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第9話 不毛の地から始まる愛

エドワードたちが連行され、騎士団が去ったあと、荒野には奇妙な静けさが残った。


砂礫を踏む音さえ、遠慮がちになる。

さっきまで張り詰めていた空気がほどけ、代わりに、胸の奥にぽっかりと穴が空いたような感覚が広がっていく。


私は倉庫の前に立ち尽くし、封蝋の乾いた箱を見下ろした。

青白い結晶が眠る木箱。

それは富の象徴であると同時に、私の人生をひっくり返した原因でもある。


「領主様」


グレイが近づいてきた。

いつもの厳つい顔が、今日は少しだけ柔らかい。


「……終わったんですかね」


「終わりました」


私は答えた。

言い切ったはずなのに、声が少し掠れた。


グレイは気づいたのだろう。余計な慰めは言わない。

ただ、荒野の彼方を見てから、ぽつりと言った。


「ここが、もう“死の土地”じゃなくなったのは……領主様のおかげです」


「あなたたちのおかげよ。私一人では何もできなかった」


私がそう返すと、グレイは照れ隠しのように鼻を鳴らし、若者たちへ声を飛ばしに行った。

領民たちはそれぞれ仕事に戻っていく。見張り、運搬、焚き火の番。

日々は続く。ここからが本番だ。


私は外套の襟を直し、息を吸った。

夜の匂いがする。冷たいのに、どこか澄んでいる。


「アリシア」


背後から、低い声が呼んだ。


振り返ると、ゼクスが立っていた。

兵も護衛も少し離れ、今は彼一人だ。

王としての重い外套は脱ぎ、旅装に近い軽い上衣。けれど、その存在の圧は消えない。


「……陛下」


「ここでは、ゼクスでいい」


彼はそう言って、私の前に一歩近づいた。

距離が詰まると、風の音が遠ざかる。代わりに、自分の鼓動が耳にうるさいほど大きくなる。


「今日は……助けてくださって、ありがとうございました」


私が頭を下げると、ゼクスは小さく息を吐いた。


「礼はもう十分だ。君は君で、この土地を守った。俺は、約束を守っただけだ」


「約束以上のことをしてくださいました」


「条約違反を見逃せば、国境が火を吹く。王として当然だ」


当然。

その言葉の裏に、彼の冷静さがある。

けれど、私は同時に知っていた。彼がここまで“早く”“大きく”動いたのは、合理性だけではない。


私は、胸元のペンダントに触れた。

熱は穏やかだった。危険ではなく、静かな灯火のような温度。


「……ゼクス」


私が名を呼ぶと、彼は目を細めた。


「何だ」


「あなたは、最初から正体を隠していましたのね」


「隠した。必要だった」


「どうして」


問いは、少しだけ震えた。

責めたいわけじゃない。確かめたかった。

私の交渉は、同じ土俵に立ったものだったのか。

それとも、最初から彼の掌の上だったのか。


ゼクスは一拍置いてから、視線を逸らさず答えた。


「国境付近の資源は争いを呼ぶ。王が直接動けば、相手国は身構える。だが、名もない旅人なら、情報を拾える」


「合理的ですわね」


「そうだ」


彼は否定しない。

その潔さが、逆に私の胸を軽くした。


「でも、君は旅人を旅人として扱わなかった。領主として、対等に交渉した」


「対等に見えましたか」


「見えた。いや……そう見せた」


ゼクスは、ほんの少しだけ笑った。


「君は怖がっていた。だが、引かなかった。あの執務室で追い出された女が、ここでは“主”だった」


私は息を呑む。

彼は知っていた。私の過去を。離縁のことを。


「調べたんですの?」


「必要だった」


また、合理性。

けれどその言葉の端に、微かな躊躇があった。


私は苦笑する。


「……私、あなたにとっては“資源の鍵”でしょう?」


言った瞬間、ゼクスの表情が変わった。

鋭さが消え、代わりに、静かな怒りに似たものが滲む。


「違う」


