議会、過去の亡霊の先には
長かった議会編、ディアナ視点ラストです。
しんと静まった議会場で、立ち竦んだココット侯爵の周囲だけが、どこか異様な雰囲気を孕んで見える。
がくがく震え出したココット候爵は、ゆっくりと周囲を見回して。
『ある一点』に焦点が合った瞬間、全てに絶望した表情を浮かべた。
「私、わたし、わたしは、あああぁぁ……!」
大きく揺れ、言葉にならない言葉を吐き出すココット侯爵から、先ほどまで仲間面していた人々が離れていく。そんな彼に近付くのは、見慣れた騎士服を身に纏う国王近衛騎士たちだ。
「はなせ! わたしはココット候だ! 由緒あるココット家の末裔であるぞ! 触れるでない、無礼な!!」
両手を振り回して暴れるココット候爵に、けれども国王近衛騎士たちは躊躇しなかった。間違いなくアルフォードの命令が降りている。
議席から引き離されるココット候爵を庇おうとする者は、誰一人としていなかった。同じ保守派としてつるんでいた者たちも……彼を便利に使っていたランドローズ侯爵も。
ハーライ、メルセス両侯爵と同じ場所に連れて来られたココット候爵は、怒りに満ちた目でディアナを睨みつけてくる。
「全て……全て貴様のせいだ、ディアナ・クレスター! 貴様が伯爵家の分際で、『紅薔薇』などになったから。いいや、『クレスター』の分際で、側室になろうなどという不相応な望みを抱いたから。――だから全てが狂ったのだ!!」
「控えよ、ココット!」
「黙れ! 我らなしには『王』では居られぬ若造が! 貴様は大人しく、我らの言い分だけを聞いておれば良いのだ。その粗末な頭で考えたところで、どうせろくなことは思いつかぬのだからな!!」
あり得ない暴言に、しかしジュークの瞳は凍り付く。一瞬で孤独と絶望に堕ちたその表情は、幼い頃から心を縛られ、誰にも『ジューク』を認めてもらえなかった彼、そのもので。
――今日いちばんの怒りが、瞬間沸騰するのが分かった。
「黙るのはあなたです、ココット候」
燃えるような怒りに支配されながら、ディアナの口から出たのは平坦な声だった。議会を見下ろし、ただココット侯爵だけを見据えて、ディアナは淡々と言い募る。
「わたくしのことは、どう貶めようと結構。『紅薔薇』の座所も『側室筆頭』の地位も、わたくしのような小娘には過ぎたものです。如何様にも仰ればよろしいわ。――ですが、」
いつの間にか、議会は静まり返っていた。広い空間で、冷たく蔑んだ風情の、文字通り『悪女』の声が隅々まで響いていく。
「この広大なる王国に住まう、数多の民を守り。我らの暮らしを、その未来までもを真摯に見つめ、導こうと日夜心を尽くしていらっしゃる。即位してから今まで、我らがジューク王が一度でも、民より己を優先させたことがありましたか。あなたのように、気に入らない存在など消してしまえば良いと、己の権で民を蹂躙なさったことがありましたか。――『ろくなことをしない』とはあなたのように、己の持つ『力』で嘆きの声を生むことを言うのです。古参の貴族家を背負う当主でありながら、そのようなことすら分からぬあなたに、陛下を侮辱する権利はありません。ましてやわたくしの前で陛下のお心を踏みにじるなど、赦されることではないと心得なさい」
それは。『クレスター』の片鱗を知る者にとって、何よりの。
今代国王が『クレスター』に認められたことを示す、雄弁な姿だった。
ヴォルツの瞳が感動で潤み、下ではエドワードが苦笑している。……本来ならこの台詞は、『エルグランド』との友情を繋ぐ兄が発するべきだと分かってはいたけれど、怒髪天を突き抜けてしまったディアナにはちょっと自制心が足りなかった。マグノム夫人の境地に至るには、まだまだ修行が足りない。
(……まぁ、陛下とお兄様には、表向きの繋がりはまだないし。わたくしの方が関わった時間は長いのだから、今回だけは譲って頂いても罰は当たらないわよね)
