからディアナの噂に〝裏〟があると勘付き、その真相を探るべく連日に渡って面会を申し込んでいたらしい。
それさえ分かれば、ディアナの対応も自ずと定まってくる。
「殿下がお気になさることではありませんわ。それに、殿下がご覧になったわたくしの姿など、〝わたくし〟を形成するほんの一部に過ぎません。未だご存知ないわたくしの側面は、噂通りの女かもしれませんよ」
華やかで艶やかな『紅薔薇』の笑みを浮かべ、ゆったりとした言葉で牽制する。ディアナの――クレスターの噂に〝裏〟があると初見で気付けたのはさすがだが、その内実までとんとん拍子で辿り着けると思うのは大きな間違いだ。
微笑んだディアナを、皇子はしばし、無言でじっと見つめてくる。ここは悪女らしく堂々としておくべきだろうと、ディアナは敢えて微動だにせず、彼の琥珀の瞳を見つめ返した。
やがて、皇子の瞳が静かに閉じられて――。
「……どうやら私は、あなたにとんでもなく嫌われてしまったらしい」
(……はい?)
喉元まで出かかった素の疑問符を、ギリギリで心中へ留め置いた。ディアナから視線を逸らして半ば独り言のように呟かれた皇子の言葉には、残念そうな……いや、それ以上に強い後悔の響きが感じられて。
まぁ恐らく演技だろうけれど、ディアナはひとまず無言で、彼の言葉の行先を注意深く観察する。
「いや、無理もないことは分かっているつもりです。我々スタンザ国使団の貴国での振る舞いは、あまりに傍若無人が過ぎた。剰え、規則を破ってほとんど無理やり側室方のお住まいへと足を踏み入れ、最高位たるあなたへ無礼極まりないご挨拶をしたのですから。……時が戻せるのなら最初からやり直したいと、切に思いますよ」
「左様でございますか。時を戻すことは誰にもできませんので、叶わぬ願いですね」
「これは手厳しい。……ですがどうか、その責は国使団の者たちにではなく、代表である私へお願いできませんか。彼らの行動を制御し切れなかった――制御する必要性に気付けなかったのは、ひとえに私の不徳と致すところなのですから」
「制御する必要性……ですか?」
確かに、ストレシア侯爵からの報告によると、嫌がらせレベルで歓待役の官吏たちに無理難題を吹っかけていたのは、国使団の中でもそれほど立場の高くない者たちらしいが。当初予定していた行程を「あれも見たい、ここも気になる」とブッチしまくっていたのは他ならぬ皇子自身と聞くし、単なる〝下の者の暴走〟で終わらせて良い話とも思えない。
――ひとまずディアナが会話の球を投げ返してきたからか、皇子は少しほっとした表情になる。
「姫は、我がスタンザ帝国について、どの程度ご存知ですか?」
「世間一般常識程度と認識しておりますが」
「では……我が国が有史以来、近隣の小国を平定して領土を広げ、民に豊かな暮らしを与えてきたことは?」
「はい、知っています」
敢えて感情は挟まず、聞かれたことに答える形式で、ディアナは会話を進めていく。
「その成り立ちから想像して頂けるかと思うのですが、実は我が国の人間は建国してからこれまで、対等な立場の他国と親しく付き合ったことがありませんでした。周辺国は皆平定すべき存在であり、友好関係を築く必要がなかった。我々――特に此度のような文官たちが他国へ足を踏み入れるとは、その国は既に〝他国〟ではなく、我が国に降っていることの証左でもあったのです」
「そうでしたか」
「この度国使団に任命された面々は、平定後の国へ赴いての交渉や折衝を担当してきた者たちであり、文官たちの中でも他国との付き合いに慣れている……という話でした。今回に関しては、私とあと数人、こちらのお国の言語を解する者がおりますので、重要な会談を行うわけではありませんが、双方の予定の擦り合わせや必要事項の確認、情報伝達といった実務担当として同行致しました」
