第2話 死の土地の正体
北へ向かう馬車の揺れは、屋敷で過ごした年月を一枚ずつ剥がしていくようだった。
最初のうちは、伯爵領の豊かな畑が窓の外に広がっていた。冬枯れの景色でさえ、耕された土地には規則正しい線がある。人の手が入った証だ。
けれど、二日、三日と進むにつれて、道は痩せ、村は減り、草の色が薄くなった。
最後に見た麦倉の塔が小さな点になって消える頃、馬車は未舗装の轍に乗り、石を踏んで鈍い音を立て始める。
「……ここから先は、“死の土地”です」
御者が小声で言った。
まるで、その名を大きく口にすると呪われるとでも思っているみたいに。
私は「そう」とだけ答え、膝の上のペンダントに指を添えた。
亡き母の形見――銀の枠に嵌め込まれた、乳白色の小さな石。普段は冷たく、飾り気のないそれが、今は指先にわずかな熱を返してくる。
(近い)
胸の奥に、低い波が寄せては返す。
人の声ではない。風の音でもない。
もっと深い場所――大地そのものが打つ脈動だ。
馬車が最後の丘を越えた瞬間、視界が一気に開けた。
灰色。
どこまでも灰色。
土は薄く、露出した岩が肌をむき出しにしている。木はほとんど立っておらず、草もまばらで、風が吹くたびに砂礫が舞い上がった。
生き物の気配が薄い。鳥の影すら見当たらない。
「ここが……私の領地」
口にしてみると、奇妙に落ち着いた。
荒れ地であろうと、借金の帳簿であろうと、私は“自分のもの”を前にしたほうが呼吸がしやすいらしい。
馬車は岩の間を縫うように進み、やがて粗末な柵に囲まれた小さな建物の前で止まった。
かつて境界の見張り小屋として使われていたのだろう。扉は歪み、壁板は風雨に削られている。
そこから、三人ほどの男たちが恐る恐る顔を出した。
ひとりは白髪混じりの壮年で、身なりは粗いが背筋は伸びている。ほかの二人は若いが、目の下に影が濃かった。
「……新しい領主様、で?」
壮年の男が、警戒を隠さない声で尋ねる。
「ええ。アリシアと申します。この地の譲渡証文も持っております。あなたは?」
「名はグレイ。前の伯爵様から、ここを“管理しろ”とだけ言われて……実際は、税の督促が来たときに印を押すくらいで。人が住める土地じゃない。だから、ここに残ったのは借金を逃れた者と、行き場のない者だけです」
正直だ。嫌いではない。
私は外套の襟元を整え、視線を真正面から返した。
「住めない、ではなく、住ませなかったのでしょう。……まず、雨風をしのげる屋根が必要です。薪と水は?」
「水は、ずっと向こうの岩陰に細い湧きがあるが……冬は凍ることもある。薪は、この辺りじゃ無理だ。運ぶしかない」
「分かりました。では運びます。物資の手配と、簡易の貯水槽。それと――」
言いかけて、私は言葉を止めた。
ペンダントが、突然、熱を増した。
まるで心臓の鼓動に合わせるように、熱が脈を打つ。指先が痺れるほどの反応だ。
(ここ……下に、ある)
私は無意識に一歩、二歩と歩き出していた。
岩だらけの地面。足元の砂礫が音を立て、グレイたちが慌てて追いすがる。
「領主様、危ない。ここは足を取られる――」
「大丈夫。……母が、教えてくれましたの」
言葉の意味が自分でも曖昧だった。
けれど、身体が知っている。視線が吸い寄せられる。
岩の裂け目の奥から、微かに青白い光が滲んでいる気がした。
私は膝をつき、手袋を外して指先で砂を払った。
冷え切った石の感触。けれど、そのすぐ下に、別の温度がある。
「……これ」
小さな欠片が、ぽろりと転がり出た。
石にしては、やけに透けている。氷のようで、けれど氷より硬く、内側に淡い光を抱いている。
グレイが息を呑む。
「まさか……そんな、伝承の……」
「知っているの?」
「昔話です。北の果てには、神が落とした結晶が眠っていて、それを掘り当てた者は国を買える――と。誰も信じません。だって、ここは何も育たない。魔物すら寄り付かない、ただの死地だ」
私は欠片を掌に乗せたまま、目を閉じた。
母の声が、遠い記憶の奥で蘇る。
――“地面の下には、まだ誰も知らない光があるわ。耳を澄ませて。大地は嘘をつかない”
ペンダントに指を添え、静かに息を吸う。
目を閉じると、視界の代わりに“流れ”が見えた。
川のように、血管のように、地の奥を走る脈――青白い光の筋が、果てしなく広がっている。
私はゆっくり目を開け、震える指先で岩肌を叩いた。
「ここだけではありません。……この一帯そのものが、鉱脈の上に乗っています」
言った瞬間、グレイの顔色が変わった。
驚きではない。恐怖に近い。
「領主様、それが本当なら……すぐに人が嗅ぎつけます。前の伯爵様や、税を取り立てる連中だけじゃない。盗賊も、隣国も……」
「ええ。だから、今ここで決めます」
私は立ち上がり、風に外套を揺らした。
荒れ地の冷たさが頬を刺す。それでも、胸の内側は不思議と熱かった。
「これは、私の土地です。正式に譲渡され、法も証文もあります。まずは守りを固め、記録を残し、開拓を進める。雇用を作り、ここに人が住める形に変えます」
「……本気ですか。こんな場所を」
「本気です。私には、時間がありませんの。逃げるための時間ではなく、築くための時間が」
グレイはしばらく黙っていたが、やがて、ぎこちなく頭を下げた。
「分かりました。領主様がそこまで言うなら……俺の手でできる限り、動きます。まずは、この辺りで信頼できる者を集めます。口の堅い者を」
「お願い」
私は掌の欠片を布で包み、胸元へしまった。
その瞬間、風向きが変わった気がした。
灰色の世界の中で、何かが確かに“始まった”。
日が傾き、仮の宿となる小屋へ戻ろうとしたとき、遠くの尾根に黒い影が見えた。
ひとつではない。数騎分の、点。
見張りの若者が声をひそめる。
「……誰か、来ます」
グレイの手が腰の短剣へ伸びた。
私は目を細め、尾根の向こうを見据えた。
この地に眠る光は、まだ誰にも渡さない。
「来るなら、正面から来ていただきましょう」
胸元のペンダントが、熱く脈打った。
まるで、これから現れる“何か”を告げる鐘のように。




