プロローグ『冒険者』
世界地図にも載らないような、小さな村――ウェルム村。
広い草原と森に囲まれたその村へ、一人の旅人が歩いてきた。
背丈は低く、まだ少年と呼べる年頃。
全身を覆う大きな茶色のローブは、ところどころ汚れ、裾も少し擦り切れている。
深く被ったフードのせいで顔まではよく見えない。
「ここが、ウェルム村か……」
少年は足を止めた。
木造の家々。
畑仕事をする村人。
道端では子供たちが走り回り、どこかの家からは焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
旅人が珍しいのか。
何人かの村人が少年へ視線を向けていた。
「……静かなとこだな」
少年はそう呟くと。
特に気にする様子もなく、村の中へ歩いていった。
――――――――――
村の中心から少し離れた、小高い丘。
その頂に立つ大樹の下で、一人の少年が本を読んでいた。
小柄な身体に黒い髪。
名前はクライ。
十二歳。
ウェルム村で生まれ、これまで一度も村の外へ出たことがない少年だった。
葉の隙間から差し込む木漏れ日が、開かれた本の上を揺れている。
「あぁ……」
クライは本から顔を上げた。
「僕もいつか、物語に出てくる冒険者みたいになれたらなぁ」
手にしているのは、何度読み返したか分からない冒険物語。
恐ろしい魔物。
巨大なダンジョン。
誰も辿り着いたことのない土地。
地図にも載っていない秘境。
そして、その先で待つ宝。
村から出たことのないクライにとって。
その本は、知らない世界へ繋がる唯一の扉だった。
「……よし!」
クライは本を閉じると立ち上がり、近くに落ちていた枝を一本拾った。
剣のつもりで構える。
「僕は冒険者クライ!」
目の前には恐ろしい魔物。
隣には頼れる仲間。
そして、その先には誰も見たことのない景色――。
「そこをどけ、魔物!」
勢いよく枝を振り抜く。
「僕は世界の果てまで行くんだ!」
自分で言って。
少し恥ずかしくなった。
それでも。
クライは楽しそうに笑った。
その時。
「世界の果て、ねぇ」
「……っ!」
背後から聞こえた声に。
クライの身体が固まった。
振り返る。
丘を上ってきていたのは、村の少年たちだった。
三人。
クライより少し年上で。
普段から、クライが冒険者に憧れていることをからかってくる連中だ。
「また冒険者ごっこか?」
「冒険者クライだってよ!」
「世界の果てまで行くらしいぞ!」
三人の笑い声が響く。
クライは握っていた枝を、そっと下ろした。
「お、お前たちには……関係ないだろ」
言い返した。
けれど。
声は震えていた。
「は?」
先頭の少年から笑みが消える。
「弱虫のくせに、生意気言うじゃねぇか」
次の瞬間。
胸ぐらを掴まれた。
「うっ……!」
服が首元へ食い込み、息が詰まる。
「お前みたいな奴が冒険者になれると思ってんのか?」
「は、離してよ!」
「魔物が出たら真っ先に逃げるくせに!」
後ろの二人が笑う。
悔しい。
クライだって分かっている。
自分が怖がりなことくらい。
それでも。
だからといって。
夢まで笑われたくなかった。
「……っ」
クライは夢中で相手の身体を押した。
「うわっ!?」
不意を突かれた少年が尻もちをつく。
クライ自身も勢い余って地面へ倒れた。
一瞬。
静寂が落ちる。
「……てめぇ」
少年がゆっくりと立ち上がった。
その表情から。
さっきまでの笑みは完全に消えている。
「よくもやりやがったな!」
「……っ!」
クライは後ずさった。
逃げなきゃ。
頭では分かっている。
けれど。
恐怖で足が動かない。
相手はもう、目の前まで迫っていた。
「弱虫のくせに、調子乗ってんじゃねぇぞ!」
拳が振り上げられる。
クライは反射的に目を閉じた。
――駄目だ。
殴られる。
そう思った。
その瞬間。
丘を駆け上がる足音が聞こえた。
――バチンッ!
