しかけは爆弾です①
八月四日。
「花火が見たい」
まだ通い慣れていない道を、学校に向かいながら、ゆっくり歩いていく。
オレンジ色の住宅が並ぶ分譲地。公園の脇にぽつんとあるポスト。一本の電線も見当たらない青空。
なんと読むのかわからない看板の下で、小さな木箱の目の前に腰掛け、もくもくと立ち昇る煙を、じっと見つめている小太りのおじさん。
何か焼いているのか、息を止めたくなる匂いがする。数歩進んで、少し通り過ぎたところで足を止めた。
うん。そうだ。完全にそうだ。謎は解けた。ぼくは完全に迷っている。
でなければ、この街には公園とポストが何処にでもある事になるし、朝から煙とにらめっこしている怪しいおじさんが、七人も居る事になる。
いや、待てよ。もしかしたらそうなのかもしれない。ぼくがあまりに方向音痴だからといって、確認もせずに決めつけるのは良くない。
実はあのポストには貼り紙がされていて「庶民の家は橙色以外御法度に候」なんて御触れ書きがあるのかもしれないし、郵便屋さんは忙しすぎてバタバタと倒れているかもしれない。
街の偉い人は、いくら偉いからといって現代じゃハラスメントすぎるとおもうけど。そんな謎の街なのかもしれない。何度か通っている筈だけど、まったく思い出せない忘れたくなる怖い街だ。
「オレンジハラスメントだ」オレハラだ。
「何をぶつぶつ言ってるんだ」
急に声を掛けられたものだから、おもわずびっくりして、「びくぅ」と声に出てしまった。恥ずかしい。
煙おじさんと目が合った。煙が染みるのか、睨んでいるのか、おじさんの鋭い眼力を向けられると、不安と恥ずかしさが相まって、身体が小刻みに震えてきた。
「よっこいショウタイム」おじさんが立ち上がった。ダジャレだ。頭を掻きながら、こっちに向かって歩いてくるが、動けない。
肩をつかまれ「大丈夫だぞ」と言ってくる。
「行きたくないなら行かなくてもいいんだ」おじさんは言った。意味のわからないおじさんだ。
「いやあの……」
「わかってる。もし親御さんや学校の先生に言えない事があるなら、おじさんが聞いてやる」
そう言って名刺をポケットから出して見せてきた。
『取締役』と書いており、何か取締られてしまうのか考えを巡らせていると、横の名前を読む前に鞄のサイドポケットに入れられてしまった。
「裏に電話番号が書いてある。どんな些細な事でも、いつでも、気楽に連絡してきて良い」
何の話をしているのだろう。
「それってどういう」頭がフリーズしかけている。
肩をバシバシと叩いてくる。痛い。
「安心しろ。おれは町内会長だ」
「何か質問はあるか」とにんまり笑ってる。怖い。
「取締役で、町内会長さん、ですか」
「そうだ。取締役といっても副社長だがな」と言って立てた親指を後ろの看板に向けている。なんと読むのかわからない会社名だ。
「オレハラだ……」
「は、なんて?」
まずい。怒らせてしまう。ぼうっとしたままつい口にしてしまっていた。
「いえいえ、違うんです。何かきっと間違いがあります」
「間違いが? どういう事だ」
「間違いというか、きっとなにか勘違いです」
おじさんはぼくの学生服姿をじろじろ見て、「古里中学校の生徒だろ?」と訝しげに尋ねてくる。いや、うん。それはそうなんだけど。
「コロナのせいで夏休みが二週間ずれたと聞いたが、そろそろ終業式だろう? だからといって、無理して行くことは無いとおじさんは思うぞ」
「ぼくは行きたいんです。学校に」
「なに、行きたいのか。学校」
もちろんだ。その為に今向かって歩いているんだ。
「それならどうしてウロウロしている。ボウズは何度もここを通ったぞ」
なるほど。そういうことか。学生服姿で何度も同じ道を通るぼくを見て、どうやらあのボウズは学校に行くのを躊躇っているに違いない。などと思ったのだろう。
「いえ、迷っちゃってるだけなんです」
「迷っちゃってるだけ? 学校はすぐそこだろう」
「ぼくとんでもなく方向音痴なんです。すぐそこ、なんてどこにもないんですぼくの中には」
「そこの角を右に行って、二本目を左に行けば一六号に出るから、少し行って歩道橋を降りて、しばらく行ったら大きな交差点に出る。一二九だな。そいつを渡ったら校舎が右に見えてくるはずだぞ」
とおじさんは言う。言ったのだろうが、それが、難しいんだ。ほとんど宇宙人の言葉にしか聞こえない。こちらジューロクゴーです、イチニーキューどうぞ。
「わかりにくかったか?」
「えーと、右を左を」
おじさんは、はあ、とため息をついて、続けた「登校時間は過ぎているのだろう。メモを書くから待っててくれるか」と言ってくれる。
親切で言ってくれたのだろうが、地図を読めないぼくとしてはパニックの要素が増えるだけだ。自分が何処にいるのかわからないんだから。
おじさんは会社の方へ「ペンを取ってくるから」と取りに行こうとする。止めねば。
「あ、何を焼いているんですか」と煙が出ている木箱を指差す。
