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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
にねんめ
145/235

急転直下

前回と打って変わって、今話は長いです。

新キャラ祭りは継続中!


 ナーシャの様子に覚えた違和感について頭の端で考えつつ、どうにか和やかな空気になったクロケット姉弟を見送ったディアナ。

 そんな彼女たちの姿が完全に人混みに紛れて見えなくなったところで、背後から新たな声がかかる。


「おや。そちらにいらっしゃるのは、もしかして紅薔薇様では?」

「――えぇ、左様です」


 振り返りつつ、『紅薔薇』仕様の微笑みを顔面に貼り付けた。掛けられた声は、ディアナの記憶が正しければ、完全な敵でこそないものの決して気を許すことはできない相手だったからだ。


「これはこれは。妹がいつもお世話になっております」

「いいえ、お世話になっているのはわたくしの方ですわ。……グレイシー、男爵様」


 現グレイシー男爵――要するに、クリスの実兄である。妹のクリスとよく似た赤茶色の緩い癖毛に、クリスよりやや濃い茶色の瞳。色彩はよく似ているけれど、その顔立ちにあまり似通ったところはない。……いや、正確には、目鼻立ちにある程度の共通点はあるけれど、表情が違いすぎて似ていると思えないのだ。

 隠せているようで、まるで隠せていない蔑みの色を浮かべてこちらを見下ろしてくる彼に、ディアナはただ『紅薔薇』の笑みで相対する。


「妹君――グレイシー団長には、常日頃より何かと助けて頂き、本当にありがたいことと感謝しております。さすがは、代々騎士の栄誉を継いで来られたグレイシー男爵家のご令嬢でいらっしゃいますね」

「いやぁ……女が剣など達者でも嫁の貰い手が無くなるだけだから止めておけと、何度も諭したのですがね。あの通りの跳ねっ返りで、こちらの言うことなど聞きもしないもので」

「まぁ、ご謙遜を。春の御前試合で上位八人に名を連ねられた実力は、グレイシー家としても誇らしいものでしたでしょう」

「それはまぁ……しかし、あれは所詮女、いずれは家を出てグレイシーの名を継ぐことはないわけですから。剣の腕などより、女の魅力を磨いて社交に精を出してくれた方が助かるものの、そちらの方はからっきしでして」

「そのようなことは……女性としても、グレイシー団長はとても魅力的な方だと思いますよ」


 相変わらずな男爵に、複雑な思いが胸中を過ぎる。エドワードとクリスの婚約が未だに〝非公式〟である最大の理由が、何を隠そうこの男なのだ。

 ――クリスの生家、グレイシー男爵家は騎士の家系である。先祖代々王宮にて騎士の要職を務め、その剣才は王国随一との呼び声高く、何度もあった陞爵の話を「騎士として忠義を尽くすにあたり、地位は不要」と一貫して断り、騎士の中の騎士として尊敬を集め続けた。

 そのグレイシー男爵家の不幸は、先代男爵が若い頃に病で王宮騎士職を退かざるを得なかったことに発端する。本来後を継ぐべき嫡男(要するに目の前のこの男だ)には剣才もなければ、自身に足りないものを得ようと努力する心根もなく、騎士学院も中退する有様。数年遅れで生まれた娘の方がグレイシー家の剣才を受け継ぎ、剣の道を志した。病で王宮職こそ退いたものの、後進に剣の指導をするくらいの余力があった前グレイシー男爵によって、クリスは剣術の基礎を学んだが――それも束の間、クリスの才能が花開くことを待つこと叶わず、前男爵は他界してしまう。

 跡を継ぎ、グレイシー男爵となったクリスの兄は、騎士の家としての誇りを守りたいクリスの意思などお構いなしに、王宮で地位を築いて男爵家を盛り立てる方向へと舵を切った。それも、社交の場で力のある家の子息に擦り寄り、賄賂を積んで口利きを頼むという古典的な小悪党の手段で。……余力のある家ならそれでも良いだろうけれど、グレイシー男爵家は代々王宮の騎士職で生計を立てていたため、領地の税収はそれほど高い方ではない。みるみる蓄えを減らしたクリスの兄は、これまた小悪党の浅知恵あるあるで、妹を裕福な家へと嫁がせ、嫁ぎ先に援助してもらうことを思いついた、らしい。

