蜂蜜のマカロン
昔も今も、西村香穂は真由美の憧れだ。
幼稚園の頃に出会い、家が近所だったこともあって、家族ぐるみの交流が始まった。
けれども、小学三年生の時にクラスが別々になり、香穂が子役デビューして忙しくなったことも重なって、徐々に二人は疎遠になっていく。
そして、五年生で再び同じクラスになったものの、香穂は子役の絶頂期を迎えた大スターになっていて、二人の間には大きな隔たりがあった。
真由美はその頃、アニメに夢中になっていた。
観るだけでは飽き足らず、自分でも描くようになり、学校でも休み時間のたびに好きなアニメキャラクターの絵を描いて幸福に浸っていた。
そんなある日、クラスの女子のリーダー格である井上さんが、真由美のノートを覗き込んで暴言を吐いた。
「うわぁ、何これ。ヤバくない?」
井上さんの発言に、取り巻きの女の子達も同調する。
「ホントだ、ノートにびっしり描いてあるじゃん。怖すぎ」
「マジで引くんだけど」
真由美は身を縮ませて、ただただ嵐が過ぎ去るのを待つことしかできなかった。
その時、誰かが近づいてきて真由美のノートをサッと取り上げて、こう言った。
「ねぇ、みんな見てよ! 凄くない? このキャラとか、そっくりなんだけど!」
それは、香穂の声だった。
真由美が顔を上げると、ニッと笑って話しかけてきた。
「私もアニメ大好き! ねぇ、他にも描いて見せてよ」
テレビで引っ張りだこの子役スターの発言は、その場の空気を一瞬でひっくり返してくれた。
「確かに上手いかも」
「ね、凄いよね」
香穂の周りにいた女子達も、一緒になって真由美の絵を褒めてくれる。
その時、真由美は心に決めた。
香穂が困った時は、全力で助けよう。
この先、何があっても、自分だけは絶対に香穂の味方でいよう。
それから時は流れ、香穂の仕事が減っていくたびに、彼女の周りからは人が離れていった。
でも、真由美だけは決して香穂のそばを離れなかったし、香穂が嫌がらせを受けた時には本人以上に泣いて怒って、守ろうとした。
同じ高校に進学して、しばらくは香穂への嫌がらせもあったが、学級委員の駒野杏奈が真由美の味方をしてくれたことで、イジメはピタリとやんだ。
杏奈本人は気付いていないようだったが、彼女の影響力は絶大だ。
先生からの信頼が厚く、何でもそつなくこなし、誰に対しても公平で公正な態度を崩さない。先輩達も一目置いている。
香穂の机に酷い落書きがされた時、杏奈は
「マニキュアの除光液を使えば、油性ペンでも消えるよ」
と真由美に耳打ちして、助け舟を出してくれた。
杏奈は、他の人に気付かれないようにしたつもりだったみたいだけど、バレバレだった。
先生のお気に入りで、先輩からも後輩からも頼りにされている杏奈が、香穂と真由美の味方をした。
それは、翌年に大学受験を控えたクラスメイト達にとっては、重大な出来事だった。
杏奈のような優等生と敵対することは、内申の評価に影響するかもしれない。
そんな計算が働いたのか、それ以降、直接的な香穂への嫌がらせは行われなくなった。
そんな経緯もあって、真由美は杏奈に感謝していたし、もっと仲良くなれたら嬉しいなと思っていた。
だからこそ、杏奈から香穂の悪口を聞かされたことが心底ショックだったし、何だかとても悲しかったのだ。
「真由美、ねぇ真由美ってば! 聞いてる?」
ある日の昼休み、ぼんやりと考え事をしていた真由美は、香穂に呼ばれてハッと我に返った。
「あっ、ごめん。ちょっとボーっとしてた」
「ちゃんと聞いてよ! 大事な話をしてるんだから」
「ごめんごめん。で、何の話だっけ?」
「だから、今日はこの前受けたオーディションの最終選考があるから、早退するねって言ってんの!」
「えっ?! 嘘! 凄いじゃん! おめでとう!!」
「まだ受かってないから」
「最終選考まで残るだけでも凄いよ!」
