女傑
女傑
大瀬子橋の下で子供が駆けています。一人、二人、三人……。その後ろを幼児が一人、母親に手を引かれて頼りない足取りで追っていました。
松の並木に混じって楠が大きく枝をはり、幹にはたくさんの蝉が止まって尻を震わせています。
ツクツクボゥシ、ツクツクボゥシ……。
先頭を駆ける子供が派手な水しぶきを上げました。かなり間を広げられた幼児が、ベタッと転んでバチャッと水しぶきを……。一声、二声、泣いてはみたものの母親がそ知らぬふりをするので、自力で起き上がりました。しきりと頭を撫でで褒めてやった母親が、先を行く子供を指差して追いかけるよう促しました。
よく絞まった砂地だから怪我をする心配なんてありません。水にさえ気をつければ、幼児の足腰を鍛えるのには最適の遊び場なのです。
「母上、帰りが遅うございます。七つが鳴ってずいぶんたちます。そろそろお客様がお着きの刻限、お急ぎください」
戸口で打ち水をしていた娘が呆れたように声をかけました。
「もうそんな刻限かね? 鐘なんか聞こえなかったよ」
「またそのようなみえすいた言い訳を……。見苦しいことでございますよ。主としての気概が足りません」
「ほんにお前は……。どっちが主かわからないよ」
「母上!」
お茂が子を産んではや二年。子育てに追われてたいした働きもできなかったのに、鼻緒屋は徐々に力をつけていました。
再び時を戻します。
お茂が元気な男の子を産んで十日ほどの日のことです。
雪絵の考えがまんまと当り、二日で一両の稼ぎが続いていました。しかし、お茂はもう臨月。いつ産まれてもおかしくない時期です。ですから、雪絵は旅籠とまじない結びに大忙し。子が産まれれば当分の間はお茂の手をあてにすることはできません。それでは雪絵が倒れてしまいます。住み込みの奉公人を雇うことになりました。しかし、奉公人を抱えるにはまとまった支度金がいります。そんな余裕は鼻緒屋にはありません。そこで思いついた窮余の一策は、孤児を受け入れることでした。孤児を引き取り、家族の縁を結ぶかわりに家業を手伝ってもらうということです。考えれば虫のいいことです。あちこちの町名主に周旋をたのみましたがうまくゆきません。思案にくれた喜助は、検番で愚痴こぼしをしました。
日頃から親身になってくださる小出様が心強い言葉をくれたのですが、それも空振りに終わりました。
ある日検番に呼ばれた喜助は、坂崎様に一通の添え状を渡されました。
「奉公人がみつからず、苦労しておること、聞き及んでおる。昨日報せがあったが、どうやら目に適う者がおるようだ。所は知立。歳は雪絵と同じ十四、年子の妹もおる。その方ら、私心なく世話をしておるゆえ、特に教えて遣わす。気性が気に入れば、連れ帰ることもできよう。が、猶予はならん。行ってみるか?」
坂崎様も気にかけてくれていたのです。添え状を押し戴いた喜助は、雪絵にそのことを伝えると、すぐさま鼻緒屋へ帰りました。
夜も日もなく乳をやらなばならぬお茂は、赤子に添い寝していました。まだ産まれたばかりの赤子を抱えているので、お茂自身、なにもできなくれ苛々するばかりでした。
「きー公、ご苦労だけど会ってきておくれ。性根が曲がっていなかったら連れて帰るんだよ。夜までには知立に行けるだろう?」
お茂は即座に答えました。せっかく坂崎様が骨を追って探してくださったのです。善い悪いはともかく、すぐに会いに行くのが何よりの義理だと思ったのです。
「おぅ、俺もそのつもりだったんだ。けど、坂崎様がなぁ。どうにも苦手なお人なんだが、善くしてくださる」
「ねぇ、きー公。一番善くしてくださるのは誰?」
「そりゃぁ小出様よ!」
「ばか。女房を忘れてどうするんだよ!」
熱田宿から知立宿までおよそ七里。先ほどの鐘は巳の上刻です。だとすれば、申の下刻には知立に着くでしょう。うまくすれば宿役人がまだ詰めているかもしれません。喜助の頑張りしだいで、今日のうちに相手と会えるかもしれません。