「……そのようですね」
「……大変お恥ずかしい話ではありますが、彼らは此度の国使団の目的について、しっかりと理解できていなかったようです。国使団の名目が『親善』であることは理解していましたが、あくまでもそれは建前であろう、と。それゆえ、貴国でも平定後の国を訪れた際のように振る舞い、結果として横柄な態度を取ってしまった。彼らにしてみれば〝いつも通り〟仕事をしただけで、それがこれほどエルグランド王国の方々の怒りを買うとは思ってもみなかったのです」
なるほど。皇子の説明は大変分かり易い。少なくとも、外務省の接待役の者たちに対し、皇子の予定や意向を伝えてくる連中がひたすら偉そう、「自分たちは丁重にもてなされて当然、自分たちの要求は全て通って当然、どんな無理難題だろうと貴様らに文句を言う権利はない」という態度だった件についての筋は通っている。
言いたいことはいくつかあるが、まずは確認が先だ。ディアナは脳内を整理しつつ口を開いた。
「今のお話だけでは、腑に落ちない点も多いですわね。確かに、国使団の中で我が国の者たちに対し横暴な振る舞いを繰り返していたのは一部……実務担当の方々が主だった、という報告は受けておりますけれど、いくら彼らが国使団の予定をこちらへ伝えるお役目だったとはいえ、殿下の意向を無視した勝手な進路を設定することはできなかったはずです。予め設定されていた港から王都までの進路や道々の観光、接待予定を悉く無視し、お好きな道行きを希望されたのは殿下ご自身では?」
「待ってください。予め設定されていた進路? ――まさかエルグランド王国は、スタンザ国使団を王都までただご案内くださるだけでなく、進路を決めて接待の準備も整え、観光予定まで組んでくださっていたのですか?」
「……ご存知なかったのですね?」
「初耳です。私は実務担当の者たちから、エルグランド王国は王都入りの期日を設定してきただけで、そこまでの道行きはこちらの希望に合わせると言ってきた、と聞きました」
「わざわざ御足労くださる御賓客に旅の行程を全てお任せするなど、我が国では無礼の一言では済まされないほどの失態なのですが……スタンザ帝国では違うのですか?」
「いえ……我が国でも、基本的な予定は迎える側が組みます。お客様のご希望を、事前にお伺いして」
「そうでしょうとも。もちろん我が国の者たちも、スタンザ国使団の方々がお国をご出発なさる前に何度か文書でのやり取りを行い、殿下のご希望を汲み取った王都までの道程を設定したと聞き及んでおります」
「そんな……!」
琥珀の瞳を大きく見開き、皇子は何度も首を横に振る。
「誤解です。エルグランド王国と文書をやり取りした話は知っていますが、その中で私の希望を聞いてくださっていたことなど、今の今まで私は知りませんでした。私の直属の部下たちも知らないはずです」
「〝知らなかった〟で済まされるお話ではありませんね。殿下がご存知なかった原因を何とかしなければ、また同じことが繰り返されます。それではいつまで経っても、我が国の者たちがスタンザ帝国の誠意を信じることはできないでしょう」
「それは……そうですが」
「直截に申し上げますけれど、我が国におけるスタンザ帝国の評判は、既に地の底まで落ちております。――尤も、わたくしが申し上げるまでもなく、夜会での皆の様子でお分かり頂けているとは思いますが」
「……えぇ」
「お国の名を冠していらっしゃる以上、国使団の皆様の振る舞いは、そのまま〝スタンザ帝国〟のものとして受け止められます。殿下のご内実がどうあれ、我が国の者たちにとっては国使団の皆様方の有り様が全て。今の状況で何を仰っても、申し訳ありませんが言い訳にしか聞こえません」
