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1 そして六時の鐘が鳴る


 その世界には大陸が一つしかない。

 

 大陸はロードスと呼ばれていた。

 その名を誰が付けたのか、今ではもうわからない。土地のほとんどが岩や砂ばかりの、荒れた大陸にもかかわらず、そこには多くの人々が暮らしていた。



 大陸の西側の、山あいの片田舎にエルザブリュックという街がある。


 そこそこ大きな街だが、都会というほどでもない。

 立ちならぶ建物も、鉄骨やレンガがいたるところにむき出しの、いかにも田舎風のものだ。街は真ん中から、大きな河で北と南に分けられている。

 幅が数百メートルもあるこの〈エルズ河〉は、上流から流れてくる土と泥とでいつも濁っていた。


 河には何本か橋が架かっているが、なかでも一番大きな橋が、街の中央にある〈エルズ大橋〉だ。

 幅が六十メートルほどもある石造りの頑丈な橋で、もう数百年ものあいだ使われ続けていた。

 〈エルザブリュック(エルズの橋)〉という街の名前は、この橋が由来だといわれている。


 橋の南のたもとは広場になっていて、大きな市場として使われている。

 何列にもわたって露店や屋台が軒を連ねる市場は、いつも活気にあふれていた。今も夕暮れ間近だというのに、多くの買い物客でにぎわっている。




 そんな市場の片すみで、十六歳の少年フランツ・シュパッツは、野菜売りの屋台を見わたして、ふむ、と軽くため息をもらした。


 「明日の朝は……ジャガイモとキャベツは、まだあったから……」


 屋台のトタン机には、〈ケイ素発泡材(シャシュ)〉の白いキシキシした箱が並んでいた。

 中にはトマトにジャガイモ、玉ネギ、キャベツなどの野菜が、ぎっしりと詰まっている。


 ふいに、小麦色に日焼けした手が、ひょいっと左から現れる。そしてツヤツヤとした、あめ色の玉ネギを指さした。


 「明日はこれでポタージュ作ってよ、ラッツ」


 「え? また玉ネギのポタージュなの?」

 フランツ(ラッツ)はあきれた顔で、玉ネギを指差す少女に振り向く。


 ソバカスの浮いた丸い頬をふくらませて、リンテ・パルドはにんまりと笑った。


 彼女はフランツの幼なじみだ。

 フランツとは同い年だが、背は五センチほど高い。とはいえべつにリンテが大柄なのではない。フランツが世の少年と比べて小柄なだけだ。


 ハーフパンツに男物のジャケットという格好のリンテと、細身のシャツにスラックス姿のフランツ。

 服装も手伝って、長髪の少年とショートカットの少女にも見えた。


 リンテは玉ネギを指で転がしながら笑う。

 「いいじゃん、あたしは好きだよ。ラッツのポタージュは美味しいし」


 「それは構わないけど」フランツは玉ネギを手にとって「この前も作ったじゃない」と小さくつぶやいてから、野菜売りのおばさんに手渡した。


 「他にいらないかい?」

 大柄な野菜売りが、フランツたちに笑顔を向ける。


 「いえ、他は――」


 「これ!」

 フランツの言葉をさえぎって、リンテが屋台のすみにあるリンゴの箱を指した。

 小ぶりだが、赤くツヤツヤとしたリンゴだ。


 「おやまぁ、お嬢ちゃんはお目が高いじゃないか。それはヒューゲルフルトから今朝届いたリンゴさね。甘くて美味しいんだよ」


 「甘いの? もらうもらう!」

 リンテがそう言って伸ばした手を、フランツは素速くはたき落とす。

 「いだっ!?」


 短く「ダメです」と言い、フランツは亜布(あふ)袋と十ウルク札を、サッと肩掛けカバンから取り出した。

 「リンゴは結構ですから、これでお願いします」


 「あんれまぁ、本当に美味しいのよ?」

 野菜売りが首をかしげてこちらを見るが、フランツは涼しく眉を上下させるだけだ。


 「……やれやれ、坊やは頑固だねぇ」

 残念そうに肩をすくめる野菜売り。

 お札を受け取ると、袋に玉ネギその他をゴソゴソと詰めこみはじめた。


 「何でダメ?」

 ふてくされた顔で、リンテがフランツの袖を引っ張る。