「お茂、行ってくらぁ」
いとも気軽に喜助は発って行きました。
一晩すぎ、二晩すぎました。喜助が発って三日目のことです。東海道を上ってくる三人連れがいました。腰に竹筒を吊っただけで荷物を持たない男と、小さな風呂敷包みを襷に括りつけた娘が二人。娘たちは、右や左をしきりと眺めているようですが、どうみても遊山ではなさそうです。
桑名へ向けて最後の船が出るところで、旅人が次々に乗り込んでいます。波はおだやか、風は海風、遠い沖合いまで黒い雲はありません。まずまず順調な船出ができそうです。
一人身軽ななりをした男はそれを指差しながら、盛んに話しかけているようでした。
当たり前のように検番の敷居を跨いだ喜助は、坂崎様に二人を引き合わせ、何度もなんども頭を下げました。ついでに雪絵にも二人を引き合わせました。そして、雪絵に何かを言いつけて、ようやく鼻緒屋の暖簾をくぐったのです。
「お茂! けぇったぞ。二人とも素直な娘だ。早く出て来いよ! 何してんだ?」
お茂は、目を覚ました赤子が泣くので、乳を飲ませているところでした。まさか初対面で、乳をふくませたままというわけにもゆかず、どうしようか躊躇っていたのです。
「おかえり! 疲れただろう? ちょっと待っておくれよ。尚助に乳やってるから」
なんとか少し待ってもらえないかと、声だけで応えました。
「いいじゃねぇか。相手は娘だ、恥ずかしがるこたぁねぇや。そのままでいいから、早く来いよ」
そうなのです。初めてやってきた相手に失礼なのは十分にわかっています。それより何より、鼻緒屋の主人は気難しいと思わせてはいけないのです。他には誰もいないと喜助は言うですが……。
「じゃあ、……こんな格好ですまないねぇ」
お茂は、部屋から顔だけ出して様子を窺ってみました。たしかに喜助と二人の娘がいるだけです。二人とも不安そうにして、ことに背の高い娘はもう一人の袖をぎゅっと掴んでいるようでした。
お茂は、尚助に乳房をふくませたままで帳場へ出てゆきました。まだ新米の母親のためか赤子の抱き方がぎこちなく、両手で大事そうに抱えています。落とさないようにばかり注意がむき、覚束ない足取りで帳場へ出てきました。
喜助の背に隠れるように、おどおどしていた二人の顔が一気に弛みました。
「ごめんね、ついさっき目をさましたとこでね、乳をほしがってたから。……どうだい? かわいいかい?」
二人は、ただ頷いただけですが、頬をほころばせて赤子の小さな手を指でなぞりました。緊張が解けてしまったかのように赤子に見入っています。
「これが、この鼻緒屋の主、お茂だ。俺は亭主だが竹細工が稼業でな、それに目明しの務めもあるから旅籠のことには口を出さねぇ。だからよ、お茂の指図で働いてくんな」
喜助が二人にお茂を紹介し、次いでお茂を見やりました。
「こっちの背の低いのが姉のお種。大きいのが妹のお留だそうだ。お種は十四、お留が十三.雪絵も十四だから、いっぺんに娘が三人になってまった」
「そうかい、お種とお留だね。仲良くやっとくれよ。仕事は夕餉の時に話すとして、着る物を用意しないといけないね」
くたびれはてた身なりを見れば、お茂でなくても二人の暮らしぶりが偲ばれるというものです。まずは小奇麗にしてやることが、娘を安心させることなのです。
「抜かりがあるかよ。帰りがけに坂崎様にご挨拶したんだがよ、ついでに雪絵に引き合わせたんだ。早仕舞いして着物を買ってくるよう頼んどいたよ」
喜助は、得意そうに鼻を擦り上げました。
「きー公、気が利くねぇ。じゃあ、まずは休んでおくれ。すまないがねぇ、ちょっと手が離せないから、井戸で足を……。きー公、教えてやっておくれ」
そう言ったくせに、お茂は赤子が吸うのをやめた乳首をそっと引き、片方の乳を丸出しにしたまま二人の目の前に赤子を近づけました。
まだ首が据わっていないので、お茂は乳にぴったり赤子をつけています。