鈍い音。
「……?」
いつまで経っても。
痛みは来なかった。
クライは恐る恐る目を開く。
「……え?」
目の前に。
一人の少年が立っていた。
汚れた茶色のローブ。
いつの間にか外れたフードの下から覗く、燃える炎のような赤い髪。
夕焼けを思わせる橙色の瞳。
そして。
振り下ろされた拳を。
片手でしっかりと受け止めている。
「なっ……!?」
誰もが言葉を失った。
現れた少年は決して大きくない。
むしろ。
クライから見ても、小柄な方だった。
なのに。
その背中が。
信じられないほど大きく見えた。
誰なのかも知らない。
どこから来たのかも知らない。
それでも。
クライは不思議と思った。
――この人なら、大丈夫だ。
赤髪の少年は拳を掴んだまま、呆れたように言った。
「一人相手に三人がかりって……恥ずかしくねぇのか?」
「だ、誰だよお前!」
「俺?」
少年は少し考える。
「そうだな……」
そして。
何を思ったのか。
少し得意げに笑った。
「強いて言えば、正義の味方かな」
「…………」
三人が固まった。
クライも固まった。
「はぁ?」
「何言ってんだ、こいつ……」
「いや、なんかこういう時、一回言ってみたかったんだよ」
「ふざけてんのか!」
「別にふざけてねぇって」
赤髪の少年は真顔だった。
余計に腹が立ったらしい。
「だったらその手を離せ!」
「ああ」
少年はあっさり手を離した。
「……え?」
言った本人の方が少し驚いている。
赤髪の少年は首を傾げた。
「離せって言っただろ?」
「て、てめぇ……!」
少年は掴まれていた手をさすりながら、赤髪の少年を睨みつけた。
「痛い目に遭いたくなきゃ、さっさと消えろ!」
すると。
赤髪の少年はニッと笑った。
「それ、こっちの台詞だぜ?」
「……やっちまえ!」
後ろの二人が一斉に飛びかかった。
左から蹴り。
赤髪の少年は半歩下がってかわすと、その軸足を払った。
「うわっ!?」
一人が地面へ転がる。
ほぼ同時に。
反対側から大柄な少年の拳が迫った。
「あっぶねぇ!」
身体を捻って受け流す。
その勢いを利用して。
空いた腹へ、軽く拳を叩き込んだ。
「ぐっ……!」
大柄な少年が腹を押さえて膝をつく。
「…………」
ほんの一瞬だった。
残った一人が呆然とする。
「おい」
「ひぃっ!?」
肩が跳ねる。
赤髪の少年が首を傾げた。
「お前もやるか?」
「ぐっ……!」
悔しそうに歯を食いしばる。
だが。
倒れた二人を見て。
「くそっ! 行くぞ!」
二人を起こすと、三人は慌てて丘を下っていった。
「覚えてろよ!」
「おう!」
赤髪の少年が手を振る。
「……いや、そこ返事するところ?」
思わず。
クライの口から言葉が漏れた。
「ん?」
「な、なんでもない!」
三人の姿が見えなくなる。
「ったく」
赤髪の少年は小さく息を吐くと。
今度はクライへ振り返った。
「ケガしてねぇか?」
「あ……うん!」
クライは慌てて立ち上がった。
服についた土を払い。
勢いよく頭を下げる。
「ありがとう! おかげで助かったよ!」
「ならよかった!」
少年は明るく笑った。
さっき三人をあっという間に倒した人物と。
本当に同じ人なのか。
そう思うくらい。
普通の少年の笑顔だった。
「それにしても、すごいね!」
「ん?」
「僕と同い年くらいなのに、あんなに強くて……」
クライは自分の手を見る。
「僕なんて十二歳になっても、まだこんなに臆病なのに」
「……は?」
赤髪の少年の笑顔が消えた。
「俺は十四歳だ!」
「えっ」
クライは少年を見る。
足元から。
ゆっくりと。
頭の上まで。
「…………」
「…………」
「あの……ごめんなさい」
「なんで謝った!?」
「いや、その……」
「言うな!」
「はい!」
赤髪の少年は不満そうに頬を膨らませた。
その様子がおかしくて。
クライは少しだけ笑った。
「あ」
少年が地面へ目を向ける。
先ほど落とした本だった。
「これ、お前のだろ?」
「あ、ありがとう!」
少年は拾い上げると。