これまでにないほどはっきりと、皇子に拒絶を突きつける。今の話の感想を述べるとするなら、たった一言「ふざけるな」でしかない。完全に冷えた脳裏の奥で、絶対零度の怒りの炎が燃えているのが分かる。
(さすが、切れ者と名高い皇子様よね。外宮側に取り付く島がないことを察して、まずは後宮から籠絡しようとしているみたいだけれど……こんな見せ掛けだけの誠実さで騙せる相手だと見縊られているなんて、わたくしも焼きが回ったかしら)
皇子の話をそのまま信じて受け入れるほど、残念ながらディアナの頭はおめでたくない。今の話、概ねは事実だろうけれど、一番肝心な部分はしっかりとぼかされている。
――いくら何でも、皇子がトップを務める国使団の実務担当官吏たちが、何の確証も無しに皇族の意向を無視して勝手に振る舞えるわけがない。今の話が本当だとしたら、スタンザ帝室の権威はほとんど形骸化しているはずだが、王宮に入ってからの彼らが打って変わって大人しいところから見ても、皇子の一声で官吏たちが行動を慎む程度には、まだ帝室は強い力を有していると考えるのが妥当だ。
だとしたら――彼らの傍若無人な振る舞いは、遠回しか直接的かは分からないが、スタンザの権力者によって許されていたと判断するべきだろう。恐らく、帝国の最高権力者である帝王直々に、属国に出向くときと同じ対応で良いと認められていたのだ。でなければ、話に聞くほど堂々とした暴挙は行えまい。
官吏たちが王の意向を汲んでいたことを、皇子が知っていたかどうかまでは分からない。しかし、これほど切れ者である皇子が、自国の王の考えや国使団の者たちの振る舞いに気付けなかったなんて、そんな好意的な解釈は通らないだろう。報告を受けていなかったことは事実かもしれないが、皇子はある程度王の考えを理解した上で、意図的に実務担当官吏たちの暴挙を〝見過ごして〟いたのだ。
(本当の意味で誠実に向き合うつもりがあるのなら、真っ先にその部分を明かして謝罪を入れるのが筋でしょうに)
まぁ、皇子が核心をぼかす理由は分かる。帝王がエルグランド王国での振る舞いを「属国への対応と同じで良い」と許したということは、いずれ王国を属国化するつもりであるという何よりの証明になり、それを馬鹿正直に告げるとは即ち「我々はいずれこの国を侵略する予定です」と宣言するに等しい愚行だ。真面目に友好関係を築くための外交ならともかく、侵略戦争を仕掛けている相手国への内偵に誠実さは必要ない。――誠実である振りをして相手を信用させ、内通者を得ることは重要かもしれないけれど。
(わたくしに……いいえ、『クレスター』の末裔たる私に『エルグランド』侵略の片棒を担がせようだなんて、随分と馬鹿にしてくれるじゃないの)
お人好しだとあちこちから言われる身ではあるが、二千年以上の長きに渡って奇跡のように繋がれてきた友情を、こんな卑怯な形で崩しにかかる相手へ抱く情の持ち合わせなど欠片もない。さっきは助けてもらったけれど、それはそれ、これはこれだ。
――ディアナの激しい拒絶の感情は、ストレートに皇子へと伝わったらしい。こちらを見つめ返す琥珀の瞳には、分かり易い動揺が浮かんでいた。
「やはり……お許し頂くことはできませんか」
「何を許せと仰るのです?」
「私があなたへ働いた無礼にお怒りだからこそ、それほど頑なでいらっしゃるのでは?」
「……お話になりませんね」
確かに先日の後宮での一幕は、外交上言い逃れのできないスタンザ側の失態だ。マグノム夫人も激怒していたし、話を聞いた『紅薔薇の間』の王宮侍女一同も未だに怒髪天を突いており、皇子から面会の申し込みが届く度「スタンザのお方は随分とお顔の皮が分厚くていらっしゃるのですね」と貴族風の嫌味を炸裂させていた。
