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悪役令嬢後宮物語  作者: 涼風
いちねんめ
110/235

閑話その32〜『王』と呼ばれる男の心〜


ここから始まる、一人の男の後悔と自省、そして再出発のものがたり。

『彼』視点でここから三話続きます。


 シェイラがカイによって助け出され(眠らされていたシェイラは日付の感覚を失っていたが、まだ『星見の宴』翌日である)、『紅薔薇処刑』の報に激怒して後宮に帰ろうと動き出した、その日の夜半――王宮では。


「待たせたな、アルフォード。……行こう」


 遠く離れた場所で、さり気なくシェイラからやつ当たられていたこの国の王、ジューク・ド・レイル・エルグランドが、側近のアルフォードただ一人を連れて、密かに動き出していた――。



  ***************



 生まれながらにして、彼は。この国の『王』だった。


『殿下。殿下はいずれ、この国の頂点に立たれるお方です。偉大なる我が王国に相応しい、立派な君主となられることこそ、殿下が為すべき最大の使命なのですよ』


 物心ついたときから……いいや、おそらくは物心つく前から、繰り返し繰り返し言い聞かされてきたそれは、幼い彼の心を縛るに充分過ぎるものだったのだろう。

 父は、国王。母は、建国以来唯一続く公爵家、モンドリーアの姫。

 その二人の血を引いた彼、ジュークは間違いなく、この国で最も高貴な存在であり――『歴史』と『血統』を重んじる古参保守の貴族たちにとっては、下手をすれば父王以上に、由緒正しい『王』であった。

 何しろ、母の実家であるモンドリーア公爵家といえば、『第二の王家』と名高い、エルグランド王国屈指の大貴族。公爵家は代々、特に自分たちの立ち位置を明確にすることはないが、その存在の特殊性から、古参貴族たちの重石となるのはどうしても避けられない。当主の主義主張は別として、古参保守の一員と見なされるのは致し方ないことだ。

 そんな家から王家に嫁いだ『姫』を母に持つ、ジュークは。生まれる前から、保守派にとっての『希望』だった。


 彼が生まれた頃、内務省が保守の色に染まり出していたのも、要因の一つだったのだろう。王太子の世話をする乳母、担当する女官、侍女、侍従から教育係に至るまで、ジュークの周囲は保守派で固められた。それも、周囲に偏りを悟られないよう、表立っては派閥に加わっていない者ばかり。

 父王と母妃が、息子の偏向に気付いたときは、既に手遅れだった。内務省の保守派は、王や妃ですら王太子の教育に口を出せない体制を、構築していたのである。

 ――だから。


『民の言葉に、下らぬものなど何一つない。――王とは、民のためにある存在なのだから』


 あのときの、父の言葉は。数少ない機会の中、必死に伝えようとしてくれた大切なことだと、今のジュークには分かる。


 幼い頃のジュークにとって、王宮とは決して居心地の良い場所ではなかった。自分を無条件で慈しんでくれる両親とは滅多に会うことができず、日々の世話をしてくれる者たちは、ジュークの態度が『王』に相応しくないと判断すると、無表情で一切の会話に応じない。たまりかねたジュークが謝って『もうしない』と誓えば、『これも殿下のおためにございます。お分かり頂けてよろしゅうございました』と優しく微笑みかけてくれる。

 ジュークは早い段階で、自分を取り巻く大人たちに逆らうことを考えないようになった。言われたことを淡々とこなし、それ以外のことはしない。教師たちはジュークが上手にできれば褒めてくれるが、逆に自分たちに従わないことをひどく嫌った。自発的に先を予習することすら、彼らは『王の独断は、ときに国を傾けます』と叱る。疑問を口にすることも――ましてや、彼らの教えに反論することなど、できるはずもなく。

 彼らの望み通りに振る舞えば、彼らは優しいまま。それならば、逆らうよりは従っておいた方が、傷つかずに済む。


 成長し、社交デビューしても。

 次期国王として、少しずつ政務に携わるようになっても。

 誰を受け入れ、誰を重用するか……。決めていたのは、ジュークではなく、ジュークの周囲。

 その頃には、人から言われるまま動くことに、ジュークは何も感じなくなっていた。

 社交の場でも、政務室でも。所詮求められているのは、『物分かりの良い王太子』。

 誰と付き合ったところで、求められるものは変わらないのなら、側に誰が居ようと同じことだと、抑圧された意識の片隅で、思っていたのかもしれない。


 それでも――たぶん本当は、分かっていた。『このままではいけない』と。

 だから、あれほど動揺したのだ。


 ――父が、亡くなって。


『殿下! 陛下がただ今、ご崩御あそばされました。――今より殿下は、我が国の王となられるのです。なんと、すばらしい!!』


 ほとんどの貴族は、民は、知らないだろう。父王の病床に、ジュークは侍ることを許されなかった。会うことは少なくとも、親子の時間を過ごした記憶すら曖昧でも、確かに父として、王として尊敬していた人の死に目に、ジュークは立ち会うことができなかったのだ。