指差したほうをおじさんは見ると、「ああ、これか」と言って木箱を回転させ、扉が開いた面をこっちに向けてきた。中は網棚で段となっていて、何か赤黒い物が乗っている。
「燻製だよ。イカとチーズのな」
「燻製ですか」すごい匂いだ。
「そうだ。今度の町内会で薦めようと思ってな。長期保存の食材だよ」
「長期保存」聞いたこともない言葉だ。
「最近地震が多いだろう。そんな時のために缶詰やこういう、長く置いておける食材を備蓄しておくんだよ」
「地震多いんですか」やっぱり怖い街だ。
「まあ、それは良い。ちょっと待っててくれ」と立ち上がりメモを取りに行こうとするので「あの、もうわかったんで大丈夫です」と呼び止めるように大きな声を出した。
振り向いたおじさんに、「ありがとうございました」とさらに大きな声を掛け、頭を下げてさっと立ち去る。
確かに道は覚えられなかったが、メモを解読できるとも思えなかった。
それでも立ち去ったのは、おじさんが木箱の方に向かっている時に、長嶺くんをみつけ、彼についていけばきっと学校につける、と思い立ったのだった。待って。と小走りになる。
追いつこうと必死になっていたら、信号に出ていた。大きな交差点だ。ああ、ここか。長嶺くんは渡りきってしまったが、間に合わなそうなので立ち止まる。
だけど大丈夫。思い出したぞ。何度か通った事のある交差点だ。ほっと胸を撫で下ろす。向こう岸に学校が見えて来た。ああ。良かった良かった。長嶺くん。いつもありがとうよ。
「ここがさっきおじさんが言ってたイチニーキューかな。そしたらここらへんが、江戸方になるのかな」なんて考えが信号待ちに膨らむ。
この通学路にも、道祖神があったり、殿様がえほえほと大名行列したり、歴史的な由来があれば少しはマシなんだろうけれど、ロジックのないようなただの道を覚えるのは苦手だ。数字が冠された国道はもっと苦手だ。
実はもう一つあったんですよと、この松で五十四次ですと、うっかり加えてくれないだろうか。
信じるか信じないかはあなた次第です、と言われたら信じるし、駅伝の旗を配るお手伝いだってしてもいい。
頭の中の空想を、信号音がパチっと割る。
青で動き出した目の前の広い横断歩道を、若いカップルが、こぢんまりと渡っていくのを横目にみる。ああ、もったいない。と思う。もう少しで、ぼく次第だったのに。そんなにこぢんまりと。
「花火が見たい」──。
彼女がそう言っていたのは、確かニ週間前の木曜日。
放課後、いつも通り自分の家とほど近い、同じクラスの長嶺くんを追って帰ろうとし、校門を跨いだところで肩を叩かれた。
振り返ると、同じ学年の笹井すず乃が笑顔で立っていた。
「ねえねえ、七日、暇?」
「え、七日? 来月の?」
「そう、七日。あるんだって」
「え、な、なにが?」
「決まってるじゃん、花火だよ、花火大会」
「決まってるって」なんで僕に話しかけているのだろう。
「大きい花火大会なんだよ、二万発」
「二万発」
「花火が見たいんだよねあたし。盛大な花火」
「え、あ、うん。花火いいね」まともに目を見られない。身体が熱くなってくる。
「やった、決まりね。一緒にいこ」
「え」
「嬉しい!ちゃんと空けといてね」
じゃあねと破顔した彼女は、心なしか弾んでいるように見え、スイスイ校舎のほうへ戻って行く。「すず乃ー」と呼ぶ声がして、友達と合流していた。
あ、え、えええええ。どういうことだ。一緒にいこ? 花火を見に? やばい。まずい。え、何日だっけ。というか、何が起きた。
肩に少しかかるほどの黒髪に大きな瞳の彼女とは、クラスは別であるけれど、一面織もないというわけでもない。
それでも、そのやりとりは、転入して間もない学校で起こりそうな事柄の中で、ぼくにとって最も現実離れだった。
空が落ちたり、海が枯れたりするようなことよりもずっと天変地異で、表現力の乏しい表情をしてしまっていたと思う。
冷静に会話を整えようと、彼女の真意を探ろうとするたびに高まっていく身体の熱さと、強くなる鼓動に意識がしゅんしゅんと気化し、自分が何と応えたのか判然としない。
沸騰しはじめた薬缶というよりも、水素爆発だった。
あれから数日経った今も、彼女の事を考えると、ぼうっとする。
休み時間に自分の席に着いて、気を紛らわそう、あれは幻だと文庫本を開くけれど、ページが進まない。内容がまったく入ってこない。
気づけば本を閉じて、何も書かれていない黒板にあの実体験を透かして投影してしまう。
そうしているうちに、教室の扉が開いて、彼女が入ってきた。視線が彼女とぶつかり、あたふたと泳いだ目を壁際に掛けられたカレンダーに逸らす。あ、行き止まりか。ぐわっと方向転換。そんな具合に。
なんで。なんでなの。カレンダーと自分との空間で、臨時会議。
話したことあるっけ? いやないないない。
誰かがバラしたのか? いやこのことは誰にも言ってないし、そもそもそんな赤裸々な話や、枕を青春に置いて笑い合えるような友達は居ないよ。そうだよね。まだね、悲しいことに。
え、じゃあ。バレてたのか? バレるものか?