即答だった。


「最初はそうだった。鉱脈の兆しを感じた。国のために確保しなければならないと思った。だが――」


彼は言葉を切り、荒野の地面へ視線を落とした。

砂礫の間に、ほんの少し芽吹いた草が揺れている。誰かが水を撒いた場所だ。


「君がここを変えていくのを見て、考えが変わった」


ゼクスは顔を上げ、私を見た。


「資源は奪えば終わる。だが、君は奪うのではなく、育てている。町を作り、人を雇い、守りを整え、契約で縛る。――俺は、そういう強さに惹かれた」


言葉が真っ直ぐすぎて、胸が痛い。

私は長年、“妻としての価値”を測られ続けてきた。

愛想がない。地味だ。面白みがない。

そう言われても、黙って耐えるしかなかった。


なのに今、目の前の男は、私の“強さ”を見ている。


私は視線を落とし、指先で外套の端を握った。


「惹かれた、なんて……王が言う言葉ではありません」


「王だから言う」


ゼクスは迷いなく言った。


「俺は国を背負っている。だからこそ、隣に立つ者は“守られるだけの飾り”では務まらない。君なら、並んで立てる」


並んで。

その言葉が、胸の奥に温かく沈む。


私は顔を上げ、ゼクスの瞳を見た。

深い蒼。冷たい湖の底に、確かな熱がある。


「……私には、怖いことがあります」


「何だ」


「私は、一度結婚に失敗しました。契約で縛られ、都合よく使われた。もう二度と、誰かの“所有物”にはなりたくない」


ゼクスの目が僅かに揺れた。

彼は一歩近づき、けれど私に触れない距離で止まる。


「所有しない」


低い声。


「君が望むなら、契約で縛ることもできる。だが――俺は、契約ではなく、君の意志が欲しい」


王が、意志を求める。

その逆転が、私の中で何かをほどいた。


私は静かに息を吐く。

冷たい夜気が肺に入り、胸の奥の熱と混ざる。


「……ゼクス」


もう一度名を呼んだ。

今度は、敬称も距離もなく。


「私は、ここを守りたい。ここを“私の場所”にしたい。誰かに与えられた場所ではなく、自分で掘り起こした未来にしたい」


「知っている」


「だから……もし、あなたが隣に立つのなら」


私は言葉を探す。

淑女の礼儀でも、領主の交渉でもない言葉。

自分の心で選ぶ言葉。


「今度は、契約ではなく……心から、応えたい」


沈黙が降りた。

荒野の風が、遠くで岩を撫でる音だけがする。


ゼクスはゆっくり膝をつき、片手を差し出した。

王の儀礼というより、一人の男の仕草だった。


「アリシア。俺の伴侶になってくれ」


簡単で、真っ直ぐなプロポーズ。


私の胸元のペンダントが、優しく熱を帯びた。

母の鼓動のように。


私は、その手を取った。

指先が触れ合う瞬間、冷たかったはずの夜が少しだけ温かくなる。


「……はい。喜んで」


言った瞬間、涙が出そうになった。

悔しさの涙ではない。やっと自由に呼吸できることを知った涙。


ゼクスは立ち上がり、私の手を握ったまま、荒野の向こうを見る。


「ここは、君の王国だ。俺はそこに、橋を架ける」


「橋だけでは足りませんわ」


私は思わず笑った。


「町も、学校も、診療所も。道も、畑も。……全部、作ります」


ゼクスが短く笑い、頷く。


「欲張りだな」


「欲張りでないと、荒れ地は宝になりません」


その言葉を口にした瞬間、私たちは同時に思い出したのだろう。

最初の交渉の日の、荒野の風と、薄いパンの香りを。


私は、荒れ地に立つ。

かつて“死の土地”と呼ばれた場所で。

今は、光が眠り、希望が芽吹き、人が集まり、未来が形になり始めている。


隣には、王がいる。

けれど私は、王の影に隠れない。


私の人生は、私が掘り当てたものだから。


不毛の地から始まる愛は、ここから先も――終わらずに続いていく。


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