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ラノベ残酷物語  作者: 秋山完
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28●国産ファンタジーの頂点であり原点、“本当は恐い”『太陽の王子ホルスの大冒険』

28●国産ファンタジーの頂点であり原点、“本当は恐い”『太陽の王子ホルスの大冒険』



 『太陽の王子ホルスの大冒険』。

 ファンタジーの「原点回帰」を考えるとき、必ず立ち還らねばならない一作。

 国産アニメの金字塔、それも空前絶後の最高傑作だと思います。

 技術、表現、色彩、そして独創的な設定にキャラクター描写も、最高! の一言。

 つまり、後年のアニメやファンタジー作品で、この『太陽の王子ホルスの大冒険』を凌駕したものは無いと断言しても良いのでは?



 特徴をまとめますと……


①「魔法vs魔法」でなく、「魔法力vs人間の力」の戦いが活写されている。

 魔法使いと魔法使いが魔法力で戦闘するお話は『ハリー・ポッター』をはじめ、無数にあります。ラノベの魔法学園ものはたいていそうですね。

 しかし『太陽の王子ホルスの大冒険』は、物語の後半に「太陽の剣」が完成するまでは、悪魔グルンワルドとその手下たちに対して、ただの人間がその知恵と力で闘う様相が描かれています。「魔法力vs人間力」なのです。

 前哨戦である、狼群ろうぐんの襲撃は村人の団結と工夫で撃退し、次なるネズミの大軍の襲撃はお手上げだったものの、若者ルサンと新妻ピリアの愛が不幸を解消します。

 そしてグルンワルドの本格攻勢に対して、人類はギリギリで逃げるのをやめて、村を死守すると決意、持てる火力を結集して、悪魔の第一撃から村を守ります。まるでウクライナを彷彿とさせる領土防衛戦ですね。

 そして戦いのゲームチェンジャーとなる決戦兵器「太陽の剣」を鍛えて実戦配備にこぎつけた原動力は、魔法ではなく人類の団結力でした。

 最後はホルスが「太陽の剣」と「命のたま」を実装することで、自身の魔法力を段階的に高めてグルンワルドを追い詰めますが、悪魔にとどめを刺した瞬間、魔法力は全て消え去り、ホルスはただの人に戻ります。ここがハリポタと真逆の結末。 

 「魔法に対する勝利」とは、「魔法を捨て去ること」でもあったわけです。それが「人間を取り戻すこと」であり真の平和なのだと。もう、お見事としか言えません。


 「魔法力vs人間力」の戦いは『アナスタシア』(1997)にも見られます。アナスタシア嬢は悪魔に勝利して、そこで得られるはずの富も権力もなぜかあっさり捨てて「愛」を選びます。この、なんら未練のない「捨てっぷり」の良さは、最近の作品には極めて少ない、貴重な場面であると思います。

 「魔法」という未知のパワーに対して、人類はいかにして自力で立ち向かうか。

 この視点、ファンタジー作品で見落としたくないですね。

 じっさい「魔法vs魔法」の戦いには終わりがなさそうでして、どこかで「魔法に頼らない解決法」を見出さなくては、真の平和は実現しない、ということでしょう。


②「エコロジーの視点」を先駆的に描いた。

 人類の宿敵とされる悪魔グルンワルドは「寒さ」を武器とします。ならば『アナ雪』のエルザは親戚みたいなものでしょうか。でも、エルザって同情する点はあるものの、やったことは、ほぼ悪魔ですよ、間違いなく。あの自分勝手さ。

 さてグルンワルドは軍勢を率いていますが、狼にネズミに怪魚、雪狼に氷のマンモスと、どれもが大自然の生きものに由来しています。つまりグルンワルドは、大自然を統べる自然神の位置づけなんですね。『もののけ姫』のシシ神やダイダラボッチと、じつは同格、その顔相とファッションがいかにも悪魔アクマしているだけで、中身はネイティブなゴッドネイチャーなんですよ。

 というのも、グルンワルドはなぜ人類を滅ぼそうと励んでいるのか?

