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第4話 秘密の商談と急接近

夜明け前の空は、まだ鉄のように冷たかった。


小屋の隙間から忍び込む風に、火鉢の炭がかすかに赤く息をする。私は外套を羽織り直し、鍋に湧き水を張った。昨日の“茶会”のせいで、ここには珍しく人の気配が残っている。


「領主様、本当に朝食まで出すんですか」


若者が半ば呆れたように言う。けれど目は真剣だ。ここは人をもてなす場所ではない。


「交渉相手に腹を空かせたまま岩場を歩かせるのは、こちらの損よ」


私は小麦粉に塩を混ぜ、薄く伸ばした生地を焼き始めた。贅沢な料理ではない。けれど、温かいものは心をほどく。相手の口が動けば、情報も落ちる。


香ばしい匂いが立つころ、外で馬のいななきがした。


ゼクスが来た。


昨日と同じ旅装。けれど、朝の光の中で見ると、彼の動きの無駄のなさがより際立つ。護衛二人も息が合っていて、岩の上に立つ姿が、まるで訓練された兵のようだった。


(通りすがり、ね)


「おはようございます、ゼクス様」


私が皿を差し出すと、彼は一瞬だけ驚いた顔をして、それから素直に受け取った。


「……焼きたてか」


「ええ。昨日のお茶のお礼ですわ」


薄焼きのパンに干し肉を挟んだだけの簡単なもの。ゼクスは黙って一口かじり、目をわずかに見開いた。


「塩加減がいい」


「家計を回していましたから。食材の無駄は嫌いなの」


言ってから、しまったと思った。余計な過去を滲ませた。

けれどゼクスは追及せず、ただ「そうか」と短く頷いた。


食事を終えると、私は外へ出て、昨日見つけた岩の裂け目へと案内した。


風が冷たい。空は薄い群青から白へほどけ、荒野の影が伸びている。

そして、その影の中に――青白い光が、確かにあった。


露出した結晶は拳ほど。岩の割れ目から半分だけ顔を出し、淡い光を内に抱えている。氷のようで、氷ではない。触れれば、冷たさの奥に、奇妙な脈動が返ってくる。


ゼクスは膝をつき、指先で結晶の表面をなぞった。

その横顔が一瞬、真剣さに研ぎ澄まされる。


「……神結晶」


彼が、ぽつりと言った。


私は視線だけで反応する。名前を知っている。しかも、ためらいなく口にした。

この男の“通りすがり”が、ますます薄っぺらくなる。


「この辺りだけではありません」


私はペンダントを握り、目を閉じた。

母が遺した触媒が熱を帯び、胸の奥で大地の脈が鳴る。


見える。青白い筋。地中を走る光の川。

それは裂け目から裂け目へ、丘から丘へ、果ての見えない網のように広がっていた。


「……この一帯の下に、鉱脈が眠っています。浅い場所はもう地表に出ている。深い場所は、掘ればいくらでも」


言い終えたとき、ゼクスがゆっくり立ち上がった。

その瞳が、結晶ではなく私を見ていた。


「君はそれを、どう扱うつもりだ」


試す声。

奪う者か、守る者か、売る者か。

私は迷わず答えた。


「“私の土地の未来”として扱います」


ゼクスは微かに笑う。けれど次の瞬間、表情が引き締まった。


「なら、条件を言え。君は昨日からずっと“交渉”と言っている」


私は岩の上に腰掛け、荒野を背にした。逃げ場のない場所で座るのは、逃げないという意思表示になる。


「採掘権の一部を、あなたに渡します」


グレイが「えっ」と声を漏らした。若者たちもざわつく。私の財産を、いきなり差し出したように見えるからだろう。


けれどゼクスは動じない。むしろ、続きを促す目をした。


「その代わりに、三つ」


私は指を立てた。


「一つ。物流網。ここへ物資を運べる道、馬車、倉庫。冬でも止まらない流通」

「二つ。技術と人手。採掘は私の領民を雇い、賃金を払うこと。外から来た者が好き勝手するのは許しません」

「三つ。防衛。盗賊や横暴な貴族が嗅ぎつけたとき、この土地を守る仕組みが必要です。あなたが関与するなら、あなたにも守る責任がある」


言い切ると、風が吹き抜けた。

ゼクスの髪が揺れ、鋭い目だけが光る。


「……君は、資源を餌にして国を動かすつもりか」


「資源は餌ではありません。土台です。ここに人が住めるなら、奪われにくくなる。荒れ地が“町”になれば、誰も簡単には手を出せない」


私は少しだけ笑った。


「それに、私一人が抱え込めば、必ず狙われます。あなたの力を借りるほうが合理的でしょう?」


ゼクスはしばらく黙り、結晶を一度だけ見下ろした。

そして、護衛二人に目配せをする。彼らは少し離れた位置へ下がり、こちらに背を向けた。


(口止めの距離)


