議会、最後のカード
まさかのソフィアさんのターンです。
思っていたよりも、ソフィアの足取りはしっかりしていた。ミアとユーリは付き添いこそしていたが、ソフィアを支えてはおらず。彼女は自分の足だけでゆっくりと歩き、黙って道を開けた側室たちの間を抜けて――。
「ベル、お兄様……」
証人席の横に置かれた椅子に座る、腹心の侍女と兄の姿に一瞬動揺したものの、足元をふらつかせることなく国王席の真下へと辿り着いた。
そのまま、ソフィアはゆっくりと頭を下げ、正式な貴族の礼を取る。
「宰相閣下に、ご挨拶申し上げます。タンドール伯爵が娘、ソフィアにございます」
議会が、静寂の中で揺れた。
頭を下げられたヴォルツは、ソフィアの顔はもちろん知っていただろうけれど、この場に現れるとも考えていなかったはずだ。驚きながらも『日和見宰相』の外面に相応しく、表向きは何も感じていないかのように軽く眉を動かすだけに留め、ソフィアを見下ろす。
「ほう。先程から何かと、取り沙汰されていたな」
「当然でございます。シェイラ様を後宮より連れ去り殺害すべく、人員を集めたのは兄。王宮内の手引きをしたのは、我が侍女ベルだと聞きました。私自身も、後宮ではこれまで幾度も、紅薔薇様にご迷惑をお掛けした存在。――無礼を承知でお尋ねします。渦中にいるはずの私が何故、証人として議会に召喚されぬのですか?」
顔を上げたソフィアの瞳は、これまで見たことがないほどに澄んで、凪いでいた。『星見の宴』で見えた、あの狂信的ともいえるぎらついた面影は、今はもうどこにもない。
静かなソフィアの言葉に、ヴォルツは少し笑う。
「確かに。そなたの行動について紅薔薇様の責を問うのであれば、そなたの言葉も聞く必要がある」
「……私の行動に関する、紅薔薇様の責?」
ソフィアが真顔で、罪人席にいるディアナを見つめてきた。彼女の意図が読めないまま、ディアナも無言で見つめ返すことしかできない。
そんなディアナに何を思ったのか、ソフィアはほんの僅か、苦笑った。
「この議会は、シェイラ・カレルド様の誘拐を企てたとされる、紅薔薇様の断罪であると伺ったのですが。そちらのお話は済んだのですか?」
「後宮の調査と、シェイラ・カレルド嬢が持ち帰られた証拠によって、紅薔薇様の無実は証明されている」
「……紅薔薇様の無実が証明されているのであれば、議会の目的は果たされているではありませんか。なのに何故、『責任』などというお言葉が出てくるのです?」
「紅薔薇様本人は関与していらっしゃらなくとも、実行犯のライノとベルはタンドール家に連なる者であり、その家から側室に上がったそなたもまた、後宮にての振る舞いが問題視されておるのだ。そなたは『紅薔薇派』の実力者であり、そのそなたを抑えることができなかった責について、今話し合われている」
話し合いって何だったっけ、と遠くを見たくなるくらいには、議会の空気は物騒ではあったが。言葉での応酬であったことは事実なので、ぎりぎり話し合いの範疇だろう。
実に簡潔なヴォルツの説明に、ソフィアはふわりと微笑んだ。
「後宮での振る舞いが問題視されているのは、紅薔薇様ではなく私ですのに。その私の責は問われず、無実のはずの紅薔薇様についての責任問題が持ち上がるとは……外宮の皆様は、是が非でも紅薔薇様に泥を被せたいのですね」
「な……!」
ソフィアの指摘に、保守派だけでなく、中立派と革新派も言葉を失って彼女を見た。怒りからではなく……あまりに明快な本質の指摘に、虚を突かれたのだ。
追い込まれたココット侯爵が、苦し紛れにディアナの『責任』なんてものを持ち出したのも、言ってしまえばディアナを瑕疵のない『紅薔薇』ではいさせなくするため。現『紅薔薇』にも非はあると、誘拐には無関係であったとしても自派閥すら抑えられない小娘に正妃の資格はないと、この場にいる貴族たちに印象づけるためだ。保守派にとっての完全な『敗北』は、ディアナがこのまま一足飛びに正妃に登り詰めることだろうから。
ディアナが敢えてココット侯爵の煽りに乗ったのも、そもそも正妃になるつもりが欠片もなく、現『紅薔薇』である己の評判がどう動こうと、特に問題ないと思ったからだ。まさかジュークやヴォルツが、ココット侯爵の虚言を真に受けて、後宮でのあれこれの責任をディアナに被せるなんて真似はしないだろう。所詮苦し紛れのごまかしだと思ったからこそ、侯爵の言葉を受け入れて油断させ、彼がうやむやにしようとした『誘拐事件の主犯は誰か』について、話を戻そうと思ったのだけど。
(いやまさか、シェイラはともかく、お三方にまで本気で怒られるとは思わなかった……)
仮にポーズであったとしても、ディアナが貶められるような真似は許さないということか。皆忘れているようだけど、ディアナはもともと『クレスター家の娘』として悪評が山積しており、それが一つ二つ増えたところで今更なのだが。後宮の側室として現『紅薔薇』への侮辱は許さない、という意味合いなら分かるけれど、さっきの発言はどう解釈してもディアナ個人に対してだった。
というか、自らの悪評と引き替えに敵を確実に仕留めるのは、もとからクレスターの専売特許なのだ。それをあんなに怒らなくても。
ちょっと過保護じゃないかなぁ……と友人たちについて考えていると、そんなディアナを観察していたらしいソフィアが、どこか呆れたような視線を向けてきた。
「紅薔薇様はあの通り、己がどうなろうと最終的に『めでたしめでたし』で終われば問題ない、くらいに考えるお方です。世界の幸福のためには心血を注がれることを躊躇われませんが、ご自分もその一員だという自覚はすっぽりと抜けていらっしゃる。守られながら、救われながら、私たちがその場所でどれほど歯がゆい想いをしていたかなんて、想像してすらくださらないのです」
(あ、れ?)