――だが。
「殿下がわたくしを『紅薔薇』と知らず、下級女官ないしは、側室であったとしても下位であろうとご判断された経緯は伺っております。国が違えば常識も異なるという点を失念されていたことは殿下の落ち度ではあるでしょうが、それこそ、誤解の理由を丁寧に説明すれば、これほど皆の感情を逆撫ですることは無かったでしょう。殿下もご覧になった通り、わたくしは万人に愛される側室筆頭ではございませんので」
「それは……!」
「後宮での殿下のお振る舞いは、あくまでも最後の決め手に過ぎません。接待という役割であったとは申せ、エルグランドの者にも人の心はございます。まるで自由意志のない奴隷のような扱いを受け続けてきた接待役たちですが、それでも表立って不満を口にはせず、両国の友好のためにと耐え続けてくれました。そんな彼らと、彼らを大切に思う家族や友人たちが必死に保ってきた忍耐の糸を、あの日の殿下の言動が切ってしまったのです」
訥々と、冷ややかに、ディアナは言葉を紡いでいく。
「殿下も一国を背負うお立場ならば重々理解していらっしゃるはずでしょう。民にとって、自分たちを統べる存在――王家は大きな心の拠り所です。その王家を侮辱されることはときに、自分自身を直接侮辱されるよりも大きな傷となります。あなた方に散々傷つけ、苦しめられてきた彼らにとって、取り返しのつかないほど大きな〝最後の決め手〟となったように」
「姫……」
「わたくしは、このエルグランド王国の側室筆頭――正妃不在の現在は、外宮より正式に正妃代理を任ぜられている身です。暫定ではあれど、王国女性の頂点に立つ者として、我が国の民を苦しめたお方に肩入れすることも、その事情を斟酌することもあり得ないのは、自明の理ではございませんか?」
出会い頭にいきなり見下されたことなど、そもそもディアナは怒っていない。そんなことをいちいち気にしていたら、悪評満載の『クレスター伯爵令嬢』なんて務まらない。
問題は――〝エルグランド王国の正妃代理〟が〝スタンザ帝国第十八皇子〟に臣下扱いされ、それによって多くの民が傷ついたこと、その一点に尽きるのだ。
あのとき、ディアナはほとんど条件反射でカウンターを炸裂させた。だから結果的にはエルグランド王家が一矢報いた形になって、スタンザ国使団に煮え湯を飲まされてきた者たちも「胸がすいた」と言ってくれた。……けれど、だからといって〝王家を侮辱された〟ことに傷ついた者が居ないことにはならない。
側室筆頭としては、スタンザ国使団に苦しめられた接待役の外務省官吏たちを思って。
ディアナ個人としては――大切な友人であるライアの父を侮辱されたこと、親しくしている外宮室の面々が国使団の我が儘に振り回されて大変な思いをしたことに、ひたすら憤っているのである。
「何故……」
目を見開いたままの皇子が、呆然とした様子で口を開いた。
「何故……それほどまでに、彼らへ肩入れするのです。この国の貴族たちは決して、あなたを側室筆頭として敬ってはいない。あなたがどれほど彼らへ心を砕いても、何一つ報われないというのに」
「報われるため、側室筆頭の座にあるのではありません。そもそも、頂点の地位にある者が報いを欲しがること自体、間違っています。誰よりも強い権力を得る代償に、あらゆる理不尽を背負う。それこそが頂に就く者の役目でしょう」
「ですが、あなたはあくまでも〝側室〟でいらっしゃる。そのお立場では、使える権力など無に等しいはずだ。今のあなたは、何一つ得るものも無い中で、ただ理不尽だけを背負っているようなものだろう」
「それは我が国の事情であって、他国の方である殿下にご心配頂くことではございません」
「私はただ、先ほどの男のような悪意に晒されているあなたのことが気がかりで……!」
