20 謎は解けたが
リンテが密輸団の罠にはまってから一時間ほど後。
午後一時を過ぎた頃、フランツは機関庫に戻ってきた。
彼はテア号を車庫に戻すなり、すぐに機関庫の事務棟、三階のオフィスへと走った。
ロビーを横切り、狭い階段を二段とばしで駆け上がる。曇りガラスのドアをいくつも飛ばして、彼は突き当たりの部屋に飛び込んだ。
そのオフィスは、ひどく散らかっていた。
窓際に置かれた机のまわりには、小物が山のようにつみ重なっている。
四メートル四方の部屋には、書類棚とロッカー、それと簡易ベッドが入っていた。書類や洗濯物があっちこっちに散らばっていて、せっかくの個人オフィスなのに足の踏み場もないありさまだ。
そして部屋の主、マテウスは電話で何やらわめいている。
右手に受話器を握って、黄色いコードを左手で落ち着きなくいじっていた。
「いや、だからさぁ……そんなん一方的じゃねーの? 大家さん頼むよ」
マテウスはフランツに気づくと、受話器を示してから頭を下げた。どうやら取り込み中のようだ。
フランツは胸に渦巻く不安をぐっと押さえ、大きく息をついて柱に寄りかかる。
「だから、いきなり値上げなんて言われてもさ……ちょっと、もしもし、もしもーし!」
一方的に切られたのか、ため息をつき、マテウスは受話器をガシャンと叩きつける。そのはずみで書類の山がくずれ、机の上を紙の束が埋めつくした。
「ちきしょう! なんてこった!」
「ど、どうしたのマット?」
「家賃を値上げするんだとよ、うちの部屋。払えないなら出てけだとぉ、くっそ守銭奴の金に汚いババアが!」
声を荒げて電話機に八つ当たりするマテウス。
さすがのフランツも心配になり、自分の不安もそっちのけでマテウスに訊ねる。
「マットは値上げされても払えるの?」
マテウスはブンブンと首を振った。
「無理だよ、今の家賃で精一杯だ。どうすっかなぁ、当分はここでいいとして」
「いやよくないでしょ? ここはオフィスなんだし、これ以上……散らかしちゃまずいんじゃない?」
オフィスと呼ぶには生活臭に溢れる室内を、フランツは両手でマテウスに示す。
「まぁ、なぁ。公社の上司にも何とかしろって言われてんだよなぁ。新しい部屋ぁ探すしかないか。でも正直、あそこよりイイ部屋ってねえんだよなぁ」
途方に暮れた様子のマテウス、しかしフランツの脳裏には、突然きらめく一つのアイデアが浮かび上がる。
マテウスだけでなく、フランツたちすら救うアイデアだ。
「あ、そうだ、そうだよ……マットいい考えがあるよ!」
「あに? いい考えってなんだよ?」
やる気なさそうに机の上を片付けながら、マテウスは肩を落としたままだ。
「マット、新しい部屋って、ちょっと遠くてもいい? たとえば工場区の先とか……」
フランツは部屋の物を蹴飛ばさないように気をつけながら、マテウスに近寄る。
「工場区? 貧民街じゃなきゃ構わねぇよ。部屋がそこそこ広くて、機関庫まで三十分かからねぇなら大丈夫だ」
「部屋は広くないけど、二部屋なら自由に使える。同居人はいてもいい?」
「手癖の悪い奴じゃなきゃな。あ、女だったら大歓迎だぜ」
具体的な話に乗り気になったのか、マテウスが身を乗り出す。
そのとき彼の手元で、書類の下から小さなビンが転がった。そのビンを見たとたん、フランツの胸に、重い不安が一気によみがえる。
「そんな場合じゃなかった!」
叫んで、フランツはひったくるようにビンを取る。
「おいおい! なんだよお前、いきなりえらく慌てやがって、部屋の話は?」
「それは後でゆっくり話すよ!」
窓の光に、フランツはビンをかざす。
中には昨日と同じように、ドロッとした液体が入っている。しかしその色は、もう明るい青白色ではない。不気味に黒ずんだ灰色だ。
(『本物なら、一晩と経たずに劣化して、灰色になるわ』)
白い少女の言葉が、フランツの耳に遠くこだまする。
ギリッと奥歯を噛みしめるフランツ。耳の後ろに生暖かい汗が流れた。