 この辺りの経緯は、エドワードと非公式ながら婚約することになった際にクリスから聞かされたもので、当の男爵本人はディアナにグレイシー家の事情が伝わっていることなど予想もしていないだろう。兄の愚かな画策にクレスター家を巻き込むわけにはいかないと、クリスはエドワードと結婚の約束を交わしたことを、まだ男爵へと告げてはいないのだ。エドワードもクリスの意思を尊重し、地味に裏から手を回して男爵が致命的な悪事を働かないよう阻止する方向で動いている。クリスの兄ながら、目の前の御仁はそう忍耐力のある人物ではないため、自身の企てが上手くいかない状況が続けば、そのうち悪事を働くことにも飽きるのではないかという長期的な作戦だ。


 ――妹であるクリスをあからさまに見下して貶し、会話している風で実際にはディアナの意見など聞こうともしていない。このような男性が珍しくもないことは頭では分かっているけれど、それでも実際にこうして向き合うと無意識の悪意に気分が悪くなる。……それがクリスの兄だから、尚更に。彼がここまであからさまかつ極端な女性蔑視に走らず、クリスの言葉にも耳を傾けてくれる人であったなら、とっくにエドワードとクリスは婚約を正式発表していただろうに。


「いやはや、紅薔薇様は随分と妹を買ってくださっているようで……しかし、剣を振り回して男の真似事をするような女は、同じ女性から見てもそう気持ちの良いものではございませんでしょう」

「そのようなことはありませんよ。グレイシー団長と後宮近衛の皆様方は、いつ拝見しても凛々しくいらして、同じ女としてとても憧れますもの」

「おやおや。お世辞もあまり盛り過ぎると、却って真実味が無くなってしまいますよ?」


 ……クリスに憧れているのは、お世辞でも何でもないただの事実だ。ディアナだけでなく、側室侍女女官の枠を越えて、クリスに憧れている後宮の女性は多い。けれど、それを言ったところで、この男が本気に取ることはないのだろう。

 あからさまに世間話の体を崩さず、早く話を切り上げたい空気をさり気無く醸し出してはみたものの、男爵がそれを察する気配はない。それどころか、ちょうど舞踊曲が終わったのを良いことに、こちらへ手を伸ばしてくる。


「おぉ、ちょうど良い。一曲、時を共にする栄誉を願えますかな?」

「……えぇ、喜んで」


 これほど言い難い「喜んで」は久し振りに言った。曲がりなりにもクリスの兄で、しかもグレイシー男爵家は中立派(という名の、力と金のある家には派閥関係なく擦り寄る節操なし)ゆえにクレスター家と社交の範囲がある程度被り、まるで知らない相手ではないところが痛い。顔見知りからダンスを申し込まれた場合は、よほどの理由がない限りは断らないのが暗黙のルールなのだ。

 間奏曲の間に広間の中央へと出て、互いの腕を所定の位置へ置き、ダンスの準備をする。異性との距離が必然的にゼロへと近づき、相手から視線を逸らせられない時間が曲の間ずっと続く社交ダンスが、実のところディアナはあまり好きではない。相手によっては楽しめるけれど、大体は楽しめないことの方が多いからだ。顔に笑顔は貼り付けているけれど、心は自分でも驚くほど冷え切っている。


 ――ダンスの準備を終えた男女が出揃ったところで、舞踊曲が優雅に奏でられる。自信満々に踊り出したグレイシー男爵に合わせ、ディアナもステップを踏んだ。

 自分本位なリードをしてくる男爵に合わせるのは難しく、はっきり言って踊り辛いことこの上ない。リードの丁寧さ、ダンスの上手さでいえば、デビュタントではあれどアベルの方が遥かに上だ。さすが、ヨランダという社交の玄人(プロ)を姉に持つだけのことはあった。

 ディアナとて社交四年目ともなれば、どんな相手であってもある程度は合わせて踊れるし、笑顔で楽しんでいるフリだってできる。家族や仲の良い後宮組が見れば「無理しているな」と分かるかもしれないけれど、少なくとも『紅薔薇』の粗探しをしようとこちらを注目している保守派のお歴々に見破られるほど薄い猫ではないはずだ。グレイシー男爵のリードに合わせつつ、ダンスが破綻しないようそつなく動き、かつにこにこ笑い続けるのは簡単ではないけれど、やってやれないこともない。