話の雲行きがおかしい、と思う間もなく、ソフィアの言葉は止まらない。
「八つ当たりであることは百も承知で申し上げますわ。私が紅薔薇様のお言葉を聞き入れることができず、己が信じる正義のままに悪事を積み重ねた一因は、確かに紅薔薇様ご本人にもございます。――だって、ディアナ様は放っておいたら、ご自分の幸せなんてそっちのけで周囲に幸福を与えるだけ与えて、煙のように消えてしまいそうな危うさをお持ちなんですもの」
私どもを救ってくださった方に、誰よりも幸せになって頂きたいと思って、何がいけないのですか――。
堂々と言い切ったソフィアに、ディアナはついに、黙っていることができなくなった。
「あの、少し落ち着いてください、ソフィア様。お気持ちは大変ありがたく思いますが、先ほどから皆様、いろいろ誤解なさっているように存じます」
「……誤解、でございますか?」
「わたくしを立ててくださるのは嬉しいのですけれど、実際のところ、わたくしは皆様が思うほど、殊勝な気持ちで後宮と向き合っていたわけではありません。こうなったのはなんと言いますか……八割成り行きというか」
「ディアナ様は成り行きに身を任せただけのおつもりでも、救われた私たちからは、そのようには思えないのです」
「それに、周囲に幸福を与えて自分はいつの間にかいなくなるなんて、ドコの妖精さんですか。わたくしも俗な世間に生きる人間の一人ですので、人並みに欲もありますし、我が儘も言いますし、それなりに幸せになりたいとも思っていますよ?」
「残念ながら、ディアナ様の欲望ほど他人に迷惑をかけないものはありませんし、我が儘とて可愛いものですし、あなたの求める『幸せ』の基準は低すぎて、一般とは乖離しているんです!」
「本人がそれで満足なんだから、良いじゃないですか!」
「だったら最初から、どうなるのが望みなのか、ちゃんと仰ってください。あんなに堂々と派閥の頂点に君臨されたら、そのまま正妃になりたいのかなって思い込んでしまいます!」
「必要があったから堂々としていただけです! 確かに具体的な望みを口にしたことはありませんでしたが、正妃云々については……」
言い掛けて、そのまま言葉が尻すぼみになる。ソフィアたちと最後にまともに話した茶会での会話を、今更ながら思い出して。
(そういえば……『正妃』は陛下が愛している女性がなるべき、みたいな話はしたけども……)
「言っておりませんでしたね……。わたくし自身が『正妃』という地位を、欲しているのかどうかについては」
「伺っておりません。それどころかあの仰りようですと、他人の幸せのために紅薔薇様はお心を殺して身を引かれるのかと、勘違いしてしまいます」
「そもそも、殺すような心がないのですが……」
「なら、最初からそう仰ってくださらなければ」
言いたいことは分かるが、あのときは(実は今も)『紅薔薇と仲良し、正妃はどうしよっかなー』作戦の真っ最中のため、ぼかすしかなかったこちらの事情も少しは汲んでもらいたい。……と言えばおそらく、「ならそれも含めてちゃんと言え!」と怒られる予感しかしないので、ディアナは大人しく頷いた。
「わたくしの言葉が足りなかったところは、確かにあったと思いますけれど。少なくとも後宮でのあれこれについては、わたくし、かなりはっきりと申し上げましたよ?」
「はい。あのときのお言葉を、お言葉のまま受け取ることができなかったのは、全て私の浅はかさゆえにございます。……そもそも、年が明けてから、卑怯にもシェイラ様を苦しめた私の行動全ては、私が愚かであったから。ディアナ様――紅薔薇様に責任など、あろうはずがありません」
ディアナに話しているようで、その実議会全体に訴えている、ソフィアの話運びは上手い。過激なところが目立つソフィアではあったが、彼女が『紅薔薇派』で実力者と言われていたのは、己の主張を分かり易く他者に伝える話術に優れているからだ。議会という『聞かせる』力が求められる場所は、まさにソフィアにぴったりの舞台といえる。
ソフィアは、静かに息を吸い込んだ。
「己の罪は、償わなければなりません。ですが、私はその前に――紅薔薇様に一言、謝罪申し上げたいのです」
「……わたくしに謝らなければならないことが、ソフィア様にはおありなのですか?」
「謝らねばならぬことばかりですわ。ディアナ様の本当のお心を見誤り、私は随分と遠回りをいたしました」
「わたくしの、本心?」
「――はい」
ゆっくりと、ソフィアは笑う。
「側室筆頭『紅薔薇』となられたディアナ様は、『紅薔薇派』をまとめ、陰日向に私たちを守ってくださいました。最初こそ後宮の覇権を握るためかと思いましたが、半年もそのお姿を拝見すれば、ディアナ様が権力ではなく安寧を求めていると分かります。なのに……私は、その『理由』を間違った」
「理由、ですか?」
「ディアナ様が後宮に安寧をもたらしたのは、他の誰でもない、陛下のためだと。陛下を想われるがゆえに、ディアナ様は苦しみにも耐えていらっしゃるのだと」