「どったの? 怖い顔しちまってさ。そいつ、まだ見せてねえぞ。例のくわしい奴が今日は休みなんだ」
全身に鳥肌が立つのを感じながら、フランツは冷静になろうと頭を振った。
これだけでは信じられない。いや、信じたくない。
彼は一瞬にして干上がった口を、ゆっくりと動かした。
「部屋の暖房はどこ?」
「暖房? ストーブならそこだが、どうしたってんだ?」
フランツに面食らったように目をしばたかせながら、マテウスが壁際に据えつけられた、ギザギザに放熱板の並ぶストーブを指差す。
フランツはそれをじっと見た。
(この建物なら、機関庫の蒸気管から蒸気を取ってるはず。信じたくないけど、でも信じなきゃいけないなら証拠がもう一つ必要だ)
フランツはその辺から汚れた布を取る。無言でビンの口を開けて、彼は中身を布に少し染みこませた。
「ラッツいったいどうしたんだ? 説明してくれよ」
「黙って、あと、離れて」
肩をつかんだマテウスの手をほどいて、フランツはストーブに近寄った。
(『もちろん劣化したからといって、蒸気に当てては駄目よ』)
少女の言葉を思い出し、フランツは足下にあった長いスパナを拾う。彼がストーブの蒸気調整箱を探ると、目当ての物はすぐに見つかった。
「……あった」
蒸気の逃がし弁に繋がる、斜めに切れたパイプが指先に触れる。フランツはそっと、根本のネジをゆるめようとした。
そこに大きくドアを鳴らして、誰かがオフィスに入ってくる。
「マット君、ここにいるかい?」
ふり返れば、ドアに立つのは見なれた顔ぶれだった。
禿げた頭とフサフサのあごヒゲの中年、褐色の肌に笑顔がまぶしいハンス。そして後ろに、背の高いアイスブロンドの紳士、オーラフが静かに続く。
「トラム増発の件だがねぇ、ウチとしては当番以外の割り当てを増やしても利益が…………ん? ラッツじゃないか? どうしてここにいるんだ?」
フランツを見つけて、不思議そうにヒゲを撫でるハンス。
横でオーラフが静かに片眉を吊り上げる。
「フランツ君、今日の業務報告がまだ上がってない。ここで何を――」
オーラフの声が止まる。彼は鋭い目で、こわばったフランツの顔をじっと見つめ、やがて静かに問いかけた。
「私たちも、見た方がいいか?」
「……ぜひお願いします。マット、毛布を用意して」
「毛布? これでいいか?」
マテウスが簡易ベッドから灰色の毛布をつかむ。
フランツはスパナの先に、白い油を含んだ布を巻き付ける。そして、蒸気を浴びないように体を反らすと、慎重に逃がし弁のネジを緩めた。
プシッ、と空気の逃げる音がする。続いて一気に、かん高い笛のような音を立てて、蒸気がパイプから噴き出した。
フランツはスパナの先端をゆっくりと近づける。
反応は素早く、そして激烈だった。
蒸気の白い筋に布が触れた瞬間、シャウッという、まるで鍋で油が跳ねるような音が鳴る。それがパチパチと弾けたと思ったとたん、布から炎が立ち上がった。
フランツはすぐに蒸気からスパナを引き、レンガ床に放りだした。
しかし炎は消えない。赤とも赤紫とも言えない不気味な色の炎が、白い油の染みから、ゆらゆらと揺れている。
「……ウソだろ、おい。なんで燃えてんだよ!?」
マテウスがうわずった叫びを上げた。
ハンスら二人も目を丸くして、不気味に揺れる炎を見つめている。
そして当のフランツすら、あまりのショックに言葉を出すことができない。
(これではっきりしたけど、でも……これは)
燃えているのはスパナでも、亜布でも、そして油でもない。燃えるはずがない物が、怪しく赤紫の炎を上げる理由は、もう一つしかない。
「これは……〈白い油〉だ」
つぶやいて、フランツは左手をマットに向けて合図する。
「マット、毛布」
見なれない炎に縮み上がっていたマテウスだったが、しかし素速く手に持った毛布をスパナにかぶせる。
二人はしばらく、火が消えるまで毛布を上から踏みつけた。