 やがて――曲の盛り上がり部分に合わせて音量が大きくなったところで、グレイシー男爵がさらにディアナを引き寄せてきた。


「アレは――妹は、完全に『紅薔薇派』へ取り込まれたようですな」

「……何のお話でしょう?」

「惚けられることもありますまい。あなたが陛下とともに観戦なさった御前試合で、後宮近衛などというお飾り職の長に過ぎないアレが上位へ食い込むなど、どう考えても話ができすぎている。後宮と後宮近衛を印象付けるため、あなたが試合の流れをある程度操られたと見るのが自然です」

「仰る意味が分かりませんわ」

「おやおや、はっきり言わねばなりませんか? ――王国軍の上層部へいくら積んだのだ、この女狐が」


 男爵の瞳に見え隠れしていた蔑みの色が、より鮮明に表れる。ディアナを逃さないようにするためか、腰に回されている彼の手に力が込められ、ぐいと掴まれた。


「さすがは『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』の娘だ。己の目的のためならば、神聖な御前試合を金で汚すことすら平然とやってのける。――だが、私の目は誤魔化せんぞ」

「先程から、随分なことを仰いますね。実の兄君でありながら、男爵様はクリステル様の剣の腕をまるでご存知ないように拝察します。――クリステル様の腕を以ってすれば、八百長など仕組まずとも御前試合を勝ち上がるなど容易いことだと、わたくしは思いますが」

「馬鹿なことを。女如きが剣で男に敵うはずがない。アレがしていることなど、所詮はただのままごとだ」


 鼻で笑いつつ、男爵は不意にステップの方向を変え、ギリギリ不自然には見えない範囲で、踊る位置を中央から壁側へとずらしていく。ひとまず合わせつつ、漂ってきた不穏な気配に、ディアナは密かに警戒度数を引き上げた。


「昔から、愚かな妹だとは思っていたがな。女が騎士になれるわけでもないのに剣に拘り、ろくに社交へ出ようともしない。たまに大人しく出たかと思えば、金になりそうな話を仕入れることも、金払いの良さそうな男を見繕うこともせず、ろくな野心もない事なかれ主義連中とばかりつるむ。家のこと、社会のことなど何一つ分からぬ世間知らずの大馬鹿娘……まぁだからこそ、貴様のような女狐にとっては扱い易かったのだろうが」

「……どうやら、男爵様が仰る妹君とわたくしが知るクリステル様は、別のお方のようですわね。わたくしの知るクリステル様は、世間知らずな頑迷さとは無縁でいらっしゃいます。王国史上初である女性だけの後宮近衛の長という難しい立場を過不足なく勤め、わたくしども側室はもとより陛下からも篤い信頼を頂いている、今やエルグランド王室にとって無くてはならぬお人なのですから」


 ついにディアナは微笑みの仮面を一部放棄し、唇は笑みの形のまま、鋭い瞳で男爵を睨み据えた。ついでに遠回しにではあるが、後宮近衛騎士団の団長という公職に就いている女性を側室筆頭の前で侮辱することの危険性を伝えておく。ディアナはたまたま、下手にこの男を公衆の面前で非難すると連座でクリスの立場までもが危うくなり、巡り巡ってエドワードとの結婚までもが遠のきかねないという身内の事情があるから穏健に流そうとしているだけで、もしも側室筆頭がディアナでなかったら、この段階でグレイシー男爵家の命運は尽きてもおかしくない。

 後宮近衛騎士団は勅命によって結成され、王の意向に沿って動く、王のための騎士たちだ。その団長を公然と侮辱するということは即ち、彼女を団長に任命した王を侮辱しているにも等しい。クリスに団長として何かしらの瑕疵があるならまだしも、彼女は当初の期待以上によく働いて後宮近衛の女性騎士たちをまとめ上げ、御前試合でも優秀な成績を残して、ジュークから個別で意見を請われるほど信頼されているのだから、尚更だ。

 ――ディアナの怒気に男爵は少し怯んだようだが、すぐにこちらを侮る表情へと戻り、ニヤリと厭らしく笑いかけてきた。


「さすがですなぁ。陛下に愛され、正妃の地位も目前となると、仰ることも一味違う。どんな専横をしようとも、陛下に全て揉み消して頂けるとは……いやはや、羨ましい限り」

「……回りくどい仰りようですね」

「――貴様のような小娘に阿るのは癪だがな。妹を手駒として取り込んだのであれば、その実家へもそれ相応の便宜を図るべきではないか? 王宮が騎士としてアレを召し上げたお陰で、私の計画は台無しだ。見せかけだけとはいえ、王国で上位八名に入る剣の腕を持つなどと広く知られてしまった妹に、最早嫁の貰い手はない」