言いたいことを言い切って少し落ち着いたディアナは、とりあえず視線だけでエドワードに「申し訳ありません」と謝っておいた。即座に「気にするな」と返ってきたから、これはこれで良かったのだろう。
そして。驚いたようにディアナを見返してきたジュークに、ディアナは強く頷いて。
「少なくとも現後宮に住まうわたくしたちにとって、お仕えすべき『国王陛下』はただ一人、ジューク・ド・レイル・エルグランド様です。ジューク様を『王』に戴く我らが存在する以上、陛下の王権は揺るぎません。……古参貴族であることが『誇り』らしいココット候に、我らが『クレスター』の真理を捧げましょう」
堂々と、ディアナは告げる。幼い頃に地下室で出逢って以来、胸に刻まれている言葉を。
「民を『貴ぶ一族』だから、わたくしたちは『貴族』なのです。誰かから『貴ばれる』のではなく、自分たちから『貴ぶ』から、わたくしたちは貴族でいることができる。古参貴族が尊崇されるのは、その歴史の分だけ民を貴んできたから。――それを忘れた時点で、どれだけ肩書きが立派でも、あなたはもはや『貴族』じゃない」
受動ではなく、能動であれ。貴ばれる前に貴ぶ者であれ。
――貴ばれるのであれば、その存在ではなく行動が貴ばれる自己であれ。
初代クレスター伯、ポーラストが遺した、『クレスター伯爵家』の家訓だ。
貴族になるのを厭うたポーラストが案じていたのは、煩わしい貴族のしきたりに縛られること以上に、遠い未来に『貴族』の特権に溺れる子孫が出てくることであったという。『賢者』の力は使い方次第で、多くの人を不幸にする。戦乱の世を生き抜いたポーラストは、歴代『賢者』の中で誰よりも、その現実に直面していた。
己の知略が半島を統一した、その陰に。流された多くの血があることを、ポーラストは生涯忘れなかった。
『賢者』の力の恐ろしさを知って、その力に振り回される子孫が生まれることを危惧して、戒めの言葉をポーラストは遺したのだ。
何であっても構わないから。大切にできるものを見つけて、それを貴ぶ心を育てろと。
貴ばれることだけに満足して、『賢者』の力に溺れて、世界を混沌へと堕とす悪魔にだけはなるなと。
拠り立つべきは身分ではなく、『賢者』の力ですらなく、それで何を為したかなのだ――、と。
ポーラストの言葉は、彼の息子によってクレスター伯爵家の家訓となり。やがてできた伯爵家邸宅の地下室、その目立つところに掲げられる。
初めて地下室に足を踏み入れたクレスターの子どもたちは、まずポーラストの言葉と対面し、学びの中で彼の言葉の意味を悟っていくのだ。
地下室に入るより先に、町が、森が、己を取り巻く全てが『大好き』だったディアナにとってポーラストの言葉は、出逢った瞬間から自分を全肯定してくれる神様にも等しくて。学び育ち、その意味を理解するにつれ、会ったこともない大昔のご先祖様に共感と感謝を抱くようになっていった。
動いて良いのだと。大好きなものを素直に大切にして良いのだと。
ポーラストの言葉に励まされたから、ディアナはどんな絶望に襲われても、最後の一本を折らずに生きてくることができた。
――今、ここに立っても。その一本は絶対に折れない。
「『貴族』という存在を、あなたがどのように考えていらっしゃるのかは存じません。ですが少なくとも、あなたの持つ爵位があなたの為だけのものになり、その位が民や同じ貴族、果てには国王陛下までもを苦しめている以上、『ココット侯爵』に価値を見出すことがわたくしにはできないのです」
だから、私はあなたを貴ばない――。
無音の行間は、狂気に近い怒りを澱ませるココット侯爵に、奇跡的にも正しく伝わったらしい。
大きく目を見開いた侯爵は、次いで。
「ひっ。ひひひぃひひひひひひひぃひ……!!」
身の毛がよだつような甲高い声で、不気味に引きつりながら笑い出した。