「えっと……」
ありのまま生きて誤解曲解がパレードするのが『クレスター』の本領とはいえ、さすがにこんな健気な勘違いをされたことはない。気まずくなってついジュークの方を伺うと。
「紅薔薇……そなた普段、私とのことをどのように話しているのだ?」
さすがに呆れているらしいジュークに、可哀想なものを見る目で眺められた。素直に額に手をやって、ディアナは深々とため息をつく。
「話しているというより、取り立てて話題にしてはおりません。陛下との個人的なあれこれを吹聴するわけにも参りませんし」
「そうやってそなたが勿体ぶるから、タンドールの娘は余計に誤解したのではないか?」
「特に苦しんでもいなければ、耐えてもいないのですけれど……」
「私との仲がある程度知られているのに、本人から話が出なければ、その差異に周囲は戸惑うだろう。噂で聞くほどそなたは幸せではないのかもしれぬと、心配する気持ちも分かるぞ」
「こうしてお話もしますし、お手紙もこまめにやり取りしておりますし、ごくごく普通のお付き合いをしております、よ?」
「今言ってどうする」
「……申し訳ありません」
表向きは謝ったが、内心は「色恋関係の周囲の反応なんざ知るか!」と逆ギレしたい気持ちでいっぱいだ。ディアナとしては、礼拝を期にようやく分かり合った国王に対し、彼との仲を大切にしたいがゆえに、軽々しく話題には出さないようにしていたつもりだった。……全力で逆に捉えられるなんて、誰が想像するだろうか。
気心知れた間柄特有のやり取りに、議会の空気が少し和む。ソフィアが微笑んだ。
「確かに、ディアナ様のお心を見誤った要因の一つは、ディアナ様のお言葉やお振る舞いかもしれませんが。私に限って申せば、それはほんの一因に過ぎません」
「そうなのですか?」
「はい。私が、ディアナ様は本心では、陛下と結ばれ名実ともにお隣に並ばれたいのだと、そう思い込んだのは……」
そこで言葉を切り、ソフィアはふっと表情を消して、証人台の横に座るベルを振り返った。
「ベルが、そう言ったから……なんて。理由にもなりませんが」
「ソフィアさま……」
「――ベルは、タンドール領に住まう、小さな商家に生まれたと聞いています。ですが、小さい頃に流行病で家族を亡くして……独り遺されたベルを哀れに思った父が、使用人として彼女を引き取り、幼い頃から兄と三人、本物の兄妹のように育ったのです」
……ますます、ベルの境遇がリタと被る。リタも孤児だったらしい。
「私が物心ついたときには既に、ベルは私の遊び相手として、いつも傍にいてくれました。幼い頃からベルは他人の機微に聡くて、大人たちの機嫌の善し悪しを上手に感じ取っていた。私は単純で、見たまま聞いたままを受け取って疑問にも思わないことが多いのですが、表に出さない人の気持ちをベルが察してくれるおかげで、友人たちとも深刻な軋轢を起こすことなくやって来られました」
ソフィアが単純明快な性格をしていることは、今更言うまでもないだろう。言葉の裏の裏まで深読みする貴族社会ではさぞ生き辛かろう、と感じたことも一度や二度ではなかったが、ベルが補佐役を担っていたのか。
「知らないうちに、私はベルに頼り切っていたのです。ベルの言葉に間違いはないと、ベルが言うのだからそうなのだと、何の疑問もなく思い込んで……ベルの秘めた想いに、気付くことができなかった」
「ソフィア、さま」
「ベルが、『降臨祭から戻られて、紅薔薇様はますますお美しくなられましたね。陛下ともお心が深く通じ合われたようで、本当におめでたいことです』と言って、私はそれを信じました。『紅薔薇様は陛下を想われておいでなのに、陛下のお心の在処が見えずに、不安を感じていらっしゃるようです』と言われ、『紅薔薇様はきっと、陛下のお心が自分にないと確信されたなら、黙って身を引かれる覚悟をお持ちでしょう。ですがそれで、紅薔薇様は幸せなのでしょうか』とまで、言われて。……単純で浅はかな私は、ディアナ様の障害を排除しようとしか、思えなくなってしまったのです」
物心つく前から一緒にいた、姉妹にも等しい存在。他者の心の機敏に疎い己を、いつも助けてくれた『姉』。
そんな人に、大切に想う人の苦しい胸の内を吹き込まれたら、ディアナとて本人に確かめる前に、信じ込んでしまうかもしれない。
――それに。
(ベルがソフィア様に吹き込んだ『本心』は……まったくの的外れ、ってわけでもない)
ディアナ自身、自覚なんて欠片もなかった。降臨祭から戻って、「より美しくなった」なんて評判が己について回っているなんて、考えてすらいなかった。
ジュークと、降臨祭をきっかけに、心が通じたことは事実だ。……けれど、あの十日間を通じて互いの心を見せ合ったのは、ジュークだけではない。
(手を伸ばせば、掴んでくれるひと。いつだって、いちばん欲しい言葉を、欲しいときにくれる。――無意識に諦めかけていた『未来』すら、何でもないことみたいに、掌に乗せてくれた)
