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魔導院での確認を終えたあと、一行は神殿へ戻ることになった。
観測石の異常はすぐに封鎖され、記録の照合と結界線の再点検が始まるらしい。
神殿側にもすでに連絡は飛んでいて、エドガルド補佐からは「戻り次第、もう一度話を」と伝言が届いていた。
王都の通りは、午後の光の中で少しだけ色を変えている。
昼ほど眩しくはなく、石畳の白さにもやわらかな影が落ち始めていた。
ラティアは人の流れの端を意識しながら歩く。
前。
呼吸。
立つ位置。
慣れたとはまだ言えない。
でも、来たばかりの頃よりは足元がぶれない。
その変化を自分でも少しだけ分かっていた。
「今日は頑張りすぎじゃない?」
横から声がした。
レオンだった。
中央通りほどではないにしても人通りはある。
その中で、彼は無理なくラティアの歩幅に合わせて並んでいる。
「してない」
反射で返すと、レオンが笑った。
「それ、もう信用しないことにした」
「なんで」
「温室のあと、ふらついてた」
ラティアは少しだけ目を逸らす。
たしかに、ふらついた。
でも倒れたわけじゃない。
「……ちょっとだけ」
「その“ちょっとだけ”が危ないんだよ」
レオンの言い方はやわらかい。
責めているわけではなく、ただ本当に心配しているのだと分かる。
ラティアは返事に困って、視線を前へ戻した。
そのときだった。
レオンの視線が、ふとラティアの髪へ落ちる。
正確には、そこに結ばれた守り紐へ。
淡い色の糸飾りは、歩くたびに小さく揺れていた。
「……それ」
レオンが小さく言う。
ラティアがきょとんとする。
「ん?」
「前から気になってた」
レオンは少しだけ目を細める。
「似合ってるけど」
その一言に、ラティアの耳が少しだけ熱くなった。
褒められたことに戸惑うより先に、守り紐そのものを見られたことに胸が鳴る。
レオンは何でもないように続けた。
「そういうの、昔はつけてなかったよね」
ラティアは守り紐にそっと触れた。
さらり、と糸の感触が指先に馴染む。
たしかに、前はなかった。
これは王都に来る前、いや——本当はもっとはっきり覚えている。
門をくぐる前。
不安そうな自分に、ユリスが渡してくれたもの。
「……うん」
小さく頷く。
レオンは少しだけ首を傾げた。
「大事なもの?」
問い方が、妙に静かだった。
軽く聞いているようでいて、本当はちゃんと知りたいのが分かる。
ラティアは少しだけ答えに迷った。
大事かと聞かれたら、大事だ。
それは間違いない。
でも、それを口にすると、自分の中で何かの意味が少しだけ変わってしまいそうだった。
「……守り紐」
「へえ」
レオンの声が低くなる。
「誰にもらったの?」
その質問に、ラティアの指先がほんの少し止まる。
言ってはいけないことではない。
隠す理由も、ない。
なのに、なぜか少しだけ答えづらい。
レオンはそれ以上急かさなかった。
ただ歩調を合わせたまま、静かに待っている。
ラティアは息をひとつ吸って、小さく答えた。
「……ユリス」
それだけだった。
けれど口にした瞬間、守り紐の意味が前より少しだけ輪郭を持った気がした。
ユリスにもらったもの。
自分を落ち着かせるもの。
不安な時に、呼吸を戻すきっかけになるもの。
レオンは一瞬だけ黙った。
本当に、一瞬だけ。
けれどその沈黙が、ラティアの胸に小さく触れる。
「そっか」
返ってきた声は、いつも通りやわらかい。
でも、ほんの少しだけ何かを飲み込んだみたいにも聞こえた。
ラティアは思わず顔を上げる。
レオンはもう軽く笑っていた。
「なるほどね」
「……なにが?」
「いや」
レオンは肩をすくめる。
「ちゃんと似合ってる理由が分かっただけ」
その言い方の意味が、ラティアにはよく分からない。
でも、なぜかそれ以上聞き返しづらかった。
少し前を歩いていたカイルが、何となく後ろを振り返る。
「なんの話だ?」
「内緒」
レオンが即答する。
「感じ悪っ」
「大事な話だから」
「余計気になるわ」
カイルが呆れたように言うと、サラが小さく笑う。
「王都に来てから、レオンさんは少し楽しそうですね」
「再会したからね」
レオンはさらっと言った。