あまりに異様な光景にディアナたち若者組が凍る中、一瞬の隙をついて、侯爵が騎士の拘束を振り払う。
反射的にエドワードが飛び出したが、ココット侯爵はその場から動かなかった。傲然と胸を張り、ディアナを見据えて口を開く。
「価値を見出せないだと!? 貴様らは何も知らんのだ。ほんの二十年ほど前まで、金にものを言わせた下賤な商人どもが、どれだけ王国の秩序を乱していたか。『民』を貴ぶことこそが『貴族』の誉れと、奴らを尊重し支援していた我々古参貴族に、あの下種どもがどのような手のひら返しを見せたのか。――あの時代、商人どもの横暴によって、どれだけの古参貴族が断絶の憂き目に遭ったのかを!!」
ディアナを指差す、ココット侯爵の言葉は止まらない。
「貴様の母の実家とてそうだろう! リアラー子爵家が途絶えた原因は、気概があると見込んで支援していた商人に裏切られ、財産の全てを失ったからだ。領地を維持する資産すら持てず、泣く泣く全てを王家に返上し、一人娘も『悪の帝王』に奪われて、貴様の祖父母は首を吊った!」
「止めろ、ココット候! 一方的な見方だけで、あの時代を若者たちに植え付けるな!」
「何故止める、どう間違っている! 貴様が保守にも革新にも付かず、王宮そのものからも距離を取っている一因に、リアラー家の悲劇がないとは言わせんぞ!」
「リアラーの断絶は、あの一族自らが選び取った運命だ。俺も妻も、あの一件で怨むべき相手などいないと分かっている」
「……ふん、綺麗事を。ならば何故、ありのままを子どもたちに伝えない? 貴様の娘も嫡男も、どうやらこの話は初耳のようだぞ」
誰に視線を向けるべきかも分からない。言い争うココット侯爵と父の間には、ディアナたち若者組には入り込めない『何か』があって。
少なくとも『嘘』だと断じないデュアリスの態度から、ココット侯爵の言葉が真実の一端であることは伺い知れるから。「リアラー子爵家は既になく、エリザベスの両親はエドワードが生まれる前に亡くなっている」という両親の説明も、侯爵の語る『真実』と矛盾はしないと思ってしまう。
思わず助けを求めるように兄を見て、厳しい色を宿した翡翠の瞳に「落ち着け」と諭される。ここで動揺して崩されては元も子もないと、エドワードは冷静に判断しているのだ。
子ども二人にちらりと視線を送って、デュアリスはゆっくりと口を開く。
「エドワード、ディアナ。……お前たちの母方の祖父母については、時期が来れば話すつもりだった。こんな風に騙し討ちで知らせるような形になって、済まない」
「いいえ、父上。他のことにはあっさりお答えになる父上と母上が、頑ななまでに話そうとなさらない『事情』だ。それだけで充分、何かあるのだろうなとは感じ取れます。それでも気になれば、自分たちで調べることは可能でしたが……お二人が知られたくないと思っていることを無理に暴くのも無粋だと、私たちは今まで敢えて触れなかった」
兄の言葉に、ディアナも頷く。母の生まれた家の名前は分かっているのだから、その気になれば調べるのなんて簡単だ。それをせず、両親からの『思い出話』として語られるのを待ったのは。二人の様子から、どうやら語りたくない、知られたくない事情らしいと、薄ぼんやりでも感じ取れたから。
真実の一端を知らされて。確かに『思い出話』で片付けるにはあまりにも重いと、ディアナはやるせない気持ちになる。
そんな子どもたちに、デュアリスは言った。
「間違えるな。ココット侯爵の見方はあまりに一方的に過ぎる。『クレスター』が王宮と距離を取っているのも、派閥争いに関わらないのも、リアラー家とは関係ない」
「分かっておりますよ、父上」
「えぇ、ご心配なさらないで。驚きはしましたが、侯爵の言い分を全て信じてはおりません」
……ただ、リアラーの祖父母が『首を吊った』部分だけは真実なのだろうな、と分かってしまうだけで。