 「高いからダメ」

 フランツはそっけなく返して、リンゴの箱に刺さった値札をコツコツと叩いた。

 黒いインクで「直輸入 一玉で二ウルク」と書いてある。


 「野菜だけならともかくさ、果物は高いって。輸入ものなんて、ならなおさらだよ?」


 「うぐぐぅ……」

 リンテがうなる。


 やがて彼女は、しぶしぶといったようすで口を開けた。

 「わかった、リンゴはいい。でも代わりにさ、このあと酒場に寄っていい? 一杯だけ、〈エーミルの店〉なら一ウルクでしょ?」


 「……そうだね」

 ため息交じりに相づちを打ち、フランツは上を見あげた。

 市場を覆うガラス天井の、四角く並んだ窓枠の向こうには、夕暮れ空が群青をバックに、黄金色(こがねいろ)茜色(あかねいろ)の雲を浮かべている。


 (次の列車までならいいか。酒場に寄るぐらいの時間はある)

 数秒ほど考えて、フランツはリンテを見る。

 「それじゃ、一杯だけですよ? 一杯飲んだらすぐに――」


 ピィフォォォッ、と市場にかん高い汽笛が響いて、フランツの言葉をかき消す。


 二人の後ろで、買い物客たちがあわただしくに道を空ける。

 開けた足下からは、石畳とその上に引かれたレールが姿を現した。


 ほどなく枯草色の小さな機関車が、汽笛を何度も鳴らしながら走ってくる。

 何台も繋がれた、くすんだ緑色の小さな客車は〈路面鉄道(トラム)〉のものだ。

 箱のような、小さな客車には、疲れた様子の乗客がぎっしりと詰め込まれていた。何人かは、客車にかかった薄い銅ぶき屋根に乗っている。


 列車はゆっくりと市場の真ん中を横切って、エルザ大橋へと入っていった。


 「トラムってさ……この時間は大変だよね」

 列車を見ていたリンテがつぶやく。


 「〈市民の足〉だもの、しかたないよ」

 答えるフランツは、橋の向こうへ消えていく列車を見送った。



 ロードスの交通機関の花形は、なんといっても鉄道だ。

 自動車がそれほど一般的ではないロードスでは、どこへ行くにも、何を運ぶのにも鉄道が用いられている。

 その中でも、トラムは都市のあちこちを結ぶ大切な仕事だ。

 そしてとても忙しい仕事でもある。機関士なら口をそろえてトラムはやりたくないと言うだろう。


 列車が通りすぎれば、レールは人ごみの下にまた埋もれてしまった。

 フランツたちも野菜売りの屋台に目を戻す。


 そのときだった。

 市場の入り口から、フランツたち二人を呼ぶ声が上がる。


 二人が振り向くと、鉄さびの浮いた大きなアーチの下で、背の高い男が手を振っていた。ちょっと太った、パリッとした格好の中年の男だ。


 気づいたフランツが手を振り返すと、男はドタドタと足を鳴らして走ってきた。

 「リン! ラッツ! ここにいてくれたか!」


 男性は二人の前で、靴を滑らせて止まった。

 パリッとしたベージュ色のシャツには、大粒の汗がにじんでいる。見事に禿げあがり、てっぺんまで茶色の肌が見える頭に右手を当てると、男性は困った顔で二人を見た。

 「すまないが二人とも、今すぐ機関庫に戻ってくれ! 急ぎの仕事だ!」


 「はぁ? どういう事!?」

 リンテが不満そうに小さな眉を吊り上げ、さらにぐいっと下唇を突き出す。

 「あたしたち、いまさっき仕事が終わったばっかりだよ?」


 フランツはサッとリンテと男性、ハンス・フロッシュとの間に割り込んだ。

 「リン落ちついて、まずはハンスさんの話を聞こうよ。で、ハンスさん、急ぎの仕事って何ですか?」


 ハンスは斡旋(あっせん)会社の社長、つまり、二人に仕事をくれる人だ。

 見かけ通りに優しい人で、まだ若い二人に、いろいろな仕事を回してくれる。二人とも、彼には並々ならぬ恩があった。

 一方で社長にしては人柄が少々砕けすぎで、頼むのは上手だが押しつけるのは苦手だ。


 努めて柔らかい顔をハンスに見せながら、フランツはもう片手でリンテをなだめる。

 (ここでリンがさわいだら、せっかくの仕事をふいにする。今月は定期点検だってあるんだから、お金は少しだって必要だ)


