そばにいるということ
春が過ぎ、夏が来て、吉備の村にもいつもの暮らしが戻っていた。
畑では野菜が育ち、朝になれば井戸端に人が集まる。誰かの家で何かあれば、村の誰かがそれを知っている。
ふみも相変わらずだった。
「この前、門の家の畑でなあ……」
井戸端で話し始めると、なかなか終わらない。
「ふみさん、その話はもう聞いたよ」
きぬさんに言われても、ふみは気にしない。
「そうじゃったかね。まあ、何度聞いてもええ話じゃけえ」
「自分が話したいだけじゃろ」
みんなが笑った。
そんなある日のことだった。
門の家の春江の夫、進が急に倒れた。
知らせを聞いたとき、ふみは畑にいた。
「えっ、春江さんのところ?」
手にしていた籠を置き、そのまま門の家へ向かった。
家の前には近所の人が集まっていた。家の中からは、慌ただしく人が動く音が聞こえる。
春江は座敷にいた。
顔色は青白く、何が起きているのか、まだ受け止められない様子だった。
ふみが声をかけても、春江は小さく頷くだけだった。
その後、進は帰らぬ人となった。
突然の別れだった。
春江は、進のそばから離れようとしなかった。
泣いているのか、泣いていないのかも分からない。ただ、夫の顔をじっと見つめていた。
ふみは、何を言えばいいのか分からなかった。
父が倒れた日のことが、頭の中によみがえっていた。
港の騒ぎ。人だかり。倒れていた父。母から告げられた、父の死。
あの日から、母と二人の暮らしが始まった。
ふみは春江のそばに座った。
「春江さん……」
それだけ言って、言葉が続かなかった。
春江は、ふみの顔を見た。
「ふみさん。どうして、こんなことになったんでしょう」
「……分からんよ」
ふみは正直に答えた。
「うちにも、分からん」
春江はまた進の方を向いた。
ふみは、それ以上何も言わなかった。
人が亡くなるということは、どれだけ言葉を並べても、簡単に受け入れられるものではない。
まして、昨日まで一緒に暮らしていた人が、もう戻ってこないのだ。
そのうえ、春江には三人の息子がいた。
まだ幼い子どもたちは、父親がどうして帰ってこないのか、十分には分かっていないようだった。
「お父ちゃんは、いつ帰ってくるん?」
そう尋ねる子どもに、春江は答えられなかった。
ただ、子どもを抱き寄せて、顔を伏せた。
ふみは、その様子を見て胸が詰まった。
自分も幼いころに父を亡くした。母が一人で働き、家を守ってくれたことは覚えている。
けれど、あのころの母が何を考え、どれほど不安だったのか。子どもの自分には、分かっていなかった。
春江は、これからどうやって三人を育てていくのだろう。
家のこと、畑のこと、子どもたちのこと。進がいてくれたから何とか回っていた毎日が、これからは自分一人にのしかかる。
ふみは、その重さを思うと、何も言えなくなった。
その日から、ふみは何度も門の家へ通った。
最初は近所の人たちと一緒に行った。食事を届けたり、家の用事を手伝ったりした。
春江は、訪ねてくる人たちに何度も頭を下げた。
「ありがとうございます。すみません」
「もう、そんなに謝らんでええよ」
ふみはそう言いながら、台所で手を動かした。
ある日、ふみが煮物を持っていくと、春江は縁側に座っていた。
「春江さん、ご飯は食べたん?」
「子どもたちには食べさせました」
「春江さんは?」
「私は、あとでいいです」
「また、そういうことを言う」
ふみは少し強い口調になった。
「子どもらに食べさせるのは大事じゃけど、春江さんが倒れたらどうするんよ」
春江は困ったように笑った。
「でも、食べる気がしなくて」
「そりゃあ、そうじゃろうね」
ふみは持ってきた煮物を置いた。
「無理して全部食べんでもええよ。少しでも口に入れときんさい」