議員席に座る貴族のほとんどは、デュアリスとココット侯爵が語る『あの時代』を知っているのだろう。……右側の貴族たちは剣呑な視線を左側に向け、それを受ける左も引く気はないようで、彼らの眼光を真っ向から受け止め睨み返している。
爵与制度が始まって、五十年と少し。……決して短くはない時間の中で、この国はどんな歴史を紡いで来たのだろう。制度の表面だけ、王国の産業経済が爆発的に発展した『光』の面ばかりに気を取られてはいなかったか。
一見落ち着いたようなココット候爵は、目だけが先ほどよりなお強い狂気の光に満ちて、ディアナを、エドワードを、デュアリスを……『クレスター』を刺し貫こうとしてくる。
「可哀想な娘よ。祖父母の無念も知らず、生まれながらの『悪』に支配され、本心では古参貴族を侮る貴族とも呼べぬ者たちに、嘲笑われながら担ぎ上げられていることにも気付かない」
「もう止せ、ココット候」
「シェイラ・カレルドが死に、そなたが王宮から、俗世から解放されることは、そなたの祖父母の望みでもあっただろうに。愚かにもまだ、踊り続けるつもりなのか」
「ディアナ、聞き流せ」
「王宮に巣くう『革新派』などと名乗る賊どもを殲滅してこそ、この国は真の繁栄を手に入れることができるのだ。――現に、この時代を見ろ。旧き良き風習は廃れ、新しい風という名でエルグランド独自の文化が軽視され、貴重な文化遺産の保護までもが蔑ろにされつつある。これほどまでに王国を壊す革新派を何故、古参貴族たるクレスター家の娘御が、『悲劇のリアラー子爵家』の色を受け継ぐ令嬢が、守らなければならないのだ。私は死を以てそなたをこの悪夢から解放しようとした。やがて時間が進めば、あのとき死んでいれば良かったと、後悔する日が来るであろう!!」
狂気に支配されたココット候爵の『予言』は、特別な感慨をディアナにもたらすことはなく。……ただ一つだけ、言うべきことがあるならば。
「いつかわたくしが、今日を後悔する日が来るとしたら。それは『死んでいれば良かった』ではなく、あなたのその言葉が、わたくしを助けるために駆けつけてくださった大切な友人たちを、無闇に傷つけてしまったことに対する後悔です。わたくしの祖父母が『商業主義』の犠牲者だと感じた心優しい方々が、わたくしの元から去ってしまうことに対する悔恨です。――『悪の娘』らしく非情なことを申し上げれば、会ったことすらない母方の祖父母の望みより、わたくしを好きになって友と呼んでくださる皆様との未来の方が、比べるべくもなく大切なのですから」
ディアナはちゃんと見ていた。ココット候爵が『リアラー子爵家の悲劇』とやらを語った瞬間、シェイラの、レティシアの、ソフィアの、他の側室たちの顔が悲愴な色に染まったのを。ライアとヨランダですら目を剥いて、気遣わしげに視線を送ってくれたことを。
本当にリアラー子爵夫妻が商人に裏切られて首を吊ったなら、同じ『商人』の娘である自分たちはディアナを傷つけるだけではないかと、優しすぎる自己否定に襲われて。家族が商業で生計を立てているのは罪でも何でもないのに、罪悪感すら覚えているようだった。
優しい優しい、友人たち。彼女たちを傷つけるような『祖父母の望み』なら、ディアナは要らない。母だって間違いなく、死んだ人間より今生きている人を大切にしなさいと言ってくれる。
「革新派が王国を壊すとか、『悲劇のリアラー子爵家』がどうとか、心の底からどうでも良いことですわ。わたくしはただ、大好きな人たちがいる場所を、そこで紡がれる何気ない日常を、いつかきっと辿り着けるであろう皆が幸福に笑う未来を、わたくしの我が儘で失いたくないだけです。皆様がわたくしを心の中では蔑んでいるなんてあり得ないって、分かっていますけれど。もし仮にそんな世界に迷い込んだとしても――」