『偉大なる国王陛下のご崩御を、『すばらしい』とは何事だ! 貴様、今すぐその首、不敬罪で跳ねられたいか!!』


 あのとき報せを運んできたのは、彼に長く仕えた侍従であったが、激怒したジュークはおそらく生まれて初めて、彼も含めた側仕えの者たちを全員、部屋から叩き出した。

 独りになった部屋の中で、ジュークは父の死に慟哭し……己に回ってくるものに気付き、足元が抜けるような恐怖に襲われる。

 そう。初めて、玉座を意識したとき。ジュークが感じたのは、紛れもない恐怖だったのである。


 王とは民のためにある存在だという、父の言葉を覚えていたわけではない。

 ただ、おそらくジュークは、教師たちの『王とはこの国における至高の存在』という言葉も、無意識下では信じていなかったのだろう。

 国の歴史を、歴代の王の足跡を学べば、自ずと分かる。歴史上、『賢王』と呼ばれたのは、どのような王だったか。百五十年前の『アズール内乱』で、当時の王が玉座から降ろされたのは何故か。

 民をより多く救い、国を豊かに発展させれば、良き王。逆に圧政を敷き、民を苦しめて死へ追いやれば、悪しき王として討伐の対象になる。

 国の行く末が、数千万の民の命が、ジュークの両の手にあって。その舵取りを、任される。

『エルグランド王国』を背負う者。――それが、『王』なのだと。


 父王の死は、良くも悪くもジュークの環境をがらりと変えた。王太子だったジュークには教育係がついたが、『王』にそんな者がいては示しがつかない。

 これまで王太子だったジュークに仕えていた者たちは、全員別の場所へ移動となり。父王に仕えてくれていた者たちが、引き続き『王』であるジュークの世話をしてくれることになる。

 そして――教育係の代わりとなる『側近』として、ジュークのもとへやって来たのが、新しく組織された『国王近衛騎士団』の団長である、アルフォード・スウォンだったのである。


『これより私は、陛下の剣であり、陛下の盾。我が忠節は、陛下と王国に』


 儀礼に則り『新王』に跪いた『団長』は、これまでのジュークの教育係たちとは、何もかもが違っていた。

 まず、滅多なことでは口を開かない。ジュークから話しかければ答えてくれるし、配下の近衛騎士たちと軽口を叩く場面も見られたから、無口というわけではなさそうだが。普段はいつも、静かにジュークの背後に控えている。

 正直最初の頃は、見張りを兼ねているのだろうと思っていた。教育係たちと同じように、彼も『物分かりの良い王』を望む者たちと繋がっており、ジュークがそれに外れる振る舞いをすれば、彼らに筒抜けになるのだろうと。

 しかし、あるとき。喪に服している期間にもかかわらず『そろそろ正妃様をお決めにならなければ……』と繰り返し進言してきた内務省の者に、彼は厳しい態度で言い放ったのだ。


『おそれながら。先王陛下の突然のご崩御を受け、痛む心を抑えながら、王として日々格闘していらっしゃる陛下に対し、それはあまりにも惨いお言葉ではございませんか。先王陛下の喪も明けぬうちに陛下の婚姻を進めようとは、陛下のお心も王家の尊厳も省みぬ暴挙。それは貴殿の個人的ご意見か、それとも内務省全体のご意向か。後者ならば、我ら国王近衛は、陛下をお守りする者として、内務省に正式に抗議せねばなりません』


 国王近衛騎士団の団長に睨まれ、その内務省の者はすごすごと退室していった。

 二人きりになった執務室で彼は、『僭越な振る舞いを致しました』と頭を下げた上で、こう言ったのである。


『陛下のお身体と同じに、そのお心もお守りすることこそ、近衛の本分でございます』


 儀礼でしかないはずの、『剣と盾』の言葉。それをこの団長は、本気で果たそうとしてくれている。

 彼はジュークの見張りではないと、信じることができた瞬間だった。


 信じる者ができたことで、ジュークは少しずつではあったが、自分の意志を言えるようになった。政務の場では、『王』の意見を求められることも多い。迷うことは『悪』だと教えられていたから、完全にその場その場の即断即決ではあったが、父が亡くなって一年も経つ頃には、自分でも少しは王らしくなれたのではないかと思えるようになっていた。

