渡り廊下にて
さっぱりと漢らしい思考回路を持つディアナではあるが、生まれたときからこんなだったわけではもちろんない。人並みに挫折も経験し、やさぐれ、ヤケになったことだってある。
しかしそれで終わらないのが、クレスター家が『クレスター家』と畏れられる所以なのだ。
「……っく、うぅ…」
西側の人気ない廊下に差し掛かったディアナは、奥の方から泣き声が聞こえてくることに気が付いた。どうやらシェイラは、曲がり角の先、行き止まりになっている場所で、人知れず涙を零しているらしい。
ディアナは足音を立てずに(もともと下は絨毯なので足音などしないも同然だが)、曲がり角ギリギリまで歩み寄った。静かに静かに息を吐き、咽に力を加える。
――そして。
「……どう、なさったの?」
「!!」
出て来た声は、普段のディアナの声とは全く違う、たおやかで優しげな、女性のものだった。
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『悪人顔』と名高いクレスター家は、当然、それに見合う声の持ち主だ。父デュアリスの声は身体の底に響く低音ボイスで、彼が笑うと大概誰かビクッとなる。兄エドワードの声は、優しげだが女たらしに聞こえる摩訶不思議なもの。
そしてディアナの声は、女王然としたよく通る張りと男を魅了する艶を同時に宿した、一度聞いたら忘れられない印象的なボイスなのだ。
当然人々には『クレスター伯爵令嬢の声』と認識され、ディアナは一時期、挨拶の声を会場に響かせただけで、普通の令嬢と会話できなくなった。ディアナの声を聞き付けた小者たちが群がり、逆に令嬢たちには避けられたからだ。
いくら『悪人顔』と付き合い長いと言っても、さすがにこの扱いは堪えた。それなりな人脈を築きたくとも、取っ掛かりすら掴めない。
どうせわたくし女ですもの、人脈などなくとも構いませんわ、もう夜会になど行きません。
ヤケになってやさぐれたディアナ。しかし、三百年以上この顔と付き合ってきたクレスター家の先輩たちが、そんなものにびくつくワケがない。
『あぁ解るわ、クレスターに生まれた以上、誰でも一度はそうなるのよね。まぁディアナは可哀相なことにばっちり兄上に似ちゃったから、結構早かったけど』
あっけらかんとそう言い放ったのは、ディアナに『クレスター流宮廷の泳ぎ方』を伝授した叔母だ。したたかなクレスター家の面々は、末娘の反抗など歯牙にもかけなかった。
それどころか。
『良いこと教えてあげるわ、ディアナ。人間はね、顔はどうしたって変えられないけど、声は訓練すれば変えられるのよ?』
やさぐれすらも次のステップとばかりに、新たなスキルを教え込んだのだ。
咽の筋肉を鍛えることで、男性的な声から甲高い女性の声まで自由自在。この技を使いこなせれば、姿を隠した状態ならば、会話したい相手と普通に話せる。
言葉巧みに囁かれ、ディアナは張り切って咽を鍛えた。挨拶一つで身動き取れなくなっていた当時のディアナには、叔母に教えられた新たな技が希望の光に思えたのだ。
完全に声替えスキルをマスターしてから、上手いこと叔母に転がされたと気付いたが。実際便利な技なので、それはそれと割り切ることにした。役に立つ技を覚えることができたのは事実なのだから。
――そう、こんな状況下においては、特に。
「ごめんなさい。通りかかったら泣き声が聞こえたものだから。黙って立ち去るべきかしらとも思ったのだけど、あまりにもお辛そうで……どうしても気になって」
「いえ……、申し訳ありません。お見苦しいところを」
「貴女が謝られることなどないわ。何か、辛いことがあったのでしょう?」
シェイラは完璧に、会話の相手がディアナだとは気付いていない。初対面の人物相手の話口調だ。まぁ、それはお互いに、なのだが。
「辛いこと……辛いこと、なのでしょうか…」