言葉を切って、ディアナは笑う。……心の奥底から幸福だと、誰もが分かる笑顔で。
「己を蔑む相手は、憎まなければなりませんか? 傷つけられたらその分傷つけ返して、互いにぼろぼろになるべきですか? ……わたくしは、どれほどの侮蔑の中でも負けない強さが欲しい。悪意に負けて心を同じ悪意で染めるのではなく、何度折れても甦り、小さな優しさを、世界の美しさを見逃さないように。だってその方が、ずっとずっと幸せですもの」
世界を、人を、どこまでも慈しむ。彼女の祝福された魂はその瞬間、確かな輝きを纏って、その場にいる全ての人間の心を包み込んだ。
それは、まるで。――人間という存在を超越した、壮大な『何か』の片鱗のようで。
『ディアナ・クレスター』の本質を、理屈ではなく本能で感じ取るには、充分すぎる『一瞬』だったのである。
「あ、あ、ああぁ……」
がくりと膝を折り、ココット侯爵が脱力する。騎士に拘束されるまでもなく、ココット候爵の心が完全に挫けたのは明らかだった。
改心したのでも、己の罪を認めたのでもない。ただ大きすぎる『何か』を前に、『どう足掻いても『コレ』には勝てない』と絶望したという表現がぴったり嵌まる。
様子の変わったココット候爵を前に、デュアリスの態度も改まった。
「ココット候、改めて尋ねる。此度の一件、そなたが全て、裏で糸を引いていた。その事実に間違いはないか?」
「全ては王国のため。後宮の革新派閥をまとめて葬り去り、あるべき姿に戻してこそ、我が国は正しい道に進めるのだ」
「そのためにベルを通じてタンドール嬢を洗脳し、シェイラ嬢に危害を加え、『星見の宴』を通じて毒殺まで企てた?」
「殺せるとは考えていなかったがな。せいぜい毒の疑惑が持ち上がり、紅薔薇の動きが制限されれば良い程度だった。思った以上に上手くいって、紅薔薇が毒を口にしたと聞いたときは、運が私に巡ってきたと思ったのに……!」
「なるほどな。『星見の宴』の毒疑惑でディアナの動きを止め、その隙にシェイラ嬢を誘拐する作戦だったのか。最初から宴は囮だったわけだ」
『星見の宴』から誘拐事件まで全て計画されていたからこそ、敵方の動きがクレスター家でも察知しきれなかったのか。しかも、全ての実行犯は操られた革新派の三人。仮にソフィアの持っていた毒薬の瓶からココット候爵の関与を疑えても、もしもシェイラが誘拐されたまま殺されてしまっていたら、『指示』を記した紙もエクス鳥を呼ぶ鈴も、膳に毒が入っていたと示す錆びた銀簪も議会には現れず、これほど鮮やかかつ速やかにココット侯爵まで辿り着くのは不可能だった。
ココット候爵に踊らされたハーライ侯爵と、彼の口車に乗って動いたメルセス侯爵とユーノス騎士。そして調査報告書と処刑許可証に名前を書いた馬鹿どもだけなら、破滅に追い込むことはできただろう。しかし、これほどの重大事件を、罪の意識なく裏から操れる輩を野放しにしておくのは、どう考えても危険すぎる。
証拠を持ち帰ってきたシェイラの働きは、ディアナを救った以上に王国全体にとって大きい。
(欲を言えば。……ノーマードから一足飛びに、ランドローズ家まで迫れたらベストなんだけど)
しかし、シェイラが見た雰囲気では、ノーマードとリリアーヌは恋人同士のように思えたらしい。ノーマードが本気でリリアーヌを好きならば、たとえ捕らえられてもリリアーヌとの繋がりを自供することはないだろう。適当に話を作ってココット候爵とノーマードに親交があったことにしてしまえば、この件でリリアーヌを追い詰める道は絶たれる。さすがに王宮も、夜会のときに側室の一人が偶然見かけた『牡丹様』と赤銀の髪をした男の逢い引き、なんて証言一つだけを根拠にリリアーヌに手を出すことはできないはず。そんなことをしたら、『紅薔薇様の御ために』のスローガン的動機でディアナを捕らえたユーノスと、五十歩百歩になってしまう。