 そんな彼を叩き落とすような案件が――。


『後宮、だと?』

『はい、陛下。国中より、王家に嫁ぐことを望む未婚の令嬢を募り、後宮にてしばしのご滞在を願います。陛下は気が向いた頃に後宮へおいでになり、心惹かれるご令嬢がいらっしゃれば、その方と仲を深められればよろしいかと』


 一時はアルフォードが撃退してくれた『正妃を決めろ』という声は、父が亡くなって一年が過ぎる頃、再び大きくなった。喪も明けたし、もういいだろうということか。

 家族で過ごした記憶は少ないジュークではあったが、両親の仲の良さは、短い時間でも感じ取れていた。父は母を心の底から愛して敬い、母は父を尊重して支える。ジュークにとって、夫婦の理想はまさに両親。

 自らの妻となる、女性だけは。『好きにしろ』とは言えなかった。


『本当に愛する女性が見つかるまで、私は結婚しない』――そう言い続けたジュークに業を煮やした内務省による、苦肉の策。それが『後宮』なのだと、ジュークにも飲み込めた。

 この提案を受け入れれば、少なくとも『正妃を決めろ』と煩く言われることはなくなる。そう安直に考え、『勝手にしろ。但し私に、『後宮へ行け』と催促しないことが条件だ』と言えば、内務省の高官は『心得ました』と頷いて。


 自らの我が儘を通し、煩わしさから逃れるためだけに交わした、あのやり取りが。

 どれほどの嘆きと哀しみを生み出してきたのか――つい先日まで知ろうとすらしなかった自分は、本当に罪深い。


 後宮が開設されたところで、もちろんジュークに、足を向ける気はさらさらなかった。正妃狙いで媚を売りに来た女どもの顔など、見たいはずもない。

 去年の社交シーズン中に、後宮の告知がなされ。春に開設されてから、ぞくぞくとやって来る貴族令嬢。歴史上、どれだけ『正妃候補』が集められても五人までだったのに、気付けばジュークの後宮は五十人近い数にまで膨れ上がっていた。

 ここまで来れば、内務省とジュークの、意地の張り合いのようなものだ。次に『側室』に選ばれるのはどこの娘か――そんなことを考えていた、初夏のある日。


『クレスター伯爵令嬢だと!?』

『陛下、どうかお心を鎮められて、話を』

『聞くまでもない! あの悪名高い一族の娘を、そなたらはよりにもよって、『紅薔薇の間』へ迎え入れようと言うのか!!』


 四百年以上の歴史を誇る大国ともなれば、貴族の中に一つや二つ、きな臭い動きがある家が出てくるのは仕方のないこと。そう前置きされた上で、幼い頃から聞かされてきた『クレスター伯爵家』の噂話は、正義を愛する真っ当な少年の怒りを呼び起こすに充分だった。


『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』――それが、彼らに与えられた二つ名である。

 クレスター家に爵位が与えられて、優に三百年。その間ずっと尻尾を掴ませることなく悪事を続け、莫大な財を為した。その人脈と手口は代が変わろうとも受け継がれ、今では王国全土にまで、彼らの根は蔓延っている。

 稀に運良く彼らの尻尾を掴むことができても、彼らにとってそれはあくまで『尻尾』。切ってしまえば害はないとばかりに切り捨て、決して本体の暗黒が明るみに出ることはない。

 下手に手を出せばこちらが危うい、正義を全うする者にとっては怒りしか覚えない存在。

 それが、『クレスター伯爵家』――。


 初めてその話を聞いたとき、思ったものだ。何故そのようなあくどい者に、爵位を与えたのかと。

 代々悪事を重ねているのに、何故捕らえることができないのかと。

『尻尾』として切り捨てられた者は、彼らに報復しなかったのかと――。


『それら全てを退けられるからこそ、彼らは『帝王』として恐れられているのです』


 教育係の言葉は、社交デビューし、現クレスター伯を遠目に確認して、理屈抜きで実感できた。あれほどの悪い顔、ちょっとやそっとではお目にかかれない。

 そして。重臣たちが入宮の打診をしに来たのは、そのクレスター伯の娘である。

 認められる、わけがなかった。後宮が開設されて初めて、ジュークは重臣たちに抗議した。

 ――だが。


『陛下。クレスター伯を盛り立てる者は、内務省にも多くおります。伯のご令嬢の入宮は、彼らの後押しによるもの。……今、彼らに離反されては、(まつりごと)が立ち行きません』


