第3話 招かれざる「隣国の王」
尾根に浮かんだ黒い点は、風に揺れる蜃気楼ではなかった。
近づくにつれ、それが人影――しかも騎馬であることがはっきりする。
「……領主様、下がってください」
グレイが前へ出る。若者たちも、手にした棒切れや古い槍を構えた。
武器と呼ぶには心許ない。けれど、ここで引けば“この土地は脅せば奪える”と知らしめることになる。
私は外套の前を留め、背筋を伸ばす。
「いいえ。領主が先に退いたら、ここは最初から負けです」
私の声は自分でも驚くほど落ち着いていた。
怖くないわけではない。ただ、恐怖よりも――手放したくないという執念が勝っている。
騎馬の影は三騎。
先頭の男は、粗い旅装に身を包み、顔の半分を布で隠していた。砂塵避けだろう。
その後ろに、同じような格好の男が二人。動きは無駄がなく、荒れ地の騎乗に慣れている。
彼らは小屋から少し離れた岩場で馬を止め、先頭の男が鞍から降りた。
布越しでも分かる。背が高く、肩幅がある。目だけが鋭く光っていた。
「ここに、新しい領主が来たと聞いた」
低い声。命令ではないが、自然と周囲が従う種類の響き。
グレイが一歩踏み出す。
「名を名乗れ。ここは伯爵家より譲渡されたアリシア様の領地だ。用があるなら――」
「私は通りすがりだ。国境付近の地形を見て回っている」
男はそう言って、ちらりと私を見た。
視線が刺さる。値踏みではない。もっと、確かめるような目だ。
私は彼の言葉を受け取りながら、胸元のペンダントに意識を向けた。
熱い。さっきより、ずっと。
脈打つ熱が、こちらの鼓動に絡みついて離れない。
(……この人も、気づいている?)
私が拾った欠片の存在か。それとも、鉱脈そのものか。
どちらにせよ、偶然でここへ来た顔ではない。
「通りすがりにしては、ずいぶんと護衛が整っていますのね」
私が静かに言うと、男の目が僅かに細まった。
笑ったのか、警戒したのか判然としない。
「荒れ地には盗賊が出る。備えは必要だ」
「盗賊が出るなら、なおさら“通りすがり”の方が長居する理由はありませんわ」
間髪入れず返す。
グレイがひやりと息を呑むのが分かった。けれど、私は引かない。
ここは私の領地。まず、主導権を握る。
男は一拍置いてから、ゆっくりと周囲の岩場を見渡した。
そして、ほんの僅かに首を傾げる。
「……この土地は、死んでいると聞いていた。だが、違うな」
その言葉が、脳裏の奥で弾けた。
私は笑みを保ったまま、あえて曖昧に返す。
「“死んでいる”というのは、前の持ち主がそう言い触らしたのでしょう。噂とは便利ですもの」
男の視線が、今度は地面へ落ちる。
まるで、地表の下にあるものを“嗅ぐ”かのように。
その瞬間、ペンダントの熱が跳ね上がった。
私の体の中を、青白い光の筋が走る幻がよぎる。
同時に、男も微かに肩を強張らせたように見えた。
――確信した。
この男は、普通ではない。
「領主殿」
男が、ようやく私へ真正面から向き直る。
「この土地に、何かある」
断定だった。
見つけた、ではない。最初から“ある”と知っている口ぶり。
グレイが怒気を含んだ声を出す。
「何かって何だ。ここは何も――」
「交渉なら、お茶を飲んでからにしましょう」
私は、グレイの言葉をやんわりと遮った。
相手が探りを入れてくるなら、こちらも場を整える。
荒れ地の真ん中で刃を交えるより、机の上で言葉を交わす方がいい。
男が一瞬だけ目を見開き、次いで、喉の奥で短く笑った。
「……お茶?」
「ええ。ここは私の領地です。客人には礼を尽くします。けれど、その礼は“主”が選びます」
私は小屋へと視線を向けた。
粗末な小屋。温かな茶など期待できないだろう。
それでも、この場で“礼節”を持ち出すことは、私が怯えていないという宣言になる。
男の後ろに控えていた護衛らしき二人が、視線を交わした。
止めるべきか、従うべきか迷っている。
先頭の男――彼だけは迷わなかった。
「いいだろう。招きを受ける」
口調が、王のそれに似ていた。
命令ではないのに、周囲が自然と従ってしまう。
私は胸の奥で警戒の針を一本増やしながら、小屋へ彼らを案内した。
◇◇◇
小屋の中は狭い。隙間風が入り、火鉢の炭も心許ない。
セシルがいない今、私に淑女の茶会の準備などできるはずもないが――私には別の武器がある。
「湯を」
