第13話 楽器職人は修理代をまけない
リュネのベースが、音を外した。
たった一音だった。けれど本人が真っ先に顔をしかめたせいで、カイも弾く手を止めた。
「今の、わざと?」
「私、あんな情けない音は狙わないよ」
リュネが弦を一本はじく。乾いた音がしたきり、弦をはじいてもまともな音が出なくなった。
「……あれ?」
ドランが太鼓のばちを置いた。
「弦じゃないな。駒が浮いとる」
昨夜の練習は隣の粉屋からの苦情で打ち切りになった。今朝は約束どおり、仕事の邪魔にならない空き地を昼間だけ借りている。音を小さくする工夫もした。四人の入りがそろい始めたところで、今度は楽器そのものがへそを曲げたらしい。
「そっと置け」
「そっと置いてるよ!」
「今、お前は持ち上げて振った」
「中で何か転がってないかと思って」
「振るな!」
オルヴィアがベースの胴をのぞき込んだ。
「修理できるの?」
「直せる職人ならいる。だが安くはない」
カイは財布を取り出した。
銀貨が二枚と銅貨が少し。音楽祭の応募料、ドランの酒場への手伝い代わりの食費、それに四人で使う譜面代。頭の中で引き算してみたが、途中で嫌になった。
「……元勇者割引って、あるかな」
「その言い方で値段が上がる職人なら知っとるぞ」
ドランは荷物を抱えた。
***
工房は運河沿いの細い道にあった。
看板に描かれた弦楽器は、片方の弦が外れた絵になっている。
「壊れたままじゃん」とリュネ。
「修理屋だと分かりやすいだろ」
「直した絵にすればいいのに」
戸を開けると、木の削りくずの匂いがした。棚には弦と小さな金具、壁には作りかけの楽器が並んでいる。奥から出てきた青年は四人を見ても驚かなかった。
「今日は何を壊しました?」
まだ何も説明していないのに、リュネが傷ついた顔をする。
「壊したって決めつけないでよ」
「お客さんが楽器を抱えて四人で来るときは、たいてい誰が壊したかで揉めているので」
青年は名をロウェンと告げた。カイより若く、袖を肘までまくった手には細かな傷が多い。
彼はベースを受け取ると、余計なことは聞かずに駒を外した。
「接着が弱っています。湿気で木が少し動いている。前から変な音がしていたはずです」
「そういえば……」
「心当たりがあるなら最初に言え」
「ドランだって、聞かなかったじゃん」
「聞く前に振るな」
ロウェンが指先で小さなひびを示した。
「今なら直せます。ただし、今日の演奏には使わないでください」
「夕方?」
カイは思わず聞き返した。
このあと四人で、港へ向かう荷運び人たちの休憩所で一曲披露する約束をしていた。音楽祭の通常応募に必要な、演奏の様子を見た人の紹介が得られるかもしれない。ようやく決まった機会だった。
「夜なら?」
「接着した木を、急に鳴らして割りたいならどうぞ」
「やめときます」
ロウェンが修理代を告げる。
カイは財布を開いて、閉じた。
「元勇者なんだけど」
「だから何です?」
ドランが横で咳をした。笑いをこらえたらしい。
「……いや、忘れて」
***
結局、修理は頼むことにした。
リュネは一度だけ「私のせいだから」と言ったが、カイが首を振った。
「四人で弾くための楽器だ。四人で考えよう」
「そういう台詞、借金が増える前に言ってよね」
「もう増えてるのか?」
「増える予定ってこと!」
ロウェンは紙に金額を書き、四人の前へ置いた。
「前金はこれだけ。残りは完成後でいいですが、値引きはしません。僕の弟子の食費もかかってますから」
「弟子がいるの?」
「午前は別の工房に通ってます。ここでは僕一人です」
返事はそっけなかったが、嘘ではないらしい。奥の卓には、手の小さな人間に合わせて削りかけた楽器の部品が置かれていた。
「で、借りられる楽器は?」
ドランが尋ねる。
ロウェンは壁を見た。
「一つだけあります。古くて重い。貸し出し中に壊したら、修理代は別です」
「借りる!」
リュネの返事は早かった。
壁から下ろされたベースは、本人のものより一回り大きかった。
「これ、私より年上なんじゃない?」
「そうかもしれません」
「名前つけようよ。ご隠居」
「貸し出し品に勝手に名前をつけないでください」
試しに弾くと、太く、ゆっくりした音が出た。リュネは目を丸くして、もう一度鳴らす。
「……これ、面白い」
ロウェンが顔を上げた。
「そんな弾き方をするんですね」
「嫌だった?」
「いえ。古い楽器に、まだ出したことのない音があったとは思いませんでした」
リュネが嬉しそうに弦へ手を伸ばすと、今度はドランが止めた。
「試すのは向こうでやれ。店の棚を揺らすな」
四人は工房を出た。
***
荷運び人の休憩所には、思っていたより客がいた。
木箱を椅子代わりにしている者、昼のうちから薄い酒を飲む者、出発を待つ馬の世話をしている者。勇者として大勢の前に立ったときより、今の方が緊張していた。
「何を弾きます?」
休憩所の世話役が声をかけてきた。
「新しい曲です。まだ名前はないけど」
「じゃあ、最初に『勇者の勝利の歌』を。ほら、あれですよ。みんな知ってる」
カイの指がギターの弦の上で止まった。