「あなたが心配なさらずとも、クリステル様ほどのご令嬢ならば、いずれ良いご縁に恵まれることでしょう」

「ただ嫁ぐだけでは意味がない。グレイシー男爵家を盛り立ててくれるような婚家でなければ、アレの結婚に価値などないからな。だが……女だてらに剣を振り回す変わり者を望んで嫁に迎えようなどという輩が、男爵家にとって良縁のはずがない」


 偏見と差別意識も、ここまで来ると一周回って潔く見えてくるから不思議だ。この男が言うことは徹頭徹尾真実にかすりもしていないが、唯一、「クリスを望む男は(男爵が考える家の栄えという意味では)男爵家を盛り立てない」という部分だけは、その通りだと頷ける。エドワードは常々、男爵がやろうとしている〝権力と財力のある者に節操なく擦り寄り、賄賂を積んで出世の道を開く〟系の画策を、「わざわざ金積んで破滅ルート選択するとか、馬鹿だよな」と鼻で笑っているのだから。……まぁそれ以前の問題で、王宮で使える権力など無に等しいクレスター家が、他人の出世をどうこうできるわけもないが。

 ――それはそれとして。


「……もしかして、クリステル様が後宮近衛の長になったことで、男爵家を盛り立ててくださるお家へ嫁げなくなってしまったから、代わりに便宜を図れと仰っているのですか?」

「ふん、ようやく分かったか。まったく、こんな簡単な話を理解するのにこれほどの時間を要するとは、これだから女は……」

(この場合、性別はあんまり関係ない……)


 言葉を発するのすら面倒になって、いよいよディアナは黙り込んだ。人間、あんまり自分の良識から外れたことを言われると、「まさかそんな外道を堂々と口にする輩がいるはずない」という思いが先に立って、本来の理解力が鈍ってしまうものだ。話を盗み聞きされる心配がほぼないダンス中に男爵が本性を現したこと自体は意外ではないけれど、クリスから又聞いていた以上の小悪党な下郎っぷりに、ディアナだけが取り繕っているのも馬鹿馬鹿しくなる。


(跡継ぎ息子がこれじゃ、前男爵様……お義姉(ねえ)様のお父様も浮かばれないわね)


 ディアナは前グレイシー男爵と直接の面識はないけれど、何度か社交の場で言葉を交わしたことがあるエリザベス曰く、前男爵は本気で長男を廃嫡して、クリスを跡継ぎにできるよう手続きを進めようか悩んでいたらしい。……こうして長男の本性を見てみると、残念ながらグレイシー男爵家にとってはそちらの方が良かったのだろうなと思ってしまう。


「どうした? そんなに己の浅慮が見抜かれたことが意外か?」

「……えぇ、とても意外です」


 ――舞踊曲もそろそろ終わる。お誂え向きに輪の外側で踊っていることだし、この辺でこちらも本性を見せて、曲が終わると同時に人混みに紛れてドロンすることにしよう。

『紅薔薇』の微笑みを消し、ディアナは正真正銘の怒りと蔑みに満ちた瞳を、グレイシー男爵へと突き刺した。


「あれほど剣に真摯で、既に充分な実力をお持ちにも拘らず鍛錬を怠らない努力家なクリス様の兄君が、あなたのような真摯さの欠片もなく、自身を磨く努力とも無縁な方であることが、本当に意外でなりませんわ。前男爵様は騎士としての誉れ高い高潔な人格者であったと伺っておりますのに、あなたはお父様から、人として大切なことを何一つ学ばれなかったのですね」

「な……っ」

「クリス様は、あなたの野望を叶える道具ではございません。貴族の婚姻が政略と無縁でいられないことは否定しませんが、だからといって嫁ぐ本人の意思を無視して良いことにはならないはずです。――ましてや、あなたの野望の役に立つか否かでクリス様の婚姻の価値を測るなど、兄君としてあまりに非情ではありませんか」

「きっ、貴様、」

「後宮近衛の団長でいらっしゃる以上に、クリス様はわたくしにとって大切なお方です。そのクリス様を、よりにもよってわたくしの眼前で散々侮辱された代償は、決して小さくはないと心得なさいませ」


