回想その3〜少しだけ昔の話を〜
このお話を書き始めた初期からあるにはあった設定が、ようやく陽の目を見る日が来ました……。
遡ること、今からおよそ九十年前。
王国の西側の港町に、史上初の〝海向こうからの船〟が辿り着いたことから、近代における異国との交流史は幕を開ける。
辿り着いた船の国籍は、スタンザ。当時のエルグランド人にとっては――知恵と知識を代々繋ぐ『賢者』の末裔たるクレスター家の面々にとってすら、国名と国情を薄ぼんやり知っている程度の、まさに未知の国であった。
ただ、自分たちが相手を知らないからといって、相手も自分たちを知らないとは限らない。事情は様々ながら、荒れる海、吹雪く山へ果敢に挑み、王国の外を目指して旅立っていった者たちは、いつの時代もごく少数ながら存在する。彼らのうちのほとんどは志半ばで命を落としただろうけれど、幸運に恵まれた何割かは対岸へ、山向こうへと到達し、そこで生きる人々に王国の存在を知らせたことだろう。実際、海向こうから漂流者としてやって来た人々によって、エルグランドの者たちも名前だけとはいえスタンザ帝国の存在を知っていたのだから。
しかしながら、そもそも『エルグランド』と国の名が変わる以前、前身となる都市国家群時代から〝侵略〟のふた文字が最初っから頭になかった王国人は、「海の向こうにスタンザ帝国という国があります」と聞かされても「ふーん」で終わる。良い意味でも悪い意味でも、相手への興味は実に薄い。
そんなわけで、呑気なお国柄のエルグランド王国は長年、海向こうと山向こうに対し、「こんな国があるんだって」「へぇー」程度の見解でいた、わけだが。
「世界的に見れば、我が国のように〝専守防衛〟に徹している国の方が圧倒的少数派です。人類の技術力が底上げされ、医療が発展して人口が増えれば、当然暮らす土地は足りなくなる。より豊かな暮らしを求め、広く住み良い土地、貴重な資材が豊富な山々、食料となる生き物が多く住む森林や海を求め――そこに昔から住まう人がいれば力尽くでねじ伏せて、大きくなるのが〝国〟というもの」
「つまり……スタンザ帝国はそうして大きくなった、典型的な武力重視国家というわけか」
「先ほどは端折りましたが、スタンザ帝国男性の死因の最たるものは〝戦死〟です。数代前の帝王様があの辺り一帯を統一してから、随分と落ち着いたそうですが。それでもまだ、少数部族との間の小競り合いは日常的に起こっているため、帝国成人男子には一部の例外を除いて、兵役の義務があります。ゆえに、戦で命を落とす一般の民が減ることはないそうで」
「……戦闘職から一言言わせて貰うが、日常的に訓練してない武器持っただけの素人が戦場に立っても、はっきり言って邪魔なだけなんだがな」
アルフォードの意見にエドワードとクリスが深々と頷き、姿は見えないが上からも同意の気配が落ちる。スタンザが職業軍人を育てていない、あるいは育てていても一般の国民にまで兵役を課している内実まではディアナも知らなかったので、軽く首肯することで同意を示し、ディアナはジュークに視線を戻した。
「長年――それこそ、恐らくは建国当初からより住み良い土地を求め続けていたスタンザ帝室にとって、海の向こうにあるというエルグランド王国は、さぞかし魅力的に見えていたことでしょう。国の周囲は天然の要塞に守られ、国土は一部を除いて豊潤で自然資材も豊富、農耕の知識は乏しくともひとまず森や海に入れば獲物には困らない。……実際はそれほど簡単ではないわけですが、話にしか聞かないエルグランド王国に対し、スタンザが過度な期待を寄せたとしても不思議ではありません」
「対岸の国、エルグランド王国を侵略征服すれば、国民はもっと豊かに暮らせると?」
「その通りです」
「理解はできるが、同意はしかねる考え方だ。一国の王たる者、自国の民の幸福のため尽くすことと同様に、他国の民と王家にも敬意を払わねばならない。思想や歩みは違えども、同じように悠久の時代を越えてきた、同じ人であり国としてな。そもそも、他国を蹂躙せねば手に入らぬ豊かさなど、所詮使い潰しの消耗品にしかならぬだろう」