「良かったら、話してみない? 貴女のお姿も、どこのどなたかも、私は知りませんから。吐き出すことができれば、少しは楽にならないかしら」
「……楽、に…」
シェイラの声は沈んでいる。ディアナは意図して、明るい声を出した。
「――ごめんなさいね。お節介だったみたい」
「いえ! いいえ、違うのです!」
曲がり角の向こうで、立ち上がった気配がする。シェイラの声が、確実にディアナを向いた。
「申し訳ありません。貴女様のお気持ちが迷惑だとか、そういうことではないのです。ただ、ただ、いつ、楽になれるのか、まるで分からなくて……!」
「……とても重たい問題を、抱えていらっしゃるのね」
「分からないのです。あの方のお心も、自分の気持ちすら、分からないことばかり」
シェイラは随分と混乱しているようだ。声だけしか届けられないことを歯痒く思いながら、それでもディアナは優しく語りかける。
「落ち着きなさいな。一つずつ、ゆっくり話していきましょう? 座れる場所があるなら、お座りになって。貴女も夜会に招かれた貴族なら、立ちっぱなしは辛いでしょう?」
「座れる場所……ソファがあります。ですがあの、貴女様は……」
「私は大丈夫。おまけであの場にいたようなものだし、そこまで疲れてもいないから」
貴女の方が心配だわ、と本気で言うと、ややあって衣擦れの音が響いた。シェイラが腰を下ろしたらしい。
「……不思議なお方。貴女様とお話していますと、何故だか心が落ち着きます」
「あらそう? なら良かった」
そりゃあ、そういう仕様の声を出しているのだ。これで『緊張する』とか言われたら、泣くしかない。
「あの……貴女様は」
「私? 私はそうね……ディーとでも呼んでくだされば」
「ディー様、ですか……? ディー様は何故、こんなところに」
「ああいう場所は苦手なの。去年までは適当にサボってたんだけど、今年は立場上、しばらくはいなくちゃならなくて」
「立場……?」
「あぁ、言ってなかったわね。私、陛下の側室なのよ」
ここで立場を明かしたのは、一種の賭けだ。警戒されて引かれるか、同じ立場だと親近感を持って貰えるか。後者なら、『ディー』はこれから後宮内で、シェイラの『味方』になることができる。
「側室、ですか……!?」
「50人もいる側室の一人ってだけよ。陛下はきっと、私の存在なんてどうでもよいことと思っていらっしゃるわ。ま、私も陛下の寵愛なんて望んでいないから、今のままで充分満足してるけど」
「では、ディー様も……新興貴族のご実家からいらっしゃったの、ですか?」
「えぇ、……って、何だか引っ掛かる言い方ね。私『も』って、それじゃまるで貴女も……」
シェイラの声が、一瞬途切れた。静寂の後、大きく深呼吸する音が聞こえ、そして。
「初めまして、シェイラ・カレルドと申します。私も、側室の一人です」
「――貴女も側室でいらっしゃるの!?」
「はい。……はい、そうなのです」
しょんぼりとしたシェイラの声。しかしディアナは、驚きに続いて声を弾ませた。
「後宮とは、退屈で仕方のない場所だと思っていたの。周囲の皆様は、色々お忙しいみたいだけど。――あの、シェイラ様、とお呼びしても構いません?」
「もちろんです!」
「シェイラ様は、陛下の寵愛を望んでいらっしゃる? 家柄の優れた側室の方々の上に立つことを」
「そんな! そんなことのために、陛下の寵愛など望みません。少し前までの後宮は新興貴族出身の側室にとって、辛いだけの場所でした。でも、『紅薔薇様』がいらしてくださって、私でも廊下を普通に歩けるくらいにはなったのです。これ以上を望むなど」
「良かった! 私と同じことを考えていらっしゃる方が、他にもいらしたわ」
「え?」
ディアナの声は軽やかに弾む。シェイラの意識がこちらに向いていることを確認しながら、彼女は続けた。