「受かんなきゃ意味ないから」
香穂の真剣な表情からは、本気で夢を掴み取ろうとしていることが伝わってくる。
その姿は、とても眩しく真由美の目に映った。
放課後、一人で駅までの道を歩きながら、真由美は自分の将来を思い浮かべる。
来年は受験だ。大学はどこにしよう。
香穂は進学しないと言っていたから、また疎遠になってしまうかもしれない。
本当は、真由美だって香穂のように夢を追いかけたい。
大学ではなく専門学校に進学して、大好きなアニメのキャラクターを描く仕事に携われたら、どんなに幸せだろう。
でも、そんなこと親には言えない。
だってきっと、ガッカリされちゃうから。
そんなことを考えながら歩いていたら、知らぬ間に「満月堂」という看板を掲げた店の前に立っていた。
いつか行ってみたいと思っていた、幻のマカロン専門店。
まさか、本当に来られる日がくるなんて。
深呼吸をして、高鳴る胸を鎮める。
真由美がそっと扉を開けて中を覗き込むと、マカロンを並べたショーケースの向こうから、店主らしき女性が真由美に声をかけた。
「お待ちしておりました。どうぞ奥の部屋までお進み下さい」
そう言って、彼女はショーケースの横にある扉を開け、テーブルと椅子があるだけの小部屋に入るよう真由美を促した。
テーブルの上には、マカロンが小皿に載せられて置いてあり、小さなフォークも添えられている。
「あの……これは……?」
真由美は戸惑いの目で店主に問いかける。
「チーズを使ったクリームを挟んだ、フロマージュ・マカロンです。香穂さんのお友達の真由美さんですよね? このお店へ来たがっていると耳にしたので、特別なマカロンを作ってお待ちしていました」
「えっ、それって……香穂ちゃんから聞いたんですか?」
店主は、曖昧な微笑みを浮かべて真由美の質問をはぐらかし、椅子を勧めた。
「冷たいアイスティーを入れてきますから、どうぞ召し上がっていて下さい」
店主が小部屋から出て行き、扉がパタンと閉められると、真由美はテーブルに近付いて椅子に腰かけた。
目の前の小皿には、淡いクリーム色をしたマカロンが二つ盛り付けられている。
そして、その横には小さなハチミツの瓶が置かれていた。
真由美は、添えられたフォークでマカロンを一つ口に運んだ。
ツンと刺激のある香りがした後、強い塩気を舌に感じて、真由美は飲み物が欲しくなった。
ちょうどそこへ、店主がアイスティーを持って入ってくる。
「お味はいかがですか?」
店主の質問に答えるより先に、真由美はアイスティーを口に含む。
一息ついたところで、言葉を選びながら感想を伝えた。
「何て言ったらいいか……今までに食べたことのない、刺激的な味わいでした」
「ゴルゴンゾーラという青カビのチーズを使ったクリームを挟んでいるのですが、ちょっとクセがあるので、好みが分かれる味かもしれませんね」
そう話しながら、店主は皿に残ったもう一つのマカロンにハチミツをかける。
「味の変化が楽しめると思いますので、よろしければぜひ」
店主に勧められるまま、真由美はマカロンを口に入れた。
「ホントだ、さっきより食べやすくなってる」
ハチミツの甘さで塩気がやわらぎ、先程よりもずっと美味しく感じられた。
「それでは、もう一種類、別のチーズを使ったマカロンもお持ちしますね」
そう言って店主は一旦部屋から出て行き、すぐに戻ってきた。
手に持った小皿には、先ほどと似たような色をしたマカロンが二つ載せられている。
「あの、これ……おいくらですか? 私、今日そんなにたくさんお金持ってなくて……」
「ご安心下さい。店内でお召し上がりいただいたマカロンは私が勝手に選んだものなので、お支払いの必要はありません」
「でも、それだと何だか申し訳ないです」
「それでしたら、帰りにショーケースのマカロンを見ていただいて、もし気に入ったものがあれば、ぜひお買い求め下さい」