「――であれば尚更、それはそなたが案ずることではないな」
不意にバルコニーに響いた第三者の声に、スタンザの皇子が勢いよく振り返る。ちなみにディアナからは、少し前――「わたくしは、このエルグランド王国の側室筆頭……」と宣言している辺りからさり気なく様子を窺っていたジュークの姿が見えていたので、特に驚くこともなく静かに礼を執って控えた。
ジュークに聞かれていたことに気付いた皇子は、ひとまず言葉を切って略礼しつつ、言い足りない気配を纏わせている。
それに気付かぬジュークでは無いだろうけれど、ここは敢えて空気を無視することにしたらしい。皇子からすっと視線を逸らし、ディアナを見てきた。
「紅薔薇」
「はい、陛下」
「遅くなって済まなかった。怪我はないか?」
「ございません。スタンザの皇子殿下に助けて頂きましたので」
暫定の〝敵〟ではあるけれど、助けられたことは事実なので、それはきちんと告げておく。ジュークは一つ頷いた。
「そのようだな。――エクシーガ皇子、紅薔薇が世話になった。礼を言う」
「いえ……親善のため訪れたお国のご側室をお助けするのは当然のことです」
「そうか。できればその気遣いは、側室だけでなく全てのエルグランド民に向けて欲しかったが……スタンザの事情を鑑みるに、無理もないことなのだろうな」
分かり易いジュークの皮肉に、皇子の表情が僅かに歪む。スタンザは厳しい身分制の国であり、属国の民は下層民――早い話がスタンザ本国の富裕層の奴隷として位置付けられているため、人らしく扱われることはほぼ無いと聞く。要するにジュークは、接待役を虐げながら〝側室〟であるディアナを気遣う皇子の態度の違いを刺すことで、〈下位の身分ならば虐げても良しとする、一国を背負う立場でありながら民を大切にしないのがスタンザ帝室か〉と、同じ王族の立場から遠回しに非難しているのだ。この辺りの副音声の使い方は、腐っても王宮生まれの王宮育ちならではである。
言葉を失った皇子の目の前を横切り、ジュークはディアナに近づいた。
「紅薔薇。スタンザの皇子と、他に何か話すことはあるか?」
「いいえ、陛下。わたくしから殿下へ申し上げるべきことは、全て申し上げました」
ディアナ個人として皇子へ投げ付けたい罵詈雑言は山ほどあれど、側室筆頭『紅薔薇』がスタンザの皇子と話すことはもう無い。話すべきことだけなら、グレイシー男爵を抑えてもらったことに対して礼を述べた時点で終わっており、後の会話は完全な蛇足だ。
言葉を尽くしたわけでは無いけれど、簡潔なディアナの答えで心情は粗方伝わったらしい。ジュークは「分かった」と首肯し、そっと手を取ってきた。
「皆が案じている。広間へ戻ろう」
「はい」
余計なことは言わず、ジュークのエスコートに従って歩き出す――。
「お待ちを」
ぱしりと、不意にジュークが引いてくれている反対側の手を握られた。一歩進んだ体勢のまま、ディアナは静かに振り返る。
「……まだ、何か?」
「私の疑問に、あなたはまだ答えていない」
「そうでしたか?」
「あぁ。――何故、何一つ得るものが無い中で、頂点の重責だけを背負う? 悪意を向けてくる者たちまで慈しみ、守ろうとするのはどうしてだ?」
「わたくしが〝側室筆頭〟だから――という答えでは、どうやらご納得頂けないようですね?」
ディアナの言葉を、強い琥珀の瞳が無言で肯定する。
ちらりとジュークを見てお伺いを立てると、ジュークも同じく視線だけで了承を返してきた。
〝側室筆頭〟としてではなく――〝ディアナ〟として叩き潰すことを。
「答えますので、お離し頂けますか」
端的に告げつつ、皇子が離す前に軽く手首を捻って彼の手を振り払う。同時にジュークも手を解放してくれたので、自由になった両手をお行儀良く重ね、ディアナは皇子と真正面から向き合った。