「『紅薔薇』入宮以前の後宮が良い場所だったとは、私も思いません。でも、今の『紅薔薇派』の皆様も、勢力を拡大して『牡丹派』を蹴落とし、後宮を自分たち一色に染めることを狙っているように思えるわ。私はそんなの良くないと思うし、派閥争いにも反対なの。だからできれば、そんなものに巻き込まれることなく、静かに平和に暮らしていたいのです」
「ディー様……、そんなお考えの方が、いらしたなんて…」
「50人もいれば一人くらいは、同じように考えてくださる方がいらっしゃるものね」
くすり、とディアナは笑みを零した。シェイラからも笑う気配がする。
「落ち着かれました? シェイラ様」
「え? えぇ…」
「シェイラ様が笑顔になられたなら、良かったわ。私のサボり癖も、たまには役に立つものね」
「まぁ、ディー様」
くすくす、とシェイラは笑う。穏やかな空気が流れた後、ふと、シェイラの声のトーンが落ちた。
「……ディー様。聞いて、頂けますか?」
「ん? えぇ、もちろん」
「ディー様は、陛下が『紅薔薇様』を寵愛していらっしゃるという噂を、ご存知ですか?」
「えーと……そういう噂もあったわね」
「……私、今日、初めて『紅薔薇様』とお会いしたのです。噂に違わずお美しくて……、噂とは違い、普通にお話できる方でした」
ディアナの目が、大きく見開かれた。シェイラが噂に惑わされず、『ディアナ』自身を見ようとしてくれていると、理解できたからだ。
「私が新興貴族の娘で、ご自分の派閥に連なる者だと思われたからかもしれません。それでも、お言葉からも眼差しからも、私を労ってくださっているように感じられたのです。……私の、勝手な願望かもしれませんが」
「………、シェイラ様がそう感じられたのなら、それが正しいのではないかしら?」
「そうならどれほど嬉しくて……どれほど、申し訳ないか」
話の雲行きが怪しくなってきた。シェイラが『紅薔薇』状態の自分をきちんと見てくれたと、喜びに胸躍らせていたディアナは、話の続きが予想できずに首を傾げる。
「申し訳ない、とは?」
「ディー様は、今日、陛下と壇上にお姿を見せられた『紅薔薇様』を、ご覧になりました?」
「えぇと……、遠目から、ちらっと、なら」
「陛下に穏やかな眼差しを注がれていて……きっと誰もが思ったはずです、『紅薔薇様』は陛下に想いを寄せていらっしゃると」
ない! 反射的に叫びそうになって、ディアナは咄嗟に口元を抑え、なんとか堪えた。
どうやら広間に姿を見せる直前、ジュークが少しずつ人の話を聞けるようになっていて、あぁ成長してるんだなぁとほのぼの眺めていたあの瞬間が、どえらい誤解を生んでいるらしい。比較的冷静に自分を見てくれているシェイラですらそう感じたなら、一体どれだけの人間に自分は勘違いされたのかと、ディアナは薄ら寒い心地に襲われた。
いくら見た目が良くても、頭が良くても、あんな精神年齢幼児な男、こっちから願い下げだ。成長している瞬間に立ち会えてほのぼのしている時点で、ディアナの中でジュークは、良くて弟ポジションにしかなれないだろう。
しかしそれを丸まま、シェイラに伝えるわけにもいかない。何というジレンマだ。
「べ、紅薔薇様が、陛下を、ですか? わ、私はそうは思いませんでしたが……」
「……無理におっしゃらずとも良いのですよ。ディー様は、私の気持ちに、気付かれましたのね」
「いやだから……気持ち?」
あまりにあんまりな誤解を人々に与えたことで、ディアナの心は折れる寸前だ。否定するだけで精一杯だったが、その精一杯を、シェイラは別の方向に捉えたらしい。
「……ディー様。陛下と『紅薔薇様』の噂が立っていた頃、陛下が通っていらしたのは、『紅薔薇様』のもとではないのです」
「え……?」
「陛下が通っていらしたのは、……私の、部屋に、なのです…!!」
ごめんなさい、知ってます。
一大決心をして告げてくれた内容にあっさり相槌を返すわけにもいかず、ディアナは驚いて息を呑み、言葉も出ないという風情を取り繕ったのだった。