07:新暦824年 12の月(同時に現在)
お前を、エリノーラの婚約者に。
王子のその言葉に、サイラスは目を伏せ、完璧な姿勢で一礼をした。
胸の内はどうであれ。
王子との話を終え、屋敷に戻ったサイラスは、自室の椅子に座り、大きく息をついた。椅子に背を預け、瞳を閉じる。
王子からの申し出は本当に素晴らしいものだ。公爵家の娘を迎えられるという意味もあるが、それ以上に、王子にそこまで信頼してもらえているということが誇らしい。
政治的な、家の話を抜きにしても、それでもサイラスはあの快活な王子の性格を好いていた。
悪いところなど無い。本当に素晴らしい話だ。家も発展するだろう。王子にそこまで信頼される友であれたことも嬉しいことだ。どうせいつか誰かを娶るのは決まっていた。これはその中でも素晴らしいこれ以上無いケースだろう。
それなのに心から喜び受け入れられない自らの愚かしさに、サイラスは自嘲を浮かべた。
―――好きな人がいるから、他の人と結婚なんてできません、なんて道理を知らない子供のようなこと、言えるような年ではない。
サイラスはどこまでもこの家の者であり、次期当主という席にふさわしい人物でなければならなかった。
だから心が一番求めていた道など、選べるはずがないのだ。夢など見ている暇はない。
かつての日。
軽い足取りで屋敷の中を歩いている少女を見つけ、サイラスは足を止めた。
はしたなく駆け回ることは許されていないため、姿勢を正しなるべくきびきびと歩いている少女の表情は明るく、機嫌がよく見えた。
それをみたサイラスは、ああ今日は怒られていないようだな、と少し表情をゆるめた。怒られた後の少女は、何とも分かりやすいほど沈んでいるのだ。
楽しそうに仕事をしている彼女のことを、サイラスは好いていた。
きっかけは、なんだったか。
目を伏せながら、サイラスは考える。
本当に、ろくに覚えていないような小さなことだった気がする。ああそうだ、確か倒れていた彼女を起こして、怒られるのではと震えていた彼女に、そんなこと無いと伝えて。―――そうしたら、彼女が本当に柔らかく笑ったから。
そこから、なんとなく「あああのときの子か」と目で追うようになって。そうして、てきぱきと動く仕事姿や、何とも分かりやすく上下する彼女の機嫌に少し笑って、少し沈んでいたら心配して。そうして。
そうして笑えるほどゆっくりとなだらかに、惹かれていったのだ。
―――どうせ叶えられるはずもないのに。
サイラスはまた自らを笑った。身分差はあるけれど彼女も一応は貴族。なんとか迎え入れられないか―――そんな馬鹿な夢物語を考えていた自分の愚かしさ。
王子からの申し出を蹴るとなどというふざけた選択肢は存在しないし、してもならない。
信頼してもらえているのだというのは本当に嬉しいし、誇らしい。
―――馬鹿な期待を捨てて諦める、いいきっかけになったと思えばいい。
本当にいいきっかけである、とサイラスは目を伏せた。
いつまでもずるずると諦められなかった自分に、丁度いい機会がきたのだろう。
そう考え、サイラスは机の上に置かれた石に手を伸ばした。
「そうだ、爺」
「どうしたのですかな、若様」
庭木に顔を向け、剪定をしていた老人は、主人の声の方へと顔を戻した。
礼儀を知らぬ物言いも多いが、自分が幼い頃より勤め、当時より一貫してサイラスを「若様」と呼んでくるこの庭師のことを、サイラスは嫌いではなかった。
「この花だが」
「どうかしましたかの。綺麗に咲いておりますが」
僅かに腰を曲げて近寄ってきた老人に、サイラスはこくりと頷いてみせる。
サイラスが指さした水色の花は、小さく愛らしい花を咲かせていた。
「―――よくここに手伝いにきている娘がいるだろう」
「おや、知っておられましたか。女性にしては珍しく土仕事を厭わん子でしてなあ」
「・・・・・・似合うのではないか、その娘に」
老人はサイラスの言葉にぱちりと瞬きをすると、少し目を伏せて少女の姿と花を組み合わせ、納得したように頷いた。
「ああ確かに、似合いそうですな」
「一本与えてやってくれ。いつもよく仕事をしてくれる礼だ。・・・ああ、名は出さないでくれ」
サイラスのその言葉に、庭師の老人は不思議そうな顔をしたが、とりあえず頷き受け入れた。
ついとサイラスが持ち上げたのは、自らの領地でとれる魔石である。
この魔石はなぜ過去の家の者が扱うときのみ、特別な作用を起こした。
―――人の記憶や感情を抜き出して、封じ込められるのだ。
綺麗に裁断された透明度の高い石を、サイラスはくるくると指先でいじる。
弱者である自分は、今からそれに頼ろうとしているのだ。
自分の意志などでは抑えられないこの感情も、記憶も、すべて封じ込めてしまえば、もう苦しむこともない。
屋敷の庭を歩いていたサイラスは、ふと視線を感じた気がして、周囲に目をやった。
そうして視線を上に向け、少し表情をゆるめる。
そこには、屋敷の上の階の窓際で、何事か考え込んでいるらしい彼女の姿が見えていた。その女性の栗色の髪には、サイラスが薦めた、水色の花が飾られている。
やはり似合うな、とサイラスは少し微笑んで。
彼女が窓から離れるまで、その姿を見つめていた。
だから全て封じようとし、実際青年は全ての感情とまつわる記憶を封じ込めた。
そうでもしなければ割り切れそうになかったのだ。
そうして全て忘れ、全て封じ、愛していた少女を自由にして。
―――幸せになってほしいと思っていたのは、本当だった。
「サイラス・・・」
目尻に僅かな涙を滲ませ、抱きついてきたエリノーラを、サイラスは受け止めた。
どうしたのかとサイラスがその表情を確かめると、普段は明るく輝いているエリノーラの瞳は、悲痛さに染まっていた。
どうしたのか、と問うサイラスに、エリノーラは涙ぐみながら答えた。
「・・・・・・私付きの侍女が・・・町に出たときに物取りに襲われて・・・」
頭を打っていて、まだ意識が戻らないの。
話しているうちに気持ちが高ぶったのか、涙ぐみ、しゃくりあげるエリノーラを落ち着かせようと、サイラスはエリノーラに手を伸ばし。
「セリアっていって、とってもいい子なの」
続けられた言葉に、一瞬その動きを止めた。
どうしたのかと不思議そうに見上げられたが、サイラスにもよく分からなかった。
ただ一瞬、酷く胸が痛んだ気がしたのだ。
また慰めに戻ったサイラスも、泣いているエリノーラも。誰も気がつかない中、その部屋の戸棚に飾られた石が、太陽光の反射で、僅かに光っていた。