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第5話 噂の広まり

荒れ地に、音が増えた。


槌が岩を叩く音。

荷車の軋む音。

人の笑い声と、怒鳴り声と、指示を飛ばす声。


ゼクスが去ってから十日あまり。

まだ“町”には程遠い。けれど、死んだ土地だった場所に、確かに血が通い始めていた。


最初に来たのは、道を測る者たちだった。

荒野の地形を読み、最短で、しかし冬に崩れにくいルートを選ぶ。岩を避け、谷を埋め、坂を削る。彼らは寡黙で、無駄口を叩かない。仕事の速度だけが答えだった。


次に、倉庫を建てる大工と鍛冶師が来た。

粗末な小屋の隣に、木材と石材が積まれ、杭が打たれ、柱が立った。小さな炉が作られ、金属を打つ音が荒野に響く。


そして、警備の者たち。

旅装をした“民間の護衛”という触れ込みだが、その動きは明らかに訓練された兵だ。彼らは私に対して過度に恭しくはない。けれど、命令は正確に守る。こちらが感情で揺れない限り、彼らも揺れない。


(ゼクスは、約束を守る)


私の中で、確信が静かに積み重なる。


一方で、私は同じ速度で“守り”も固めた。

鉱脈の露出箇所はすべて記録し、採掘の作業場には見張りを立てた。採掘物はその場で番号を振り、帳簿に記し、倉庫へ運ぶたびに二重の確認を入れる。


何度も帳簿を開いてきた私だから、資源を巡る争いが“数字の隙間”から生まれることを知っている。

一つでも穴があれば、そこから盗まれる。奪われる。


だから私は、最初から穴を作らない。


「領主様、これ……」


ある夕方、グレイが息を切らして駆け込んできた。

手には、紙束。封は解かれ、何度も握り直された痕がある。


「何ですの?」


「商人の手紙です。王都から……いや、隣国の港町からも。噂を聞きつけて、“取引したい”って」


私は紙を受け取り、目を通した。


“北端の荒野に、光る鉱石が出ると聞いた”

“もし真実なら、いくらでも買い取る”

“独占契約を結ばないか”

“領主殿の後ろ盾になろう”


文面は丁寧でも、目が泳ぐ。匂いがする。

金の匂いと、奪う者の匂い。


私は手紙を束ね、机の上に置いた。


「来ましたわね」


グレイが眉をひそめる。


「まだ、ここが何か確定したってわけでもないのに……早すぎる」


「噂は確定より先に走ります。人は真実より、“儲かる話”が好きですもの」


私は少しだけ笑った。


「けれど、これは良い兆しでもあります。噂が広まれば、誰かが焦る」


「焦る?」


「私を追い出した人が、です」


◇◇◇


王都の社交界は、寒い季節になるほど熱を帯びる。


舞踏会。

観劇。

茶会。

貴婦人たちの噂話が、宝飾よりも眩しく飛び交う。


その夜、伯爵家の広間では、ミラベルが新しいドレスをひらめかせていた。

淡い桃色から、派手な金糸の刺繍へ。飾りは増え、笑い声は大きくなる。

けれど、笑い声の裏で、執事の顔色は日に日に青くなっていった。


「エドワード様、聞きました?」


ミラベルが扇子で口元を隠しながら、周囲に聞こえるように声を上げる。


「北の果ての荒野、あそこに今、“光る石”が出ているそうですの。まるで神話みたい。誰も見向きもしなかった土地なのに、突然、宝の山になるなんて」


エドワードはグラスを持った手を止めた。


「……北の果ての荒野?」


その言葉が、喉の奥で引っかかる。

昔、税だけがかかる厄介な地図を見て、苛立って放り投げた記憶。何も育たない。魔物も寄り付かない。死んだ土地。


そして――離縁状に付けた慰謝料。


「誰の土地だ、それは」


「さあ? でもね、商人たちが動いてるって。隣国の物流が入ったとか、警備が強化されたとか……」


ミラベルは興味本位で笑う。

けれど、エドワードの背筋には冷たいものが走っていた。


(まさか……)


