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第10話 反証

2026年9月25日 金曜日 午前6時38分


 アラームが鳴る11分前に目が覚めた。


 久世透は天井を見たまま動かなかった。


 昨日立てた仮説。


『能力は複数ではなく、対象の状態へ干渉する単一の能力である可能性』


 考えるだけなら簡単だ。


 問題は。


 どうやって間違いだと証明するか。


 自分の仮説を証明する実験だけを繰り返せば、都合のいい結果だけを拾うことになる。


 透はベッドから起きた。


 ノートを開く。


『統一仮説U1――反証条件』


 一。


『認識できていない対象には作用できない』


 二。


『位置・運動以外の状態にも作用できる』


 三。


『生体と非生体で原理的な差がない』


 書いてから。


 三番に線を引いた。


「違う」


 それは仮説から導かれる予測であって、反証条件ではない。


 書き直す。


『生体にのみ成立する作用が確認され、非生体への作用と共通原理で説明できない場合、U1を再検討』


「……弱いな」


 まだ能力そのものの定義が曖昧すぎる。


 反証可能な形まで仮説を絞れていない。


 時計を見る。


 6時52分。


 今日は仕事だ。


 透はノートを閉じた。


 続きは帰宅してから。


     *


午前8時03分


 通勤電車。


 透は吊り革を握っていた。


 混んでいる。


 能力は使わない。


 使わないと決めていると。


 逆に周囲の物が気になった。


 揺れる吊り革。


 乗客の鞄。


 床を転がる小さな水滴。


 電車が減速する。


 身体が前へ傾く。


 その瞬間。


 妙なことに気づいた。


「……」


 自分自身。


 これまで能力の対象にしたことがない。


 物体。


 他人。


 風船。


 ペン。


 自転車。


 では。


 自分は?


 以前、悠真に「空飛べるか試せ」と言われた。


 危険だから却下した。


 だが。


 飛ぶ必要はない。


 自分自身へ、ごく弱い上向きの力を加えるだけなら?


 透はすぐに考えるのを止めた。


 ここで試す理由はない。


 満員電車。


 条件として最悪だ。


 スマートフォンへ一行だけ残す。


『自己干渉――低リスク条件で検証可能?』


     *


午後0時19分


 昼休み。


 悠真からメッセージが来た。


『昨日あの研究者と会った?』


『会った』


『どうだった』


『有益だった』


『そうじゃなくて』


『何が』


『女として』


「……」


 透はしばらく画面を見る。


『研究者としてしか評価していない』


 返信。


『人生つまんなそう』


『楽しい』


『お前それ前も言ったな』


 続けて。


『名前なんていうの?』


 透の指が止まった。


 名前を教える必要があるか?


 特にない。


『言う必要ある?』


『お前の彼女候補の名前くらい友達として知りたい』


『彼女候補ではない』


『じゃあ研究者ちゃんでいいや』


『勝手にしろ』


『研究者ちゃんかわいい?』


『前に答えた』


『整ってる、だっけ?』


『そう』


『それを普通はかわいいって言うんだよ』


 透は返信しなかった。


 すぐにもう一件。


『てかお前、女に興味ないんじゃなかった?』


 透は画面を見る。


『ない』


『じゃあなんで顔覚えてんの』


『人の顔くらい覚える』


『つまんねー男』


 透はスマートフォンを伏せた。


     *


午後2時46分 川崎警察署


「主任」


「何だ」


「これ」


 高瀬が紙を差し出した。


 榊原慎吾は受け取る。


 9月12日の暴行事件。


 追加で整理された目撃証言。


「昨日の件です」


 榊原が読む。


『被疑者は動きを止める直前、通報者のいるマンションの方向を見ていたように思う』


 榊原は眉を寄せる。


「これ、誰の証言だ」


「近くにいた店員です」


「いつ取った?」


「事件当日です」


「じゃあ何で今出てきた」


「別の聴取記録に入ってました」


 榊原は原本を確認する。


 確かに書かれている。


 ただし。


『ように思う』


「弱いな」


「ですよね」


「人間の記憶なんてそんなもんだ」


 榊原は紙を置いた。


「それに、向こうを見たから何だ」


「主任が言い出したんでしょう」


「だからこそだ」


「はい?」


「自分が気にしている情報ほど疑え」


 高瀬が少し笑う。


「ホームズ?」


「普通の捜査だ」


「主任、それホームズ好きなの隠す気ないですよね」


「隠してない」


 榊原は資料を閉じる。


「この証言だけでは何も増えてない」


「了解です」


 高瀬が戻る。


 榊原は。


 もう一度だけ文章を見た。


『通報者のいるマンションの方向を見ていたように思う』


 数十メートル。


 久世透は、自宅のベランダにいた。


 それでも。


 今あるのは。


 男がその方向を見たかもしれないという、曖昧な記憶だけだ。


 榊原はファイルを閉じた。


     *


午後6時37分


 仕事を終えた透は、帰宅途中に考えていた。


 目的は自己干渉。


 必要なのは。


 安全性。


 再現性。


 測定可能性。


 能力を使ったときに身体へ何らかの変化が起きたことを。


 主観だけではなく。


 数値で確認する方法。


 体重計。


 自宅にある。


 それで十分だ。


     *


午後7時26分


 自宅。


 透は体重計を床へ置いた。


 乗る。


 63.1kg。


 降りる。


 もう一度。


 63.1kg。


 三回目。


 63.2kg。


 測定誤差。


 平均値を記録する。


 問題はここから。


 自分自身に対して。


 どう能力を使う?


