リリアナは第二王子を魅了してしまう
学園に通い始めてから季節が変わり始めた頃、私はようやく学園生活に慣れ始めた。
最初の定期試験は勉強のかいあって優秀な点数で、セシリアお姉様やヴィクトール様に褒められた。ちなみにお姉様は「それじゃあ頑張ったリリアナには花丸をあげましょう」と、答案用紙に赤いインクで簡略化された、けれどとても綺麗な花を描いてくださった。
この間、問題が起こらなかったわけではない。
例えば運動の授業の際は身体を動かしやすい格好を求められ、眼鏡やアクセサリーを外すか否かで話し合いになった。最終的にヴィクトール様が推薦なさった医師による診断書で特別に身に着けたままが認められた。
(ヴィクトール様の仰った通り、眼鏡からの紐を頭の後ろでくくって固定してなかったら拍子に外れてたかもしれない……)
ロゼリア様とのおしゃべりに夢中になっていたら、廊下の角で向こうから来る方とぶつかりそうになった。ロゼリア様が腕を引っ張ってくれていなかったら激突して、邪視殺しも外れていたかもしれない。あの時は本当に危なかった。
あと、邪視殺しはあくまでレンズ越しの視線だけ異能を遮断する。机で勉強している時に立っている人に呼びかけられた際、邪視殺しを介さずに直接見上げそうになった。少しでも気付くのが遅かったら、邪視で相手を魅了していたかもしれない。
一見平穏な生活も実は綱渡り。改めて気を引き締め直す。
そんな日々が続いた頃だった。
魅了に振り回されず幸福に、との私の願いが終わりを迎えたのは。
きっかけは私の不手際でも誰かの悪意でもなかった。
いうなれば運命のいたずら。それとも歴史の修正力とでも言うべきか。
ともあれ、回避する機会はあっただろうし、かと言ってこの時起こらなくてもそのうち起こっていたかもしれない。
だからいちいち不幸だ、とか、もう終わった、とは考えないし、考えたくない。
学園では身の回りの清潔を保つことで心もまた日々洗われる、との考えから、清掃の時間が設けられている。掃除なんて使用人に任せるのが当たり前だった貴族の子息・息女は、最初のうちは嫌々ながら掃除道具に手を伸ばしていた。この頃にはもう決められた時間になれば黙々と自分の作業をこなすようになったけれど。
この日の私は廊下の当番で、クラスメイトと一緒に掃除に取り組んでいた。しかも今回は乾拭きじゃなくて水拭きする本格的なもの。とはいえ、手と膝を床に付けた雑巾がけではなく、モップを使うのだけれど。
広大な学園の建屋をいかに一つの階とはいえ、端から端までを磨き上げるのは膨大な時間がかかる。人数をかけてこその大仕事といえる。
……そう、人数をかけて、が少し問題だったりする。
つまり、他の人が一生懸命やれば少しぐらいさぼってもいいでしょう、とか、どうせ次も掃除するんだから今回は大雑把でいいでしょう、と考える輩はどうしてもいるものだ。掃除など下々の仕事だろう、面倒くさい、と後ろ向きな考えは防ぎようもない。
この日、別のクラスの男子生徒がモップにつけた水を搾らずに床を撫でまわし、床に水たまりが出来てしまった。そのクラスの女子生徒がその男子生徒を叱ろうとした時だった。学園生徒会(とお姉様が呼んでいる組織)の役員が巡回に来たのは。
もたもた作業していたり壁にもたれかかっていた生徒は慌てて真面目に掃除しているふりを開始。私は他の生徒と一緒にため息を漏らしながら水たまりを拭こうとして……私は水で足を滑らせてしまった。
「い、たぁ……!」
貧民時代に転んだ時のために受け身の練習をしておいてよかった。そうじゃなかったら頭を床に打ち付けていたに違いない。背中と腕から床に落ちたおかげで、大した怪我も痛みも無かったから。
「大丈夫か、エルフリート公女」