 有能な宰相でさえ匙を投げる事態と知り、受け入れることしかできなかった。


 ――今なら、分かる。基本後宮には関わらなかった宰相が、何故あのときだけ、一歩も引かず『クレスター伯爵令嬢』の入宮を承諾させようとしたのか。

 クレスター伯爵の『取り巻き』からの、圧力があったことは事実だろう。けれど、それ以上に。

 彼が希望を託せる存在は、彼女しかいなかったのだ。


 花の名を持つ後宮の部屋のうち、唯一空いていた『紅薔薇の間』。そこに、『クレスター伯爵令嬢』はやって来た。入る前から『中央掌握を狙って、クレスター家がとうとう動き出した』と囁かれ、ジュークもついに後宮を無視できなくなる。

 勝手なことをするなと釘を刺すつもりで、『紅薔薇の間』を訪れた――あの日。


『どうぞ、ご随意に。陛下のお心は、陛下のものですわ。誰を愛するかなど、それこそ周囲に決められるものではありません』


 静かに微笑んで言われた言葉に、確かにジュークは動揺した。

 真正面から見た、彼女は。確かに男を弄ぶ悪女に見える。目は細く切れ長で、小生意気に上を向いた鼻も、真っ赤な唇も何もかも、実に悪そうだ。

 けれど。その、悪そうな造作とは裏腹に。

 海を湛えた瞳は、驚くほどに澄んでいた。


 まさか悪女がこんな言葉を、いや、これこそ彼女の手練手管なのだと、ジュークは必死で抵抗した。動揺した直後に眠らされ、朝まで彼女の部屋で過ごしてしまい、やはりこれは策略だったのだと腹立たしくもなった。

 ――彼女の部屋で朝まで過ごしたからこそ、早朝、小鳥に餌をやるシェイラに出逢えたことなど、考えすらせずに。


 シェイラと出逢うまでジュークは、今の後宮にいる女は全て、正妃狙いで自分を惑わしに来たのだと、信じ切っていた。王に対して余裕な新『紅薔薇』の姿も、その思い込みに拍車を掛けていた。

 だからこそ――誰にも見つからないよう、こっそり小鳥に餌をやり、『王』の姿を見てもぽかんとしたままで、我に返って慌てて平伏する、そんなシェイラに心を動かされたのだ。ただ慎ましやかなだけでなく、シェイラは『王』に対しても、目を見て真っ直ぐ心を伝えようとする。そんなところも好ましくて。

 恋に落ちた――と、すぐに自覚した。


 興味のなかった後宮は、『シェイラのいる場所』という認識になった。シェイラは側室、通うことに不都合はない。

 けれど、通達を出そうとしたジュークを、これまで自発的に意見を言ったことのなかった団長、アルフォードが止めたのだ。末席の側室でしかないシェイラを、ジュークが堂々と寵愛すれば、後宮でのシェイラの立場が危うくなる――そう言って。

 きっと、アルフォードは知っていたのだろう。あの頃の後宮が、革新派の、身分低い家から来た側室たちにとって、どれほどの地獄だったのかを。そんな中、ジュークが正式に通達を出してシェイラの部屋に通うようになれば、シェイラの命すら危ぶまれただろうことを。


 保守派の家からやって来た令嬢たちが、同じ側室のはずの、革新派の貴族令嬢を蔑み、危害を加える。夏頃の後宮は、それがもっとも過酷な時期だった。

 革新派と一口に言っても、その内実は様々だ。シェイラのように力を失った家から来た者、王宮での発言を強めている実家を持つ者、商業で莫大な財を成し、王国の経済を牽引している家から来ている者。そんな彼女たちを一緒くたに『革新派』として、保守派の家から来た側室たちは冷遇した。


