第8話 王の制裁
エドワードの馬車が去ったあとも、荒野の空気は軽くならなかった。
砂礫の上に残る轍は、ただの通行の跡ではない。
“次はもっと大きな手で来る”という予告状のように、私の目に刺さる。
「門を二重に。見張りは交代制で、眠る者を作らないで」
私はグレイへ指示を出しながら、倉庫の鍵束を握りしめた。
「それと、契約書の写しを三部。別々の場所に保管。燃やされても残るように」
「分かりました」
グレイは頷き、若者たちに怒鳴るように指示を飛ばす。以前の“行き場のない男”ではない。ここに居場所を得た者の顔になっていた。
ゼクスは、少し離れた場所で兵士たちと短い打ち合わせをしていた。
彼の背中は相変わらず旅装に近いが、立ち姿そのものが違う。言葉は少なくても、周囲が自然に従っていく。
(……この人は、やっぱり)
確信はある。けれど私は口にしない。
名を明かせば、こちらの立場も変わる。私は“守られる女”ではなく、“交渉した領主”でありたい。
その日の夕方だった。
見張り塔から、今まで聞いたことのない長い警戒笛が鳴り響いた。
短音ではない。連続する音――数が多い合図だ。
「……来たわね」
砂煙の向こうから現れたのは、馬車ではなかった。
騎馬と歩兵。旗。
そして、伯爵家の獅子紋。
数は二十以上。荒野の静けさを踏み潰すように進んでくる。
前列には、甲冑らしきものを身につけた傭兵が混じっていた。雇われた刃だ。金で動く者たち。
その中心に、エドワードがいた。
今度は外套ではなく、儀礼用の上着。見せびらかすための正装。
隣にはミラベル。顔は涙で崩れているのに、目だけが異様に光っている。
「アリシアァ!」
エドワードが叫ぶ。声が怒鳴り散らすほど、自分の正しさを信じたいのだろう。
「お前が隣国と結託して伯爵家の財産を奪ったことは、すでに王都へ訴え出た! これは取り戻しに来た正当な――」
「正当?」
私は一歩前へ出た。
背後には警備の者たちと、集まった領民たち。武器はまだ頼りない。けれど目は死んでいない。
「あなたが署名した譲渡証文があるのに?」
エドワードは歯を剥くように笑う。
「偽造だ! お前が……そうだ、隣国の者に作らせたんだろう!」
あまりに滑稽な言い分に、こちら側から短い失笑が漏れた。
怒りではなく、呆れの笑い。それがエドワードをさらに激昂させる。
「黙れ! この土地は伯爵家の管理下に戻る! 抵抗するなら反逆と見なす!」
傭兵が一歩踏み出す。
剣の鞘が鳴り、空気が尖った。
その瞬間、ゼクスが私の隣へ来た。
私より半歩前。
“庇う”のではなく、“前線に立つ”距離。
「これ以上は越えさせない」
低い声だった。
だが、その声が合図になったように、こちら側の兵士たちが隊列を整える。数は少ないはずなのに、圧が違う。恐怖ではなく、規律の圧。
エドワードが唇を歪める。
「またお前か。誰だか知らんが、隣国の傭兵風情が伯爵家に盾突くとは――」
ゼクスは、答えなかった。
代わりに、背後から新たな音が響いた。
蹄。重い蹄の連なり。
そして、風を切る布の音。
荒野の奥から、もう一隊が現れた。
黒地に金の縁取りの旗。精緻な紋。
整然とした騎士団。数は三十を超える。
彼らは一斉に馬を止め、先頭の騎士が地面に降りて片膝をついた。
続いて、全員が同じ動作をする。
「陛下」
その一言で、世界が止まった。
エドワードの顔から、血の気が引く。
ミラベルが口を開けたまま固まる。
傭兵たちですら、息を呑む。
ゼクスが、ゆっくりと前へ出た。
旅装の外套を脱ぎ、内側の黒い上衣を露わにする。胸元には、冠と剣の紋が刻まれた徽章。
「……隣国王、ゼクス・レヴァンディア」
騎士たちの声が、地を震わせる。
「陛下、万歳」
エドワードは膝が抜けたように一歩退き、地面に尻もちをついた。
口が震えている。言葉が出ない。
ゼクスは表情を変えず、淡々と告げた。
「この地は条約に基づく共同管理区域である。無断の武装侵入は、条約違反だ」
エドワードがやっと声を絞り出す。
「ま……待ってください、陛下! し、知らなかったのです! 私はただ、自分の――」