 答えは単純で「人類を滅ぼさないと、自分たちすなわち大自然が滅ぼされる」からですね。事実、人類は森の動物たちを殺して食い、魚もごっそり獲って食ってしまいます。森の生きものは人類に食糧を奪われて飢えるのです。

 これを現代では自然破壊とか環境破壊と申しますね。グルンワルドからみて、人類は破壊と殺戮を拡大するだけの、進撃する巨人と同じレベルの地球的害悪なのです。

 まこと、人類はごうが深い。

 『太陽の王子ホルスの大冒険』公開の1968年は、国会で大気汚染防止法が成立した、まさにその年にあたります。「公害」という言葉はまだ新語の部類で、「自然破壊・環境破壊」という概念は恐ろしく希薄でした。四日市コンビナートの大気汚染では子供たちが酷い喘息ぜんそくに苦しんでいましたが、その対抗策は「みんなで一生懸命うがいして、強い体になりましょう」だったのですから、「原爆に竹槍で対抗する」みたいな愚策でした。

 そんな時代にSDGsを半世紀先取りするアイデアをファンタジー作品化したのですから、『太陽の王子ホルスの大冒険』の先駆性は半端ではないと思います。しかしそのテーマの崇高さゆえに、当時のガキンチョ、もとい、お子様たちには理解できるはずもなく、興行的には失敗の烙印を押されてしまいました。


③「引き裂かれた少女」を描き上げた。

 自然からの収奪と破壊を繰り返して繁殖する人類。

 とすると、「この地球上に、そんな人類を生かす価値はあるのか?」という命題が生まれます。滅ぼした方が地球のためではないか? ……と。事実そうですね。

 放置しておくと人類はどんどん版図を広げ、森林は伐採されて砂漠化し、動物も魚たちもみんな食べられて絶滅、地球はゴミだらけで汚染されます。21世紀の今なら、グレタさんを筆頭に賢明な若人はみんなSDGsを信奉していますね。その意味で『太陽の王子ホルスの大冒険』は、歴史への登場が十年早すぎました。

 1968年でなく78年の公開なら、ずばり『未来少年コナン』の放映時にあたり、しかも1974年の『宇宙戦艦ヤマト』と1979年の『機動戦士ガンダム』にはさまれて、アニメというものがいい歳をしたオトナの鑑賞芸術にまで高まっていました。このときならば『太陽の王子ホルスの大冒険』は大ヒットできたでしょう。

 リバイバル上映すればきっと当たったと思います。全国で『ホルス……』の自主上映会が催され、16ミリ・フィルムの一日だけの上映に毎回数百人は集まっていたのですから。しかし諸般の事情で制作側のトラウマがあったのでしょうね。

 そしてこのときオタクなファンを魅了していたのは、主人公のホルスでなくヒロインの少女ヒルダでした。

 ヒルダは本当に稀有のキャラクターでした。「私は悪魔? それとも人間?」と人格が引き裂かれて苦しむ性格演技派の美少女だったのですから。1968年の公開当時、アニメの少女キャラはほぼ例外なく、カッコいいヒーローの男の子に悪漢から救ってもらうだけの、可愛い「飾り物」が普通だったのです。

 悪魔グルンワルドと、いわば「固めの杯」を交わした関係の「悪魔の妹」として正体を現したヒルダでしたが、中身はもともと人間。なのでホルスたち人類に共感し、同情することもできるのですが、皮肉なことに、彼女のお仕事は人類を絶滅するための内戦工作、つまり魔女の特殊工作員だったわけですね。

 しかもヒルダは心底から人間を嫌い、憎んでいます。ホルスに対して「間抜けなドラーゴや疑り深い村長、すぐに仲間を裏切る村人たちと同じなのよ!」と散々に罵倒して「なりたくないわ、人間なんかに!」と吐き捨てます。

 そこまで人類を嫌悪し侮蔑するには、理由があるはず。

 おそらく、かつて人間として暮らしていたとき、「間抜けで疑り深くて、すぐに裏切る」村人たちによって、いじめの対象となり、つまらぬ冤罪を着せられて迫害され虐待され、自ら死を選ぶ寸前まで追い込まれて、人類に絶望した経験があるのでしょう。そこでグルンワルドに救われたのだと思われます。