当たり前の顔をして当たり前に紡がれた、ジュークの言葉。それはまさに、エルグランド王家がはるか悠久の昔、『湖の王国』時代から掲げ続けてきた、王国の理念そのものだ。彼が受けてきた歪んだ教育では学べぬはずの〝それ〟を、ジュークは過去の王たちの軌跡から、当然のものとして読み取り受け継いでいる。
ゆったりと喜色に満ちた瞳で、ディアナはジュークを見つめ返した。
「わたくしもそう思います、陛下。自然は確かに不平等で、我が国のように森と土に恵まれた場所もあれば、スタンザ帝国のように風と砂が支配する土地もある。話に聞いたことがあるだけですが、一年中氷が溶けない大地や、潮が満ちれば国土の半分が海に沈むようなところもあるそうです」
「想像もできないな……。世界は実に広い」
「えぇ。けれど、どんな場所でも、その土地に根ざした生き方で、確かに人は生きています。過酷さをもたらすだけが、自然の姿ではありません。森には森の、砂には砂の、氷には氷の、海には海の、それぞれ試練と恵みがございます。我ら人もまた自然の一部として、試練を乗り越える強さと恵みを受ける知恵を育み、それぞれの場所でそれぞれの時代を生きてきた。それこそが真の豊かさを生むのだと、先人方の姿は教えてくださっている気がします」
「だが……スタンザ帝国は恐らく、自然が与える試練ばかりを感じてしまうほど、過酷な土地が多いのだろうな。恵みを見出すことすら難しければ、人の心は疲弊する。疲弊した心は、自分以外の誰かが持つものを実際以上に素晴らしく見せてしまうものだ」
「自らが生きる大地に向き合うことより、誰かの持つものを奪い取る方が容易く見えてしまうほど、スタンザ帝国の人々が追い詰められているのだとすれば……それはとてもお気の毒で、哀しいことです」
ジュークの言葉に、シェイラがそっと言い添えた。侵略の危機を知らされてなお、相手国への敵意より先に憐憫の情を抱く二人に、周囲は敬意を込めた視線を向ける。
ジュークとシェイラなら、大丈夫だ――そう確信し、ディアナは表情を真剣なものへと切り替えた。
「先ほども申し上げました通り、スタンザ帝国は持たざるものを奪い、国土を広げて成長してきた国です。――シェイラが言った通り哀しいことではあるけれど、彼らはそれ以外に国を富ます方法を知らない。故に、彼らはエルグランド王国の存在を知ったときから、いつかこちら側へ攻め入ることを考え、造船と操船の技術を発展させてきました」
「スタンザからエルグランドへは陸地を通るルートもあるが、いくつか国を跨がねばならない上に、年中吹雪く『女神の山脈』まで踏破する必要がある。スタンザもまた、海と川の恩恵を受けてきた国ではあるからな。直線距離で考えても、陸路より海路を侵攻ルートとして採ったんだろう」
「しかしながら、彼らもまた、我が国の内実までは不透明だった。国力や内政の状況がまるで分からない国に、いきなり攻め入る馬鹿はいません。もっとも安全な侵攻ルートを確保する意味でも、ひとまずは『通商』の名目でエルグランド王国の扉を叩くことを、スタンザ帝国は選択したのです」
「ということは、およそ九十年前に西の港へと現れ、エルグランド王国との『貿易』を望んだ者たちは――」
「スタンザ帝国の上層部と繋がりの深い、いわゆる内通者と呼ばれる輩だったでしょうね」
あっさり軽く明かされた、国がひっくり返りかねない大事。
室内にいる面々の中でも、異国との交易に深い関わりのある、あるいはあった者――レティシアとシェイラの顔色が、一気に青く染まる。
「つまり、スタンザ帝国の商船は、裏で帝国上層部と繋がり、我が国の内実を事細かに知らせていると?」
「いいえ、レティシア様。彼らが始めて王国に足を踏み入れてから、もう九十年です。既に貿易を口実に王国の奥深くまで入り込み、情報の漏洩だけでなく国力弱体化のための工作すら行なっている可能性も否定できません」
「そんな……! すぐにお父様にお知らせして、スタンザとの交易から手を引いて頂かなければ、」
「落ち着いて、レティ、シェイラ。キール家だけがスタンザ帝国との関わりを切っても無意味よ」
「なら、各商家にも伝達すれば――」