 ハンスは申し訳なさそうに頭を下げると、二人に合わせて身をかがめて話す。

 「すまんなラッツ。詳しいことは……ちょっとここではあれだが……じつは山岳線の方で事故があったらしいんだ」


 コーヒー色の顔を渋く曲げて、ハンスは豊かな顎ヒゲを指でひねる。

 「管理局(トゥルモ)から事故処理の手伝いを頼まれたんだが、あいにくとこの時間だろう? 他の機関士はあらかたトラムに出しちまって、他に頼みようがないんだよ」


 ハンスの話を相づち交じりに聞くフランツ。

 彼の大きな黒い目をうかがいながら、彼は素速く考えをめぐらせた。もちろん、顔は柔らかなままだ。


 (あらまぁ、タイミングが悪い。市場に寄らずにに、まっすぐ帰ってれば良かったかも。ま、ハンスさんは他に話を持って行けそうにないみたいだね。

  ……なら、ここは恩の売りどころだ)

 結論にたどり着くや、フランツはサッとうなずいた。

 「わかりました、やりましょう」


 「助かるよラッツ!」とハンス。


 「なんで! ありえないしラッツ!」とリンテ。


 フランツはサッとリンテに顔を寄せ、ちいさな声で素速く耳打ちをする。

 「終わったら酒場に行く、約束する。僕が全部おごるから」


 「ほんとに?」

 リンテの顔が、不機嫌から一転パッと明るく輝いた。


 「約束だからね、ビールだからね!」

 リンテはフランツの背中をバンッと勢いよく叩くと、ニカッとまぶしい笑いを浮かべる。

 さらにハンスに向かって、「まかせといて!」とガッツポーズをして見せた。


 それに対して、ハンスはゴツゴツと岩のような眉間をハの字に開き、呆れ半分でリンテを眺める。そして彼は、フランツに小さくウインクした。


 そこへ「お客さん、包んだけど?」と、野菜売りの声が上がる。

 すぐにフランツは野菜でふくれた亜布(あふ)袋を受け取る。

 (ん? 何か重い……)

 フランツは一瞬考えて、袋から赤い何かを取り出すと、残った袋をハンスの手に押し付けた。


 「ハンスさん。申し訳ないですが、これを僕の家までお願いします。それとラヴおばさんに言づてもお願いできますか? 今日は遅くなるから、夕飯は先に食べてくださいって」


 ハンスは袋をつかんでコクコクと肯く。

 「まかせとけ。ラヴには俺から言っておくよ」


 「助かります。そして……」

 フランツは野菜売りに振り向くと、手にしていた物、つまり赤く小ぶりなリンゴを、ひょいっと投げ渡した。

 「これは返品で」


 「あんれまぁほんとに、坊やは目が利くもんだね……」

 野菜売りが苦笑いを浮かべて、銀色の硬貨(ミュッツ)をフランツに差し出す。

 

 受け取ろうとしたその瞬間、硬貨(ミュッツ)は小麦色の手にサッとかすめ取られてしまった。

 「んへへぇ、これは先にもらうよっ!」


 2ウルクの硬貨(ミュッツ)を握りしめたまま、リンテは素速く走りだす。

 彼女は石畳をカツカツと鳴らして、あっという間に人混みに消えてた。


 「リン! それはビール代じゃないから! 返しなって!」

 フランツはあわてて後を追う。

 

 その背中に、橋の大時計が六時を知らせる鐘の音が、遠くリンシャンと弾けた。

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