「ええ……大丈夫です。ありがとうござい……」
差し出された手を掴んで上体を起こし、顔を上げると――。
「駄目、リリアナ!」
銀髪の青年が、こちらを見下ろしていた。
第二王子、クラウス殿下が。
そして、クラウス殿下の後ろから聞こえてきたお姉様の声で気付いた。
私、今……邪視殺しを付けていない。
まずい。
眼鏡がない。
それなのに目が合ってしまった。
「っっ……!!」
すぐに目を閉じて床の上に手を彷徨わせて、転がっていた眼鏡をかけ直す。
恐る恐るクラウス殿下の方に向き直って……、
「ああ……」
クラウス殿下の心奪われた者が見せるとろけた表情を見て、遅かったと悟った。
「し、失礼いたしました!」
ごまかすように大声をあげて深く頭を下げる。
そんな大げさな行動が殿下の正気を少し呼び覚ましたのか、彼は私の手を離した。
「いや、大惨事にならずに幸いだった。もしどこか痛かったら保健室に連れて行こうか?」
「いえ、全く問題ありません。巡回お疲れ様です」
クラウス殿下の声が妙に優しい。
嫌だ、顔を上げたくない。今の殿下の顔を見たくない。
「君は……」
「クラウス様。そろそろ移動しないと、時間以内に回れなくなります」
異常な執着が混ざる声色を遮ったのは、セシリアお姉様の鋭い一言だった。
「些事が大事にならないよう、速やかに移動しましょう」
「あ、ああ……。そうだな……」
セシリアお姉様、それからクラウス殿下の側近のお二人に促されて、クラウス殿下はこの場を後にする。けれどその足取りは重く、何度もこちらを振り返ったようで、その度にお姉様にお名前を呼ばれていた。
殿下が去った後も私は呆然と立ち尽くすしかなかった。
やってしまった。
私はまた……第二王子殿下を、魅了してしまった。
「リリアナ。もう視線を下に向けていなくても大丈夫ですわ」
「ロゼリア様……」
ロゼリア様に両肩を触れられてようやく頭を上げる。
破滅する。魅了の魔女として、やんごとなき方を弄んだ罪で裁かれて。
代々異端審問官を務めるシュタイナー家のご令嬢に……!
「誰もリリアナを咎めません」
「え?」
「それはこの私が保証いたします。例え兄がなんと言おうと、私はリリアナは悪くなかったと言い続けます」
そんな恐怖心に駆られていた私にとって、私を安心させるように微笑んでくるロゼリア様はとても意外だった。
「セシリア様がお声をかけてすぐに目を閉じましたね。おかげで第二王子殿下の側にいらっしゃった側近のお二人はリリアナの魅了にかかっていないようでした」
「そう、でしたか……。それは不幸中の幸いですが、それでも第二王子殿下を、私は……魅了してしまいました」
膝から力が抜けそうになるのをロゼリア様が支えてくれた。
ロゼリア様……いつの間にかそれほど体力が戻っていたのですね。
元気になっていて私も嬉しいです。
「一瞬目と目が合っただけでしたから、どれほどの効果があるかが分かりません。まずは今日帰ったら兄に相談しましょう」
「ロゼリア様……」
「大丈夫です、リリアナ。きっと何とかなります。……私のように」
やり直し前と同じようになってしまった。
けれど、ロゼリア様の言葉からはきっと大丈夫だと思わせる勇気を貰った。
「……ありがとうございます、ロゼリア様」
窓の外を見た。
夕日が学園の建物を赤く染めている。
私の二度目の学園生活。
静かに過ごすはずだった三年間。
どうやら神様は私に新たな試練をもたらしてきたらしい。
それでも……今度は一人じゃない。
母様だってお姉様だってロゼリア様だって、ヴィクトール様だっている。
だから……きっと、乗り越えられる。
そう信じて、私は気を取り直した。
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