私は短く指示し、若者が慌てて水を鍋に入れた。
湧き水は冷たい。だが、沸かせば十分だ。
茶葉は、屋敷から持ってきた最低限の荷物の中に入れてある。
伯爵家のものではない。私が自分の小遣いで買った、香りの強い茶だ。貧しい者にも配れるようにと、昔から好んでいた。
湯気が立ち上ると、男の目が一瞬だけ柔らいだ。
香りに反応したのかもしれない。
私は粗末な木の椅子に座り、男と向かい合う。
護衛二人は入り口近くで立ったまま。グレイも、壁際で私の背を守る位置を取った。
「で、通りすがりの方。お名前は?」
私が尋ねると、男は布を外し、顔を露わにした。
若い。
私より少し上か、同じくらい。
切れ長の目、整った鼻筋。荒れ地の風で乾いた髪が、黒く光る。
そして――その瞳の色が、深い蒼だった。
冬の夜の湖のように冷たく、それでいて底に熱を宿している。
「ゼクス」
短い名乗り。
姓も肩書もない。
それが逆に、余計なものを隠していると告げている。
「ゼクス様。こちらはアリシア。……この土地の領主です」
名だけで返す。相手が隠すなら、こちらも同じ深さで隠す。
男――ゼクスは、茶を一口含み、わずかに口角を上げた。
「美味い」
「ありがとうございます。荒れ地では香りが際立ちますでしょう?」
「……荒れ地だからこそ、だ」
彼の視線が、私の胸元――ペンダントに一瞬だけ吸い寄せられた。
「その石は、触媒か?」
グレイが驚いたように目を見開く。
私は、心の中で息を止めた。
(見抜いた)
「亡き母の形見です」
嘘ではない。ただ、全ては言わない。
ゼクスは指を組み、淡々と言う。
「この土地は国境に近い。もし、ここから希少な資源が出るのなら、周辺国が動く。まず狙われるのは領主だ。守れるか?」
まるで、心配しているような言い方。
けれど、そこには“確認”が混じっている。守れないなら奪う、という含み。
私は、茶碗を静かに置いた。
「守ります。……守るために、交渉します」
「交渉?」
「はい。資源が眠るなら、独り占めはしません。けれど、奪われる気もありません。私にはこの土地を住める場所に変える必要がある。そのために、物流と技術と人手が要る」
ゼクスの目が、面白そうに揺れた。
「欲張りだな」
「欲張りでなければ、荒れ地は宝に変わりませんわ」
一歩も引かない。
その瞬間、護衛の一人が小さく息を呑んだのが分かった。
ゼクスはしばらく私を見ていたが、やがて、椅子にもたれかかる。
「……君は、ここが宝の山だと確信している」
「ええ」
「根拠は?」
私は微笑んだ。
答えは一つしかない。
「女の勘です」
グレイが思わず咳払いをした。
護衛二人が顔を見合わせ、困惑したように眉を寄せる。
だが、ゼクスだけは、短く笑った。
「なるほど。嫌いじゃない」
笑って、すぐに目が鋭くなる。
「アリシア。私はこの土地を調べたい。許可をくれ」
それは願いではなく、要求だった。
――そして同時に、試しでもある。
ここで私が怯えれば、彼はさらに踏み込む。ここで私が拒めば、彼は力に訴える可能性もある。
私は一拍置いてから、ゆっくり頷いた。
「いいでしょう。ただし条件がございます」
「言ってみろ」
「調査は、私の立ち会いのもとで。得られた情報は共有すること。そして――」
私は息を吸い、言葉を刃の形に整えた。
「この土地の主は、私です。ゼクス様がどなたであれ、その点だけは変わりません」
小屋の空気が張り詰める。
風の音すら遠く感じた。
ゼクスは、しばらく沈黙したのち、ふっと目を細めた。
「……面白い。交渉相手として、これ以上ない」
その一言で、私は確信した。
この男は、ただの旅人ではない。
この土地の鉱脈に惹かれてきた者。
そして、私の未来を左右する相手。
ゼクスが立ち上がり、外套の裾を払う。
「明日、夜明けに。露出している場所を見せてくれ」
「承知しました。お茶の礼に、朝食もご用意しますわ」
「この小屋でか?」
「ええ。豪華な食卓はありませんけれど、取引には十分でしょう?」
ゼクスは、また短く笑った。
「ますます気に入った」
彼が小屋を出ていく背中を見送りながら、私は胸元のペンダントをそっと押さえた。
熱はまだ消えない。
(招かれざる客、ね)
けれど私は知っている。
客が招かれざるなら、主が招き入れる理由を作ればいい。
――この荒れ地で、私は負けない。