『――いつか、行こうよ。『ショウジ』と、それを使った家と、その町並みを見に』
言われて初めて、知った。その未来に焦がれながら、けれど叶うことはないと、思い込んでいた己を。
彼は気付いているだろうか。――「大切な人たちの幸せを守り続ける未来も悪くない」と、自分でも知らない間に殺そうとしていた、広い世界を求める『心』を。あの、たった一言で、掬い上げてくれたのだということを。
憧れのまま、想像のままで終わるはずだった、『見たことのない世界』は。当然のように「見に行こう」と誘われたあのとき、ディアナの確かな『未来』になった。
今にも降ってきそうな、満天の星空の下で。ディアナの未来は無限に広がったのだ。
(希望を抱いて、未来を見据えて。……だからこそ怖くなる日も、きっとあった)
現実はいつだって、思うままには動かないから。『約束』が果たせる日はいつになるのか。それまで……本当に彼は、待っていてくれるのか。待ちくたびれて、ディアナの知らないどこかへ、行ってしまうことはないか。そうなってしまったとしても、ディアナに彼を引き留める術なんかない。
彼を想う『心』を、まるで自覚していなかったから。その不安すら、感じていたはずなのに気付かなかった。けれど、思い返せば確かにあった心の揺らぎを、鋭いらしいベルに見抜かれたのだとしても……反論はできない。
無意識の、奥底で。ディアナが想っていたのはジュークではないけれど、確かに想うひとがいて、辿り着きたいそのひととの『未来』に、どこかで不安を感じていたのは事実なのだから。
「……ディアナ様?」
ソフィアに呼びかけられ、ディアナはゆっくりと、首を左右に振った。
「……わたくしが至らなかったのですね。己の心すら知らず、律することもできぬまま、ベルに誤解を与えてしまった。ベルが誤解してしまったから、ソフィア様もわたくしの心を見誤ったのでしょう?」
「いいえ、ディアナ様。どうかお間違えなさいませんように。たとえベルが誤解したとしても、その言葉を信じ込んで動く前に、私がディアナ様にきちんとご本心をお伺いすれば良かったのです。そうすれば……こんなことにはならなかった」
ソフィアは静かに踵を返し、議会の中央へと進んでいく。
……いつの間にか、議会は耳が痛くなるほどに、静寂が支配していた。
目に見えない無音の壁を打ち破るように、ソフィアは大きく息を吸い込んで。
「ディアナ様の本心を見誤った私は、間違ったまま進みました。たとえそれが『罪』だとしても、それでディアナ様が幸せになってくださるならと、シェイラ・カレルド様を暴力で以て排除することに躊躇いなんて少しもなかった。……たとえシェイラ様が私どもの主張に頷いてくださったとしても、誰かを犠牲にする『幸福』をディアナ様が望まれるわけがないという当たり前のことさえ、言われるまで気付かないまま」
「ソフィア様……」
シェイラが静かに、ソフィアの名を呼んだ。振り返って、ソフィアは少し笑う。
「愚かで、短絡的だったのです。私に外宮の方々を非難する権利なんて、最初からあろうはずもございません。――だって、」
言葉を切ったソフィアに、何故だか胸騒ぎがした。……彼女を止めなければと、予感が叫ぶ。
止めようと口を開くディアナの間合いを、けれどソフィアは完璧に読んでいた。
「私は確かに、シェイラ様が死ねば良いと思ったのです。ディアナ様の幸せを邪魔してのうのうとのさばるばかりの女など、後宮にもこの世にも必要ないと思って。……死ねば良いと思って、殺害するために動きました」
「ソフィア様!!」
『被告席』と議場の距離が、憎い。どうして自分の居場所がここなのだ。
ソフィアが『何』を証言しようとしているのか、分かってしまったから。――『それ』は彼女を追い詰めるばかりで、誰一人救ってはくれないのに。
それ以上は話さないで、と祈りを込めたディアナの声は、確かに届いたはずなのに。下にいる誰も、ソフィアの言葉を遮ろうとはしない。
「シェイラ様を憎んで、死ねば良いとまで思い詰めた私でしたが、ひと一人を殺せるだけの技能がそう易々と身につきはしません。シェイラ様に危害を加えたところを陛下とディアナ様にも目撃され、監視の目も厳しくなって鬱々とした毎日を過ごしていた私に、ある日ベルが言ってくれたのです。『とあるお方の協力で、毒薬を入手することが叶いそうです。『星見の宴』の膳になら名札が付いているので、確実にシェイラ・カレルドを狙い撃つことができましょう』と」
「ソフィア様、もう」
「ベルは真実、そのように動いて。宴の前に毒薬の瓶を入手し、池の魚で効果を確かめてから、シェイラ様の膳に置かれた食事全てに中身を注いだと報告してくれました。それでも毒薬は瓶にまだ残っていたので、万一失敗したときのことを考えて、宴の間は私が瓶を隠し持つことにして。……陛下が私たち側室のために開いてくださった『星見の宴』を、凄惨な殺人現場に変えようとしたのです」