オルヴィアが先に答える。
「今日は、その曲は歌いません」
「おや。勇者さんがいるのに?」
「ええ。別の曲を聴いてほしいんです」
世話役は困った顔をした。後ろでは、赤い上着の旅人が「勝利の歌なら知ってるぞ」と声を上げている。
カイはオルヴィアを見る。彼女は目をそらさなかった。
「俺たちの曲を一曲だけ。気に入らなかったら、拍手なしで帰っていいです」
世話役が肩をすくめた。
「そういう約束なら、どうぞ」
リュネが借りたベースを構える。
「ご隠居、初舞台だよ」
「だから名前をつけるなと言われただろう」
ドランの小声に、カイは危うく笑いそうになった。
最初の音が鳴る。
リュネのいつものベースなら、前へ飛び出すところだった。けれど今日は、低い音が少し遅れてついてくる。ドランがそれに合わせようとして一拍目をためらい、カイは慌てて弾き方を変えた。
客席から、誰かが吹き出す。
まずい。そう思った瞬間、オルヴィアが歌った。
彼女は四人のずれた音を置き去りにはしなかった。ゆっくりと歌い始め、その声に合わせてドランの太鼓が入る。カイは弾く指を軽くして、リュネが次に来るのを待った。
借り物のベースは、いつもより不器用だった。
それでもリュネはその不器用さを楽しんでいる。
曲の半ばで彼女が思いがけない一音を鳴らすと、ドランがすぐに応えた。カイはその隙間へ短い旋律を差し込み、オルヴィアの歌は、いつの間にか最初とは別の表情になっていた。
最後の音が消えた。
拍手は、五人分ほど。
客の半分は荷物を持って立ち去り、勝利の歌を待っていた旅人は不満げだった。それでも、最前列で聴いていた女性が近づいてきた。
「さっきの歌、なんていうの?」
「まだ名前を決めてなくて」
「もったいないね。いい歌だった」
女性はそう言って、仕事へ戻っていった。
リュネは借りたベースを抱え、頬を膨らませた。
「五人。私たち四人より一人多いだけ」
「四人全員で自分たちに拍手したら九人だ」
「それ、ずるくない?」
「別に、勝負じゃないだろ」
ドランは片づけを始めながら言った。
「五人も最後まで聴いてくれた。次は十人いてくれればいい」
オルヴィアは客が去っていく道を見ていた。
「……また歌いたいわ」
その声が静かだったので、誰も冗談を言わなかった。
***
夕方、工房へ借りた楽器の状態を見せに戻った。
「壊しませんでしたか」
「壊してない!」
ロウェンはご隠居と名づけられたベースを受け取り、弦を一本鳴らした。
「これなら大丈夫ですね」
「私たちの曲も聴いてほしかったな」
「店を閉められないので」
「今、ここで一曲だけ!」
「ほかのお客さんが逃げます」
そう言いながら、ロウェンは卓の下から一枚の木片を取り出した。
「昼間、作業台を片づけていたら、これが出てきまして。昔、僕が使っていた木材の端切れです」
木片には細い線が何本か刻まれていた。二本が寄り添うように並ぶところもあれば、少し離れた一本もある。職人が使う目盛りにも見えた。
「これ、何の印?」
リュネが尋ねると、ロウェンは首を振った。
「分かりません。妹が昔、これに線を刻んでいたんです」
「妹さんが?」
ロウェンは木片を裏返した。
そこには、幼い文字で名前が彫られていた。
『ナナ』
「妹の名前です」
ロウェンの声が少し沈んだ。
「十一歳でした。十年前、避難した人たちに水を運んでいて、戻ってこなかった。……すみません。変な話をしてしまって」
「ところで、先日、運河の近くで演奏していましたよね」
「ええ。聴いていたんですか?」
「仕事の帰りに、少しだけ。最後の曲が始まったところでした」
カイはオルヴィアと顔を見合わせた。
「『夜明けの向こうへ』ですか?」
「そうです。あの曲の最後の方。あれに似た間を、どこかで聞いた気がして」
「十年前?」
「……そうかもしれません。あの夜も、似たような音を聞いた気がして……。ただ、何の音だったのかまでは覚えていません」
ロウェンは手の中の木片へ目を落とした。
「この線も、何のためにつけたのか分からないままで。妹に聞けたらよかったんですが……。あの夜のことを、もう少し調べてみようと思います」
ロウェンは少し考えてから、工房の奥に目を向けた。
「そういえば、十年前の仕事の帳簿が残っているはずです。あの頃、僕も西側の荷揚げ場へ品物を届けていたんです」
「西側の荷揚げ場?」
「ええ。妹のことが書いてあるわけではありませんが、当時の荷揚げ場の名前くらいは分かるかもしれません」
「見せてもらえますか?」
「明日、修理したベースを取りに来るときに。探しておきます」
「ありがとうございます」
ロウェンはうなずき、カイたちへ向き直った。
「それと、もし妹のことで何か分かったら、教えてもらえませんか」
「ええ。もちろんです」
オルヴィアが答えると、ロウェンは彼女を見た。
「……あの続きを歌っていたのは、あなたですよね」
「ええ」
「一つだけ聞かせてください。あの歌の最後の音は、昔からあの歌い方でしたか?」
オルヴィアはすぐには答えられなかった。
最後の音。
そんなことを聞かれたのは、初めてだった。