――真っ直ぐにこちらを向く琥珀の瞳に、初めて本気の怒気を込めた視線をぶつける。
「わたくし、随分と殿下に誤解されているようですね」
「な……?」
「何かを得て報われなければ、頂点を背負ってはいけないのですか? 大多数の悪意に心折られ、傷つき嘆くことこそが〝正しい〟とでも?」
「そ、そうではないが」
「これほど、〝わたくし〟個人を馬鹿にされることも滅多にありませんわ。側室筆頭として歩んできた中で、この座がわたくしにくれたものは言い尽くせぬほど多くございます。それらは、側室筆頭でなければ――『紅薔薇』でなければ、そもそも存在すら気付かなかった。紛れもない、わたくし自身の〝宝〟です」
『紅薔薇の間』の侍女たちやシェイラとは、後宮に入らなければ接点すら無かっただろう。
そして『紅薔薇』でなければ……後宮を背負う立場でなければ、誤解されているであろう状況下で、わざわざライア、ヨランダ、レティシアと正面切って話そうなんて、あの頃の自分は思わなかったはずだ。
それに――。
「……どれほどの悪意を向けられたとて、そんなものにわたくしが折られることはあり得ません。わたくしを知らない者たちが向けてくる数多の悪意より、わたくしを知り、信じてくれる皆からの好意や善意の方が、ずっとずっと大切です。周囲の方々がわたくしをどう思うかは皆様の勝手ですし、――その情を受け取るか流すかは、わたくしの自由なのですから」
「じ、ゆう……?」
「わたくしはただ、わたくしを思う方々を、心から信頼する友人や仲間たちの気持ちを、何より貴び大切にしているだけです。大切な人たちと出会わせてくれた側室筆頭の地位を疎ましく思うはずがありませんし、皆の好意が当たり前でないと、一つ一つが奇跡だと実感しているから、心が通っていない相手に向けられる悪意など、意識を向ける価値もないと分かる」
「なら……そんな悪意を抱く者たちを守る必要など無いだろう」
「そんなことはありませんよ。わたくしに悪意を抱く方々もまた、王国の一欠片です。彼らを守ることは即ち、大切な人々の平穏な〝明日〟を守ることにも繋がるのですから、むしろ守らぬ道理こそないでしょう」
〝ディアナ〟の行動原理は、最初からずっと変わらないのだ。
大切な人たちが、大好きな皆が、幸せになれるように。――未来までずっと、曇りなく笑えるように。
最初は、家族のためだった。後宮に入って、そこに侍女たちと、側室の皆が加わった。
今は後宮だけでなく、外宮室の室員たちや、協力してくれる側室の家族たちも――。
……自覚するたび、自分は側室筆頭に相応しくないなとしみじみ思う。王国の民が須らく安らかであるように――なんてお綺麗な大義名分は、間違っても抱けない。せいぜい、顔馴染みのクレスター領の皆を思うので精一杯。末端の民一人ひとりまで深く慈しんでいたオースターを知っているからこそ余計に、自分は結局自己中を極めた『賢者』の末裔であって、湖の一族のような枯れない慈愛の持ち主ではないと悟ってしまう。
それでも――これが〝ディアナ〟だ。そしてありがたいことに、そんな自分を好きだと言ってくれる人が、両手の指では数え切れないほど居てくれる。
「わたくしのこれまでの歩みも、わたくしを思う皆の心も知らぬ方に、薄っぺらな表面だけを見て同情して頂きたくありませんわ。――ましてや、真に向き合うべき欺瞞にすら不誠実な方になど」
「な……っ」
「まさか、気付かれていないとでも? 本当に、馬鹿にするのも大概にして頂きたいものですわね」
「姫……、話を」
「もう結構です。殿下の――スタンザのご意向は、大変よく分かりましたゆえ」