「……消えた、か? ふぃぃっ……手品にしちゃ、ずいぶんドッキリさせられたな。フランツこいつは?」
溶けてパリパリになった毛布を床からはがしながら、マテウスが息をついた。
二人に近寄ってきたハンスが、ヒゲをわしわしと撫でつける。
「ラッツ、何だそれは? ワシにはさっぱりだ」
その横にすいっとオーラフが立つ。彼はメガネの奥から、厳しい視線をフランツに向ける
「それは、禁輸品の〈白い油〉だな? 私も見るのは初めてだが……何か事情があるようだ、フランツ君?」
オーラフに促されて、フランツは紙とペンを取ると机に向かい、取り囲む三人に説明を始める。
「これは……」
積み荷が〈白い油〉である確証を得た今、フランツは数日間の出来事をかなり詳しく分析できた。
事の発端は密輸だ。
三日前の事故列車、FBT412便は、密輸団に足として利用されたのだろう。
おそらく整備経由で密輸用の偽物タンクを貨車に取り付けて、制動機を無効にすることで、蒸気に触れないように運ぶつもりだったはずだ。
ところが一昨日の夕方、あの事故が起こった。
密輸団にとって、いやフランツたちにとっても不運な事故だ。
原因はまだ調査中らしいが、たぶん故意ではなく、事故そのものは偶然だろう。ところがその偶然が、一気に事態を複雑にしてしまった。
全ては、この一文に集約される。
密輸に使われた車両、すなわち〈ボッチ君〉は何両目だったのか?
密輸団に会ってからこの方、フランツがずっと腑に落ちなかった事がある。
なぜ密輸団は「貨車をすり替えられた」などと思ったのか。つまり、彼らの意図した車両から、なぜ積み荷を発見できなかったのか。
それを解く鍵は、FBT412便の行き先にあった。
FBT412便は、貨車のみ十二両の編成だ。後ろ八両は、最初からエルザブリュックで切り離される予定で、残り四両はさらに線路を上りに進み、ヴァスマウロ・シュタットが終点となる。
密輸の目的地はおそらく終点だ。
だから事故が起こったあと、彼らは事故現場を確認しに行ったはずだ。そして脱線した車両、三両目と四両目を調べ、積み荷がないことを知ったとき、すり替えられたと焦ったのだろう。
なぜフランツが目的地を断定できるのか。
逆接になるが、それこそ密輸団が発見できなかったからだ。
つまりフランツたちが止めた五~十二両目に密輸団が注目しなかった、という事実が、彼らが〈ボッチ君〉を一~四両目のどこかにつないだという証拠になる。そこから、行き先は自ずと明らかになる。
さらに一両目と二両目は無事だったので、翌日には目的地に送られたという事実から、〈ボッチ君〉は三両目か四両目、どちらかということになる。
ところがここで、フランツは大きな疑問にぶつかった。
密輸団が〈ボッチ君〉を三、四両目につないだとしたら、何で暴走車両の先頭に〈ボッチ君〉がいたのか。当然脱線しているべき車両が、なぜ脱線もせずに走りつづけたのか。
その答えは〈ボッチ君〉自身が握っていた。
昨日、フランツは二回も〈ボッチ君〉を観察したし、さらに朝には、マテウスから気になる話も聞いた。
「車両登録番号が前の貨車と入れ替わっている」のは、繋ぎまちがいのせいではない。前後の連結器が激しく壊れていたのも、偶然ではない。
フランツがたどり着いた結論。
〈ボッチ君〉は四両目だった。
その後ろに、次の文が続く。
横転した貨車は三両目と五両目だ。
信じられない話かも知れないが、先例がないわけでもない。脱線したからといって、前から順にレールを外れるわけではないからだ。
これはフランツの推測だが、転轍機で泣き別れ、つまり二つの線路を踏んだ三両目は、四両目、〈ボッチ君〉の連結器を横にへし折り、そのあと横転した。
四両目は反対側へ振られ、おかげで横転した三両目のわきを通り抜けられたのだ。 しかし五両目はそうも行かず、倒れた三両目に接触し、おそらく転がる三両目に下から突き上げられて、斜め上に吹っ飛んだ。