「スタンザだけがエルグランドへの侵攻を目論んでいるのだとすれば、それでも良いかもね」
今度こそ、室内の全員が目を丸く、顔色を悪くしてディアナを見た。
しばらくの静寂の後、ゆっくりと眼鏡を押し上げながらキースが口を開く。
「要するに――この国は今、四方八方から虎視眈々と侵攻の機会を窺われている、まさに国防の危機的状況にあるわけですか?」
「北側はそもそも今の技術で人間が渡れる海ではありませんので、ひとまず除外できますが。東西と南はそうですね」
「それは……いくつくらいの国、が?」
「スタンザを込みで、そこそこ大きな国が三つというところでしょうか。方向でいえば、西と南からはスタンザが、東からは山向こうにある二つの国がという感じで」
「東からも二国!?」
「東の二国がお互いに潰しあってくれたら、もうちょい余裕が持てるんだけどなー。同じくらいの広さの国、国力もほとんど同じと来たもんだから、潰し合うより先に山向こうの他国を手に入れることで、まずは国力を増強させる算段らしい」
「実力が拮抗している者同士の勝負は、勝つ方も負ける方も酷く消耗しますからね。後々のことを考えれば、まずは相手より圧倒的に強くなる方を優先させるのは、定石といえば定石です」
〈スッゲー分かるけど、そのために狙われてるこっち側にしてみれば、たまったものじゃないね。ひたすら迷惑〉
誰もが思っていて口にしなかったであろうことを、上からカイがぽーんと落とした。スタンザの事情にはまだ同情できても、山向こうの二国に関してはクレスター家の見解的にも「そっちのケンカに俺たちを巻き込むな」であったため、ディアナとエドワードは思わず何度も深く頷いてしまう。
「ほんと、まさにそれ」
「コソコソちょっかい出されるたびに、何も知らない体で追い払うこっちの労力考えろってんだ」
「海岸線沿いは分かりやすいだけマシでしょ。無駄に命賭けて山肌降りて森までやって来る人たちにお帰り頂くのだって大変なんだから。本人たちに気付かれてる自覚がないから、森の道をひたすら難解にして惑わせて、『何度森に入っても、同じところに戻ってきてしまう』ミステリーを演出しなきゃいけないのよ」
「けど、別にそれ、お前がやってるわけじゃないんだろ?」
「実際に動いて演出してくれてるのは、もちろん私じゃないけど。侵入者が現れたら、逐一みんなの〝声〟を聞いてどう惑わせるか考えなきゃいけないし――」
〈ハイハイ、クレスターの苦労話はその辺にしてさ。そろそろ、『侵略の危機に晒されているにも拘らず、何故それを知らないフリで他国との交易を推奨しているのか』って本題について説明した方が良いんじゃない?〉
横道に逸れた兄妹の話を、呆れ声のカイが軌道修正する。言われて気付いたディアナは、「申し訳ありません」と言いつつ深く座り直した。
ジュークが深く強い眼差しを向けてくる。
「紅薔薇。そなたたちクレスターの者たちがこれほど深く王国の状況を把握しているということは、当然、歴代の王たちもご存知であったわけだな?」
「無論のことです。当時の国王陛下――ジューク陛下のひいお祖父様は、海向こうのスタンザ帝国が武力国家であることをきちんと把握していらっしゃいました。そのスタンザ籍の船が入港したとの知らせに、無頓着でいられるはずもありません」
「これはあまり知られていないことだが、王国が異国との交易についてほとんど制約をつけなくなったのは、スタンザの最初の入港から十年以上後のことだ。それ以前は、禁止こそしていないがやり取りする品物や関わる人員など、厳しく制限、管理されていた。そうだよな、アル?」
「あぁ。調べれば記録にも歴史書にも載っている。その後の時代が激動すぎて霞んでるだけだ」
歴史研究の大家、スウォン家の者の言を疑う者はいない。
全員が頷き、シェイラが春空の瞳に稲妻を閃かせて、ディアナを見つめた。
「と、いうことは……スタンザ帝国の船が入港してから十年の間に、何かがあった。あるいは、何かをした結果として、自由貿易が解禁された?」
「どちらも正解よ、シェイラ」
首肯し、ディアナは全員をぐるりと見回して。
