17 三月十九日
クライス歴一六二年、三月十九日、早朝。
フランツはまだ夜が明けないうちに、自室に眠るリンテを置いて家を出た。
朝一番のトラムに飛び乗って、眠い目をこすりながら、彼は機関庫に滑り込んだ。
今日の彼の仕事はトラムの牽引だ。ハンスの所では当番制で回ってくる仕事で、フランツとしてはあまりやりたくないが、当番になった以上はしかたない。
朝の六時には運転席に入り、機関車を下りる事ができるのは、午後を回ってからになる。
ぶっ通しで八時間近く乗る事になるため、フランツは機関庫の売店で水や昼食を仕入れてから、テア号に乗り込んだ。
テア号のような中型機関車は、もっぱらトラムでも周辺線と呼ばれる、都市外縁の線路を走る事になる。客車の他に貨車も使われているため、パワフルな中型の方が喜ばれるからだ。
朝焼けの中、機関庫を出て行くテア号の運転席で、フランツはてきぱきと操作をしながら、頭の半分を考え事に使っていた。
一晩眠っていくらかはすっきりした頭で、最初に考えたのはブラーヴァのことだ。
車団のスカウトに応じる事と、ブラーヴァを置いてこの街を出て行く事がセットになっている限り、フランツたちは二者択一を迫られる。
リンテと約束した、みんなが納得できる答え、なるものは、おそらくこの、前提条件を覆さないと出てこない。つまりセットではなく切り離して考えるのだ。
と、そこまでは頭が回るのだが、そこから先はまったく手に着かない。
試しにお手伝いを雇う事も考えたが、二つの面で不安が残る。
一つは給金だ。フランツたちが車団に入ったからと言って、最初から大金が与えられるとは考えにくい。
だいたい、フランツたちが持っている三級機関士は、取得した都市とその機関区でのみ有効だ。
ヴァスマウロ・シュタットに行くなら、向こうで取得し直す必要がある。審査の時間をどれだけ短く考えても、おそらく半年はかかるだろう。
その間、二人は働いて稼ぐ事ができない。おそらく、お手伝いに払う給金を工面するのは難しいだろう。
それに、もう一つの問題もある。
それは信用だ。
掲示板の広告なんかでお手伝いを募ると、飛びついてくるのはたいてい、物取りまがいの輩だ。ろくな手伝いもせず、家の物をくすねていくような奴は、この街にも掃いて捨てるほどいる。
かといって、信用あるお手伝いを雇うのも難しい。
それには、金持ちがするように斡旋会社に頼むしかないが、そういう会社は手数料をがっぽり取っている。給金プラス手数料は、先行き不透明なフランツたちにはとても払えそうにない。
理想を言えば、知人に手伝ってもらうのがベストだ。
だがシュパッツ家は街から少し離れているから、通ってもらうのは難しい。住み込んでくれそうな人物にも、残念ながらフランツの心当たりはない。
「だれか、部屋を追い出されたりとかしてくれないかなぁ」
ついつい願望が口をついて出るが、運転席にそれに答える者はいない。
(――♪)
いや、一人はいた。
フランツは計器腕板をやさしく撫でて、テアの気遣いに微笑んだ。
三時間後、テア号は郊外をつなぐ路線を走っていた。
時刻は九時を過ぎて、そろそろ人の移動が激しくなる時間帯に入る。
テア号には、いま客車が三両に貨車が二両連結されている。
いずれも緑の車体に黄色の帯が入った小型の車両で、これは駅公社の下請けをしているトラム業者のものだ。
「減速二十、標識確認」
砂地にぽつんと佇む駅標識を前に、フランツは指差喚呼を、つまり声を出し、指で標識と速度計を指す動作をする。
これをやっている機関士は少ないが、グローシュの教えによると、やるとやらないでは大違いだそうだ。
何となく操作するよりは、確認した方がミスは減る。慣れていても、確認する事で取りこぼしを防ぐという発想のようだ。
「水量は……減ってる」