皇子の顔色が、夜であることを差し引いても尋常でないほど真っ青になる。もともと肌の色がエルグランド人と違って黄褐色なので、顔色の違いが顕著に分かるのはありがたい。
「殿下のお言葉は、わたくしから陛下へお伝えします。それでよろしいでしょう」
「お待ちください! どうか姫、もう一度お話する機会を、」
「――紅薔薇は、もう充分過ぎるほど、そなたと言葉を交わしたと思うがな」
ディアナが本気で会話を切り上げたと察したジュークが間に入る。王に出られてはそれ以上無理強いすることは出来なかったようで、皇子は断腸の思いを浮かべつつも引き下がった。
もう一度ジュークに手を取られつつ、ディアナは最後にとびきりの――誇り高き『紅薔薇』の笑みを浮かべて。
「それでは、スタンザの皇子殿下。大変有意義な時間を、ありがとうございました」
純度百パーセントの皮肉を投げつけ、優雅に一礼してから、ジュークとともにバルコニーを脱出するのであった。
そのまま広間へ戻るのかと思いきや、ガラス戸を抜けたところで真横にあった垂れ幕の陰へと滑り込んだジュークは、ディアナの手を引いたまましばらく垂れ幕の中を進み、壁に突き当たったところで頭の高さに合った壁飾りを軽く捻る。何となく予想していたが、それはエルグランド王宮の至る所にある隠し通路を開く仕掛けだったようで、突き当たりの壁はそのまま隠し通路への入り口と化した。
隠し通路の中へと入り、しっかりと扉を壁に戻し、念のためしばらく通路の中を進んで――。
「……さすがにそろそろ、大丈夫じゃないか?」
実は無言でずっとジュークの後ろに控えてくれていたアルフォードの声を合図に手を離し、ジュークと二人で深く息を吐き出した。
「申し訳ありません、陛下。お手を煩わせまして……」
「そなたが謝ることなど、何一つ無いだろう。何か仕掛けて来るとは覚悟していたが、この展開は誰も想定していなかったぞ……」
それはともかく、とジュークは薄暗がりの中、心底ディアナを案じる瞳を向けてくる。
「改めて聞くが、怪我は本当に無いのだな?」
「はい、陛下。どこも痛めておりません」
「スタンザの皇子が助けに入るまで、しばらく揉み合っていたと聞いたが」
「……そのように見えただけでしょう。男爵の身体にほとんど力は入っておりませんでしたから」
さらりと説明してから、ディアナはジュークの背後にいるアルフォードを見る。
「アルフォード様」
「どうした、ディアナ嬢?」
「こちらを預かって頂けますか?」
「これ、は――!」
ドレスの隠しポケットから取り出した〝それ〟を受け取ったアルフォードと、近くで視認したジュークの目が丸くなった。
二人の様子を見て、ディアナも真剣な表情で頷く。
「お二人とも、これが何かご存知なのですね」
「当たり前だ!」
「さすがに分かるって……かなり旧式だけど、間違いなくスタンザ帝国の火薬武器だな。確か現地じゃ『手榴弾』って呼ばれる類のものだったはずだ」
「これを……グレイシー男爵が?」
ジュークが険しい表情になる。夜会で『紅薔薇』に対し無作法が過ぎただけではなく、危険な爆発物を王族も出席する夜会の場へ持ち込んだとなれば、男爵個人への処罰だけに留めることはできない。男爵の動機にもよるが、グレイシー家全体に咎が及ぶことも充分に考えられる事態だ。
ジュークも、おそらくはアルフォードも、案じているのはクリスのことだろう。後宮近衛騎士団の団長という難しい立場をこなせる女性貴族は、国全体を見回してもクリス以外は存在しない。それだけでなく――彼らにとって、もちろんディアナにとっても、〝クリステル・グレイシー〟という人自身が大切なのだから。
少し考えて、ディアナはアルフォードに問い掛ける。
「……グレイシー男爵の身柄は、国王近衛が預かってくださっているのですよね?」