「当時ちょうど、当時のクレスター家の次男だか三男だかが、他国への移住を考えていてね。これ幸いとスタンザの者たちと意気投合したフリをして、そのままスタンザへ渡ったの。――目的はもちろん、スタンザ帝国の内偵」
「ちなみに、その子孫がさっき話に出てきた、愛妻家の彼だな」
「彼らの一族と今に至るまで交流が続いているのは、彼らが筆マメだったということより、そのお役目ゆえといった方が大きいのでしょうね。帝国の内に入り込み、密かに帝国の技術力と兵力、開発した武器などを探ってみれば――スタンザ帝国の総合的な軍事力はエルグランド王国を遥かに凌駕していた。武力頼みで大きくなった国なのだから、当たり前といえば当たり前なのだけれど」
「個人の剣の腕がどうのなんてレベルの話じゃない。火薬武器なら我が国にもあるが、当時の帝国が大量生産していた火薬武器はさして鍛えていない人間でも扱えるほど軽量化に成功していて、照準もエルグランドのものより簡単に合わせることができていた。それでいて飛距離も長い。そんな最新武器をドカドカ使われちゃ、勝ち目なんてゼロに等しかったってわけだ」
戦闘の玄人エドワードが、ここで一本、指を立てた。
「ここで問題だ。圧倒的に勝ち目のない敵に対し、負けないようにするにはどうすれば良いと思う?」
答えを知っている面々以外の全員が、黙考する表情になった。沈黙を十拍ほど数えた頃、上から声が落ちて来る。
〈確認するけど、エドワードさん。負けなきゃ良いんだよね?〉
「そうだ」
〈ふーん。じゃ、逃げる〉
世界の真理のように告げられた、カイの答え。考え込んでいた面々が虚を突かれた顔をして、上を見上げた。
シェイラがやや眉根を寄せて問う。
「今、何と仰いました?」
〈だから、『逃げる』だって。勝ち目のないヤツ相手に、取り敢えず負けなきゃ良いんだろ? だったら逃げるのが一番手っ取り早い〉
「ですがそれでは、相手に追われ追いつかれ、いずれ負けてしまうのではありませんか?」
〈すぐに追ってくるのなら、そいつの得意武器が最大の威力を発揮できない場所に逃げ込む。で、撒きつつ逃げ切るか、隙を見て狩る。追ってこないなら、ひとまず逃げ切った後で対策を考えれば良い。相手に有利になる武器を仕入れるとか、単純に自分の腕を上げるとかね。戦いなんか要するに、命があれば勝ちなんだから。昔の人も言ってるじゃん、『逃げるが勝ち』だよ〉
「……さすがね、カイ」
「さすがだが、俺はお前みたいなタイプとは戦いたくないな。相性が悪すぎる」
〈俺だってエドワードさんとは戦いたくないよ。真っ向勝負じゃ分が悪いもん〉
「ま、待て待て!」
ぽんぽん弾む部屋と天井裏の会話に、ついて行けなくなったらしいジュークが両手を前に出した。そのままエドワードに視線を固定する。
「戦える者だけで納得されても、話が見えん。要するにどういうことだ?」
「ざっくばらんにまとめりゃ、エルグランド王国は今まさに、仔獅子が言った『相手の苦手な場所に逃げ込みつつ、水面下で対策を進めている』状況なんだよ」
「交易を全面的に解禁して国際化を進め、あちらに国情が漏れに漏れている現状のドコがだ!?」
「……なるほど」
「やっと話が見えましたわね」
焦るジュークとは対照的に理解の声を発したのは、それまでずっと黙って話の経緯を追っていた、ライアとヨランダの幼馴染コンビ。何度も頷いている二人に、レティシアとシェイラが問い掛ける。
「私にはまだ、さっぱり見えていないのですが……」
「今の話のどこで、お二人はご理解されたのでしょう?」
「そうね。外つ国に近い二人には、見えにくい話かもしれないわ」
「あら。近さで言うのなら、レティとシェイラ様よりライア、あなたでしょう?」
「私は確かにスタンザ帝国民の血を半分受け継いではいるけれど、母はどちらかといえば帝国のあり様に批判的だったわ。――その母から話を聞いていたからこそ、エドワード様のお話に合点がいったのだもの」
「あぁ……そういうことですか」
ライアの言葉で、今度はキースの表情が変わった。ついで、彼には珍しく、面白がっているような笑みを唇に乗せる。
「そういう視点で見れば確かに、この現状はスタンザ帝国には最もありがたくないのかもしれませんね」