「軽くする」


 違う。


 それでは曖昧だ。


 念動力として考えるなら。


 上向きの力を自分へ加える。


 結果として床へかかる荷重が減る。


 体重計の表示も下がるはず。


 これは比較的明確だ。


 透は体重計へ乗った。


 63.1。


 目を閉じない。


 壁へ手もつかない。


 転倒しない程度。


 ほんの少しだけ。


 自分の身体を。


 上へ。


 意識する。


「……」


 何も起こらない。


 63.1。


 もう一度。


 自分を物体として認識する。


 約63kgの物体。


 上向き。


 弱い力。


 63.0。


 透は止めた。


 誤差。


 もう一度。


 63.2。


 変わらない。


「できない?」


 透は降りる。


 ノートへ書く。


『自分自身は対象にできない』


 書いてから。


 線を引いた。


 まだ早い。


 能力の使い方が間違っている可能性がある。


 休憩。


 10分後。


 再試行。


     *


午後8時02分


 63.1。


 透は呼吸を整えた。


 これまで能力を使ったとき。


 対象をどう認識していた?


 ペン。


 風船。


 金属球。


 どれも。


 自分の外にあるものだった。


 自分の身体。


 感覚が違う。


 対象として切り離すことが難しい。


 なら。


 身体全部ではなく。


 腕だけなら?


 透は右腕を見る。


 腕を下へ垂らす。


 力を抜く。


 右腕だけを。


 持ち上げる。


 筋肉ではなく。


 能力で。


「……」


 右手の指が動いた。


 違う。


 無意識に筋肉を使った。


 透は中止する。


 この方法では。


 能力による運動と随意運動を区別できない。


「測れない」


 失敗。


 だが。


 失敗そのものが情報になる。


『自己干渉:現時点で確認できず』


『原因候補』


『1 自己は能力対象外』


『2 自己認識では発動困難』


『3 発動しているが測定方法が不適切』


『4 単純に能力不足』


 透は四つを書いた。


 一つに決めない。


     *


午後8時21分


 スマートフォンが鳴った。


 澪。


『昨日の話ちょっと考えてた』


 透は実験を止める。


『何でしょう』


『その人が楽になった時、久世さんが疲れたって言ってたよね』


『はい』


『食事とか睡眠とか、その日の体調覚えてる?』


 透はノートを見る。


 記録してある。


『睡眠6時間52分。朝食7時31分。体調に異常なし』


 少し間。


『細かっ(笑)』


『記録していたので』


『心拍とかは?』


『発生後はスマートウォッチで確認。通常より上昇していました』


『どのくらい?』


 透は数字を送る。


 澪から返信が止まった。


 2分。


『久世さん』


『はい』


『こういう記録、いつから取ってるの?』


 透は考えた。


『最近です』


『何か始まったから?』


 指が止まる。


 鋭い。


『そうです』


 送った。


 既読。


『何が?』


 透は答えない。


 30秒。


『やっぱそこは言わないか(笑)』


『すみません』


『いいよ。でも体調変化あるなら無茶しないでね』


『分かりました』


『ほんとに?』


『合理的に危険と判断した実験はしません』


『その言い方が一番心配なんだけど』


 透は少し考えた。


 なぜ心配なのか分からない。


『大丈夫です』


『はいはい』


 そこで会話は終わった。


     *


午後8時43分


 透は実験へ戻ろうとして。


 体重計を見る。


 ふと思う。


 自分自身を対象にできない。


 仮にそうだとしても。


 自分と接触している物は?