春江は黙って頷いた。
しばらくして、春江がぽつりと言った。
「ふみさん。私、これからどうしたらいいんでしょう」
ふみは春江の顔を見た。
「子どもが三人もいるんです。まだ小さいし、これからお金もかかるし。畑だって、今までのようにはできない。私一人で、ちゃんと育てていけるんでしょうか」
声が震えていた。
「この子たちに、寂しい思いをさせてしまうんじゃないか。食べさせていけるんだろうか。学校にも行かせてやれるんだろうか。考え始めると、夜も眠れなくなるんです」
春江は、両手で顔を覆った。
「私がしっかりしなきゃいけないのに。子どもたちの前では泣いてはいけないと思うのに……」
ふみは、春江の隣に座った。
「泣いたらええよ」
「えっ?」
「子どもの前で泣いたってええじゃない。母親じゃって、悲しいんじゃけえ」
春江は、声を押し殺して泣いた。
ふみは何も言わず、隣に座っていた。
しばらくして、春江が涙を拭いた。
「ふみさんは、どうやってお母さんと暮らしてきたんですか」
「うち?」
ふみは少し考えた。
「うちも、よう分からんうちに大きゅうなったんよ。母ちゃんが毎日働いとったからね」
「お母さん、大変だったでしょうね」
「そりゃあ、もう。朝は市場に行って、昼はたなかで働いて、夜は家で手仕事をしとった。うちは子どもじゃったけえ、母ちゃんがどれだけ寂しかったか、全部は分からんかったけどね」
ふみは、少し間を置いた。
「でも、母ちゃんには、ちづさんがおったんよ」
ちづは、母が困っていたときに、たなかで働く機会を作ってくれた。何かと声をかけ、ふみのことまで気にかけてくれた。
母は、ちづと話しているとき、よく笑っていた。
「ちづさんがおらんかったら、母ちゃんも、もっと大変じゃったと思う」
春江は、静かに聞いていた。
「だからね、春江さん。うち一人で何でもできるとは言わんけど、困ったら言うて。畑のことでも、子どものことでも。できることは手伝うけえ」
「でも、ふみさんにもご家庭があるのに」
「そんなことは気にせんでええよ。うちだって、近所の人に助けてもろうてきたんじゃけえ」
ふみは春江の手にそっと触れた。
「それに、子どもらのことも気になるんよ。三人とも、うちの子みたいなもんじゃと思っとるけえ」
春江は、また目に涙を浮かべた。
「ありがとうございます」
「お礼はええよ。まあ、うちも口だけにならんようにせんといけんね」
ふみは照れ隠しのように笑った。
それから、ふみは門の家へ通うことが増えた。
春江が畑に出られない日は、近所の人と一緒に手伝った。子どもたちの面倒を見ることもあった。
上の子が弟の世話をしているのを見ると、ふみはつい口を出した。
「お兄ちゃん、あんたもまだ子どもなんじゃけえ、そんなに頑張らんでええんよ」
「でも、お母ちゃんが忙しいから」
「それは分かるよ。でも、遊ぶのも子どもの仕事じゃけえ」
そう言って、ふみは三人を外へ連れ出した。
畑のそばで虫を探したり、川辺で遊んだりした。
帰りには、子どもたちにまんじゅうを一つずつ渡した。
「ふみさん、またまんじゅう?」
「また、とは何ね。まんじゅうは何回食べてもええんよ」
子どもたちは笑った。
その笑い声を聞くと、ふみも嬉しくなった。
もちろん、いつも上手くいくわけではなかった。
ある日、ふみが子どもたちを連れて出かけたまま、帰るのが遅くなった。
春江は心配して、門の前で待っていた。
「ふみさん、どこまで行っていたんですか。心配しました」
「ああ、ごめんごめん。ちょっと遊ばせとったら、つい時間を忘れてしもうて」
「何かあったらどうするんですか」
「そうじゃね。うちが悪かった」
ふみは素直に頭を下げた。
「今度から気をつけるよ」
春江は、少しほっとしたように子どもたちを抱き寄せた。
