第7話 掌返しの復縁要請
ゼクスが現れた瞬間、荒野の空気が一段冷えた。
整列した兵士たちは、ただ立っているだけで周囲の逃げ道を塞ぐ。剣に手を掛けていないのに、抜かれた刃のような緊張が場を支配していた。
エドワードは唾を飲み込み、ミラベルは声を失ったまま宝石の付いた扇子を胸に抱え込む。
さっきまで私に向けていた嘲笑が、砂に吸われて消えるのが分かる。
「……ここで、何が起きている」
ゼクスの問いは短い。
けれど私には、その一言に“答えの形式まで指定されている”ように聞こえた。
「私の領地に、招いていない方々が押し入りました」
私は淡々と告げた。
もう感情で揺れない。ここは私の場所で、私は主だ。
ゼクスの視線が、エドワードへ移る。
その瞳の温度が、さらに下がった。
「領主の許可なく立ち入ったのか」
「領主だと? こいつが?」
エドワードがようやく声を取り戻す。苛立ちで声が裏返り、強がりの色が濃い。
「ここは王国の土地だ。俺が――」
「“俺が”?」
ゼクスが、その言葉を繰り返しただけで、エドワードは言葉を止めた。
自分の喉に鎖でも巻きついたような顔をする。
私はゆっくりと、一歩前へ出る。
荒野の風が髪を揺らす。いつもの控えめな装いではない。作業に耐える厚手のドレスに、簡素な外套。飾りは少ないが、背筋だけは誰よりも真っ直ぐ。
「エドワード様。改めて申し上げますわ」
私は懐の書類を取り出し、風除けの板の陰へ移して見せた。
封蝋の紋章。署名。
彼が笑いながら押した印。
「この土地は離縁の際、慰謝料として正式に譲渡されました。あなたが『あんなゴミ溜め、喜んでやる』と仰って、署名したあの日に」
エドワードの頬が、ぴくりと引きつる。
「そんなのは……! お前が泣いて縋ると思ったから――」
「つまり、書面に署名したのに、内容を理解していなかったと?」
私が首を傾げると、周囲の兵士の一人が小さく鼻で笑った。
それだけで、エドワードの顔が赤くなる。
ミラベルが横から叫ぶ。
「うるさいわよ! そんな紙切れ、どうにでもなるでしょ! それより、ここの倉庫、全部うちに――」
「黙れ、ミラベル」
エドワードが珍しく彼女を制した。
彼は視線を泳がせ、私とゼクスを交互に見て、笑みを作り直す。
「……アリシア。ここまでやったのは認める。だが、無理をするな。お前は領地経営なんて向いていない。今なら私が――特別に、戻ることを許してやる」
許す。
その言葉が出た瞬間、私は笑いそうになった。
(変わらないのね。最後まで)
彼の中では、私の人生は彼の掌の上にある。
捨てたのに、価値が出たら拾い直せると思っている。
「復縁、ですの?」
「そうだ。伯爵夫人に戻ればいい。お前の体面も守られる。ここで掘り当てたものも、伯爵家が管理すれば――」
「管理、ですか」
私は静かに問い返す。
「あなたが領地を放置し、帳簿を見ず、浪費し、借金取りに追われた、その管理を?」
エドワードの目が見開かれた。
痛いところを突かれた時の顔だった。
「な……何を知っている!」
「知っていますとも。私は長年、あなたの尻拭いをしてきましたから」
言い切って、私は一歩も引かない。
ミラベルが「嘘よ! この地味女が!」と叫びかけたが、ゼクスの視線が刺さった瞬間、口をつぐんだ。
エドワードは、追い詰められた獣のように唇を噛み、次の手に出る。
――甘言だ。
「……アリシア。苦労させたのは悪かった。お前も一人で寂しいだろう。戻ってくれば、今度は大事に――」
「結構です」
私は即答した。
「あなたの“大事にする”は、私を飾り物にしておくという意味でしょう? 私はここで領主として生きます。契約も整備も、すべて私が動かして作ったものです」
エドワードの顔が歪む。
そして、とうとう本音が漏れた。
「……なら、土地を返せ」
低い声。
咆哮に近い。
「お前が持っていていいものじゃない! 元々は俺の領地だ! 俺が捨てたんじゃない、押し付けただけで――!」
私はその瞬間、あの執務室の景色を思い出した。
シャンデリアの光。嘲笑。『この土地は死んでいる。君にぴったりだ』という言葉。