 彼女たちの状況が、後宮での扱いが、実家に知られ。愛する娘たちの苦境に、彼らが怒れば。

 王家の求心力など、あっという間に消えてなくなる。

 最悪の場合、新興貴族を中心とした革新派は、王家に牙を剥く反乱軍になりかねなかった。


 それを食い止めたのは、ジュークではない。彼はあの頃、何も知らなかった。

 後宮の現状も、娘の苦しみを救ってやれない貴族たちの嘆きも、聞こうとすらせずに。ただ……、シェイラに恋をしていただけ。

 ジュークが恋に浮かれている間に、王国の危機を救ってくれたのは。

 よりにもよってジュークが、酷い言葉しか投げつけなかった、新『紅薔薇』――ディアナ・クレスターその人だったのだ。


 後宮を知り、冷遇されている側室たちの現実を知った、彼女は動いた。

『紅薔薇派』と呼ばれることになる派閥をまとめ、その頂点に立って。『牡丹派』としてまとまった保守派貴族の側室たちと、その身一つで渡り合う。

 立場の弱い側室たちの楯となり、ときに剣となって。――側室たちの安全を、後宮の平和を、守ってくれた。


 何も知らない者から見れば、後宮にディアナがやって来たことで、派閥争いが勃発したようにしか思えない。『さっそく『紅薔薇様』が動き出した』と揶揄されていた彼女を、あの頃いったい、誰が守ってくれていたのだろう。

 直接会い、言葉を交わしていたのに。あの澄んだ海の瞳を、間近で見ていたのに。

 毎晩のように後宮に通いながら、恋した相手(シェイラ)しか見えていなかったジュークは、噂を信じて身勝手にディアナを蔑んで。『どれほど勢力争いをしようが、あの女が正妃になることはない』と優位に立った気になってすらいた。


 ――逃れられない、愚かな過去。思い出す度に、消えてなくなりたい衝動に駆られる。


 最初から、ディアナは。ジュークときちんと話そうとしてくれていた。

 愚かなジュークを見捨てることなく、手を差し伸べてくれていた。


『――どうか、陛下の後宮にも、目を向けて下さいませ。陛下の行為一つで、後宮はどんな魔窟にも変貌致します。取り返しのつかない事態になる前に、どうか陛下御自ら、あの場所をお確かめ下さい』


 彼女は、ちゃんと、教えてくれていたのに。ディアナを『悪女』と思い込みたかったジュークは、目を閉じ、耳を塞いで、その言葉を真正面から受け取らなかった。『私を見なければ、後宮を荒らすぞ』という遠回しな脅迫だと、無理のありすぎる解釈をして。


『わたくしに与えられた役目の重要さは、重々承知しております。ですがその役目を全うするにはどうしても、わたくし一人では力不足なのです。陛下がご自分の目で後宮をご覧になり、考えて頂かなくては』


 どれだけ『紅薔薇』が奮闘しようとも、『王』が自らの後宮を見なければ、問題の根本的解決にはならない。そう諭してくれた言葉すら、はねのけた。


 挙げ句、王国の全貴族が集まる夜会の場で、シェイラに声を掛け。シェイラの立場を危ういものにしたのに、そのことにすら気付かず、シェイラを守ってくれたディアナを疑った。

 シェイラが『牡丹派』から直接的な危害を受けて、ようやく危機に気付き。花の名を冠する側室たちを巡ったことで、ジュークは知る。――現後宮の、そもそもの欺瞞を。


 あのとき、内務省の者は確かに言った。後宮にやって来るのは、『王家に嫁ぐことを望む令嬢』だと。彼女たちは自らの意志で、望んで、後宮に来るのだと。

 その、ジュークの中で確立していた『事実』を粉砕したのは、ストレシア侯爵家からやって来た『睡蓮の間』側室、ライアだ。


『王宮よりの命で、春頃より住み慣れた家を離れ、後宮へと参りました。それから早半年以上が過ぎ……、その間、陛下がいったい、私どもに何をしてくださいました? これ程長い間お姿を見せてくださらなかったお方に、何を望めと仰るのです?』


 はっきりと、彼女は言った。後宮に来たのは、『王宮からの命令によって』だと。

 後宮入りを、そなたは望んでいたわけではないのか、と尋ねれば、令嬢らしくもなく鼻で笑って。


『誰が、愛してもいないお方の妻になるために、わざわざ王宮の深奥に参りたいと思いますの? ――皆がみな、望んでこんな場所に参ったなんて、そんなことあるはずがないでしょう』


 ジュークの思い込みを、粉々にしてくれたのだ。


 そこまでライアに教えてもらったのに、それでもジュークはまだ、それを『紅薔薇』に当てはめて考えることができずにいた。側室たちのための園遊会、その采配をディアナに任せておきながら、進捗を確認することすら投げやりで。その理由が『シェイラと上手くいってない』からだったなんて、本当に救いようがない。