渡す前に表紙へ目を落とした。
「『英雄たちの冒険』……?」
「うん!」
「お前、こういうの好きなのか?」
「大好き!」
クライの表情が明るくなる。
「僕、いつかいろんな場所へ行ってみたいんだ」
まだ見たことのない場所。
知らない人。
知らない景色。
本の中でしか知らない世界を。
いつか。
自分の目で見てみたい。
「いろんなものを見て、いろんな人と出会って……」
クライは本を胸に抱いた。
「僕も冒険してみたいんだ!」
「……」
赤髪の少年は。
少しだけ驚いたようにクライを見た。
それから。
楽しそうに笑う。
「いいじゃん」
「え?」
「行けばいいだろ」
「……でも」
クライは俯いた。
「僕、怖がりだし」
「さっきだって動けなかった」
「冒険者になるなら」
「もっと勇気がないと……」
「まあ」
少年はあっさり頷いた。
「今のお前じゃ難しいかもな」
「やっぱり!?」
「だって怖いんだろ?」
「うぅ……」
「でも」
赤髪の少年は。
あまり気にした様子もなく続けた。
「怖いから行けないって決まったわけじゃないだろ」
「……え?」
「俺だって怖い時あるし」
「君でも?」
「あるって!」
少年は即答した。
「知らない場所なんて、何があるか分かんねぇし」
「変な奴に会うかもしれないし」
「強い魔獣がいるかもしれない」
「失敗することだってある」
「じゃあ……」
クライは顔を上げる。
「怖くないから冒険できるんじゃないの?」
「違うだろ」
少年は。
まるで当たり前のことを話すように言った。
「怖くても」
「それ以上に見たいものがあるから行くんだよ」
「……!」
「待ってたって何も始まらねぇしな」
風が吹いた。
大樹の葉が揺れる。
その向こうに。
どこまでも続く青空が見えた。
「世界って、めちゃくちゃ広いんだぜ」
少年は空を見上げる。
「俺だって、まだほんのちょっとしか知らない」
「……」
「だから」
橙色の瞳が。
真っ直ぐクライへ向く。
「見たいなら、いつか自分で見に行けよ」
「……僕でも?」
「お前が行きたいならな」
「……!」
「今怖がりなら」
少年は笑った。
「これから変わればいいだろ」
ありふれた言葉だったのかもしれない。
だけど。
クライには。
どうしてか。
その言葉が不思議なくらい真っ直ぐ胸へ届いた。
怖くなくなってから。
強くなってから。
いつか誰かが連れていってくれるまで。
そうやって待つ必要なんてないのかもしれない。
今はまだ。
何もできなくても。
「……うん!」
クライは力強く頷いた。
「僕、いつか行く!」
「おう!」
「世界の果てまで!」
「そこは俺が先に行く!」
「えぇ!?」
赤髪の少年が楽しそうに笑う。
「早い者勝ちだ!」
「そんなのずるいよ! 僕まだ村から出たこともないのに!」
「じゃあ急げ!」
「無茶だよ!」
「ははっ!」
その笑い声を聞いているうちに。
クライもつられて笑っていた。
「じゃ」
赤髪の少年が村の方へ身体を向ける。
「俺、そろそろ行くわ」
「あっ!」
クライは咄嗟に声を上げた。
少年が振り返る。
「あの!」
「ん?」
「名前!」
「名前?」
「まだ聞いてない!」
「ああ」
少年は少し驚いて。
「そういや言ってなかったな」
そして。
太陽の下で笑った。
「俺はルイス!」
赤い髪が。
風に揺れる。
「冒険者のルイスだ!」
「冒険者……」
「ああ!」
ルイスは村へ向かって歩き出す。
数歩進んで。
もう一度だけ振り返った。
「おい!」
「え?」
「世界は広いぞ!」
ルイスが叫ぶ。
「お前も、いつか見に来い!」
「……!」
そして今度こそ。
村へ向かって歩いていった。
クライは。
その背中をいつまでも見つめていた。
――ルイス。
世界を旅する。
赤髪の冒険者。
雲一つない青空。
心地よい風の吹く緑の丘。
大樹の葉が静かに揺れている。
この日。
世界地図にも載らない小さな村で。
クライは初めて。
本の中ではない。
本物の『冒険者』と出会った。