「自分の?」
ゼクスの声が少しだけ低くなる。
「君は、離縁の慰謝料としてこの土地を“譲渡”した。君自身の署名と印章で。今さら自分のものと言うのなら、それは虚偽だ。虚偽で他国の共同区域に軍を入れたのなら、それは侵略の意図と見なされる」
エドワードの喉が、ひゅっと鳴った。
「違う! 私は、私は……この女が騙したのだ! アリシアが――」
「その名を軽々しく呼ぶな」
ゼクスの瞳が鋭く光った。
「彼女はこの区域の領主だ。君が侮辱し、追放した相手が、ここを立て直した。君はそれを盗みに来た。違うか?」
エドワードは言い返せない。
胸の内にある“欲”を見透かされた獣の顔になっている。
ミラベルが突然、泣き叫んだ。
「陛下! 誤解ですわ! わたくしたちは被害者で――」
「黙れ」
ゼクスの一言で、ミラベルの声が途切れた。
本当に声が消えたわけではない。ただ、喉から音が出なくなるほどの圧だった。
ゼクスは視線をこちら――私へ向け、短く問う。
「アリシア。彼らは、君に何をした」
私は胸の奥で一度だけ息を整えた。
ここで感情をぶつけるのは簡単だ。けれど私は領主だ。言葉は証拠になるように選ぶ。
「無断で侵入し、倉庫の中身を要求し、契約を妨害し、私に復縁を迫りました。拒否したら、土地を返せと恫喝し……今日は武装して来ましたわ」
ゼクスは頷いた。
感情のない頷き。判決を読む者の頷き。
「十分だ」
彼は騎士団へ視線を投げた。
「伯爵エドワード・グランフォード。条約違反、共同区域への武装侵入、恐喝、詐欺の疑い。身柄を拘束する。抵抗すれば、この場で鎮圧する」
騎士たちが一斉に動いた。
迷いがない。息が揃っている。
傭兵の一人が剣に手を掛けかけたが、騎士団の前列が槍を構えただけで、顔色が変わって後ずさった。
金で動く者は、命の値段に敏感だ。負け戦は買わない。
「待て! 私は伯爵だぞ!」
エドワードが叫んだ瞬間、背後から王都の紋をつけた書記官が進み出た。
いつの間にか、騎士団の中に紛れていたらしい。
「伯爵エドワード・グランフォード。あなたの領地運営に関して、横領と背任、税の不正処理の疑いが王都で確認されています。召喚状が出ております」
淡々とした読み上げ。
それは、今まで積み上がっていた彼の“ツケ”の一覧だった。
エドワードの顔が、崩れる。
怒りでも恐怖でもない。理解した者の絶望だ。
「……そんな、そんなはずが……」
ミラベルが「嘘よ! エドワード様!」と泣き叫んだが、兵士に腕を取られた瞬間、声が裏返った。
「痛い! 放しなさい! わたくしは伯爵夫人に――」
「まだなっていない」
書記官が事務的に言い、ミラベルは言葉を失った。
エドワードが最後に、地面に這うように私へ手を伸ばした。
「アリシア……頼む。助けてくれ。お前なら――」
私は、かつての私なら心が揺れたかもしれない言葉を、静かに受け流した。
「私に二度と顔を見せるなと仰ったのは、あなたです」
そして、目を逸らさずに言う。
「今の私は、あなたの妻ではありません。あなたを助ける義務も、理由も、ありませんわ」
エドワードの手が、砂の上に落ちた。
騎士団が彼を立たせ、縄を掛ける。
伯爵家の正装が、荒野の埃で汚れていく。その姿は、私があの執務室で見た“勝者”とは別人だった。
ゼクスは私の隣へ戻り、低く言った。
「もう、彼はここへは来ない」
「ええ」
私は頷いた。
胸の奥が空洞になったようで、同時に、長年背負っていた重石が外れたようでもあった。
ゼクスが視線を私へ向ける。
その瞳には、王としての冷たさだけではなく、別の熱が宿っていた。
「君はよく耐えた。――そして、よく勝った」
私はほんの少しだけ笑う。
「勝ったのは、私が諦めなかったからです」
「それが一番難しい」
ゼクスはそう言って、荒野の向こうを見た。
夕暮れの光が、岩肌を淡く染める。
“死の土地”だった場所は、今、確かに息をしている。
そして私は知っている。
この制裁は終わりではない。始まりだ。
ここから私は、領主として――そして一人の女として、ようやく自分の人生を選べる。