腹が満たされてしばらく口をパクパクしていた赤子が、突然小豆のように顔を赤くしました。
「あっ、やったよ……。飲むとすぐやるんだから」
お茂は、慌てて奥へひっこみました。
あと四日ほどで文月になる頃のことでした。
お種とお留を迎えた鼻緒屋は、ギクシャクしながら新しい一歩を歩み続けていました。
赤子に手が掛からなくなったら……。そう考えていたお茂は、初めての子を産んでいくらも経たないうちに二人目を身籠ってしまったのです。
赤子の首が据わり、抱くにも気を遣わなくて良くなったのですが、なにやらムカムカしてきます。殊に暑い夏のせいで食欲が落ちているくらいに考えていたのですが、いくら涼しい早朝でもムカムカが治まりません。特にご飯の炊き加減をみるときは、暑さに関係なく胃の腑を押し上げるようなむかつきに悩まされていました。
口が不味くなり、どうしてもさっぱりするものばかり作るようになっていました。しかも季節は孟夏、誰しも後味のよいものを好んでいたのだから誰も気付きません。
結局お茂が先頭に立てなかった穴埋めは、二人の娘が立派に引き受けてくれました。もちろん、いきなり主力にはなれませんが、叱られ、褒められするうちに仕事を覚え込んでいったのです。
「お種、おたね!」
「お待たせしました。今日は何を買ってきましょうか?」
「おや、よく買い物だとわかったねぇ」
「この頃合いならいつも買い物ですから」
「この子は……。今日はひとしお暑いから、奴にしようか。豆腐を十丁ばかり、それと、生姜がなくなっただろう、それもついでにね」
「あのぅ、ここいらでは田楽を食べないのですか? 味噌味がさっぱりしていますよ」
「食べないことはないけど、炙らなきゃいけないからね。それより奴のほうが冷たいし、後味もいいし……」
「ここには三河味噌はないのですか? あんな墨のような味噌では使い難くて困ります。味噌汁を残すお客さんが多いことを知っていますよね」
この界隈で食べられている味噌は、墨のように真っ黒です。そして少し苦味があります。
「そんなこと言ったって……。じゃあ、少しだけ買っていいよ。不味かったらもう買わないからね」
こんなやり取りがありまして、お種は重い桶を持ったまま味噌屋で品定めしました。いろんな味噌樽が並んでいますが、味見をしてみると岡崎味噌が一番美味しく感じました。百匁ほどを包んでもらい、鼻緒屋への帰り道、近在の百姓が茄子を投売りしていました。ほとんどの野菜が売れ、もう十分な銭になったので投売りをしてでも早く帰りたいということです。これを逃してはいけないと、お種は百姓を連れて帰りました。
降って湧いたようなありがたいことです。お茂は、残りを全部を買い取ってしまいました。大小取り混ぜて五十本はあります。あまりに不揃いなのは漬物にして、残りをどう料理するかは腕の見せ所です。
その時、何を思ったかお種が小さな茄子と味噌を持って勝手場に姿を消しました。
「味見をお願いします」
さて今夜の献立をどうしようか、お茂は考えていました。手元にあるのは豆腐と茄子。奴にしようと考えていたのでそれはよいのですが、茄子でもう一品作ってやれば膳が賑わうでしょう。一番手軽なのは焼き茄子です。煮物にするには少しばかり時間が足りないように感じていました。そこへお種が味見を求めたのです。
「おや、偶然だね。私も焼き茄子にしようと思ったところだよ」
皿の上には二つ割にした焼き茄子が、まるでタコが足を広げたように載っていました。
「それで、味噌をこうして……」
お種がヘラで味噌をなすりつけました。
「お種、どうして見た目を悪くするのさ。これじゃ田楽じゃないか」
お茂の言う通り、茄子の瑞々しさが損なわれてしまいました」
「味見をお願いします」
「味見っていうけど、まるで……。見た目がねぇ」
「味見……」
「わ。わかったよ。だけど、踏ん切りがいるよ」
たしかに外見は軟便をなすりつけたように見えます。