ゼクスは声を落とした。


「君の条件、ほとんどが“国”の仕事だ。商人では背負えない」


「では、商人ではないのね」


私も声を落とし、視線を外さず言った。

ゼクスの瞳が、一瞬だけ揺れる。


沈黙。

互いの正体を、互いが察している。

けれど、今ここで名乗らせるのは得策ではない。名乗らせた瞬間、私は“相手の土俵”に乗る。


だから私は、あくまで領主として言う。


「あなたが誰でも構いません。必要なのは、約束を守れる力です」


ゼクスは、ふっと息を吐いた。

そして、不意に片手を差し出した。


「書面を作れ。採掘権の範囲、利益配分、雇用人数、道と倉庫の整備期限、警備の配置。全部、数字に落とせ」


私は驚いた。ここまで具体的に踏み込むとは思わなかった。

彼は“欲しい”だけではない。“形”にする男だ。


「……あなた、交渉に慣れてますのね」


「慣れざる者が国境の資源を嗅ぎつけて動けると思うか?」


皮肉ではなく、当然の事実として言う。

私は思わず口元を緩めた。


「なら、交渉相手としては最高です」


「同感だ」


ゼクスの手は大きく、指先には硬い感触があった。剣を握る手だ。

けれど握手は乱暴ではない。強いが、制する強さだった。


その瞬間、冷たい風が強く吹いた。

私の外套が煽られ、結び目がほどけかける。


「っ……」


次の瞬間、ゼクスが私の肩に手を置き、外套の襟を引き寄せた。

距離が、一気に縮まる。吐息が触れそうなほど。


「風が強い。凍えるぞ」


低い声。近い。

私は反射的に「平気です」と言いかけ――やめた。

平気なふりをするのは、長年の癖だ。けれど今は交渉の場。余計な意地は、相手に無駄な情報を渡す。


「……ありがとうございます」


そう言うと、ゼクスは一瞬だけ目を細めた。

まるで、私が礼を言うこと自体が意外だと言わんばかりに。


「礼を言える女は、強い」


その言葉が胸に残る。

強いと呼ばれたことはあっても、そういう意味で言われたことはなかった。


◇◇◇


その日のうちに、私は小屋で契約書の草案を書いた。

伯爵家で学んだ法律の知識と、帳簿で鍛えた数字の感覚が、ようやく“自分のため”に働く。


グレイは唸りながらも、段々と目の色を変えていった。


「道が通れば、物資が来る。人が増える。仕事ができる。……本当に、ここが町になるかもしれない」


「なります。私が、そうします」


ゼクスは草案に目を通し、必要な箇所に迷いなく線を引いた。

修正は鋭く、無駄がない。利益配分は公平で、期限設定は現実的。言葉選びは、後の抜け道を潰すものだった。


(この人、やっぱり“上”だわ)


確信が濃くなるほど、同時に奇妙な安心も生まれていた。

少なくとも、軽い気持ちで人を踏みにじる男ではない。


夜、契約草案に仮の署名を交わしたあと、ゼクスは小屋の外へ出た。

星の少ない空の下、荒野の風が鳴る。


彼は背を向けたまま言った。


「明日、私は一度戻る。道と人員を動かすには時間が要る」


「ええ。準備が整ったら、またお越しください。今度は“通りすがり”ではなく」


ゼクスが、肩越しにこちらを見た。


「君は、私に名乗らせたいのか」


「いいえ。名乗りたければ、あなたが名乗るでしょう?」


一瞬の沈黙のあと、彼は小さく笑った。


「……怖い女だ」


「褒め言葉として受け取ります」


ゼクスはそれ以上何も言わず、馬のほうへ歩いていった。


その背中を見送りながら、私は胸元のペンダントを握る。

熱はまだ消えない。

けれど、その熱は警戒だけではなかった。


◇◇◇


同じ頃。


伯爵家の本邸では、豪奢な食卓に銀の皿が並び、ミラベルが新しい宝飾品を首にかけていた。


「ねえ、エドワード様。これ、欲しいの。今度の舞踏会で皆に見せたいわ」


「買えばいい。君は伯爵夫人になるんだ、遠慮するな」


エドワードはグラスを揺らし、気前よく言った。

その背後で、執事が青い顔で帳簿を抱える。


「伯爵様……今月の支払いが――」


「うるさい。金なら何とかなる。領地の収穫が――」


「その収穫が、今年は見込み薄でございます。先日の設備更新も先送りされ……」


ミラベルが不機嫌そうに口を尖らせる。


「何よ、せっかく私が来てあげたのに。前の奥様はケチで嫌だったわ」


その言葉に、エドワードはなぜか胸の奥がちくりとした。

けれどすぐに振り払う。


(アリシアがいなくなってせいせいした。あんな女がいなくても、領地は回る)


そう信じたいのに、帳簿の数字は容赦なく現実を突きつける。

借金取りの催促状が増えていく。


執事が最後に、ためらいがちに言った。


「それと……北の果ての岩場ですが。税だけがかかるあの土地、もし手放していなければ今頃――」


「はっ、あんな死んだ土地が何になる」


エドワードは吐き捨て、グラスを空にした。


――彼はまだ知らない。

自分が笑いながら捨てた場所で、青白い光が目覚め始めていることを。


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