だから私は、同じ温度で返す。
「死んでいる土地が、急に惜しくなりましたの?」
エドワードの喉が詰まった。
笑われたのが分かると、人は声が出なくなる。
私は続ける。
「返せという権利は、あなたにはありません。ここは私の土地で、私が隣国と契約を結びました。あなたの手が届く場所ではないのです」
ゼクスが、そこで初めてはっきりと口を開いた。
「共同管理区域だ。ここでの争いは、条約違反になる」
条約。
その言葉の重さに、エドワードは一歩後ずさった。
「じょ、条約だと? お前は何者だ。隣国のただの護衛にそんなことが――」
「誰であれ関係ない。君が踏み込んだのは、国境の火薬庫だ」
ゼクスの声は低いまま、刃のように鋭い。
その背後で兵士が一歩、足並みを揃えて前へ出る。たったそれだけで、エドワードの膝がわずかに震えた。
ミラベルが震える声で、今度は別の方向へ欲を向けた。
「じゃ、じゃあ……そのドレス! その外套! 素材が違うわ! それだけでもよこしなさいよ! わたくしの方が似合うんだから!」
あまりに浅ましくて、周囲が一瞬静まり返った。
ミラベルは本気だった。自分が欲しいものは、手を伸ばせば手に入ると信じている目。
私は視線だけで彼女を見据える。
「嫌ですわ」
たった五音。
ミラベルの顔が真っ赤になる。
「なっ……!」
「あなたに似合うものは、王都の宝石店にあります。ここにあるのは、土と汗と契約で作ったものです。あなたのものではありません」
その言葉が刺さったのだろう。ミラベルは泣き叫びそうになり、エドワードの腕に縋りついた。
「エドワード様! こんな女、やっぱり許せないわ! 奪って! 全部奪って!」
その声に押され、エドワードの目がまた濁る。
愚かさと欲が、最後の理性を溶かしていく。
「……分かった」
彼は吐き捨てるように言い、私へ指を突きつけた。
「アリシア。お前が拒むなら、力で取り戻すまでだ。伯爵家の名を舐めるな。隣国だろうが何だろうが――」
言い終える前に、ゼクスが一歩踏み出した。
「次の言葉を飲み込め」
静かな声だった。
けれど、荒野の風が止まったように感じた。
エドワードが固まる。
ゼクスの視線が、まっすぐ彼の喉元を捉える。
「君が今ここで騒げば、君の罪状が増える。違法侵入、恫喝、契約妨害。加えて、条約違反の扇動。――伯爵家の名は、君を守らない」
エドワードの顔色が、みるみる青くなる。
初めて、“相手が自分より上”かもしれないと悟った顔だった。
私は静かに息を吐き、最後の釘を刺す。
「エドワード様。帰ってください」
「……アリシア」
「あなたが私に与えたのは、追放ではなく自由でした。今さら返せと言われても困りますわ」
私は微笑んだ。けれどそれは、昔の淑女の仮面ではない。
断ち切るための笑みだ。
ゼクスが兵士へ小さく合図をする。
兵士たちが左右へ広がり、退路を“案内”する形に整える。追い払うのではなく、逃げ道を示す。逃げるしかない形にする。
エドワードは唇を噛み、最後に絞り出すように言った。
「……覚えていろ。俺は――」
「覚えています」
私は被せた。
「あなたが『二度と顔を見せるな』と言ったことも、『死んでいる土地』と笑ったことも。だからこそ、私は二度と戻りません」
エドワードは何か言い返したかったはずだ。
けれど言葉は出ない。代わりに、憎しみと焦りだけが目に残った。
ミラベルは泣き声を上げながら馬車へ引きずられ、エドワードもそれに続く。
砂礫を巻き上げ、馬車が遠ざかっていく。
荒野に静けさが戻った。
私はふっと肩の力を抜き、ゼクスのほうへ向き直る。
「……ありがとうございました。助かりました」
ゼクスはすぐには答えず、遠ざかる馬車の方向を見つめていた。
そして、低く言う。
「まだ終わらない。あの男は必ず、もっと大きい手で来る」
「ええ。分かっています」
私が頷くと、ゼクスの瞳が一瞬だけ柔らいだ。
「なら、こちらも準備をする。次は“話”では済まない」
その声に、私のペンダントが熱を帯びる。
戦いの前の、静かな確信の熱。
――次に来るのは、復縁の芝居ではない。
破滅への行進だ。