デュアリスの尋問にすらすら答えるココット候爵が、本当の意味での『黒幕』だなんて、おそらくデュアリスを始めとする味方陣営は誰一人考えていない。ハーライ侯爵を切り捨てようとしたココット候爵もまた、更に上にいる者の『尻尾』。今回の『調整役』を任され、証拠を携えてのシェイラの帰還という変則によって『失敗』が決定した彼は、己の信念ゆえに『上』を守り、自ら切られる道を選んだ。
おそらくは、あのとき。彼と目が合った、あの瞬間に。
(名実ともに過激保守派の筆頭……ランドローズ侯爵)
追い詰められたココット候爵を見る、ランドローズ侯爵の目は。温度も感情もない、ただ『無関係』な者を見る人間のそれだった。
ランドローズ侯爵の目を見て。ココット候爵は、無様に取り縋って保身に走る道を諦め、絶望したのだ。
裏で糸を引いていたココット候爵が全ての作為を認めたことで、議会の空気はがらりと変わる。
側室筆頭『紅薔薇』に謂われなき罪を被せようとした彼らの罪はあまりにも重く、議会はこのままココット候爵たちに対する審議に移るようだった。
「陛下。無実が明らかになった紅薔薇様と、誘拐されて心身共に疲弊していらっしゃるシェイラ・カレルド様に、これ以上議会に留まって頂く必要もございますまい」
「そうだな、モンドリーア。同じく後宮の者たちも、この度は誠に大儀であった。必要なことがあればまた追って近衛を向かわせるゆえ、皆、後宮に戻って休むが良い」
ジュークの言葉に、議会の広間を埋め尽くしていた女性たちが、一斉に美しい礼を取る。下の様子を見るに、ソフィアは引き続き後宮にて、見張りがついた状態で待機らしい。……洗脳も解けたし、ソフィアが何か血迷うことはないと思うけれど、建前的に見張りは必要ということだろう。
引き上げ準備にかかった側室たちの輪から離れ、ソフィアは一人、もう意識なくかろうじて椅子に引っかかっているようなベルに近付いた。その横顔からどうにか、何を言っているかが分かる。
「今までありがとう、ベル。ずっとずっと頼ってばかりでごめんね。……ベルがいてくれて、お兄様と三人で過ごした日々は、本当に幸せだった」
同じく、ベルの隣で座っているライノの手を、ソフィアはそっと取って。
「相思相愛なら、教えて欲しかったわ。ベルが本当の『お姉様』になってくれるなら、私は誰よりも祝福したのに。ときどきベルがお兄様からの手紙を読み返していたから、ベルはお兄様のこと好きなんだろうな、って何となく分かってたのよ? ……ごめんなさい。分かっていたのに、私が不安でベルと離れられなくて、『家に帰って、お兄様の傍にいてあげて』の一言がどうしても言えなかった」
ソフィアの瞳から、ぽろぽろ、ぽろぽろと、小さな粒がいくつも零れ落ちる。ベルとライノの手を、ソフィアはしっかりと繋ぎ合わせた。
「私、これから死ぬまで、アメノス様とイザノス様に祈り続けるから。二人がこんなことをしてしまったのは、私が我が儘を言ってベルを後宮に連れてきたからだわ。二人の罪は、私が一緒にイザノス様の御元まで持って行く。……だから二人は、お兄様とベルはどうか、女神様の懐で安らかな眠りを。――もう、二人が二度と、離れませんように」
ソフィアが心からの祈りを口にした、そのとき。ディアナは確かに見た。
もう自我なんて残っていなかったはずのベルの瞳に、光が戻り。その唇が、ぎこちなく動いたところを。
「――……」
確かに紡がれた、奇跡の言葉。ソフィアの目が丸くなったのと同時に、ベルの身体から全ての力が抜け落ちる。……ライノの身体も、ベルの後を追うように崩れ落ちた。
「ベル、ベル! お兄様、ベル、いや、二人とも!!」
王宮騎士、近衛騎士たちが駆け寄る中で、ソフィアの声がこだまして。
……後ろからかけられる声は、ディアナの耳には入っても、心までは届かなかった。
(どうして――!!)