ぼくはただ教室の隅っこで、転入生然として、家から持って来た文庫本と、グラウンドで部活の練習をしている彼女を、たしかに、交互に見ていたが。
元来人見知りの側面を自覚しているぼくの、
今置かれている環境はそれに拍車をかけるようなものであって、ともあれ、馴染む。念頭だ。
転入、馴染む、卒業。それだけだ。
所の法に矢は立たぬ、郷に入っては郷に卒業だ。
きっとあれはいつもの空想癖がもたらした幻想で、彼女も今クラスに入ってきたのは、友達とお喋りをするためだろう。思えば挨拶すらまともにしたことがないのだ。ぼくは転入してきたばかりなのだから──。
ぼくの家には、母さんが居ない。
死別ということではなく、ぼくが中学生の今よりずっと小さい頃に、離婚をしたらしい。
物心を養うのが遅かったみたいで、その辺りの記憶はほとんど思い出せない。
父一人子一人。
父が就いている電気関係の仕事には出張がつきもので、平均二年毎に引っ越しを繰り返して来た。
ぼくも晴れて二校目の中学校に転入を済ませたところだけれど、慣れることなどまずない。
転校を繰り返す度に思うことは、山程ある。
たとえば勉強の方で言えば、転校する前の学校では国語が五段階中三、英語は二ほど進んだ授業をしているとする。
だとして、転校した先の学校の授業では国語が二、英語が四の進捗になっていたりして、混乱する。
おしなべてこの進み方は、学校に寄るのだ。
たとえ扱う教科書が同じだとしても、制服も、土地も、流行りも、空気も違う。
なにしろ一番の問題は、また名字から呼ばれる付き合いが始まることだ。
朝比奈裕一。
ユーイチ、ユーイチと、友達に下の名前で呼ばれることが当たり前にあったあの光景は、引っ越し三回前の思い出で、今では朝比奈さん。朝比奈くん。朝比奈。と苗字で呼ばれている。呼ばれることがあまりないけれど。
ユーイチだ。祐一ではなくて。ユーイチ。親しい人に呼ばれている時、そういうイメージが、頭の中にある。朝比奈は、アサヒナでなくて、やっぱり漢字の朝比奈だ。
漢字のイメージだと、語気が強いし、空気がすごく重たい気がしてしまう。すると話しかけるどころか、ともすれば応じる事すら億劫になってしまって、その湿度の殻をやぶれない──。
「ゴーニソツギョウ?」
「うわっっ」
泳いだ視線を縫いとめるように、背後から声がした。
「驚きすぎ」
くすくすと笑う彼女が、次に何を言うのだろうか。手にしている文庫本に力が入る。また口に出してたなんて。最悪だ。天変地異だ。
「花火、し、しあさってだ──」
「何読んでるの、それ」
「え」
「見せて」
「あ、これはホワイトアウトっていう」
「ふぁいとあうと?」
「ダムが占領されるんだ。」
「へえ、雪の本? 夏なのに」
「う、うん」こちらも何か言わなければと、彼女が持っている紙袋を指差し、「それはパン?」と聞く。なんてつまらないやつだ。
「あ、これね。そう。お母さんがパン好きでさ、いつも沢山買ってきてこうして持たせてくるの。困るから友達に配ってるんだけど、いる?」と返事を聞く前に渡してくる。
「ありがとう」と言うと、嬉しそうに「ねえ、しあさってだね」と彼女は笑う。
陸上選手め。ペースが速い。
楽しみだね。彼女はそれだけ言って、教室の扉を出ていった。
フライングだよ。どうみても。