その言葉に、ラティアの胸がまた小さく鳴る。
昔を知る人。
会えてよかったと言ってくれる人。
でも——そのすぐ先を歩く背中が、ラティアの視界にはずっと入っていた。
ユリスは振り返らない。
周囲を見て、道を選んで、ただ自然に前を行く。
その背中を見失わないだけで、ラティアは少しだけ安心できる。
レオンと並んで歩いているのに、気づけば視線は前へ向いている。
そのことに自分で気づいて、ラティアは少しだけ戸惑った。
「……ラティア」
レオンが不意に呼ぶ。
「え?」
「今の呼吸」
ラティアが目を瞬く。
「ちょっとだけ浅くなった」
どきりとする。
自分でも気づいていなかった。
レオンは前を見たまま言った。
「緊張した時の癖?」
ラティアは答えに詰まる。
少し前なら、たぶん気づかれなかった。
でも今は、自分でも分かる。
浅くなる。
息が上がる。
人の多い場所では特に。
それを戻すためにしていることもある。
「……うん」
小さく答える。
レオンは少しだけ考えるように黙った。
「前はしてなかったよね」
その一言に、ラティアの指先が守り紐へ触れた。
前はしていなかった。
人混みで息を整えることも。
出口を確かめることも。
呼吸を数えることも。
それは全部、最近知ったことだ。
「今の、それ」
レオンの声がやわらかく落ちる。
「誰に教わったの?」
ラティアは守り紐を指先でなぞったまま、少しだけ迷った。
でも結局、隠せることではないと思った。
「……ユリス」
また同じ名前。
今度は、守り紐ではなく、呼吸の話として。
レオンはほんの少しだけ目を細めた。
けれどすぐに、いつもの笑みに戻る。
「へえ」
短い相槌。
軽い。
でも、その軽さの下で何かを受け止めたのが分かった。
ラティアは少しだけ落ち着かなくなる。
自分は今、何を気にしているのだろう。
レオンに聞かれたことか。
ユリスの名前を口にしたことか。
それとも、そのどちらもか。
「でも、いいね」
レオンがふっと笑う。
「あの時より、揺れても戻れるようになったね」
その言葉に、ラティアは少しだけ目を見開いた。
認められた、みたいな気がした。
できていないことばかりだと思っていた。
怖いし、揺れるし、まだ失敗も怖い。
それでも、少しは前に進めているのかもしれない。
「……少しだけ」
ラティアが言うと、レオンは頷いた。
「うん。その少しが大きい」
前にも聞いた言葉だ。
そのとき——前方で人の流れがわずかに乱れた。
荷を運ぶ大きな台車が、角を曲がってくる。
道幅が少し狭まる。
ラティアが足を止めかけた瞬間、前を歩いていたユリスが短く言った。
「左」
反射みたいに身体が動く。
言われた方へ寄ると、ちょうど人の少ない隙間に収まった。
台車が通り過ぎる。
ぶつからない。
足も止まらない。
ラティアは小さく息を吐いた。
レオンがその様子を見て、目を細める。
何も言わない。
けれどその沈黙に、さっきより少しだけ意味がある気がした。
自分の知らない今。
その一部を、たぶんレオンは見ている。
一方でラティアもまた、レオンの知らない自分がいるのだと少しだけ思った。
神殿の白い石段が見えてくる。
その頃には、王都の午後の光も少し傾き始めていた。
ラティアはそっと守り紐に触れる。
指先に馴染む糸の感触は、変わらない。
でも、それを誰にもらったのか、誰に呼吸を教わったのか、口にしてしまった今は、前より少しだけ特別に思えた。
レオンはその動きを横目で見て、ほんの一瞬だけ目を伏せる。
けれどすぐに顔を上げ、いつもの調子で言った。
「さ、戻ったらまた難しい話だ」
カイルが肩をすくめる。
「お前が一番楽しそうだな」
「仕事熱心って言ってほしい」
「自分で言うか」
サラが小さく笑う。
その会話の中で、ラティアは前を行くユリスの背を見る。
何も言わない。
振り返らない。
でも、そこにいる。
その背中が、やっぱり少しだけ落ち着く。
レオンに揺れないわけではない。
懐かしい。
嬉しい。
苦しい。
少しだけ、どきっともする。
でも、息をしやすいのは誰のそばかと問われたら——
まだ答えにはならないまま、その輪郭だけが胸の奥に浮かび始めていた。
五人は神殿の階段を上っていく。
その先で待つものが、少しずつ大きくなっていくのを感じながら。




