しかけは爆弾です⑪
鏡哲也は、帰りのバスで回収するアンケート書類の束をチェックしていた。
キャンセルもゼロ、発着も滞りなくプラン通りに終えられた仕事だった。確かにいつも以上の評価数を取れている。
その段になって、鏡は初めて部下に及第を出した。
緊急事態宣言を発表した国からの徹底した封じ込めは、零細企業ながらも鏡が取締役を務める旅行代理店にとって、直接的な締め付けでしかない〈県外への外出禁止〉を要請した。
働くなと言う割に補助金の額が少な過ぎる。近くのスナックが補助金だけでは足りず、夜間十二時以降も闇営業をしているのを知っていた。どこの街でも、そうだった。
辛酸を舐める思いで一年、痩せ馬に鞭を打ちながら一年。
コロナ後何度か組んだツアーが埋まってきて、やっと今期黒字の兆しが見えてきた所だった。
目に涙をうかべながらハイタッチをしている部下達を帰宅させ、今回のツアー参加者をあらためると、ほとんどが近所の人達で埋まっていた。
彼らの好意に素直に甘え、顧客情報をリストアップしなおして鏡は会社を出た。
会社と一口に言っても、学生時代からの同級生である真壁が企業したこの仕事は、家内産業で始まった十年前と今も変わらず、三階建ての二世帯住宅をそのまま会社として登記している。
取締役員だけが停められる駐車場は、とりもなおさず一軒家の狭小な車寄せで、鏡の軽はそこに停めてあった。
自家用車に小太りの身体を滑らせ、シートにまどろみ長く息を吐く。
ため息で埋まっていく空の予定表をあと何枚捲れば、先の見通しが立ってくるだろうか。
部下達が自発的に仕事を取ってこようと躍起になっている。
低予算のツアーを組み、自分の足で少しでも会社に貢献しようとしてくれている。
翻せばそれは、会社の存続を危惧していると言っても過言ではない。
彼らに勘づかれてはならないと、会社の庭先でいつも通りの鏡を演じたが、渉外に出るたびに近所からの憂いに晒されたような気分になった。
従業員が路頭に迷うような事だけは、絶対に避けなければならない。
必要経費を見込むとほとんど無くなる雀の涙ほどの補助金は、従業員の給料に充て、不足分は真壁と鏡で補填した。
会社の金に手をつけるか否か、真壁とは意見が分かれ度々衝突したが、貯金を切り崩して生活する日々は後ろめたくて、お互いに自分自身を踏み躙っているようだった。
鬱屈を掻き消したくて、チャンネルをFMに合わせる。
渋滞情報が終わったところで、楽曲のリクエストコーナーだった。
聞き覚えのあるヒットソングを聴きながら、鏡は、焦げ跡のついた足元のマットをじっと見て、セブンスターに火をつける。
その焦げ跡は先日、聞くともなくラジオを流し一息付いていた所に、待ちあぐねた首相の宣言解除の発表があった、集中力の産物だった。
そのニュースの土産の焦げ跡は、閑古鳥が鳴いていた終止符の証印にも見えた──。
「どうだ、鏡の会社は」
行きつけのカラオケ居酒屋で、旧友と肩を並べて愚痴をこぼした。
「正直、今は四〇パーセント。あのまま行けば危なかった。徐々に仕事が増えて来た所だ」
「そうか。まぁ、ウチも似たようなものだ。そんな忙しくなって来た所悪いんだけど」次の会議だと手帳を見せて来る。
「ああ、ごめん。忘れてた」
「いやあ、悪いね、臨時で代わってもらったとはいえ、任期までに彼はもう戻って来ないだろう」
「あれから二年か、光陰矢の如しだ」
「ああ、だけどみんな諦めてないんだよ。いつ帰ってくるかと待っているよ。鏡が満場一致で代理を引き受けてくれた時、そういう希望に変わったんだろうな」
「いやいや、おれはなんにもしてないよ」
「謙遜すんな。お前ほど人に道を示す雅量がある奴はなかなか居ないんだから」
「それはまったく、別の意味でだろう」そう言うと旧友は笑い、「御輿の案は、特に良かった」と水割りを飲み干した──。
ギアをドライブに入れて、車寄せから出る。
鏡は五年前に、職住近接の観点から、車で十分とかからない住宅街の建売を購入した。フラット35が通るギリギリのタイミングで、経済的にも時間的にも余裕のある買い物とは言えなかったが、スーパーや小中学校も近く、身の丈に添った篩い分けと言えた。
我が家に向かって走らせていると、カーナビが着信を告げるコールを鳴らした。
ラジオからハンドレスに切り替え、もしもしと電話に出る。
「もう帰ったか?」真壁からだった。
「ああ、おつかれ。今出たとこだ、どうした」鏡は電話の音量を上げる。
「朗報だ。山梨のバスが決まった」
「本当か、本数は」
「当初の見積もりで行く、十本だ」
「十本か、わかった」
「それだけだ、じゃあ明日な」と言い真壁が電話を切った。
べつだんすぐの案件じゃない。数ヶ月先の日帰りだ。明日の朝でもいい報告だったが、わざわざ終業後に連絡を寄越してくるあたりに、自分には無い真壁の細やかな気配りを感じた。
この規模の会社で日に十本のバスは、簡単なことじゃない。
ツアーパンフレットを手渡した返事で、やっと戻って来ましたね、と破顔した外注のバス運転手の気遣いを忘れられない。
同じバス会社だ。実現する為には、明後日の日帰りを必ず成功させなければ、と固く念じる。
後ろ向きに働いていた想像力が、やっと陽性に傾きはじめる。
手筋の詰まった碁盤に道をみつけ、ようやく推進力を取り戻した気がした。
夕暮れの県道に出ると、昼の静けさを失って、雨後のタケノコのようにそこらじゅうが車で覆い尽くされている。
片側一車線の交差点で、その先にある保育園に向かうため、右折しようとする車が後を経たないからだった。
立番の制服警察官が居る前で詰まり、視線を感じる。
ちらと見ると、上気したように顔が赤く、警杖を握る手には明らかに余分な力が込められている。
こいつ。酒でも飲んでやがるのか。注意してやろうと意気込む矢先、もっと大事な事に気づいて窓を開けた。
「お巡りさん、お巡りさん」手を振り、警察官が気付いたところで下腹部を指差した。
「社会の窓、全開だよ」
その失態に気付き、赤い顔がさらに赤くなり、二人はそっと窓を閉じた。