 透は右足を見る。


 靴下。


 自分の一部ではない。


 だが。


 今は身体と接触している。


 透は靴下を脱いだ。


 床へ置く。


 能力を使う。


 浮いた。


 問題ない。


 履き直す。


 今度は。


 靴下だけを意識する。


 上へ。


「……」


 足裏に。


 わずかな引っ張られる感覚。


 透はすぐに止めた。


 もう一度。


 同じ。


 だが。


 靴下は柔らかい。


 力を強くすれば、足を持ち上げるより先にずれる可能性がある。


 検証には向いていない。


 透は立ち上がった。


 クローゼットを開ける。


 ベルトを取り出す。


 腰へ巻く。


 きつく締める必要はない。


 落ちない程度。


 まず。


 外した状態で浮かせる。


 問題ない。


 再び腰へ巻く。


 バックルではなく。


 ベルト全体を一つの対象として認識する。


 上へ。


「……」


 腰に圧力を感じた。


 透は即座に能力を止める。


 記録。


『接触状態でも着用品を対象として認識可能』


 もう一度。


 今度は体重計へ乗る。


 63.1kg。


 ベルトを。


 上へ。


 63.0。


 62.8。


 透は止めた。


 表示が戻る。


 63.1。


「……」


 もう一度。


 63.1。


 能力を使う。


 62.9。


 62.7。


 中止。


 63.1。


 透は体重計から降りた。


 偶然ではない可能性がある。


 ただし。


 これは自分自身へ作用した証拠ではない。


 ベルトへ上向きの力を加え。


 その力が身体へ伝わっただけ。


 透はノートへ書く。


『自己そのものへの直接干渉は確認できない』


『ただし、着用物への干渉を介して身体へ力を加えることは可能』


『接触状態は能力対象から除外されない』


 そして。


 手が止まる。


 服。


 ベルト。


 靴。


 それらを同時に上へ引けば?


 自分自身を能力で動かせなくても。


 身につけている物を介して――。


「……飛べる?」


 悠真のメッセージを思い出した。


『空飛べるか試そうぜ』


「いや」


 透は首を振った。


 今やるべきではない。


 63kgを持ち上げるだけの力が必要になる。


 これまでの実験では。


 1kg程度でも安定していない。


 桁が違う。


 失敗すれば怪我をする。


 現時点では。


 実験する意味がない。


 ノートへ書く。


『飛行――原理上の可能性は否定できない』


『現能力では実行不能』


『実験禁止』


     *


午後9時17分


 透は実験を終了した。


 今日の結果。


『自己への直接干渉――未確認』


『着用物への干渉――可能』


『接触状態は能力対象から除外されない』


『飛行――原理上の可能性あり。現能力では実行不能』


 最後の一文を見て。


 透は。


 ほんの少し笑った。


 佐伯悠真が知れば。


 絶対に試せと言う。


 だから。


 まだ言わない。


     *


午後10時08分


 榊原慎吾は帰宅していた。


 テレビをつける。


 食事。


 風呂。


 普通の夜。


 今日は久世透について。


 これ以上考えるつもりはなかった。


 スマートフォンが鳴る。


 高瀬。


『主任』


『何だ』


『風船の動画、消えてます』


 榊原の指が止まる。


『それがどうした』


『いや、前に見てたから』


『投稿者が消したんだろ』


『ですよね』


 それだけだった。


 榊原はスマートフォンを置く。


 動画が消えた。


 だから何だ。


 投稿者が削除する理由などいくらでもある。


 炎上。


 身元が特定されることへの不安。


 気が変わった。


 意味はない。


「……」


 榊原はテレビを見る。


 30秒。


 スマートフォンを取った。


『削除されたのはいつだ』


 送信。


 すぐ返信。


『今日みたいです』


 榊原は画面を見る。


 そして。


 自分に問いかけた。


 なぜ。


 削除された時期が気になった?


 久世が消させた?


 何の根拠もない。


 久世が投稿者と知り合いだという証拠すらない。


 榊原はスマートフォンを伏せた。


「駄目だな」


 仮説が先行している。


 久世透という人間を意識し始めたことで。


 無関係な出来事まで久世へ結びつけようとしている。


 これは推理ではない。


 確証バイアスだ。


 榊原はそこで考えるのをやめた。


     *


午後11時04分


 透は眠る前に。


 今日のノートをもう一度見た。


『統一仮説U1』


 まだ反証できていない。


 むしろ。


 新しい疑問が増えた。


 自分自身への直接作用は確認できない。


 だが。


 自分が身につけている物には作用できる。


 では。


 どこまでが自分なのか。


 髪。


 爪。


 血液。


 体内に入れた食物。


 人工物。


 服。


 能力が物理法則だけではなく。


 透自身の認識によって対象を区別しているのなら。


 重要なのは。


 質量でも。


 材質でも。


 距離でもないのかもしれない。


 いや。


 違う。


 透は一度ペンを止めた。


 重量と距離によって負荷が変化する可能性は、これまでの実験で残っている。


 なら。


 物理条件が重要ではないのではなく。


 その前に。


 何を一つの『対象』として認識しているか。


 そこに別の条件が存在する。


 透はノートへ一行追加した。


『能力の成立条件には、物理条件とは別に認知条件が存在する可能性』


 ペンを置く。


 もしそうなら。


 この力を理解するために必要なのは。


 物理学だけではない。


 神経科学。


 認知科学。


 そして――。


 水城澪。

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