 本気の怒りが伝わったのだろうか。男爵は見るからに怯み、ステップが覚束なくなった。……まぁ、もう後奏部分を残すのみなので、それほど目立つこともないだろう。

 最後に――心からの冷笑を、浮かべて。


「そうそう……クリス様が『紅薔薇派』だなんて、そんな幻覚をどうしてご覧になったのか、わたくしにはまるで理解できませんけれど。――仮にクリス様がわたくしの派閥に力をお貸しくださっているのだとしても、だからご実家をお引き立てしようとは、わたくしは考えません。わたくしどもは、地位や利害ではなく互いの心で繋がっているのですから、ご本人とご実家は別物です」


 明確に、きっぱり拒絶すると同時に、計算通り舞踊曲の後奏が終わる。自然な仕草で男爵のホールドを外し、ディアナは呆然としている男爵へ、「では」と一礼して踵を返した。

 そのまま、早歩きに見えない限界の速度で男爵から離れ、人波の隙間へ潜り込む――!


「貴様……! 貴様、よくも!!」


 背後で場違いな怒声が響いた。……考えていた以上に、グレイシー男爵は導火線が短く、感情に振り回される質だったようだ。恥辱に支配され、周囲が見えなくなっているのだろう。

 男爵が怒り狂おうが、逃げてしまえばこっちのものだ。ディアナは構わず歩を進めようとして。


 ――ドクンッ!


 心臓が、本能が立てた警告に、考えるより先に振り返った。脇目もふらずに突進してきたグレイシー男爵の手に握られていたのは。


(まずい!!)


 かなり旧式かつ小型だが、充分に殺傷能力のある、スタンザ由来の火薬武器だったのだ。あんなものを正装の下に隠し持っていたのかと戦慄すると同時に、あれが爆発したら死傷者が出るのは避けられないと背筋が寒くなる。


(止めなければ――)


 男爵が武器を投げるより早く、ディアナは彼に駆け寄って腕を掴む。悪目立ちするだとか、互いの立場がどうだとか、人命救助が最優先の場面でそんな些事には構っていられない。

 このタイプの火薬武器は確か、投げつけた衝撃によって発生した火花で火薬に着火する仕組みだったはず。つまり、衝撃さえ与えなければ、発火することはない。……服の下に隠して持ち運べるほど小さいものなので、知識のある人間が近くで見なければ、それが武器だということも分からないはずだ。

 会場内で、いくつもの気配が動く。エドワードが、クリスが、国王近衛騎士たちが、外宮室組が、側室組が――それぞれの位置から駆けつけようとしているのが感じ取れた。

 皆がここへ辿り着くまでは、なんとかディアナ一人の力で……!


(……ううん、違う)


 必死になるあまり気付くのが遅れたけれど、ディアナが男爵の腕を掴んだ瞬間から、あからさまに男爵の動きが鈍っている。よくよく見れば、身体を動かしたいのに動かせない、金縛り状態に陥っているようだ。

 ……手も触れずに、他者の動きを鈍らせる。そんな芸当のできるひとが、ずっと、ずっと――見えない場所からディアナを見守ってくれていたではないか。姿を見せることはなくても、声すら聞こえなくても、彼がいてくれる限り、ディアナは決して〝一人〟ではない。


(――ありがとう)


 心からの感謝を内で唱え、ディアナは男爵の手から火薬武器をそっと抜き取り、いくつかあるドレスの隠しポケットへと滑り込ませた。

 後は、駆けつけてきた仲間へ男爵を引き渡せば……!


「いい加減にしないか!」


 不意に強く張りのある声が響き、男爵の腕が捻り上げられる。と同時に金縛りが解けた(正確には彼が霊術(スピリエ)を解いたのだろう)男爵がもがいたが、腕を捻り上げた人物には武術の心得があるようで、逆に男爵の動きを上手く利用して抑え込んだ。

 思わぬ人物の思わぬ行動に、ディアナが心中で呆気に取られていると、その張本人が印象的な琥珀色の瞳を柔らかく笑ませて問い掛けてくる。


「災難でしたね。お怪我はありませんか?」

「いえ……大丈夫です。ご親切に、ありがとうございます」


 以前ディアナが見たときより、三割増で豪華な白地の衣装。エルグランド王国の正装とは違うけれど、その豪華さや生地の高級さから、これが彼の国の最上級礼装なのだろうとは想像がつく。