「そうします」
そう答えると、真由美は遠慮がちにテーブルへ置かれたマカロンへと手を伸ばした。
まず最初は、何もかけずにそのまま食べてみる。
さっきのゴルゴンゾーラよりはクセが無いものの、やはり独特の風味がある。
「そちらはカマンベールチーズを使ったクリームを挟んであります。こちらも、ハチミツがよく合いますよ」
真由美は次に、ハチミツをかけて食べてみた。
「美味しい! ハチミツとチーズって合うんですね」
「一見ミスマッチでも、お互いの良さを引き出す組み合わせというのは、意外と沢山あるのかもしれませんね」
店主の言葉を聞きながら、真由美は香穂のことを思い浮かべた。それから、杏奈のことも。
「あの……全然性格の違う二人が仲良くすることって、出来ると思いますか?」
真由美が店主に尋ねると、彼女は小さく頷きながら答える。
「もちろんです。あなたと香穂さんだって、そうじゃないですか」
言われてみれば、確かにそうだ。
でも、香穂と杏奈の場合はどうだろう。
真由美が考え込んでいると、店主が空いた皿をさげながら
「では、こういうのはいかがですか? あちらのショーケースの中から、真由美さんと香穂さんと杏奈さん、この三人のイメージにピッタリのマカロンを、一つずつ選ぶんです。そしてそれを、お昼休みにでも三人で一緒に召し上がる。何だか仲良くなれそうな気がしませんか?」
と提案した。
「それ、ちょっと楽しそうですね。やってみようかな。あれ、でも私、駒野さんの話なんてしましたっけ?」
店主は真由美の疑問には答えず、小部屋を出て手招きをした。
「こちらへどうぞ。お友達と召し上がるマカロンを、一緒に選びましょう」
真由美は狐につままれたような気分になりながらも、店主の後に続いた。
ショーケースの中には、いろいろな種類のマカロンがあって、どれにしようか迷ってしまう。
あれこれ目移りしてしまって決められずにいたが、ふと落ち着いた色合いのマカロンが並んでいるコーナーで目が止まる。
「可愛い色をしたマカロンが多いのに、この辺りだけ茶色っぽいのが集まってるんですね。チョコ味ですか?」
「チョコレート味もありますが、ココアやカフェモカ、アールグレイなんかもありますよ」
香り高いアールグレイは、杏奈のイメージにピッタリかもしれない。
「カフェモカってどんな味なんですか?」
「カフェモカは、エスプレッソの苦味とコクに、チョコレートシロップの甘さとミルクのまろやかさが合わさった味わいがします」
いろいろな一面を持つ香穂のイメージと、どこか重なる。
「それじゃ、アールグレイとカフェモカのマカロンを一つずつ下さい。あと……自分のことはよく分からないので、私っぽいイメージのマカロンを、一つ選んでもらえませんか?」
真由美のお願いを、店主は快く了承してくれた。
「では、こちらにあるハチミツのマカロンはいかがですか? さまざまな食べ物や飲み物に合わせやすくて、優しい甘さのハチミツは、お客様のイメージにピッタリだと思います」
そんな風に言ってもらえて、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになりながら、真由美は
「じゃあ、それでお願いします」
と言って、マカロンを包んでもらう。
店主はマカロンの入った箱と一緒に、大通りまでの簡単な道順を記した紙を手渡してくれた。
「では、またのご来店を心よりお待ちしております」
「また来ていいんですか?」
「もちろんです。椅子の数を増やしておきますから、今度はぜひ、お友達もご一緒に」
真由美は店主に見送られながら、扉を開けて外に出た。
街は既に、夕暮れに染まっている。
いつもは寂しい気持ちになる夕焼けの色が、その日はなぜか、とても温かいものに感じられた。