 後宮を警備する女性近衛騎士団について、後宮側に相談することなど、無茶でも何でもない当たり前のことだ。園遊会当日、しかも直前までその存在を知らされず、突然『広く知らしめるために準備せよ』なんて、無茶振り以前に不可能事だと、マトモな思考を持っていれば分かる。

 ――つまり。あのときのジュークは、本気でどうしようもない愚王だった。


『――畏れながら、陛下。わたくしは確かに、園遊会前に話があるという通達は受けましたが、その話の内容に関しては、一切の説明を聞いておりません。先ほどグレイシー団長が部屋まで迎えに来てくださり、初めて知ったのです』


 ディアナの反論は、逐一至極ごもっとも。にもかかわらず、ジュークは。


『私がそなたに話があると、わざわざ通達したのだぞ。余程の大事だと、現在の後宮の大事といえば内の警備に関してだと、分かりそうなものではないか』

『お言葉ですが。それは少々、いえかなり、飛躍した論理というものです。実際に後宮に侵入者があったなどという事件があったならともかく、何もない中で突然、後宮内の警備が問題だと考えろなどとは』

『何もないだと!? 貴様いったい、これまで何を見てきた!』


 心の底から、あのときのディアナを尊敬する。ジュークがディアナの立場だったら、目のついていない愚王にこんなことを言われては、到底黙っていられなかっただろう。『何も見ていないのはどっちだ!』と言い返さなかったディアナは、五つも年下とは思えないほど辛抱強く、ジュークなどよりよほど冷静だった。

 シェイラが『牡丹派』の側室たちに危害を加えられたことは、ディアナも当然知っていたはずだ。危ないところだったシェイラを救ってくれた張本人が、ディアナなのだから。後宮の警備の内実も、きっと隅々まで把握できていたはず。

 だからこその、言葉だったのだ。


『その件でしたら既に、リリアーヌ様とも話し合い、このようなことが二度とないようお約束頂いております。その後は特に問題は起こっていないはずですが――』

『一度でもそんなことがあれば、後宮内の綱紀のためにも、近衛は必要だ!』


 何が『後宮内の綱紀のため』だ。あのときの自分は、シェイラに危険が及ばないようにと、シェイラのことしか考えていなかった。

 側室が、同じ側室に危害を加える。シェイラの身が危うくなって初めて知ったその『現実』は、ジュークが知らなかっただけで、少し前まで後宮の『日常』だった。本当に後宮の綱紀を考えていたのなら、そもそも後宮開設と同時に、遅くとも側室の人数が過去にない多さになった時点で、何らかの策を打たなければおかしい。


 そう――。振り返って、今なら言える。

 あのときのジュークは、もはや『王』ですらなかった。『王』として立ってはいけない存在だった。


『『紅薔薇』は、後宮と王室のために生きる存在ですから。『王』が、王国に生きる全ての民のため、存在しているように。――陛下が、どのようなおつもりでその座につき、ご自身の権力を使おうとなさっているかは存じませんが』


 そんな彼とは、対照的に。ディアナはどこまでも、『紅薔薇』だった。

 命令には従う、と言い切った彼女は、不可能でしかなかった『後宮近衛騎士団を広く知らしめ、認めさせる』というジュークの要求を完遂し。

 そんな揺らぐことのない年下の少女に、己の不甲斐なさを突きつけられた気になって荒れたジュークに、これまで『見守り』に徹していたアルフォードが、遂に怒った。


『諌言の相手を選ぶのが、国王の仕事か!? 嫌いな相手の言葉は無視して、痛い言葉には耳を塞いで、それで何になる。テメェはガキか!!』


 団長としての立場をかなぐり捨て、素でアルフォードが怒った。――その事実は、迷走し、愚王に八割傾いていたジュークの頭を、即座に揺り起こすだけの威力を秘めていた。

 ましてや。


『不敬罪で『紅薔薇』を処刑したいなら、先に俺の首を切れ! あの言葉が響かないような国王に、これ以上仕えてられねぇよッ!!』


 生まれて初めて『信じられる』と思った存在から、『殺せ』と言われる。『王』としてもジューク個人としても、これほどの衝撃はなかったと言っていい。

 あのとき、アルフォードが命を懸けて、愚かな己を食い止めてくれたこと。それから先、立場を越えて接してくれるようになったことを、ジュークは深く感謝している。


 あの園遊会は、ジュークに様々なものを見せてくれた。あの日一日で、どれだけのことを知り、学んだだろう。

 外宮の派閥争いと後宮が、無関係ではないことも。あの日、側室とその家族が同じ空間にいたからこそ、肌で感じ取れた。

 シェイラと、彼女の養父母の関係は、お世辞にも良好とは言えなかったが。あの場でぎくしゃくしていた家族は、シェイラだけではなかった。

 思い込みや噂に惑わされず、自らの目で見て、耳で聞いて、考えることも。現実をあれだけまざまざと見せつけられなければ、必要なことだと思い知れなかっただろう。


 ジュークは初めて、怠惰だった己を自覚した。傷つかないため、優しく接してもらうために、いつだって誰かの言いなりになっていた自分。――しかし、国の行く末を左右する存在である『王』が、誰かの言いなりであって良いはずがない。