 ――そう。グレイシー男爵を抑え込んでいるのは、この夜会で完全に存在を抹消されていたスタンザの第十八皇子、エクシーガだったのだ。

 彼の狙いは何なのかディアナが考えるより先に、一番近い位置にいたらしい国王近衛騎士が二人、やって来る。


「紅薔薇様!」

「申し訳ございません。お怪我はございませんか?」

「……えぇ、大丈夫です。スタンザの皇子殿下が仲裁に入ってくださいましたので」

「左様でしたか。……皇子殿下、お見苦しいところをお目にかけ、誠に申し訳ございません」

「紅薔薇様をお助けくださいましたこと、御礼申し上げます」


 国王近衛騎士団は、王を守るための組織だ。アルフォードの部下であり、ジュークの側近でもある彼らは当然、スタンザ国使団の横暴について熟知している。本音では礼など言いたくないだろうけれど、皇子がディアナを助けに入ったのは明白な事実であり、それを流すことの方が問題だと判断したのだろう。

 二人は皇子からグレイシー男爵を引き取り、下がろうとする。往生際悪くもがき続けていた男爵が、立ち上がらされた瞬間、憎悪に満ちた瞳でディアナを睨め付けてきた。


「私は悪くない……! 私はただ、その女が、悪名高き『紅薔薇』が、後宮と王国を私物化しようとしているのを止めようとしただけなのだ! 王国を滅びへと導く稀代の悪女め、せいぜい短い春を謳歌することだな!!」

「黙れ!!」


 驚いたことに、グレイシー男爵の頓珍漢な勘違い罵倒(クレスター家的には割と日常茶飯事)に返す刀で反応したのは、スタンザの皇子であった。何の裏があるのかと思わず彼を見てしまったが、彼の表情と態度から受ける印象では、ただ男爵の言動に憤っているだけのように思える。


「自国の国王陛下の側室筆頭君に数々の無礼な振る舞い……姫に危害を加えようとしたことといい、我がスタンザであれば即座に打ち首の大逆であるぞ。エルグランド王家は随分と寛容なようだが、そなたのような不忠者を野放しにするとは、私には理解できんな」

「ひ……!」

「姫が国を滅ぼすと言ったか。私に言わせれば、国を滅ぼすのはそなたのような、自身の益しか見えていない愚か者だ。ご聡明な紅薔薇の姫君が国を私物化するのであれば、そなたのような小者に悟られる下手な策は、まず打たないであろうよ」

「なっ……」

「……殿下、どうかもうその辺りでお許し願います。男爵様のお気持ちを拝察し切れず、感情を昂ぶらせてしまったわたくしにも非はございますゆえ」


 皇子の意図が読み切れないまま、ひとまず場を収めるべく発言する。別に男爵を庇ったわけではなく、どちらかといえばこれ以上彼が晒し者になることでクリスの立場を悪くするのを懸念してのことだ。まさか男爵が夜会の場に火薬武器を持ち込んでいるなんて思わず、無駄に煽ってしまったディアナも悪いといえば悪い。

 観衆たちがひそひそ話で盛り上がる中、国王近衛騎士二人に引っ立てられて、グレイシー男爵が退場する。ひそひそ話の内訳は概ね、男爵の罵倒に賛同するものと、いつの間にスタンザの皇子をたらし込んでいたのかの推測に二極化されていて、相変わらずな悪人面効果に心中で苦笑した。クレスターの人間が目立てば悪評が立つのは今更なので、それは別にどうでも良い。

 大事なのは、男爵が火薬武器を入手した経路と、夜会の場へ持ち込むに至るまでだ。どうにか爆発させずに済んだけれど、こんなことが今後頻繁に起こってはたまらない――。


「……もう良いでしょう」


 考え込んでいたディアナに、突然声が掛けられた。顔を上げると、何故か切ない目でこちらを見つめて来るスタンザの皇子と視線がかち合う。掛けられた言葉の意味を問い返すより先に、一歩近づかれ、そっと手を握られた。

 ディアナにだけ聞こえる声で、皇子はそっと囁いてくる。


「行きましょう。いつまでもこんなところに居る必要はない」

「え……?」


 軽く手を引かれ、促されるまま歩き出しながら、ディアナの心中は滅多にない大量の疑問符で埋め尽くされるのであった。


というわけで、クリスさんのお兄さんお目見えでした。嫌なヤツだってのは(主にエドワードから)散々聞かされてたけど、予想を上回るやなヤツだったぜ……

次回はハブられていた皇子サマのターン!

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― 新着の感想 ―
[一言] グレイシー男爵を煽って武器を渡したスタンザの皇子が、ディアナを取り込もうと演技してる感じですかね? それより騒動があった王妃候補を、直後に外国の皇子が連れ出せるとかそんなに警備ぬるいの? …
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