プロローグ
「何をやっているのですかアナタはッッ!!!」
その日。
クレスター領伯爵家邸宅で、超弩級の罵声が響き渡った――。
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エルグランド王国にて、『クレスター伯爵家』といえば、貴族階級の間で知らないものはいない。
『王国の悪を牛耳る、裏社会の帝王』――それが、彼らに与えられた二つ名だ。
クレスター家に爵位が与えられて、優に三百年。その間ずっと尻尾を掴ませることなく悪事を続け、莫大な財を為した。その人脈と手口は代が変わろうとも受け継がれ、今では王国全土にまで、彼らの根は蔓延っている。
稀に運良く彼らの尻尾を掴むことができても、彼らにとってそれはあくまで『尻尾』。切ってしまえば害はないとばかりに切り捨て、決して本体の暗黒が明るみに出ることはない。
下手に手を出せばこちらが危うい、正義を全うする者にとっては怒りしか覚えない存在。
それが、クレスター伯爵家――。
あくまでも、『噂』だが。
「そもそも! アナタがしっかりしていないから、こんなことになったのではありませんか!? よりにもよってこんな時期の王宮に! それこそ、その顔の無駄な威圧感を使うときではありませんか!!」
「す、すまないエリー。説明する! 説明するから、その花瓶を降ろしてくれ……!」
「母上、落ち着いてください!」
シャレにならない修羅場を演じているのは、壮年の男女二人。それを青年が青い顔で止めに入るという、まさに家庭内抗争と呼ぶに相応しい場面である。
三人の衣装は上質で、物腰も優雅(していることは抜きとして)。一目見て、上流階級の人間であることが分かる。事実、上流階級なのだ。
現クレスター伯爵、デュアリス・クレスターと、その妻、エリザベス・クレスター。そしてその長男、エドワード・クレスター。
彼らこそ、かの悪名高き、『クレスター伯爵』一家なのである。
「お離しなさいエドワード! 今度という今度は許せません! 他のことならともかく、よりにもよってあの子を!」
「お怒りはごもっともですが、そんなもので殴ったら父上が!」
「構いません! どうせ殺しても死なないような顔をしているのだから!」
「顔がそうだからといって、死なないという保証はございませんよ……」
そうは言いながら、(まぁ実際死にそうにないよな…)と内心呟いているエドワードである。そんな彼の気配を敏感に捉えたデュアリスは、「エド、この裏切り者~!」と机の下に隠れて情けない声を上げた。どうひいき目に見ても、その姿は『悪の帝王』には思えない。
そう、クレスター伯爵家が『王国の悪を牛耳っている』などというのは、あくまでもただの噂。現実の彼は愛妻家であり子ども思いの良き父であり、領民に慕われる素晴らしい領主だ。彼の本性を見て、『悪』という言葉を結び付けられる人はそういない。
ただ悲しいかな、噂が囁かれるには、それだけの根拠があるのだ。それは――。
「アナタの、その、顔でッ! どの口が『うっかりしてやられた』と抜かしますか! その、極悪非道冷血人間顔で!!」
……これである。
遺伝子の不思議としか言いようがないのだが、クレスター伯爵家は代々、『悪人面』としか表現しようのない、悪そうな顔の人間が多く生まれる。というより、そんな顔ばかり生まれる。どんだけ善人顔の妻を迎えようが、クレスター家の血が勝つらしく、悪人面が生まれる。
当代が、まさにその良い例だ。夫のデュアリスは、クレスター家の歴史でも稀な、超極悪非道冷血人間面。決して厳ついわけではなく、むしろ美形の部類なのだが、その容姿を形容する言葉が『氷のような』とか、『血も涙もない』とか、『眉一つ動かさない残虐さ』とか、そういった類のものしか見当たらない。無表情がデフォルト、たまに笑えばその笑みは悪魔の微笑と名高く、まぁまとめてしまえば『ちょ、おま、その顔で一般人とかないわー』なお方なのだ。
そんな彼とすったもんだの末に恋愛結婚(ココ重要)したのが、当時はリアラー子爵家令嬢であった母、エリザベス。太陽のごとく輝く金髪、海のように蒼い瞳、たおやかな微笑と優しげな顔立ちの、美しき姫である。善人顔どころかデュアリスと並べば、魔王と生贄に捧げられた姫にしか見えない。事実二人の結婚式はそういう評判が埋め尽くした。