『殿下はいずれ、この国の頂点に立たれるお方です。偉大なる我が王国に相応しい、立派な君主となられることこそ、殿下が為すべき最大の使命なのですよ』


 彼らが本当に、心の底から、そう思っていたのなら。ジュークを、あんな風に育てるわけがなかった。

 結局彼らが望んだ『立派な君主』は、自分たちの都合の良いように動く、『傀儡王』を意味していたのだろう。父はいつも穏やかで、臣下の言葉に広く耳を傾ける賢明な王だったが、ここぞという場面は決して譲らなかった。そんな父に嫌気がさしていた者たちが、次代を無能に、傀儡に育てようとした。そう考えた方が、しっくりくる。

 シェイラが、ディアナが、アルフォードが。繰り返し、『自分の目で見て、判断しろ』と言ってくれなければ。

 怠惰なジュークはまんまと、『傀儡王』を望む者たちの思惑に、はまるところだったのだ。


 自分で考え、自分なりの『回答』を探すようになったジュークの前には、これまでになかった風景が広がるようになる。

 答えありきの一本道は、確かに楽だ。迷うことも、躊躇うこともない。

 道がなくなった世界は、迷うことばかりで。さんざん考えて一つを選んでも、それが正しいことなのかすら、分からない。

 けれど。迷うほど、考えるほど、これまで目に留まっても気にすらしなかったものが、形を変えて見えてくる。

 世界はこんなにも広く、色鮮やかだったのかと、本当に何も見えていなかった己に愕然とする思いだった。


 もちろん、目に見えて、楽しいことばかりではない。マリス前女官長の悪行は、その一例だろう。

 これまでなら、臣下に任せていたような官の処罰。そこに自ら関わることで、ジュークはまた、多くを学んだ。

 王に進言に訪れる者ばかりが『臣』ではない。少々破天荒ながら、真摯に誠実に、目の前の仕事と向き合う『外宮室』の官吏たちと関わる中で、ジュークは自らが誰のため、何のためにある存在なのかを、考え始めるようになる。


 ジュークは、王だ。王の子に生まれ、いずれは王になると言われて育った。

 けれど、何故『王』が必要なのだろう。『傀儡王』を求める者にしてもそうだ。『王』が言うことを聞かないのが嫌なら、そもそも『王』を立てなければ良い。


 考えても、答えは出ないまま。時は待ってはくれず、降臨祭が訪れて。

 去年は一人だった礼拝に、今年は『紅薔薇』が同行することになった。


 この頃、ジュークの中では既に、ディアナを噂通りの『悪女』と見る気持ちは、かなり小さくなっていた。

 ただ、何の疑いもなく信じ切るには、『クレスター家』の噂は強烈過ぎたのだ。家と娘は同一ではない、頭では分かっていても、園遊会での『紅薔薇』とその家族の仲は、至って良好に見えたから。

 どれが『紅薔薇』の真実なのか――ジュークの惑いを吹き飛ばしたのは、礼拝のための北上中、毎晩のように民の祭りに混じって楽しむ、ディアナの姿だった。


 軽く変装はしていても、あの顔をごまかすことはできない。お忍びの貴族風で、けれど心から祭りを楽しむディアナは、違和感なく風景に溶け込んでいた。人が集まれば治安も悪くなり、さり気なく掏摸だの食い逃げだのの揉め事が勃発していたが、ディアナとその侍女は息をするように自然に解決していて。あまりこういう場には詳しくないジュークですら、それが彼女たちの『当たり前』なのだと飲み込めた。