 グルンワルドに恩義を感じたヒルダは人類への復讐を誓って、村々の内戦工作を引き受け、そして自分が冤罪を着せられたのと全く同じプロセスでホルスを罠にハメたのであろうと推測します。

 冤罪を着せられ、村人に石もて追われるホルスの姿は、遥かな昔にヒルダが村を追われて絶望した、その同じ行為のリフレインであったのでしょう。そこにヒルダは自分自身の鏡面的な存在としてホルスを認め、そこでホルスを愛している自分を自覚したのではないでしょうか。

 しかしその一方、ヒルダはホルスが生まれたその村を滅ぼした張本人でもあったわけです。

 ホルスの父がいまわのきわに語った、ホルスの出自。悪魔に操られて互いに殺し合う村人たち、そして乳飲み子のホルスを抱いて脱出する父親。

 映像を見る限り、その悪魔はグルンワルドであり、村が内戦状態に陥っていたことからして、ヒルダの仕業でもあったことは容易に見当がつきます。

 ヒルダは間接的とはいえ、ホルスの母親を殺し、村まで滅ぼした大量殺人の鬼。

 ヒルダは極悪人であり、その罪は死んでも償いきれない。

 ヒルダが心の奥底に隠していたこの事実は、ホルスに対する歪んだ贖罪の思いとなり、それはまた、ホルスへの愛に置換していったのでしょう。

 その愛ゆえに、ヒルダはホルスを殺せなくなります。

 断崖の縁までホルスを追い詰めて短刀を振り下ろしつつも、ホルスを刺し貫くことはできず、迷いの森に幽閉したホルスに、悪魔の仲間になるよう誘います。

 しかし、太陽の剣の鍛え方を悟って迷いの森を脱出したホルス。

 そこでヒルダが剣戟けんげきを挑む場面が、本編最大の圧巻となっています。

 かつて冤罪で死にかけた自分を救い、兄となって保護してくれたグルンワルドに、ヒルダは心から恩義を感じています。そして、ここでホルスを殺さなければ、ホルスは太陽の剣を手にして必ずグルンワルド兄さんを殺す……。

 ヒルダは本気でホルスに斬りかかります。普通の人間であるホルスに対して、魔法力を有するヒルダは圧倒的に強く、ホルスを斬殺ざんさつすることは十分に可能です。

 しかし、斬れない、どうしてもホルスに向けた切っ先が外れてしまう。

 愛しているから、殺せない。簡単に殺せるのに、それができない。

 この剣戟の場面、ほんの数秒ですが、コマ送りにしてみると、ヒルダの凄まじい葛藤がその表情に感じられます。

 ヒルダはきっと、自己矛盾のあまり、クレバスに落ちる猫のように錯乱したのではないかと思います。きっと彼女の心はこのような悲鳴を上げていたでしょう。

「ああ、ホルス、いっそのこと、ここであたしを殺して!」と。

 ここまで痛切なヒロインは、後にも先にもいないのではないかと……

 このヒルダというキャラクターが誕生したことで、『太陽の王子ホルスの大冒険』は空前絶後の傑作になり得たと考えます。


 傑作である理由がもうひとつ。魔法力を放棄したヒルダが本来なら凍死しているはずのところ、物語のラストで、なぜか生き返るという奇妙な展開です。

 つまりこれは「ヒルダに魔法力が残っている」ことを示す現象とも解釈できるからです。

 となると、ヒルダは「人間に戻った」のではなく、「無害な少女を装った魔女とし て、人類の中に潜伏した」という結末になります。

 これは実に意味深です。自然の収奪と破壊を続ける人類に対して、いつか神の劫罰を下す時限爆弾がひっそりと遺されたことになるからです。

 それがむしろ、『ホルス……』の結末への最も適切な解釈ではないかと思います。

 以上、“本当は恐い”『太陽の王子ホルスの大冒険』でした。


 ヒルダのように「引き裂かれたヒロイン」が次に銀幕に登場するのは、2001年の劇場アニメ『メトロポリス』。

 「私はロボット? それとも人間?」と苦悶する少女、ティマのことです。 

 「私はロボット? それとも人間?」、この命題に対して、作者はこう告げます。「どちらでもない、超人になるのだ」と。

 “超人”といってもスーパーマンのことではなく、「人間とロボット、両者を超越する存在」ということでしょう。そうなるとティマの立ち位置は、「神か悪魔か」の二択になるのではと。