何度もためらった後に思い切って端をペロッと舐めてみたお茂、眉間に刻まれていた深い皺が見る間に薄れてゆきました。
味噌の塩味の中に甘味があります。くどくない後口は、後を引く旨さでした。
バシンとひとつお種の肩先を叩いたお茂は、いかにも旨そうに大きな塊を口に運んだのです。
「お種、おいしいよ! これにしよう、夕餉はこれだ! けどさ、どこで習ったんだぃ?」
お茂に手放しで褒められたお種は、それには答えずに豆腐を薄く切りました。茄子になすりつけた味噌を出し汁で延ばし、豆腐にタラリと垂らしました。
「これはちょっと……、水っぽいよ。もう少し濃ければいいのに」
豆腐から滲み出る水が味噌を薄めてしまったのです。ですが、これ以上濃くすると垂れなくなりますし、豆腐の豆臭い水も味を悪くしています。
「ものは試しだ」
お茂は、もう一切れの豆腐に塩を薄くふりました。そこへ味噌を垂らします。
一口味見をしたお茂は、皿ごとお種に突き出しました。
「味見、味見!」
お種も一口。目を泳がせながらコクリと飲み込みました。そして、真ん中あたりに箸を入れ、切った片方を一口に食べてしまいました。
「味噌の味がはっきりしています。おいしいです」
言いながらお茂に差し出しました。
「お種、ご苦労だけどさ、雪絵のところに使いをたのむよ。豆腐の下にスノコを敷けば水気が切れるだろう? だからさ、きー公に作ってもらおうよ。ついでに味見をさせてやろうよ。四つ割でいいからね、検番にも届けておくれ」
実は、お茂に新たな思惑が芽生えたのです。
夕餉の膳はことのほか賑やかでした。雪絵もお種もお留も、口々に客が感心していたことを伝えるものでした。これでまた鼻緒屋の人気が上がり、食費の心配を減らせるからです。
「お前たち、どうだぃ? うちの子にならないかぃ? 私たちは最初っからそのつもりなんだけどね、嫌でなかったらさぁ、このまま身内でやっていこうよ。心配しなくても、ちゃんと嫁に出してやるからさぁ」
片付けもすんでひとしきり賑やかにした後のことです。お茂がお種とお留に真顔で訊ねました。
お種もお留も奉公人という気持でいました。気兼ねなくものを言い合える奉公先として、妙な気持でいたのも確かです。世間で言うような辛さなど微塵もないのです。夜明け前から仕事が始まり、客の世話がすむまで夕餉を食べられないのは事実です。でも、それはどの家でも同じこと。頭ごなしに叱られるなんてまったくないだけ、どこより自由でした。給金がどうというのではありません。姉妹二人だけの身内となって行く末に希望を失っていたのです。
二人は長い間目を見交わしていました。ですが、もじもじするだけで言葉にできません。
じっと黙って様子を見つめていた雪絵が二人に向き直りました。
「気が決まったようですね。きっと言葉にする勇気が出ないのでしょう。では、私が父上と母上にご挨拶します。それでよければ後についてきなさい」
雪絵は、二人にだけ聞こえるように言いました。そして二人の横に戻りました。
「父上、母上」
「ちちうえ、ははうえ」
雪絵が声を張り上げると、二人がつられたように声を出しました。
「よろしくお願い申し上げます」
「よろしくおねがい、もうしあげます……」
何度も頷いたお茂は、二人ににじり寄ると、しっかり肩を抱いてやりました。
「へっ、雪絵は罪なことをするねぇ。お種やお留が父上の母上のと言ったらどうするんでぇ。……まっ、そんなこたぁどうでもいいか。じゃあよ、せっかくだから俺も仲間に入れてもらって、こう、ぎゅっとな……」
「きー公はだめだよ。男なんてろくでもないんだからね!」
「ちぇっ」
親なしばかりが五人、こうして家族になったのです。
寒くなれば温かいものをほしがるのは人の常。ならばということで簡単な食べ物を置くことにしました。そのためには喜助の仕事場がうってつけです。篭編みができなくなるという喜助の抗議などどこ吹く風。女という生き物はまことに身勝手なものですね。