「あ、あぁ」
「身体検査は?」
「もちろん、済んでるぞ。特に不審なものを持っていたという報告は受けていないが……」
「男爵とわたくしが揉めていた付近にいた貴族の方々で、男爵が手榴弾を持っていたと気付いた様子の方はいらっしゃいますか?」
「いや……きちんと聴取したわけではないから確実なことは言えないが、今のところ表立った騒ぎにはなっていない。どちらかといえば、スタンザの皇子殿下が『紅薔薇様』を庇ったことの方に気を取られている感じだな」
「なるほど……。そう考えれば、殿下に救われた形になったことも悪いばかりではありませんね」
「それはあまりにも、お人好し解釈が過ぎるんじゃないか? 気を取られている、話題になっているとは言っても、基本的には『クレスター伯爵令嬢は異国の皇子まで毒牙にかけるのか』的な、いつもの誤解曲解悪評祭り状態だぞ?」
「わたくしの悪評でお義姉さまのお立場が守れるのなら、安いものです」
間髪入れずに断言し、ディアナはジュークへ向き直った。
「陛下。グレイシー男爵があのような暴挙へ出た一因は、わたくしの考えなしな対応にあります。手榴弾を持ち込んだことは言い逃れのできぬ男爵の罪ですが、幸いなことに、彼が〝これ〟を持ち込んだ事実はごく少数しか知りません。どうか、お義姉さまとグレイシー男爵家には累の及ばぬ、寛大な処罰をお願いしたく存じます」
「そう、だな。細かな対応はこの後協議することとなるだろうが、宰相やクレスター伯、エドワードとも相談して、最低でもグレイシー団長の職責だけは守れるよう計らおう」
「……ありがとう、ございます」
一つ、胸のつかえが取れた。安堵の笑みを溢すと、何故かジュークとアルフォードが呆れたような顔でこちらを見返してくる。
「……あの、何か?」
「いや……紅薔薇は相変わらずだな」
「何のことです?」
「客観的に見て、この先大変なのはどう考えてもディアナ嬢の方だぞ。衆人環視の中で男性貴族と乱闘寸前の揉め事を起こした上、その現場をよりによってエルグランド王宮全体から毛嫌いされているスタンザの皇子に救われたんだ。今は悪評程度だが、そのうち『紅薔薇はスタンザに内通している』って言い出す輩が出てくる可能性だってある」
「まぁ、その可能性は高いでしょうね。そういう噂が湧いたら湧いたで、本物の内通者の気が緩んでボロが出易くなるでしょうから、放っておけばよろしいのでは?」
心配してくれるのはありがたいが、クレスターの悪評はこういう有事のときこそ役立つのだ。三百年以上積み上げてきた『悪の帝王』の虚像を、今こそ有効活用して頂きたい。
――それよりも。
「わたくし、できればすぐにでもクリスお義姉さまにお会いして、謝罪を申し上げたいのですけれど。今どちらにいらっしゃるか、ご存知ですか?」
「あくまでも〝そっち〟心配するの、とことんディアナ嬢らしいよな……」
「……少し心配だからと、エドワードが側について、会場から離れた部屋で休ませている。この通路の突き当たりにある部屋だ」
「何もかも、ありがとうございます。お義姉さまに謝罪申し上げましたら改めて、詳しい状況をご説明申し上げますので」
「あまり急ぐ必要はないぞ。話なら、後宮に帰ってからでも間に合う」
「俺たちは広間に戻るが……案内は無くても大丈夫か?」
「平気です」
あまり長時間、王が広間から消えているのは良くない。こうしてディアナを助けに来てくれただけで充分だ。
もう一度頭を下げてジュークとアルフォードを見送ってから、ディアナは踵を返し、クリスが居るという部屋へ向けて駆け出すので合った。
予想はしてたけど、言うこときかない新キャラですよ皇子様……!
ディアナ視点は、次でひとまず一区切りします。