6.酒
梓娟たちが泊まる宿は街で一番大きな宿だった。
建物の壮観から豪華さがはっきりと分かる。華やかさで大きな高級宿だ。
──まぁ、蒼家は五門家の一つ。次代の当主ってなればそこら辺の安い宿には泊められないわよね。
ほかの客たちも品が良さそうな人たちばかりで、自分は場違いな気がして中に入るのも気が引けてしまう。
実際、最初に眞佳たちとここへと来たときに、お付の者と間違われて少しだけ悲しくなった。
梓娟は苦笑いを浮かべて宿の中へと入る。
広い階段を上がり、向かったのは自分が一夜を過ごす部屋……ではなく、その先にある眞佳の部屋だった。
そしてその手前の部屋には、結局一緒に残った蒼晏が泊まっている。
──地獄耳って噂は本当かしら?
『蒼晏はとんでもない地獄耳だ』
そんな噂が龍東万雷の祓氏達の間にある。
何でも修練場で話していた会話を降龍館にいた筈の彼が何故か知っていてとんでもない目にあったとか。
その会話はきっと悪口なんでしょうねぇ、と梓娟は察して両手を合わせた。
──まぁ噂は怪しいけれど、用心に越したことはないわね。
蒼晏に気づかれぬよう、音を立てないように注意しながら部屋の前を通り過ぎ、そして眞佳の扉の前へと辿り着く。
──……いざやろうとすればすごく気分が重くなってきたわ。
果たしてうまく出来るのか。そんな不安で心が揺らぎ始めたものの、来てしまった以上にここで引き下がる事も出来ない。
梓娟は覚悟を決めてすっと息を吸う。
そして今まさに部屋主の名を呼ぼうとした瞬間、口を「か」と形取った所で、急に扉が開いた。
「こんな時刻にどうかしたかい?」
扉の向こう側には菩薩が立っていた。
梓娟はまだ声を発する前だった。床音を立てぬように慎重に廊下を歩いていたにも関わらずだ。
その微笑みはまるで端から梓娟がここに来るのを見通していたように見えた。
「どうし──!?」
思わず声を上げようとする梓娟に、眞佳は口元に人差し指を当て、しっと制する。
「こんな時刻に声を上げるのは良くない。さぁこちらに」
その仕草すら美しさを感じ、不意打ちにもときめいてしまう。
──……一々様になるわね。
梓娟は小さく頷くと、誘われるままに部屋の中へと足を踏み入れた。
中に足をつけた時、微かに風を感じたような気がして、梓娟は小さく首を傾げた。
「それで私に用とは?」
「えっと、その、慣れない所で眠れないので、あの……一緒に飲んでくれませんか?」
顔を俯かせやや上目遣いで、可愛らしい女を演じる。色仕掛けなどやったことも無い梓娟にはそれが精一杯だった。
思い付いた策は『酒の力を借りて兎に角無理矢理良い雰囲気を作る』というもので、その為にわざわざ少し値の張る酒を街で買ってきたのだ。
──そういえば蒼眞佳ってお酒は飲めるのかしら?今さらだけど、全然飲むようには見えないわ。
聞いている話では眞佳は山狩りの後の夜宴にも参加していないようだった。
改めて思うと酒を嗜む印象がなく、誘ってから失敗するのではないかと不安に駆られていると、「杯を二つ用意する」と返ってきてほっと胸を撫で下ろした。
『何とか相手を乗せてどんどん酒を飲ませる』
梓娟が考えた二つ目の策だ。
あまりにも雑な策だと自覚があった。しかし梓娟に注がれる度に眞佳は次々と杯を空にしていった。
乗せられているようには思えなかったが、眞佳は意外と女の誘いを断れない性分なのだと察した。
──伯父上がこれまで送ってきた女は好みではなかったんだわ。蒼眞佳はきっと淑やかではない女が好みなのよ!
でなければ淑やかな女たちが玉砕する訳はない。淑やかな女は蒼家で見飽きているのだと、梓娟は推測する。
ただ一つ、誤算だったのは蒼眞佳の酔う気配が全く無いことだ。
──もう、いつになったら酔うのよ!
注ぎ疲れた梓娟はげんなりとしていた。
酒瓶の酒だってもう殆ど残っていなかった。
「はは……眞佳様はお酒にお強いんですね」
「どうだろう?これまであまり口にした事はなかったから自分でも分からない」
──え、飲んだ事がないのに誘いに乗ったの!?
梓娟の驚く表情が面白いのか、眞佳は小さく笑みを零した。
「酒をあまり好ましく思えなかったが、今は美味しく感じる。君が注いでくれるからだろうか?」
「ま、またまた~」
それは酒宴で酔っ払い爺が言うような言葉だった。
眞佳の予想外の軽口に梓娟は笑いながらも内心驚いていた。
──もしかすると表情に出てないけど、実は酔っていたりする?
そんな疑いの目を向けると目が合ってしまう。ぱちくりと瞬く梓娟に眞佳はふっと微笑んだ。
──なっな、なっ……!
美しい微笑にどきどきと胸が高鳴り、それを誤魔化すように杯の酒を煽った。
ぷはっと豪快に息を吐くとくらりと頭が揺れた。
額に手を当てれば手のひらから顔の熱さが伝わって、どうやら自分の方が酔ってしまっていたようだ。
梓娟は内側から込み上げる熱さに「はぁ……」と熱のこもった息を吐く。
「……延芳、深酒は良くない。部屋に帰りなさい」
先ほどとは違う低くなった声。急に突き放すような言葉に梓娟は焦り出した。
「も、もう少しここにいては駄目ですか?眞佳様と一緒にいたいんです!」
「……どうして?」
──どうしてって、こういう時なんて言うんだっけ?何か良い言葉は……。
酔いが回ってうまく頭が働かない。それでも何とか記憶を呼び覚まし、黒家の使用人たちの間で流行っていた恋愛小説の存在を思い出す。
その小説の中に、今と状況が似た場面があった気がして、「それは……」と言葉を濁しながら必死に記憶を巡らせた。
そして、とある台詞を頭に浮かんだ。
「わ、私は眞佳様の事を初めてお会いしたあの時からずっとお慕いしているからです!」
頭に浮かんだ言葉を丸々読み上げからはっとする。
──しまった!会ったのはついさっきだわ!
今と状況は似ているものの、小説に出てくる人物とは立場は全く違う。なのにその通りに言ってしまい、背中には冷や汗が湧き出していた。
「それは真か?」
「……え?」
「君も、ずっと同じ気持ちを抱いてくれていたのだな」
眞佳は嬉しそうに微笑み近づいてくる。いつもとは違う、どこかあどけなさを感じさせた。
──……近くで見るとさらに美しいわ。
眞佳に目を奪われているとゆっくりと顔が近づいて、そして二人の唇が重なった。