フランツは計画書にチェックを入れ、マイクを取る。
「こちら019、トラム管理局どうぞ」
『こちらトラム管理局。019どうした?』
今日の担当は、ちょっと年季の入った男性の声だ。
「トラム管理局。019は給水が必要です。次か、その次で手配をお願いします」
『了解019……ちょうどよかった、次が少し長く停まりそうだから、そこで頼むよ』
「わかりました、019オーバー」
交信を終えると、フランツはすぐに減速操作をはじめる。
変な事態でもない限り、この手の操作でフランツが悩む事はない。十二の頃から習ってきた運転は、しっかりと体に染みついていた。
砂と土、そしてわずかな草地を横目に、フランツは手慣れた動きでテア号を減速させる。
機関士としての腕の見せ所の一つが、客を乗せているときの減速だ。
制動機のかけ方一つで、客にかかる負担がぜんぜん違ってくる。
繋ぎが下手だったり、急制動をかけたりすれば、客は当然不快に思う。屋根のない客車だと、お客が転げ落ちる事だってある。
その点、フランツに心配はない。トラムであっても貨物線であっても、彼は常に先を読み、的確に制動機を調節してスムーズに減速させる。
テア号はゆるい丘を越えて、次の停車駅〈マルキース〉へと進入する。
「微速三、二、停止位置を再確認…………はい、っと」
さすがに両手を使っていると指さしはできないが、それでもフランツは声と視線で確認しながら、旗を振る駅員の所にピタリとテア号を停車させた。
手動制動機を回すフランツの所に、駅員がハシゴを登ってやってくる。フランツはドアを開け、五センチ四方の、いくつか穴の空いた鉄板を駅員に渡した。
「通票をどうぞ」
「ほい、ありがとう。019だね、給水込み、対向列車待ちで八分よろしく…………あ、やっぱりフランツ君じゃないか。青い機関車だから、そうじゃないかと思ってたんだ」
若い駅員が明るく話しかけてきた。フランツは名前を知らないが、機関庫や市内で何度か話した事がある青年だ。
「給水はすぐ来るよ、ちょっと背中を伸ばすといい」
駅員は手招きするが、フランツは首を振った。
「このままで。通票、早く持っていかないと」
「そうだな、んじゃまた」
駅員はするりとホームにおりて、レンガ造りの小さな駅舎へと歩いていった。
彼が持っていった鉄の板、通票は、区間閉塞という仕組みで使われる。
線路が一本しかない路線では、当然のこと、全ての列車を同じ線路で通さなくてはならない。
このとき一つの区切り、たとえば駅と駅の間に、二つの列車が同時に通っていると問題だ。
二つの列車が同じ方向に走っているときに、前を走る列車が急に止まったりすれば、追いついた後ろの列車が衝突するかも知れない。
もし列車が両方向から走って来たなら、あとはもう正面衝突するだけだ。
そういう事がないように、一つの区間には一つの列車しか通さない、という取り決めがある。
それが区間閉塞だ。
詳しい事はいろいろとあるが、ごく簡単に言えば、通票を持っていない機関車は、対応する区間には入る事ができない。
通票の穴は区間ごとに違っていて、駅に着くごとに、次の区間に対応した通票を渡される仕組みだ。一度に同じ通票が二枚出ないように、駅同士は電話や電信で連絡を取り合う規則になっている。
これで一つの区間には、常に一つの列車しか入れない事になる。
通票を使う方法は、無線機のある今では原始的な方法と言える。
しかし、物を使うのは確実だし、なにより安上がりという利点もある。特に利益が薄く、停車駅が多いトラムでは、これだけでも安全策としては充分だ。
停車しているテア号に、ハシゴと給水ホースを持った係員たちが走ってくる。
彼らは車体にハシゴをかけて登って、慣れた手つきで給水口にホースをセットする。
「給水始め! ポンプ開けろ!」
号令に続いて、水タンクへと音を立てて給水が始まった。