「スタンザだけではないわ。戦を仕掛けたい国にこんな対応を取られたら、大抵の国は面食らうでしょう」
「そうですね。まったく、こんな無茶苦茶な策を立てたのはどうせクレスター家でしょうけれど……思考が常軌を逸しているのは、今も昔も変わらないようだ」
「それ、褒めてんのか貶してんのかどっちだ、キース?」
「貶している……と言いたいところですが、残念ながら褒め言葉です」
褒められているようには感じないが、実は嘘が苦手なキースのことだから、心情的には褒めてくれているのだろう。苦笑いしつつ、ディアナはまだ疑問符を浮かべているシェイラとレティシアに向き直る。
「二人に聞きたいんだけど、例えば普通に道を歩いているときに、屈強な男性がか弱い女性をいきなり殴りつけたらどうなると思う?」
「そんなの……その男性が周囲から非難されて、捕まえられるわ」
「じゃあ、その男が『コイツが俺の財布をスったから、取り返そうとしただけだ!』って主張して、実際に女の人の懐から男モノの財布が見つかったら?」
「それだと……いきなり殴ったことは罪に問われるかもしれないけど、情状酌量の余地はあるかも」
「そう。――同じ理屈は、国同士でも成り立つの」
何もしていない、ただ自国内で平穏に暮らしているだけの国を、百パーセントの利己欲だけで蹂躙すれば、周辺諸国は黙っていない。世界にエルグランドとスタンザしか国が存在しないなら話は別だが、スタンザの他にも王国を欲しがっている国が複数存在する現状、大義のない安易な侵略行為は逆に周辺国へ〝正義の口実〟を与えて介入され、下手をするとスタンザが〝悪〟として劣勢へと追い込まれてしまうかもしれない。それではいくら強い武器があっても民の士気も上がらないし、戦を続けるのとて難しくなるだろう。
「スタンザ帝国がエルグランド王国を堂々と攻めるには、誰の目にも明らかな〝理由〟が必要になる。さっき言った、『財布をスられた』みたいなやつがね。なら、話は簡単。その口実を作らせなきゃ良い。表向きはとても友好的に、異国との交易を全面解禁にして、民の行き来も自由にする。どんなスタンザ帝国民だってエルグランド王国に来て良いし、逆にエルグランドの民がスタンザへ行くのも止めない。永住するとなるといくつかの調査と手続きは必要になるけど、それだって余程のことがなきゃ許可が下りないなんてこともないわ。ここまでオープンに迎え入れてくれる国に攻め入った場合、攻めた方と攻め入られた方、さぁどちらが批難されるかしら?」
「うわぁ……」
「なるほど確かに、これ以上ないほど攻めにくい……」
「この方針を全方位に適用することで、どこかの国が痺れを切らして攻めてきた場合、一時的とはいえ第三国を盾にできる構図を作ったの。複数の国から同時に狙われている状況を、最大限に利用したってことね。ちなみにこの策は、エルグランド王国がトコトン平和ボケしていて無害で、来るもの拒まずのお花畑だと信じ込んでいて貰えないと成り立たないから、周辺国のエルグランド王国への害意は一般にはひた隠しにされた。知っているのはそれこそ、『古の一族』を含むごくごく少数よ。もしかしたら、何かを察して様子を窺っている方はいらっしゃるかもしれないけれど」
「だからこそ、ウチみたいに国境沿いの領地を持ってる家は、面倒な小手先芸が要求されるワケだな。山向こうの奴らはたまにちょこちょこ斥候兵を送ってくるんだが、そもそも侵略の脅威を知らない体なんだから、真正面から排除するワケにもいかない。適当に裏から挑発して武器を出させてから、『山賊だー、追い払え!』って方向に持っていく一手間が追加される」
「『女神の山脈』の南端にあるのがクレスター領、北端にあるのがモンドリーア領ね。陸路の中では最も山向こうとの行き来がし易いルートだから、事情に精通していて多少の無理無茶無謀をしても問題になりにくい、この二つの家が国境を守護しているの」
同じことは海岸線沿いにも言えて、潮の流れなどによって異国船が辿り着きやすい港がある土地は、大抵『古の一族』と王家の領地だ。シーリア港のある、クレスター領メェール地方も地味にその一つだったりする。
