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第1話 円満(?)離縁成立!

「愛する女性ができたから離縁してくれ。……ああ、それから、慰謝料はこの土地だ。文句はないな?」


豪奢なシャンデリアの光が、磨き上げられた執務机の上で白く弾けた。

私はティーカップを静かにソーサーへ戻し、微笑みだけを上手に整える。


向かいの椅子にふんぞり返っているのは、夫――エドワード伯爵。

その腕に、桃色のドレスをまとった男爵令嬢ミラベルが絡みつき、勝ち誇った視線をこちらへ投げてくる。


(……来た。やっと、来た)


胸の内側で火花が散るほどの喜びが跳ねたのに、表情は水面のように静かだった。

泣き縋る妻を演じるのは、もはや私の仕事ではない。けれど、今ここで余計な波風を立てる必要もない。


「……本気でいらっしゃいますの?」


私が眉をわずかに寄せると、エドワードは待っていましたとばかりに口角を上げた。


「もちろんだ、アリシア。私は“真実の愛”を見つけた。君のような地味で愛想のない女と、これ以上同じ屋根の下にいるのは苦痛でしかない」


「まあ、エドワード様ったら」

ミラベルが扇子で口元を隠し、鈴を転がすような声――に、本人はしたいのだろう――で笑う。

「アリシア様も、少しは自分を省みたらいかが? 魅力のない妻は、潔く身を引くのが“淑女の務め”ですもの」


私は心の中で、深く、深くため息をついた。


(省みるべきは、あなた方の家計簿でしょうに)


賭け事に溺れ、領地経営を顧みず、社交と浪費にしか興味のない夫。

その尻拭いをするために、私はどれだけ帳簿と睨み合い、どれだけ頭を下げ、どれだけ眠れない夜を過ごしたか。

けれど、今日で終わりだ。私は、ようやく“役目”を降りられる。


「分かりましたわ。離縁をお受けいたします」


私が淡々と言うと、執務室の空気が一瞬だけ弛緩した。

エドワードは肩透かしを食らったような顔をしたあと、すぐに勝者の笑みに塗り替える。


「ほう、物分かりがいいじゃないか。さすがは伯爵家で育った女だ。最後くらい、面倒を起こさず――」


「ただし、条件がございます」


言葉を切って、私は机の上の書類に指を置いた。

離縁状とともに差し出されていた“慰謝料”の譲渡証文。そこに添えられた地図の端を、爪先でそっとなぞる。


「今後の生活のため、こちらの一帯をいただけますか?」


私が示したのは、王国北端に位置する広い荒野――草木も生えず、岩が剥き出しになった土地。

領内では「死の土地」と呼ばれ、税だけがかかる厄介な負債だと誰もが笑う場所。


ミラベルが目を丸くした。

エドワードは一拍遅れて、腹の底から可笑しそうに噴き出す。


「はっ! なんだ、それが条件か? いいとも! あんなゴミ溜め、喜んでくれてやるよ。追放先としても丁度いい。君にはお似合いだ」


「まあ、アリシア様。岩と結婚なさるの?」

ミラベルは愉快そうに肩を揺らす。


私は微笑みを崩さないまま、ほんの少しだけ首を傾げた。


「“追放”だなんて。私は、慰謝料として正式に譲り受けるだけですわ。書面も、証人も、必要でしょう?」


形式にうるさい貴族社会で、ここを曖昧にすれば後々の火種になる。

私は大人しく追い出される“都合のいい元妻”を演じるつもりはない。

静かに、確実に、取り返しのつかない形で縁を切る。


エドワードは鼻で笑い、控えていた書記官へ顎をしゃくった。

机の脇には伯爵家の印章が置かれ、赤い蝋が用意されている。

今日のために整えた手続きが、あまりに滑稽に見えて笑いそうになった。

――彼は、私があっさり折れると思っていたのだろう。だからこそ、形式だけは整えて“慈悲深い夫”を装う準備をしていた。


「いいだろう。証人ならいる。さっさと署名しろ、アリシア。二度とこの屋敷の敷居を跨ぐな」


「ええ、承知いたしました」


私は羽根ペンを取り、離縁状の署名欄へ自分の名を書いた。

墨が紙へ滲む。その黒い線が、鎖の最期の輪のように見えた。


続けて、譲渡証文にも署名する。

書記官が印章を押し、蝋に刻まれた紋章が冷たく光った。


――これで終わり。

法も慣習も、私を“伯爵夫人”から解放する。


「……ありがとうございます、エドワード様。最後のご厚意、感謝いたしますわ」


私は淑女の礼を捧げた。

顔を伏せたのは、涙ではなく、口元からこぼれそうなものを隠すため。


「ふん。せいぜい北の果てで岩でも齧って生き延びろ」


「皆様も、どうぞお幸せに」


私は一度も振り返らず、執務室を出た。

背後から聞こえてきたのは、ミラベルの弾んだ声。


「やったわ、エドワード様! これでこの屋敷も、社交界での立場も、全部わたくしのものね!」


(……ええ、全部どうぞ)

私は心の中でだけ答えた。

借金の山も、空っぽの倉も、見栄だけで維持されている領地も、どうぞまとめて。


廊下を歩くたびに、絨毯の端の擦れや、壁の装飾の剥がれが目に入る。

少し前まで修繕の見積もりを握って走り回っていたのが嘘のようだ。

今なら、壊れていようがどうでもいい。私はもう、ここを守る理由がない。


部屋へ戻ると、長年仕えてくれた侍女のセシルが、泣き腫らした目で駆け寄ってきた。


「奥様……いえ、アリシア様。本当に……本当に、よろしいのですか」


「ええ。むしろ、心配してくださってありがとう」


私は彼女の手を取り、そっと握った。

味方を巻き込まないために、詳しい事情は言えない。ただ、彼女の優しさは忘れたくなかった。


荷物は少ない。もともと私は贅沢を好まない。

必要な衣類と、帳簿の写し、そして――小さな銀のペンダント。

亡き母の形見で、指先で触れると、ほんのりと温度が変わる。


(北へ)


声にならない囁きが、胸の奥から聞こえた気がした。

心臓の鼓動とは違う、もっと深いところで響く、遅く大きな“脈”。


私は窓を開け、冬の風を吸い込む。

王国の北端――誰も望まず、誰も価値を見出さない土地。

けれど、なぜだろう。そこにこそ、私の未来が眠っていると確信していた。


翌朝。

伯爵家の紋章が刻まれた門の前に、古びた馬車が用意された。

“追放される元妻”に相応しい、という演出なのだろう。笑ってしまいそうだ。


私は薄い外套を羽織り、離縁状と譲渡証文を胸に抱いた。

それは紙切れではない。自由の証だ。


門の向こうで、エドワードとミラベルが並び、見送り――という名の嘲笑を投げてくる。


「二度と戻ってくるなよ!」

「北の岩場で、せいぜい惨めに暮らしてちょうだい!」


私は振り返らない。

代わりに、馬車へ乗り込む直前、空を見上げた。


雲間から差す淡い光が、どこか遠く――北の方角へ筋を引いている。

まるで道しるべのように。


(さようなら、私を縛っていた場所)

(そして――おはよう、私の人生)


御者が鞭を鳴らす。

馬車が軋み、屋敷が遠ざかっていく。


膝の上のペンダントが、ふいに熱を帯びた。

まるで、大地の鼓動と呼応するように。


私は誰にも見えないところで、静かに微笑む。


目指すは、誰も見向きもしない北の荒野。

“死の土地”と嘲られた場所こそ、私が掘り当てるべき宝の眠る地なのだから。


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