〈ボッチ君〉の後部連結器が斜め上にねじれていたのはそのせいだ。
五両目に接触したことで、三両目もおそらくずれたはずだ。
だから六両目から後ろは、接触することなく通過できた。結局、脱線横転は二両で収まり、四両目である〈ボッチ君〉と、六両目から先の貨車が暴走したわけだ。
密輸団も、そしてフランツたちも、脱線したのは三、四両目だと思いこんでいた。だから密輸団はすり替えを疑い、フランツたちは密輸品入りの貨車を五両目として機関庫に持ち帰った。
密輸団がエルザブリュックをうろついたり、機関庫を見張ったりするのは、たぶん横取りを警戒しての事だ。
肝心の積み荷は行方不明でも、すり替えだとすれば怪しいのは鉄道関係者だ。この街を見張っていれば、いずれボロを出すと踏んでの行動だろう。
しかし、現実はフランツに味方している。
なにせ、こちらは現物を押さえている。あとは簡単な話で……
「……あとは簡単な話です。今すぐ保安隊に通報しましょう。現物があれば彼らも……?」
そこまで説明したフランツは、オーラフが顔を強ばらせていることに気づいて言葉を止めた。
他の二人も、まずいという風に顔を見あわせている。
「皆さん、どうしました?」
「いや……その、ボッチ君なんだがなぁ……」
マテウスが頭をワシワシとかきむしる。彼は言いにくそうに顔をしかめながら、ぼそっとつぶやいた。
「もう出ちまった。回送に」
「えっ?」
「たしか九時ごろだったか、ラフ?」
つるっとした頭に手を当てて、ハンスが緊張した顔でオーラフをふり返る。
オーラフはオーラフで、落ち着きなくトントンと床を鳴らしながら答える。
「午前九時五分発、FRT151便。回送貨車八両に機関車一両。乗務はリンテ君一人。山岳の第一から予備を迂回して、フェルナに入る回送路線だ。目的地まで、五時間二十五分の予定だが……」
「リンテが!?」
フランツは泡を食って時計を見た。針は一時二十五分を少しまわっている。
(到着まで残り一時間、もうそろそろ、予備線からフェルナの機関区に入る頃だ。でも待てよ……密輸団がフェルナで密輸の仕込みができたって事は、向こうの機関庫には奴らの……)
同じ事を考えたのだろう、マテウスが慌てて受話器を取り上げる。
回したダイヤルは管理局の直通回線だ。
「もしもし俺だ! マットだ! 悪いがFRT151便に連絡が取りたい、大急ぎ、大至急だ!」
それから数秒のあいだ、四人は黙って顔を見あわせた。
フェルナ・ブルッハイの機関庫に密輸団の協力者がいるなら、当然回送の情報は向こうにも漏れていると思って間違いない。
エルザブリュックなら、それも機関庫の中なら保安隊の目があるから安心だ。
しかし向こうは、それに線路の上は? 残念だが、まったく安全とは言えない。特に山岳予備線で何か起こった場合、それに気づくのにも、駆けつけるのにも時間がかかりすぎる。
管理局から返事があったのか、マテウスは静かに受話器を置くと、重い表情でフランツの方を向く。
「ラッツ、落ちついて聞いてくれ。一時間ぐらい前から、リンの機関車と無線が通じなくなってるらしい」
「そん……な、管理局は対処してないの?」
「予備線だからって、あいつら真剣に考えてねぇな。いつもの故障だと思ってやがる」
フランツの横で手を揉み、歯ぎしりするのはハンスだ。
「なんてこったい……もしリンちゃんに何かあったら、ワシはラヴになんて言えばいい? なんとか確認する方法はないのか? 無線が無理なら人を出すか……」
頭を抱えるハンスとマテウス。
その横で、じっと考えるオーラフ。
そのオーラフが、ふいに鳴らしていた足を止めると、両眉をスッと持ち上げてフランツを見つめる。その視線から、フランツは彼の考えを読み取った。
フランツはゆっくりとうなずいて、机に手を置くとハンスとマテウスに切り出した。
「……僕が行きます。だから、力を貸してください」