ふみは、誰かを支えるというのは、ただ親切にすればいいわけではないのだと思った。
相手の気持ちを聞き、相手の暮らしを考え、自分の思い込みで動かないことも大事なのだ。
ある日の夕方、ふみが門の家を訪ねると、春江は一人で畑の方を眺めていた。
「春江さん、どうしたん?」
「ふみさん。私、考えていたんです」
「何を?」
「これからのことです」
春江は、しばらく畑を見つめていた。
「実は、実家に帰ることも考えました。母も心配してくれていますし、子どもたちを連れて帰れば、少しは楽になるかもしれないと思って」
ふみは、黙って聞いていた。
「でも、ここを離れてしまったら、進さんと暮らした日々まで、なくなってしまうような気がして」
春江の目に涙が浮かんだ。
「この家に来た日のことを覚えています。何も分からなくて、畑のことも、村のことも、失敗ばかりで。進さんが笑いながら教えてくれました」
ふみは、春江の隣に腰を下ろした。
「そうじゃったね。最初のころは、よう頑張っとったよ」
「進さんと一緒に、この家で暮らしてきました。三人の子どもも、ここで生まれました」
春江は、家の方を振り返った。
「私は、門の家の嫁です。進さんの妻です」
一つずつ、確かめるように言った。
「この子たちを、門の家の子として育てていきたい。進さんと一緒に築いてきた暮らしを、守っていきたいんです」
ふみは、春江の顔を見た。
「そうかね」
「もちろん、不安はあります。私一人でやっていけるのか、今でも分かりません。でも、この子たちを守ることが、進さんと過ごした人生を大切にすることにもなると思うんです」
春江は、手をぎゅっと握った。
「何があっても、三人を守ります。母親として、この子たちを育てていきます」
その言葉には、悲しみだけではない、確かな強さがあった。
ふみは、春江の手を握った。
「うん。春江さんなら大丈夫よ」
そう言ってから、ふみは少し笑った。
「でも、一人で全部やろうとしたらいけんよ。うちもおるし、村のみんなもおる。困ったら、何度でも言うんよ」
「ありがとうございます」
「それに、子どもらのことは、うちも一緒に見守るけえ。三人とも、うちの子みたいなもんじゃと思っとるからね」
春江は、ふみの手を握り返した。
「ふみさんがいてくれて、本当によかった」
「何を言うんよ。うちも、春江さんがおってよかったよ」
ふみは、照れくさそうに笑った。
その後、春江は義父母とも話をした。
義母のふさは、春江の手を握り、静かに言った。
「春江さん、無理をせんでもええんよ。実家に帰って、少し休んでもええんじゃから」
義父も、いつもより柔らかな声で言った。
「これからのことは、ゆっくり考えたらええ。わしらもおるんじゃけえ」
春江は、二人の顔を見た。
「ありがとうございます。でも、私はここに残りたいんです」
「春江さん……」
「ここは、進さんと一緒に暮らしてきた家です。この子たちも、ここで育ってきました。これからも、門の家の子として育てていきたいんです」
ふさは、春江の手を握ったまま、何度も頷いた。
「そうかね。ありがとうね」
春江は、涙をぬぐった。
「私一人では、できないこともあると思います。どうか、これからも一緒にお願いします」
「もちろんじゃ。家族なんじゃけえ」
その言葉を聞いて、春江はようやく少し笑った。
その夜、ふみは久しぶりに母へ手紙を書いた。
母ちゃんへ。
吉備の暮らしにも、すっかり慣れました。
源吉さんにも、ふささんにも、相変わらずあれこれ言われながら、毎日楽しくやっています。
この前、春江さんの旦那さんが亡くなりました。
春江さんには、まだ小さい息子が三人います。
これからどうやって暮らしていけばいいのか、子どもたちをちゃんと育てていけるのか、とても不安そうにしています。