ディアナはついに、その場に留まることができなくなった。振り返って下に降りようとした彼女に、厳しい声がかかる。
「どこへ行くつもりだ、ディアナ」
「決まっているでしょう。議会にお邪魔して、ソフィア様をお止めするのです」
「今のお前は『被告』だ。――そこを、動くな」
「お父様!!」
完全に『当主』の声で告げられた命令に、ディアナは悲鳴に近い声を上げる。
「この議会の目的は、もう既に果たされているではありませんか。この上ソフィア様に、皆様の前で話して頂くことなどないはずです」
「それを決めるのはお前じゃない。陛下であり宰相閣下であり――この場の裁量を任された、我らクレスター伯爵家だ」
「ならば何故、ソフィア様を止めてくださらないのです!」
「――彼女の言葉が必要なものだと考えるから。他にどんな理由がある?」
議会にいるデュアリスは遠くて、ディアナより低い位置にいるのに。『当主』として決して譲らない瞳をしたデュアリスの存在感は半端ではなく、その深く鋭い翡翠の眼差しに見据えられただけで、ディアナは身動きが取れなくなる。
泣き出しそうになったディアナに、デュアリスはゆっくりと言い募る。
「最初に言ったはずだぞ。『不満もあろうが、ここからは黙れ』と」
「そんな……」
「タンドール嬢の言葉を遮ることは許さん。……分かっているはずだ。どれほど取り繕ったところで、『真実』が消えてなくなることはないと」
重い、重い、デュアリスの言葉。……分かっている。ディアナにだって、本当は。
たとえ操られた結果だとしても。ソフィアがシェイラを殺すために、毒薬の瓶を懐に忍ばせて、毒が入っていると分かっている膳を食べさせようとした、その現実は揺らがない。ディアナが命をかけて毒殺騒ぎを『なかった』ことにはしても、心に殺意を抱いて毒を飲ませようとした事実までは消せない。
計画が成功しなかったソフィアは、結果だけを見れば誰の命も奪っていない。……けれど、だから彼女に『罪』はないのかと問われたら。
(殺人未遂だって、証拠が揃えば立派な罪状になる……)
ソフィアの殺意を、そこから生まれた殺人計画実行の事実までもを隠蔽するなと、デュアリスはディアナに釘を刺しているのだ。……確かに、『寵姫誘拐事件』の本当の発端はここにあるのだから。
俯いて止まったディアナを確認したのだろう。デュアリスの声が響く。
「娘が失礼した。続きを、タンドール嬢」
「感謝いたします。クレスター伯爵様」
ソフィアの声は穏やかで。本当にデュアリスに感謝しているのだと分かる。
一方、突然とんでもないことを告白された議会の貴族たちは、驚きのあまり返す言葉も見つからないようだった。
皆が固唾を呑んでソフィアの次の言葉を待っている様子が、沈黙から伝わってくる。
「計画通り『星見の宴』にて、シェイラ様に毒入りの膳を食べさせようとした私でしたが、それは上手くいきませんでした。――他ならないディアナ様によって、くい止められたからです」
議会から大きなどよめきが上がった。のろのろと顔を上げると、ソフィアが苦笑とともにシェイラを見つめている。
「あのときシェイラ様は、膳の前から動かれることなく、同時に膳に一切の手をつけようとなさらなかった。……毒が入っていると、ご存知だったのでしょう?」
「正確には、『毒』とは聞き及んでおりませんでした。ただ、誰よりも信頼できる方から『膳に手を付けないでほしい』と懇願されまして。あのひとがあれだけ鬼気迫った声で仰るのですから相当のことだろうと、きっと命に関わる大事だろうと考えたまでです」
「シェイラ様が膳を食される気配をお見せにならなかったから、私は直接、シェイラ様に膳を勧めるという行動に出ざるを得ませんでした。……そしてそれを、ディアナ様に止められた。ディアナ様もシェイラ様と同じく、私どもの浅はかな行動を見通していらっしゃったのですね」
喉が詰まって、言葉が出せない。うっかり息を吸い込んだが最後、子どものように泣き叫んでしまいそうだ。
ディアナの返事は最初から期待していなかったらしい。ソフィアはそのまま続ける。
「ディアナ様はうっかり転けたフリをして、シェイラ様の膳をひっくり返すことでシェイラ様を毒から守って。――それだけでなく、その後に起こった『毒』そのものへの疑いを、自ら地に落ちたシェイラ様の膳を食されることで杞憂だと証明なさったのです。あのお肉はメインのお料理でしたから、ベルも念入りに毒を振りかけたはず。正直に申し上げて、何故ディアナ様が生きてこちらにいらっしゃるのか、私はとても不思議です」
ソフィアの問いには、くつくつ笑うデュアリスが答える。
「曲がりなりにも三百年続く旧家を甘く見てもらっては困る。毒如きで殺されていては、あっという間に当家は断絶していたことだろう」
「……壮絶な歴史をお持ちなのですね」