エリー姫は無事なのか、魔王に酷いことはされていないかという周囲の心配も何のその、もともと恋愛後結婚した二人の仲が悪いはずもなく、一年後にエリザベスは長男、エドワードを出産した。彼が生まれた瞬間、エリザベスは己の遺伝子の敗北を悟ったという。
「母上、とりあえず落ち着きましょう。まずは椅子に座らねば、できる話もできますまい」
できるだけ刺激しないように、暴れ馬を落ち着かせるレベルの慎重さで母親と接しているのは、22歳に成長した長男エドワードである。つやつや光る栗色の髪に翡翠の瞳、父親譲りの色素を持ち、やや目尻の下がった優しげな顔立ちは母親譲り。ここまでならばエリザベスが敗北を感じる必要はどこにもない。
問題は。
「お兄様。その顔で言われましても、騙されて丸め込まれているようにしか思えませんわよ」
「解りきったことを今更言うな! この顔なりに私も必死なんだ!」
妹の冷静なツッコミに、兄は悲痛な声を上げた。
そう、クレスター家の遺伝子は、天使と讃えられたエリザベスの遺伝子さえ、『悪者顔』に作り替えてしまったのである。一つ一つの顔パーツだけならエリザベスそっくりなハズのエドワードは、全体的に見れば『その優しげな笑顔で女たちをたぶらかし、散々利用し弄んだ挙げ句にあっさり捨てる』ような美形にしか見えない。生まれた瞬間からそう見えたのだから、エリザベスの敗北感は実に妥当だ。
そのエリザベスと、ついに花瓶が頭上三十センチにまで迫っていたデュアリスは、もう一人の我が子が部屋に入って来ていたことに気付き、ぱっと動きを止め、声のした方を振り仰いだ。ようやく自分に気づいたらしい両親に、娘はにっこり笑いかける。
「お父様、お母様。お茶の用意が整いましたわ。お父様の頭を花瓶で割るのはひとまず後にして、お茶に致しません?」
「頭を割るのは永久に後回しで良いぞ!」
怖いことを言われたデュアリスは、それでもいそいそソファに腰掛けた。エリザベスも花瓶を所定の場所に戻し、デュアリスの隣に座る。その正面に同じく座りながら、エドワードが首を傾げた。
「お前が入れるのか? リタはどうした?」
「このド修羅場の中、給仕させよと? 屋敷の使用人皆、怯えきっていましたよ」
「……なるほど」
「お茶を入れるのは好きですし。ですからついでにわたくしが持っていくと申し出たのです」
「よく分かった。……ありがとうな、ディアナ」
優しい瞳でエドワードが見つめる娘こそ、先ほどからエリザベスが激怒している原因となった少女。クレスター家長女、今年17歳になる、ディアナ・クレスター伯爵令嬢である。エドワードにとってはたった一人の妹であり、デュアリスとエリザベスにとってもただ一人の娘。この状況で甘やかされなければ嘘だが、クレスター家に流れる遺伝子は、そんな生易しいことを許しはしなかった。
「はい、どうぞ。気持ちが落ち着くように、少しラベンダーをブレンドしてありますわ」
「あぁ、ディアナ!」
突然、エリザベスがさめざめと泣き出した。
「貴女はこんなに優しくて、心根の美しい娘に育ったというのに。――クレスターの血に負けてしまった母を、どうか許して頂戴!」
「……落ち着いてくださいお母様。別にわたくし、この顔に不満は持っておりませんし。美人に生んでくださり、感謝しておりますわ」
「ディアナ〜!」
……ダメだな、こりゃ。
ディアナは兄と目を見交わし、早々に母親を落ち着かせるのを諦めた。別段本気で取り乱しているわけではないが、ことディアナの顔の件になると、エリザベスはしばらく浮上しない。放っておけば勝手に元に戻るので、ディアナはさくさく本題に入ることにした。
「それで、お母様は何故、こんなに怒りに満ちていらっしゃるのです?」
「いや、それがな、ディアナ、落ち着いて聞いて欲しいのだが……」
次に父親が発したセリフに、ディアナは、その涼やかな切れ目を限界まで見開いた。
「お前に、ジューク陛下の側室になるようにという、通達が参ったのだ……」
――季節は、春。
陽気だけはとことん穏やかな、ある昼下がりの出来事だった――。