ディアナの説明を静かに聞いていた、ライア、ヨランダ、キースの三人が、ほぼ同時に忍び笑った。
「前々から思っていたけれど、クレスター家って人が好いのか悪いのか分からないわ。――大方、野心と強欲さの権化みたいな本質の割には外聞を気にして、英雄の逸話と上っ面の正義を捏造している、代々のスタンザ帝王の人間性を織り込んだのでしょうけれど。それにしたってこんな作戦、人の心を悪魔的なまでに知り抜かなければ、とても思いつけない」
「というより、思いついても普通は躊躇するものよ。いわば、民全員を騙して巻き込む、壮大なペテンだもの。いくらいちばん勝率が高い策といっても、ねぇ?」
「睡蓮様、鈴蘭様に心底同意致します。時代は降れども、まさしく『軍師』の知略は健在というわけですね」
「……なんか現在進行形で語られたぞ。この策の大枠立てたのがひいひい爺様なのは確かだが、とうの昔に墓の下の人になったんだが」
「なんの。デュアリス様しかり、あなたも立派に受け継がれていますよ」
「父上と同列に語られると、ますます納得いかん……」
父デュアリスと系統は違えど、エドワードにも天才的な軍略が備わっていることはディアナも否定できなかったので、敢えてコメントは避けて話を戻すことにした。
「ついでに説明すると、この『表向きだけ友好な交易推進策』には他にも目的があって、一つはエルグランド王国そのものの国力と技術の自然な底上げ。進んだ技術の異国と交易すれば、否が応でも国のレベルは引き上げられるからね。二つ目は、内通者の自然な移動。尤もこれはお互い様だろうけれど、少なくとも外つ国からの間者に関しては、裏稼業の方々の協力もあってある程度把握できているわ。さっき陛下が『国勢が漏れに漏れている』と仰っていたけれど、実は外つ国の内通者が拾って持ち帰っている情報は、ある程度こちらで操れる。――諜報戦は、それこそ太古の昔から、クレスターのお家芸だからね。この半島で、ぽっと出の新参者に好き勝手されて黙っている我が家ではないのよ」
「へ……へぇ、そうなの」
「……エドワード様はもちろんだけど、ディーもやっぱりクレスター家の直系なのね」
「どういう意味か突っ込みたいけど、取り敢えず後にしとく。で、三つ目――いちばん重要な目的は、そうやって時間稼ぎをしつつ、いざ攻め入られた際にはしっかり追い払えるだけの軍事力を蓄えること。さっきカイが言ってた、『相手に有利になる武器を仕入れるとか、単純に自分の腕を上げるとか』は、まさにコレね」
「そんなことが……いったい何処で」
「もうしばらくしたら、陛下は王国全土の視察にいらっしゃるでしょう。その際、父が案内することになるかと存じます。現在の王国における最重要機密ですから、王国の『裏』を預かるクレスターが秘密裏に進めて……いるのですけれど」
一度言葉を切って、ディアナはもう一度、深々と息を吐き出した。
「そこまで突っ込んだ話は無理にせよ、少なくとも異国との自由交易の裏側にどんな策があるのかということは、やっぱり話しておいて欲しかったです……アルフォード様」
「いやまぁホラ……今話せたことで、一度に全部説明できて良かったじゃないか?」
「そもそも今日は、こんな話を改めて説明するために集まったわけじゃないんですよ。現状整理と、後宮の今後についての話し合いです」
〈じゃあ、そろそろ話を戻す?〉
面白がっていることがありありと分かるカイの提案だが、話を戻すことそのものは大賛成だ。室内からも、特に異論は上がらない。
「そうね。戻しましょう、話を」
話の主題は、再び時を降り――昨年春の、後宮へ。
ディアナのいない頃の後宮へと、戻っていく。
最初に、確かデュアリスさんからだったと記憶していますが「実はこの国今こんな感じで〜」と聞かされた際は、「そうか、大変だね! でも今は取り敢えず後宮のことね!」と横に置いておいた、エルグランド王国と諸外国とのアレコレ。風呂敷広げるにしても、せめてタイミングは考えようよ……園遊会すらまだだったよ、当時。
6年越しくらいでようやくお目見えできて、ひとまずホッとしております。