「とはいえ、そう簡単に毒の効力から抜け出せるわけでもないが。宴の夜、ディアナは毒の効果に苦しんで、一晩中人事不省の状態だったはずだ」
「えぇ、そうでしょうとも。ディアナ様の幸福のためにと動いたはずが、どういうわけか私はそのディアナ様のお命を危険に晒した。その現実が恐ろしくて受け入れられなくて、あの夜は生きた心地がしませんでした。……毒薬を入手したのはベルです。ベルならもしかしたら解毒薬についても知っているかもしれない。一縷の望みに縋ってベルを呼んでも、一向に姿を見せてくれなくて。そうして夜が明けて――ディアナ様が無事でいらっしゃることと、ベルがディアナ様のためにとシェイラ様誘拐に荷担したことを、マグノム夫人から教えられました」
ソフィアは淡々と、時系列に沿って、己の罪を告白した。驚愕だけが議会を埋め尽くす中、ソフィアは懐から手のひらサイズのガラス瓶を取り出す。
「先ほどからお話ししております、毒の瓶がこちらです」
大きく揺れた議席とは対照的に、中央の女たちは動じない。……予定、していたことなのか。『毒殺騒ぎ』の告白は。
ソフィアの手に握られたそれは、綺麗なピンク色のガラスに細かな細工が入った、一目で上質な品だと分かるものだ。形は綺麗な流線型。……ぱっと見た感じ、毒薬の瓶というよりは。
「美しい品でしょう? 事実この瓶は、本来なら人を殺す薬が入れられるものではなく、女性を美しく魅せる化粧品用に使われるものなのです」
ソフィアの説明に再び、後宮の側室たちが頷いて。――マグノム夫人が進み出る。
「ソフィア様がお持ちの瓶について、侍女たちに尋ねましたところ。……マーシア・ココット侯爵令嬢様付きの王宮侍女が青い顔で、『どちらにその瓶がありましたか!?』と申しました。何でも彼女はマーシア様の化粧品の管理を任されているのですが、先日ご実家から『宴用に』と届いた化粧品のうち、宴の準備をする際にそちらの瓶だけが見当たらず、ずっと探していたそうなのです」
ココット侯爵を睨みつける、マグノム夫人の言葉は止まらない。
「それだけではありません。瓶の紛失について管理不行き届きを責められた侍女は、マーシア様より直々に、『国王陛下もいらっしゃる宴の場にて、ちょっとした余興を披露できたら、今回は見逃してあげる。……もしも宴の場で、シェイラ・カレルドの膳がダメになるような事態が起きたら。池の横にうち上がっている死んだ魚を池に投げ入れて、せいぜい見苦しく騒いでみなさい』と命じられたそうなのです」
背筋がぞっと寒くなった。――では、『星見の宴』で池に浮いていた魚は。あの魚を見て、悲鳴を上げた侍女は。
後宮にいる娘のために、実家が支度を整えて荷物を送るのは普通のことだ。ディアナだって今回の『星見の宴』では、『ノーラン商会』含む実家に全面的に甘えた。何もない平時にいきなり化粧品が送られてきたなら『変だ』と思えても、宴の準備に紛れて届いた品々までは、優秀な侍女や女官、後宮近衛とて警戒し続けることは難しい。……その隙をついて、ココット侯爵がマーシア宛に毒入りの化粧瓶を送り、それをマーシアがベルに渡したということか。タンドール伯爵令嬢付きのベルがマーシアに好感情を持っていたとは思えないけれど、オレグを操っていたノーマードがココット侯爵とも繋がっていたとしたら、顔を合わせることなく物品だけをやり取りする方法なんていくらでもある。
自分で瓶を手放しておいて。それを気に病む真面目な侍女を追い詰め、『毒』の疑いを演出した。毒を入手したのがココット侯爵なら、それをベルに渡す役目を負ったマーシアも当然事情は把握していたはずで。
――つまり、これは。
「ココット侯爵様。私の愚かな殺意に応え、この毒薬を準備してくださいました件について、事情をお伺いできますでしょうか。侯爵様は先ほど、後宮における一連の騒ぎの責任は、側室筆頭『紅薔薇』であるディアナ様にもあると仰ったとか。――後宮の安寧を守るため、己の命も顧みずに毒を口になさったディアナ様と、その毒薬を入手し後宮まで届けた侯爵様。どちらに責があるのかは、申し上げるまでもないと思われますが」
「馬鹿を言うな!!」
真っ赤な顔で、侯爵が叫ぶ。盛大な音量に、しかしソフィアは怯まない。
「何がどのように『馬鹿』なのでしょう? 侯爵様は最初から、私がシェイラ様を邪魔に思っていると、殺意すら抱いているとご存知だった。それ故にわざわざ、毒薬を入手してくださったのでしょう?」
「なるほど。ココット候が『星見の宴』における毒薬入手にまで絡んでいたということは、そもそもの始まりである『『紅薔薇過激派』による『寵姫』への攻撃』も、ココット候の意図という証明になるな」
一切の接点がないタンドール嬢の殺意にココット候が気付くなんざ、最初から裏で糸引いてないと無理がある――と付け足して、デュアリスは実に面白そうに笑った。
「何だ。『寵姫誘拐』の主犯ってだけじゃなく、その前の『寵姫イジメ』も結局ココット候の差し金ということか。ついでに、『星見の宴』を利用して『寵姫』を毒殺しようとした謀にもしっかり絡んで。――早い話が、年が明けてからの『紅薔薇過激派』の暴走全部、そなたが後ろにいたってわけだ」