その姿を見て、父ちゃんが亡くなったころのことを思い出しました。
母ちゃんは、あのころ本当に大変だったんじゃね。
朝から市場に行って、昼はたなかで働いて、夜も手仕事をして。
うちは子どもじゃったから、母ちゃんがどれだけ苦労していたのか、ちゃんと分かっとらんかった。
寂しい思いもしたじゃろうし、不安で眠れん夜もあったんじゃろうね。
それでも、母ちゃんはうちを育ててくれた。
ちづさんにも助けてもらいながら、毎日を一生懸命に生きてくれた。
母ちゃん、ありがとう。
春江さんは、門の家に残って三人の子どもを育てていくと決めました。
進さんと過ごした人生を大切にしたいと。
何があっても、三人を守ると。
その決意を聞いて、うちは胸がいっぱいになりました。
今度は、うちが春江さんを支えたいと思っています。
春江さんだけじゃなく、三人の子どもたちのことも、自分の子どものように見守っていきたい。
ちづさんが母ちゃんにしてくれたように、うちも誰かの力になれたらええなと思うんよ。
母ちゃんがしてくれたことを、今になって少しずつ分かるようになりました。
今度帰ったら、また一緒にまんじゅうを食べようね。
ふみより。
手紙を書き終えたふみは、しばらくそれを眺めていた。
母に伝えたいことは、まだまだあった。
けれど、これ以上書くと、また長くなりそうだった。
「まあ、ええか。続きは帰ったときに話そう」
ふみは手紙を畳んだ。
それから、季節が少しずつ進んだ。
春江は、すぐに元気になったわけではなかった。
笑わない日もあった。畑に出られない日もあった。子どもたちにきつく当たってしまい、あとで一人で悔やむ日もあった。
それでも、少しずつ、自分の暮らしを取り戻していった。
ある日、ふみがまんじゅうを持って訪ねると、春江は子どもたちと縁側に座っていた。
「春江さん、まんじゅう買うてきたよ」
「ふみさん、またまんじゅうですか」
「また、とは何ね。子どもらも好きじゃろ?」
子どもたちは嬉しそうに手を伸ばした。
春江も一つ受け取った。
「いただきます」
四人が並んでまんじゅうを食べる。
しばらくして、春江が言った。
「私、明日から畑に出てみようと思うんです」
「そうかね」
「まだ、進さんのことを思い出すとつらいです。でも、この子たちと一緒に、ここで暮らしていこうと思います」
「うん。無理せんようにね」
ふみは、春江の顔を見た。
「困ったら、いつでも言うんよ。うちは、すぐそこにおるけえ」
春江は、子どもたちの頭を撫でた。
「ありがとうございます。私、一人じゃないんですね」
「そうよ。うちもおるし、みんなもおる」
ふみは、子どもたちに向かって言った。
「ほら、あんたらも、何かあったらうちのところへ来んさいよ」
「まんじゅうある?」
上の子が尋ねた。
「もちろんよ」
「やったあ」
子どもたちが笑った。
春江も声を出して笑った。
ふみも笑った。
帰り道、ふみは空を見上げた。
海辺の町にいたころ、父と一緒に見た空。父が亡くなったあと、母と二人で見上げた空。そして、吉備の村で暮らす今の空。
人は、大切な人を失っても、その人を忘れるわけではない。
寂しさがなくなるわけでもない。
それでも、誰かと話し、誰かと食べ、誰かのそばで暮らしていく。
母のそばには、ちづがいた。
そして今、春江のそばには、自分がいる。
ふみは、母から受け取ったものを、少しだけ誰かに渡せたような気がした。
「さて、帰って晩ご飯を作らんと」
そうつぶやいて、ふみは歩き出した。
明日も、畑がある。井戸端には、きっと誰かがいる。
春江のところにも、また顔を出そう。
子どもたちの顔も見に行こう。
まんじゅうを持っていくのもええ。
ふみは、いつものように少し急ぎ足で、家へ帰っていった。