テア号の水タンクには、全部で十トン近い水が入る。全部入れるには時間が必要で、その都合を付けるためにも、前もっての連絡が欠かせない。
それにしても十トンとは、かなりの量だ。
しかしテア号は、これを二時間ちょっとで空にしてしまう。
機関車の電力源である〈熱電対発電〉が、水をバカ食いするせいだ。
〈熱電対発電〉は常に冷やす必要がある。冷やさなければ最悪の場合、機関車が木っ端みじんに吹き飛んでしまうだろう。
全てはケルノの温度が高すぎるのが問題だ。
ケルノが出す熱は、最高で一千二百度にも達する。鉄でも真っ赤に焼けるし、アルミならドロドロになる温度だ。
確かに高い熱は、温度差を電気に変える〈熱電対発電〉では利点になるが、何事にも限度がある。
ケルノがあまりに熱すぎるので、冷やすための水は、あっという間に高温高圧の蒸気に変わってしまう。
蒸気の温度が三百度を超えたら、いかに頑丈な機関車の罐胴と言えど、日なたに置いた風船に同じ。あっという間に破裂する。
機関車は燃料を必要としないが、代わりに冷やし続けるために大量の水を必要としていた。
いっそケルノの温度を下げてやりたいところだが、これはできない相談だった。
古代の機械で、俗に〈異質機械〉とも呼ばれるケルノを、今のロードス人は制御できない。
ケルノには調整弁も開閉器もない。制御といったら、人とつなぐコードを外して機能を切る事ぐらいだ。
いわばオンとオフしかないストーブみたいなもので、機能している間は常にフルパワーで動き続ける。なんとも扱いにくい機械だ。
閑話休題。
給水は意外と早く終了した。
係員たちが撤収するのを見送って、フランツは時計を確認する。
停車から四分半経過。
テア号は牽く列車は、対向列車と駅ですれ違う予定だ。
駅員の話ではまだ三分ちょっと時間がある。フランツは軽く伸びをして、開いたドアから駅の様子をうかがった。
ホームは、様々な服装の人たちでごった返している。
着飾ったおしゃれ着に、目だたない普段着、汚れた作業着の一団は、おそらく工場区へ働きに行く人たちだろう。さらに大きな荷物を背寄った行商人、それにホームで商売をしている物売りもいる。
もちろん、揃いの制服を着た係員たちもいる。
彼らは客車に付いたりホームの端に立ったりして、テキパキと自分たちの仕事をこなしていた。
と、そこへ無線機の呼び出しが鳴った。
フランツはドアから頭を引っ込めると、すぐにマイクをつかむ。
「こちら019、トラム管理局どうぞ」
『こちらトラム管理局。019、遅延連絡だ。対向104が乗客トラブルで五分遅延している。そのまま停車し、待機しろ』
「対向104、乗客トラブルで五分遅延、019了解、待機します」
『019確認、トラム管理局、オーバー』
フランツはマイクを置きながら、あららまぁ、と小さく息をもらした。
待っている対向列車が遅れているようだ。
しかし五分ぐらいならよくある事で、影響は軽いはずだ。
ロードスで定時運行を売りにできるのは氏族直営の〈大本線〉か、よほどの大手路線だけだ。普通の鉄道なら、五分十分の遅れは日常茶飯事になっている。
フランツは本格的に背筋を伸ばして、窮屈なシートに背中を預けた。
三時間近く座りっぱなしだったので、お尻や背中があちこち痛い。
「さて、五分追加で……あとちょっとはヒマなわけだ」
こうなると、ずっと座っているのも馬鹿らしくなる。
フランツは「ちょっと出るね」とテアに声をかけて、首のリングからコードを外すとシートを立つ。
ホームに飛び降りると、フランツは適当な物売りを探した。
「お茶か、甘い物でもいいんだけどな…………」
そのときだ。
「ちょっと、よろしいかしら?」
後ろから降りかかった涼しい声に、フランツはあわてて振り向いた。
そこには〈白〉が立っていた。