「違う! そ、そもそも『星見の宴』での毒殺騒ぎなど、これまで触れられてすらいなかったものを、何故突然言い出したのだ!」
「侯爵様が、ディアナ様の責任問題を持ち出されたからでしょう? 責任の話をするならば、側室筆頭『紅薔薇』として己が命を楯に後宮を守られたディアナ様は、充分にその責任を果たされた。私はそう証言したのみにございます」
「黙れ、タンドールの小娘! 罪人の分際で、よくもまぁぬけぬけと」
「罪人ゆえに、申し上げているのです。本来ならあの『被告席』に座るのは、ディアナ様ではなく私だった。私はベルの主であり、ライノの妹であり、ライノの友人であるオレグ様とも顔見知りにございます。そして実際、シェイラ様を毒殺せんと謀った。シェイラ様の誘拐だけは存じませんでしたが、兄とオレグ様が実行犯を集め、ベルが手引きした犯罪の咎が私にないなどとは申せません。侍女の監督不行き届きの責とて、本来ならばディアナ様の前に私が被るべきものではございませんか?」
明朗なソフィアの声はよく響き、論点のはっきりした主張は聞く者の耳と頭に明快に届く。ソフィアの『聞かせる力』はこれほどまでに強力で、なのにそれを間違った方向に走らせてしまったことが、返す返すも無念でならない。
(……時間は、戻せないけれど。もしもわたくしが、『紅薔薇派』ができたその瞬間から、心を尽くしてソフィア様と向き合っていたら。派閥争いなんて面倒くさいなんて思わずに、ソフィア様の声の後ろにある嘆きを拾い上げていたら)
どうせ誰も自分のことを分かってくれない。そんな風に拗ねずに、最初から全力でぶつかっていれば。ライアたちと同じようにソフィアとも、お互いに本心を言い合える仲になれたかもしれないのに。……そうすればきっと、こんなことにはならなかった。
湧き出る後悔を、身勝手な涙を、ディアナは歯を食いしばって堪える。……ここで泣くのは、全てに対して卑怯だ。
理路整然としたソフィアの言葉は、ココット候爵を確実に追い詰めて。追いつめられている当人も、徐々に逃げ場が無くなっていることは察しているのだろう。大きく首を横に振った。
「突然出て来た毒殺未遂など、信憑性の欠片もない! そのような事件があったのなら、何故先ほど説明しなかったのだ!」
「今回の議題が、『紅薔薇様によるシェイラ・カレルド様の誘拐及び殺害について』であったからです。その件についてのみで議会が閉会するのなら、ソフィア様にわざわざ出て頂く必要はございませんでした。――『星見の宴』における毒殺未遂事件について語らざるを得なくなったのは、ココット候爵ご自身が、一連の事件における紅薔薇様の責任について追求されたゆえですよ」
冷静なマグノム夫人の解説は、一言でまとめれば『ココット候爵の自業自得』に尽きる。何が何でもディアナを貶めようとした結果、後宮側も『最後の切り札』を出さざるを得なくなったということか。
確かに『星見の宴』に関して言えば、ディアナは膳への毒の混入について事前に察知し、関係各所と連携して事件を引き起こさないように尽力した。『毒』の疑いが持ち上がったときには、自ら膳の食事を口にするという賭をしてまで後宮の平穏を守ろうとした。――そこだけを見れば、後宮の秩序を守る『紅薔薇』の責任を十二分に果たしたと言える。
しかし。そうやって『なかった』ことにしたからこそ、『星見の宴』の毒殺未遂事件は双方にとって、どんなカードにもならないはずだったのに。……まさかソフィアが、後宮の皆が、その暗黙の了解を破ってまで、ディアナを庇おうとするなんて。
庇われたディアナにとっても、――最後の一撃を受けたココット候爵にとっても。この『切り札』は想定外だった。
何度も何度も首を横に振り、ココット候爵は喚く。
「でっち上げだ! 紅薔薇の何が良いのか、私には理解できないが。そこの女どもは紅薔薇に洗脳され、ありもしない毒殺未遂をでっち上げて、紅薔薇の武勇伝を創作しているだけだ!!」
「ほぉう? タンドール嬢が毒の入った瓶を持っているにもかかわらず、そんな苦し紛れの言い逃れを考えるか」
「たとえ、その瓶の中に毒が入っていたとしても。その毒が真実シェイラ・カレルドの膳に入っていたという証拠はないだろう!」
「――いいえ」
可憐に、強く。ココット候爵の喚きを、シェイラが否定する。
怒りに目を光らせて、シェイラは一歩前へ進み出た。
「あのとき、私の膳には確かに、毒が混入されておりました。それを示す、物的証拠がございます」
「……なん、だと?」
呆然とするココット候爵と、固唾を飲んで事の集結を見届けようとする貴族たちの前で、シェイラが高々と掲げたのは。