どうして、喪われなければならないのだ。ベルとライノが、ソフィアの大切な人たちが、どうして。
罪を犯した、それは間違いない。けれど人間、生きる以上はどう頑張ったって間違える。間違えて、その度にやり直しながら、たった一度の人生を歩んでいくのが『ひと』ではないのか。間違えて、間違えたと気付いて、なのにやり直しの機会すら与えられないなんて。
(――二つで一つ、対の紋様。ひとを喰らう、伝承に語られるお伽噺)
当代『賢者』をして、『手を出すな』といわしめた紋様を。『ひとを喰らう』ことを承知の上で、もしも彼らに与えた者がいるのなら。
(……赦せない。そのひとだけは、私は絶対に、赦すことができない)
姿を見せない『敵』がきっと、ランドローズ侯爵の他にもいる。そいつに辿り着かなければきっと、本当の意味で、ディアナの大切な人たちに『未来』はない。
ソフィアの悲痛な呼び声が、議会から連れ出されるディアナの耳の奥で、いつまでもいつまでも反響していた――。
† † † † †
国中の貴族家当主、後宮の女たちが議会に集まり、がらんとした王宮内。
その人気のない隙を狙ったかのように、一人の男が王宮内の奥深く、秘められた中庭へと、その姿を見せていた。
「おぉ、リリアーヌ様……!」
「男爵、お会いしとうございました!」
特徴的な赤銀の髪をなびかせ、男は庭で佇んでいた娘としっかり抱き合う。どこにでもいる侍女の服に身を包んだ少女はしかし、その立ち居振る舞いから高貴さを滲ませていて。
小柄な身体を震わせ、彼女は言った。
「男爵……お身体の具合はいかがです? 最近寝込むことが増えたと」
「あぁ、リリアーヌ様は本当にお優しい……。あなた様とお会いできるこの好機を、身体の不具合などでふいにはできません」
そう語る男の声は掠れ、頬は痩けて。自慢の髪だけは何とか整っていても、全体を見れば病的なまでにやせ細っていた。
健康的な肌艶がなくなった顔の中で、目だけがぎらぎらした光を放っている。
「我が愛しの姫よ……本当に申し訳ございません。手駒の出来が悪く、あなた様を苦しめる者どもを、あと一歩のところで取り逃がしてしまいました」
「何を言うの。手駒を操り、革新派に大きなひびを入れたその手腕、お見事でした」
「ひめ……」
「これでどう足掻いても、ソフィア・タンドールを中心とした『紅薔薇派』の高位側室たちは後宮には居られないわ。配下を守れなかったあの女も、大きな顔はできなくなる。……あたくしが盛り返す機会を与えてくださって、ありがとうございます」
少女を腕の中に抱き込んだまま、男はとろけるような笑みを浮かべる。
「そのお言葉だけで。その言葉、だけで……!」
「……けれどね、男爵」
ふと。少女の声から、温度が消えた。
男も察していたのだろう。腕をほどき、少女と向かい合う。
「リリアーヌさま……」
「あの忌々しい女は、もう既に、あなたにまで辿り着いている。……そして証拠はなくとも、あたくしとの繋がりも確信しているわ」
「存じております。どこから漏れたのか……見張られていると教えられましたゆえ」
「議会が終わると同時に、あの者たちはあなたに魔手を伸ばすことでしょう。――もちろんあなたが最期まで、あたくしを守ってくださることは知っていますけれど」
その可憐な顔を、悲哀に染めて。少女は懐から――。
「あなたが、あの下賤な者どもによって辱められることだけは、あたくしには耐えられないの」
小さな瓶を取り出して、そっと男の手に落とした。
誰が見ても、どう見ても。その中には、ひと一人の命を奪えるだけの力を持った液体が収まっている。