目一杯大きな鍋に大根やらこんにゃくを入れまして、コトコトコトコト……。鍋の真ん中に小さめの壷が立っています。中には黒ずんだ味噌タレが入っていました。まじない結びの客に食べさせようという魂胆なのですが、特に海風で冷えた旅人には何よりのご馳走のはずです。そして、商いを始める報告を兼ねて、検番に詰める人を呼んで味見させ、お役人には家族に手土産を持たせることを、お茂はしていました。その反応が良かったから自信をもっていたのです。
まじない結びをしてもらった旅人が味噌の香りにつられて鍋をのぞきこみました。大根とこんにゃくが串にささって行儀よく並んでいます。
「おでんかい。もうそんな季節になったってことかい。と言いたいところだが、なんだい、種が少くねぇなぁ。まぁ、どんな味か、土産話に食ってみるか」
ひょいと大根の刺さった串を取り上げた旅人は、そのまま口に運ぼうとしてお留に止められました。
「お客さん、待って! うちにはうちの食べ方があります!」
「あぁ? そうなのかぃ? そいつは悪かったな。で? どうすんだい?」
「このタレをかけて食べるのです」
お留は、鍋の小壷から味噌タレをすくい、タラタラと垂らしました。ところが、それが呑気に見えたのか、旅人は串を奪うなり小壷にトプンと突っ込んだのです。
「なっ、こうすりゃ早ぇや」
旅人はタレをポタポタ垂らしながら口に運ぼうとしますが、着物の汚れが気になって仕方ありません。ようやく手順を思い出したお留がハランを一枚差し出しました。
「おぅ、ありがとよ」
胡散臭げに眺めた末に、思い切って一口やった旅人が大きく頷きました。
「うめぇ! 酒がほしくなるくらいうめぇ! 次はこんにゃくだ」
「旨ぇだと? 手前ぇ、年端のゆかねぇ娘に鼻毛抜かれやがって、こんなきたないもんが旨ぇわけ……、う、旨ぇなぁ! 俺もこんにゃくくんな。で? いくらだい?」
「はい! 一串八文です!」
とても順調な滑り出しでした。
いよいよお茂に子ができたことがわかると、お茂はずっと鼻緒屋に引きこもったままでした。何かに用事をしようと思うのですが、三人の娘がさせてくれないのです。尚助も座るようになったことだし、少しづつ乳離れをさせています。だから、産んですぐの頃と較べると子供に手が掛からなくなっていました。
雪絵のまじない結びは切れ間のない客に追われているし、お留の味噌おでんも好評です。鼻緒屋を頼る旅人が減らないのは哀しいことですが、まずは順風万帆といったところです。喜びに満ちた会話で埋め尽くされているのです。でも、それは娘が部屋に戻るまでのこと。娘がいなくなり尚助も眠ったあと、お茂と喜助は二人だけの世界にひたっていました。
「きー公、今日さぁ、お宮へ月詣でに行ったんだけどさぁ……」
お茂はいつものように今日のできごとを喜助に聞かせました。嬉しいことも哀しいことも含めてです。
滑らかだった口調が鈍り、喜助を玩んでいた手が動きを止めました。
「禰宜さんがね、言い難そうにしてたんだよ。これだけじゃぁ何のことかわからないねぇ」
「なんでぃ、どうかしたか?」
喜助は、体を横にしてお茂に向き合いました。
「三月ほど前のことなんだけど、親子連れがお宮で動けなくなっていたそうなんだって。あんまり気の毒だから、納屋で養生させてやったんだって。でもね、亭主に先立たれて帰るところがないらしくてね、いくらか動けるようになったから、下働きをさせていたそうだよ」
「さすがお宮だねぇ、無下に追い出さなかったんだな。そうでなくっちゃいけねぇ、それが人の道ってやつだ」
「ところがさ、半月ほど前にその母親が……」
「なんでぇ、どうしたい」
「病がぶりかえしてあの世に……。子供を残してってのは心残りだと思うよ、私だったら化けてでも尚助を守ってやりたいからねぇ」
そこまで聞けばおよそ言いたいことが喜助にも伝わったようです。