 ディアナはきっと、悪女ではない。顔があまりに悪人風で、誤解されているだけ。

 ミスト神殿に着いたら、本人に確認しよう――そう考えた矢先、行列が襲撃を受け、ディアナの命が狙われて、彼女が一人で姿を消すという、とんでもない事態が勃発した。

 結果として、彼女は翌日、けろっとミスト神殿で合流したわけだが。その一件を経て、ますます確信した。

『悪女』は普通、周囲を守るために自分の命を危険に晒したりしない。……本人曰く、森には慣れているので、あの状態で逃げることは危険ではないらしいが。

 主日のその日、礼拝が終わった後、ディアナの部屋を訪ねて。ようやく、『ディアナ』を知ることができた。


 ――それすらも、傲慢な思い込みでしかなかったが。


 ディアナが悪女ではないと確信できて、シェイラとの仲を応援までしてくれる彼女の気の良さに、ジュークは大切なことを見落としていた。


『こんなバカ騒ぎはとっとと終わらせて、後宮から去りたい』――そんなことを言う娘が、そもそも望んで後宮に来るわけがないという、厳然たる事実を。


 本当の意味で、ディアナが何をしてきたのか、どれほどのものを彼女に背負わせてきたのか。

 ジュークが知り、理解したのは、それからさらに後、年が明けてしばらくしてからのことだ。


 きっかけは、またしてもシェイラ。好きな相手のことになると、いけないとは思っても、ジュークの視野は狭くなる。

 それを、ディアナは容赦なく指摘して。『後宮のことを知ってから出直せ』と叩き出した。

 そう言われてようやく、ジュークは知ったのだ。


 己のために作られた、この小さな箱庭が。

 内に集められた花々を枯らす、見かけ倒しの廃園でしかなかったことを。

 打ち捨てられ、枯れるばかりだった花々に水をやったのは、自らも水を欲する立場のはずの、誇り高き薔薇の花。

 たった一輪の薔薇が、廃園を見事に立て直した。


 間違っていた。ここまで来てやっと、ジュークは取り返しのつかない過ちを知った。

 あのとき――『後宮を開設しては』という言葉に、頷いてはならなかった。

 ジュークの身勝手な我が儘のために、どれだけの娘が犠牲になったのか。革新派の貴族令嬢を虐げていたという『牡丹』も、そもそも後宮が開かれなければ、開かれてもジュークの目が行き届いていれば、そんな暴挙に出ることはなかっただろう。

 何が『愛する人との幸せな結婚』だ。自分はただ、酔っていただけだ。

 ――望まぬ結婚を強いられている、という不幸に。望んでいないのに、媚を売る女たちを押し付けられている、甘美な妄想に。

 現実を知らず、そんな自分が可哀想だと、空想の世界に入り浸って。きちんと耳を澄ませていれば聞こえたはずの、嘆き苦しむ声を放置した。


 それだけでは飽き足らず。ジュークの愚かさを、怠惰を、過ちを、望まないまま背負い続けるたった十七歳の少女を、くだらない見栄とプライドで、何度も何度も貶めた。

 罪深い――なんて言葉では、あまりにも軽すぎる。ジュークがディアナにしてきた仕打ちは、人として決して赦されないものだ。悪女だと思っていたからなんて、言い訳にすらならない。

 ジュークのどこが『王』なのだろう。王国の安寧を真の意味で守ってくれていたのは、ジュークでも大臣たちでもない。権力なんて何一つ持たない、立場上はただの側室でしかない娘。

 王の、外宮の失策を、下げる頭一つなく押し付けられて。ディアナはどんな気持ちだったのか。

 少なくとも、ディアナが後宮に来てから、ジュークがディアナに心の底から敬意を表し、気持ちだけでもその献身に報いたことなど、今に至るまで一度もない。悪女の噂とはかけ離れ、自分から何かを望むことのないディアナにジュークが与えられるものなど、無に等しくて。

 何も手に入らない、ただ責任を果たすばかりの、この後宮(ばしょ)で。


『後宮に入らなければ、派閥争いに巻き込まれて苦労することがなければ、わたくしは今も、小さな自分の世界の中で、外の世界に勝手に絶望して過ごしていたことでしょう。他者を信じ、信じられて結ぶ絆の尊さと温かさを知らぬまま、傲慢に人を枠に嵌める悪癖から、抜け出せずにいたことでしょう。……ましてや、高い壁を前にして、信頼できる仲間と手を取り合い、共に越えていくことの大切さになど、生涯気付けぬまま。――欲しいもの全てが手に入ったこの後宮(ばしょ)を、今はもう、憎いとは思えないのです』


 ――それでも、彼女は笑うのだ。その澄んだ海の瞳を曇らせることなく、残酷なはずの世界すら、愛おしんで。


 命さえも奪おうとする、身勝手な欲にまみれた世界を、その高潔な魂で包み、肯定する。





次回より、ジュークが本格始動します。



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