それは、男にも分かるはず――、なのに。
「あぁ、我が姫よ!」
瓶を握る男が浮かべたのは、歓喜。……いいや、ここまでくればそれは、『狂喜』と呼ぶに相応しい。
「誰よりも誇り高く、どこまでも慈悲深い! あなた様のために死ねるのならば、これほどの幸福がありましょうか!!」
「男爵……」
「リリアーヌ様。あなたに命を捧げられますこと、このノーマード、至上の幸福にございます」
「あたくしも、あなたにお会いすることができて、本当に嬉しいわ」
秘められた中庭で、二人の男女はゆっくりと見つめ合い――。
「では、私の姫よ。一足先に私は、ラーノスの御元へ参ります」
男は小瓶の中身を、一息に呷った。
その喉が上下したのを確認して、少女は今まででいちばん美しく、幸せそうに笑う。
「男爵……どうぞ、そのままお帰りになって。オルティア邸に帰るまでは、ご自分の意志で身体を動かせるでしょうから」
「リリアーヌさま……」
「ありがとう、あたくしを愛してくれた人。……幸福な幻想を見たまま、永久にお休みなさいませ」
音もなく、一度だけ。二人の唇が重なって。
陶酔の表情で、男は庭を去っていく。
侍女の服を着た少女は、その後ろ姿が見えなくなるまで見送って――。
「――これで、よろしかったのね?」
『はい。あの薬は徐々に効果を発揮し、やがて眠るように息をしなくなる。ノーマードが『駒』たちと同じように命を削る『道具』を使っていたことは、クレスターの者たちも察しているでしょうからな。自宅で亡くなっているのを見たとしても、これで『道具』に命を奪われたと思わせることができる』
「こんなくだらないことのために、いちいちあたくしを呼び出さないで」
『申し訳ございません。我々としても、あの男がここまで精神崩壊せずに保ったのは想定外でして。……あなた様に再びお会いするためだけに、自我を保ち続けていたのでしょう。あなた様に手渡されたのでなければ、あの薬もあっさり飲みはしなかったかと』
「都合の良い男だから、構い続けてあげたけれど。下賤なカレルドの小娘すらも葬れないのだから、結局使えなかったわね」
先ほどまでの甘さなど、もはや欠片もない。娘はくるりと踵を返した。
「ここにもう用はないのでしょう? 早く部屋に戻って、この屈辱的な布を脱ぎたいわ」
『かしこまりました』
「……紅薔薇の座は、目前だったはずなのに。あたくしはいつまであの場所で、『牡丹の間』に甘んじなければならないの」
『ココット、ハーライ、メルセスは失いましたが、まだあなた様を盛り立てる者は大勢おります。一方『紅薔薇派』にとって、タンドールを失う痛手は大きい。巻き返す余地はございますよ』
「そうね。あの女が正妃の座を望むのであれば、なりふり構っては居られないけれど。……本当に物好きだわ。『紅薔薇の間』を与えられながら正妃を望まず、他人に譲ろうとするなんて」
『それが、クレスターの小娘の甘いところ。その甘さにつけ込めば、崩すことはこれからも可能です』
「我ら古参の者が、王国を真の姿に戻すために。あたくしはどうあっても、正妃にならなければ」
強い口調で言い切って。
『牡丹の間』側室、リリアーヌ・ランドローズは、足音もなくその場を後にした――。
個人的に、リリアーヌさんの目の覚めるような悪女っぷりは嫌いじゃないです。
感想欄で頂いたご質問と、今日の更新話についてのお話を少し、活動報告にて述べております。あんまり途中で注釈挟むのは好きじゃないんですが、お時間ある方はしばしお付き合いください。