「で? その先を言えよ」
喜助は、急かすように話の続きを促しました。
「禰宜さんが言うにはねぇ、子供をどうするかで困っているらしいんだよ。まだ五つだから奉公は無理だし、お宮や寺で面倒みるにも幼すぎるし、だからって放り出すこともできないし……。どうだろうねぇ、この際、もう一人子供を増やしちゃだめかなぁ……」
「お茂、お前ぇ、本当にずるい女だなぁ。そんな話をしたら俺がどう答えるか、わかって言ってんだろ? ……かまわねぇよ、俺ぁかまわねぇ。俺みたいな苦労をさせたかぁねぇからな。それに、お宮には義理があるしなぁ」
「義理?」
「まじない結びを始めたおかげで銭の心配がなくなったんだろ? お種とお留の縁だって、まじない結びが大本だ。それに気付かせてくれたのが禰宜さんとの出会いだ。……俺ぁよぅ、兄弟の有り難味をまったく知らねぇ。いつも一人ぽっちだった。昌吉はいい奴だ、だけど、兄弟じゃねぇ。でもな、そのぶん、これから取り戻すんだ」
「きー公、承知してくれるかぃ?」
「おぅ。だがな、娘に内緒ってのはいけねぇ。朝になったら話しておかんとな」
「そうだね……。だけど昌吉の奴、相変わらず助平なんだから。尚助に乳やってるときまって覗き込むんだからね。もっと泣かせておくんだった」
「馬ぁ鹿。その男勝りが俺に泣かされてるんだろ? それも毎晩よぅ」
「ばか!」
喜助は闊達だとお茂は感心しています。そして迷いがありません。惚けているようでじっと考えているし、世間体も苦にしていません。そんな喜助の女房になれて、お茂は幸せをかみ締めています。それどころか、喜助の考えに引き摺られるように世間への関与を強めています。新たな孤児を抱えて困り顔の坂崎様が言い難そうに相談をもちかけた時だって、お茂は喜助をさしおいてその場で快諾したものです。
「さんざん世話になっている坂崎様への恩返しだよ、まさか断るなんて言わないだろうね、きー公」
検番で威勢の良い啖呵を切ってしまうこともありました。
なにも特別なことをする必要はありません。かりそめとはいえ家族があれば、子供は卑屈にならずにすむのです。
ツクツクボゥシ、ツクツクボゥシ……。
打ち水の手を止め、娘は甲で額の汗を拭いました。キッとお茂を見据えたままですが、表情はほころんでいます。
「お武ちゃんが目を覚ましましたよ。早く乳をやってください」
お武は産まれたばかりの娘です。兄の尚助、妹のお武。どちらも坂崎様が名前をつけてくださいました。尚武祭に産まれた尚助、少し時期は遅れましたが、やはり尚武祭の時期に産まれたことでお武。いつもお祭り騒ぎの鼻緒屋には似合いの名だと坂崎様が珍しく笑いました。
「わかったよ! そんなに追いたてなくてもいいだろぅ? そんなだからお種に先こされるんだよ!」
ちらほらとお種に縁談が舞い込んでいます。お種自身はまだそんな気はないらしく、自分がいなければ鼻緒屋が立ち行かなくなると言って断っているのでした。でも、雪絵には縁談がありません。士分としての身分があるからでしょうか、皆が遠慮しているようです。
「私には役目が残っております。だいたい私がおらねば鼻緒屋は成り立ちませぬ。左程に大切な者なのです」
雪絵は少しばかり胸を張りました。日増しに大人びてくる雪絵は、たしかに頼もしい存在です。
今日も、無一文の旅人が鼻緒屋を縋っています。
「お困りですねぇ。でもね、これで厄払いがすんだと思って、ちゃんと家へ帰ってくださいよ。家で待つお人のためにもさぁ」
打ちひしがれた旅人を元気づけながら、お茂は聞き書きをしています。それを検番に出せば手間がかかりません。お茂は、笑顔を絶やさぬようにしながら筆に墨を含ませました。
「母上、小出様の書状を持った方が来られました」
「あぁ、すぐに済むから、先に濯ぎをね……」
今しがた墨を含ませたのを忘れて、お茂は硯に筆を運びます。
鼻緒屋お茂、まさに女傑です。