「こちらは宴当時、ディアナ様が身につけていらした銀簪です。細い簪は抜けやすかったようで、ディアナ様が私の命を救おうと膳を破棄された際、御髪から抜け落ちたと思われます。――抜けた簪は地面に落ちた食事の中に紛れており、偶然私が見つけて拾いました」
それは。たとえ何が起ころうと、もう自分を偽ることはしないと決めて、『星見の宴』に挿していった……シェイラから貰った『雪の月』の簪だった。
落としたことすら知らなかったディアナは、ただ呆然と、シェイラが掲げる簪を見つめることしかできない。
シェイラは手に持った簪を、ずっと横にいたデュアリスに手渡す。
「伯爵様、どうぞご確認ください。一度も使われたことがない、新品同然の銀簪には、所々不自然に錆びている箇所があるのです」
「ふむ、拝見する。……なるほど、確かに錆びているな」
「銀が錆びる要素はいくつかございますが、あの日の宴は星見が趣旨でしたので、銀の装飾品を身につけられるご側室も多いだろうというマグノム夫人のご配慮により、銀が負ける要素は宴から極力排除していたそうです。宴が始まってからずっとディアナ様が身につけられ、抜け落ちた後は私が保管しておりましたので、その簪に錆びる機会があったとすればあの一瞬――私の膳に盛りつけられていた食事と一緒に簪が地面に落ちたときしかありません」
シェイラが話せば話すほど、ココット候爵の顔色が、赤から青へ、青から白へと変わっていく。
既に崖の先まで追い詰められたココット候爵に、もはや逃げ場はどこにもない。
トドメの一言を、シェイラは放つ。――ココット候爵と、議会全体に向けて。
「膳にももちろん、銀が錆びる要素はなく。にもかかわらず落ちた食材によってこの銀簪が錆びたのだとしたら。あのときの私の膳には、マグノム夫人の配慮にはない『銀が錆びる要素』――即ち『毒』が混入されていたと。この錆びた銀簪は、それを証明してくれます」
シェイラの言葉を引き継ぐように、後宮の女たちが進み出た。
「この毒の瓶は、マーシア様のご実家から送られてきたもの。それは、マーシア様付きの侍女が証言いたしました」
「同時にその侍女は、死んだ魚を池に投げ入れ、『毒疑惑』を引き起こした張本人でもあります。……それも、マーシア様のご命令で」
「つまり、この毒はシェイラ様を狙うと同時に、『毒疑惑』を持ち上げてディアナ様を窮地に追い込む卑劣な策でもあったのですね。ソフィア様がシェイラ様に勧めていた膳の中に毒が入っていたなんて疑惑が持ち上がれば、『紅薔薇派』をまとめる立場のディアナ様が苦しまれる。それを見越して魚を投げ入れるよう、マーシア様……いいえ、ココット候爵は命じられた」
冷たいのにどこか激しい、『名付き』三人の言葉が空気を染める。今の三人を支配しているのは、紛れもない怒りの感情だ。
「後宮内部で毒殺なんて騒ぎが起これば、外宮を巻き込んだ大騒動になるのは明らかです。それを避けられるため、責任感の強い紅薔薇様ならば、命をかけて『毒疑惑』を消し去ろうとすることも、きっと侯爵は予想していらしたのでしょう。紅薔薇様が毒で人事不省になり、後宮全体が浮き足立っているその隙をついて、今度こそ確実にシェイラ様のお命を消し去るために、誘拐を仕組まれた。ご丁寧にそれすらも、実行犯は別に立て、ご自身は一切表に出ないように細心の注意を払って」
淡々と話すマグノム夫人は、感情を一切排除しているからこそ、『感情を乗せてはいけない』という自制心が働いているとよく分かる。いつも冷静で有能なマグノム夫人は、その実フィオネの頼み一つで女官長なんて大役を引き受けてくれるほど情に厚い人で、その強靱な精神力の裏側に豊かな感情を宿していることを、ディアナはもう知っている。母とは違う方向で、しかし確かにこの時代最高の貴婦人の一人に数えられるべき女性。
そんなマグノム夫人が、今。己の全てをかけて、ディアナを陥れようとした者と対峙してくれている。
「オレグ様、お兄様、……ベルの、心を操って。ディアナ様がご正妃様になりさえすれば、全てが上手くいくなんて幻想を吹き込んだ。そうして三人に植え付けた『紅薔薇様への期待』を『ディアナ様の指示』なんて欺瞞にすり替えて、シェイラ様の誘拐も殺人すらも、何の罪もないディアナ様に負わせようとなさったのですね。――あなたがそこまでしようと思った、その原動力はどこにあるのですか」
問いかけるソフィアの声には、怒り以上に虚しさがあった。殺意を胸に毒を手にしたソフィアは、実際に殺したかどうかは関係なく、気持ちの上ではもう人殺しだ。……だからこそ彼女は今誰よりも、他者を犠牲にして得る幸福ほど虚なものはないと、実感できているのかもしれない。
――全てのカードが揃った今、ココット侯爵の敗北は決定した。
ソフィアさんは、典型的な「裏読みができない上に言葉キツいから敬遠されがちだけど、打ち解ければ心から信頼できる友人になる」タイプです。固く信じ込んだものをちょっとやそっとのことで翻さないのは、やはりタンドール家の血筋ですね。
次回でようやく、ディアナ視点での議会編は一区切りします。