頭の中で、紙の上の地図が広がる。

“北の果ての岩場”

あの、私がゴミ溜めだと嘲笑ってくれてやった場所。


あり得ない。

あり得るはずがない。


だが、噂は具体的すぎた。

鉱石の色。光り方。露出の場所。運び出される荷車の数。

それらは、誰かが実際に見た情報にしか思えない。


「エドワード様?」


ミラベルが首を傾げる。


「どうしたの? 顔色が悪いわ。お酒、飲みすぎたの?」


「……いや」


エドワードは笑おうとした。

だが、口角が上がらない。


そこへ、執事が耳打ちしてきた。


「伯爵様……借金の件で、明日の朝、取り立ての者が」


「後にしろ」


「後にできません。今月分が支払われなければ、担保に――」


「うるさい!」


思わず声を荒げ、周囲の視線が集まる。

エドワードは慌てて笑みを作り直し、グラスを持ち上げた。


「……取り立てだなんて、物騒な話はやめよう。今夜は祝宴だ」


ミラベルがすぐに、場を取り繕うように笑った。


「そうよ。私たちは幸せなんだから!」


けれど、エドワードの胸の奥には、別の声が響いていた。


(北の荒野に、宝の山……?)

(もしそれが本当なら――)


考えたくないのに、考えてしまう。

もし、あの土地が本当に価値を持つなら。

もし、アリシアがそこで何かを掘り当てているなら。

もし、それが莫大な富につながるなら。


(……返せ)


言葉にならない叫びが、喉の奥に溜まる。

あれは、私の土地だった。

私が持っていたはずのものだ。

たまたま、離縁の慰謝料として渡しただけで――


「エドワード様」


ミラベルが甘えた声で腕に絡みつく。


「私ね、次の宝石も欲しいの。王都で一番の宝石商が新作を出したんですって」


その声が、今夜だけは耳障りだった。

いつもなら、彼女の笑顔に“勝った”気分を味わえたのに。

今は、勝ち誇った笑みが、別の何かに見える。


(……金が要る)

(今すぐ、金が)


エドワードはグラスを置き、扇子の影から周囲を見回した。

貴族たちの笑い声。華やかな音楽。甘い香水の匂い。

――どれも、支払いの催促状の前では色褪せる。


そのとき、別の貴族が近づいてきた。


「伯爵。聞いたか? 北の果てで、隣国が何か動いているらしい。噂では、希少鉱石だとか」


「……隣国が?」


「そう。港の商人が言っていた。すでに道が通り始め、倉庫が建ち、警備が立ってると。誰かが、相当な後ろ盾を得たんだろうな」


エドワードの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。


(隣国……?)

(アリシアが?)

(後ろ盾を?)


一度、頭の中で結びついた線は、簡単に消えない。

むしろ、現実の出来事が次々とその線を太くする。


エドワードは、笑いながらも爪を握りしめた。


「……それは、興味深い話だな」


◇◇◇


その頃、北の荒野では。


私は新しい倉庫の前で、運び込まれた木箱に封をしていた。

封蝋に刻むのは、伯爵家の紋章ではない。

私の印――この土地の領主として、私が新しく作らせた印章だ。


箱の中身は、青白い結晶の原石。

まだ“神結晶”だと公に言っていない。言う必要がない。言った瞬間、狼が群がる。


「領主様、また馬が来ます」


見張りの若者が言った。


「商人です。三組。あと……貴族の紋章の馬車も一台」


私は手を止めずに答える。


「通しません。面会は、こちらの条件を飲める者だけ」


「条件って……」


「雇用と、治安と、契約です。ここを荒らす者には一欠片も渡さない」


グレイが頷き、若者たちへ指示を飛ばした。


私はふと、空の端を見る。

この荒野の上にも、噂の風が吹き始めている。


(来るわね)


あの人が。

自分の“捨てたもの”の価値に気づいた、身勝手な男が。


そしてその時――私はもう、追い出された妻ではない。


“土地の主”として、迎え撃つだけだ。


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