 そして超越者となったティマの結論は、「人類の駆除」でした。彼女は破壊神となり、人類の殲滅に着手します。しかしそれでも、ギリギリで彼女を引き留めたのは、彼女自身のケンイチへの愛でした。顔の半分は人間、半分は機械、そして瞳からどす黒いオイルの涙を流しながら、彼女はケンイチの手を離すことを決意します。

 ティマの本質は何だったのか。彼女はおそらく、「人間とロボットの間に手を差し伸べる天使」になり得たのではないかと、作中の一場面、彼女がささやかな幸せを味わうワンカットで暗示されます。ティマの背中に、ケンイチが天使の翼を幻視することで……。


 『メトロポリス』(2001)は非常に残念ながら、大衆からはあまり支持されませんでした。今からでも遅くないからTV放映などして、世間の再評価を促されたいものです。このまま埋もれてはならない傑作だと思うのですが……


 そして「引き裂かれたヒロイン」が再び銀幕を彩ったのは、2013年公開の『かぐや姫の物語』ですね。地球の人々を愛する自分、そして月人として帰郷せねばならない自分に引き裂かれて、姫は身も心も錯乱します。

 これは『太陽の王子ホルスの大冒険』の事実上の監督を務められた故・高畑勲氏がみずから監督となって、45年前のヒルダへの、一つの回答を示されたと読み取ることもできるでしょう。


       *


 『太陽の王子ホルスの大冒険』の凄いところはもうひとつ、「古今東西のファンタジーの要素がギッシリと詰め込まれている」ことです。

 人類と悪魔との戦い。親の死と旅立ち。仲間をもとめるクエスト。謎めいた美少女との出逢い。狼やネズミ、大鷲や怪魚となって襲い来る魔物たち。人間の友達となって人類語を喋る動物。神の使いともとれる、岩石の巨人。その岩の肩に刺さっていて、ヒーローが引き抜くことで活性化する、魔法の決戦兵器「太陽の剣」。死と破壊を暗示する氷のマンモス。魔法のアイテム“命の珠”。氷上を走る帆船。悪魔の砦である氷の城。そして氷のトーチ。すべてに解決をもたらす太陽の光……。

 ファンタジーの舞台装置が一枚の複雑なジグソーパズルのように、無駄なくきっちりと盛り込まれ、しかもさほど混乱もなく相関関係を保っていますね。

 登場人物の衣服や、こまごまとした生活の道具まで。

 それらすべてを総合した、徹底的に正統派のファンタジーです。

 そして、神様の存在。神様は姿を現しませんが、ヒルダの子守歌で「むかしむかし、神様が……」と吟じられるのは「夜の神様」、そして子供たちの歌で「お日様が笑った……」と唄われる、この“お日様”は「昼の神様」のことですね。

 人類と悪魔の相克、その上位概念としての「神様」が無視されることなくキッチリと暗示されていることが、作品世界にこの上ない深みを与えています。作中に描かれたすべての出来事は、神様がご照覧なのだ……と。これもファンタジーの王道の要素であろうかと思います。


 このように『太陽の王子ホルスの大冒険』は、ファンタジー作品として、完璧ともいえる緻密な構成を実現しています。一瞬たりとも無駄のない「完全作品」があるとしたら、まさにこの一篇ではないでしょうか。


 ファンタジーの書き手と編集者の方々で、『太陽の王子ホルスの大冒険』を未見であるお方は一人もおられないと思いますが……

 それどころか、一度観ただけではその奥深さに気づけません。

 十回二十回と繰り返しご覧になることをお勧めします。一回観るごとに、万華鏡のように作品世界の様相が変わり、全く別の作品と思えるほどに新しい見識が生まれること、請け合いです。

 二十代で観たとき、五十代で観たとき、それぞれで全く別なヒルダが目の前に立ち現れてくると思いますよ。




  【次章へ続きます】



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