人魚族(9月8日 伊藤明日香) ⑦
「伊藤さん!」
つんざくような、……かぼそい、少年の声。
明日香は、しずかにふりむいた。少年はフェンスを越えてきたらしく、片手を網目にそえて、もう片方の手を腰にはさんだ懐中電灯に伸ばそうとしている。眼鏡をかけた目を、ぎゅっと細くして。
柏木亮。ぼんやりと、思い出す。
懐中電灯が、こちらへ向く。一瞬後、すぐにスイッチが切られる。明日香はぱちぱちと目をしばたかせて、それから気づく。裸だ。
「伊藤さん……、」
亮は、金魚みたいに口をぱくぱくさせて、……それから、黙ってしまった。
「柏木くん、」
明日香は、右耳にかかっていた髪を、右手でぐいと除けた。水泳帽をかぶっていないので、水につかるとざんばらに解けて、実にうっとうしい。
明日香は、プールの中にいる。
首だけを、まるで晒された生首みたいに、水面から出して。
「伊藤さん、」
三度、亮はくりかえしていった。
ふるえる手で、懐中電灯をなんとか握って、深呼吸を二回して。
「なに、……してるの。」
「柏木くんこそ。」
明日香は、いつもの、高い声で──いや、少しだけ沈んだ、喉にひっかかったような声で、
「こんな時間に、どうしたの。」
「ここに、……魚が、出るって。崇が、……」
「あぁ、」
突然、水面から姿がきえた。
いや、潜ったのだ。亮はびくんと震えて、それからおずおずと、二歩だけ水面に近づいた。懐中電灯を点けようかと迷っている間に、もう一度ざばんと水音がして、プールサイドに、彼女の顔が。
「……ね、柏木くん」
塩素のにおい。
夜のかすかな光に照らされた裸の肩が、意外なほど近くて。
「魚を、見にきたの?」
「そう、……だよ」
声が、かわいていた。懸命に目をこらすが、ほとんど何も見えない。ただ、塩素の匂いと、なにか生臭い体臭のようなものが、色白の肌から、むわりと漂いだして空気を澱ませている。




