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「姉さんは狂ってるよ」

 家に帰るのは怖かった。

 でも、帰らないわけにはいかない。

 でも、やっぱり怖い。

 三十分ばかり、そんなどうしようもない堂々巡りを繰り返している内に、姉が呆れたように玄関が出てきた。

「まだ四月なんだから外は冷えるわ」

「ねえ、さん……」

「はやく入りなさい。別に怒ってないから」

 そう言って、姉はまた家に戻っていった。

 リビングで、姉は父の将棋相手をつとめていた。その横顔に変わったようすはない。いつも通り劣勢なのは父の方だった。

 僕はほっと息をついて、自室に引き上げた。夕食まで後三十分はある。東雲に何事もなかったことを連絡しておこうと思った。

 部屋に戻り、明かりをつける。

 僕はぎょっとして、目を見開いた。

 クローゼットに仕舞っておいた服が散乱していた。

 慌てて、階下に降りようと身体を反転させる。

 姉が、僕の背後に立っていた。

「そんな驚いた顔をしないでよ」

 平坦な口調で、姉は言った。

「一日に三回は彰の香りを嗅いでおかないと正気を保てないの。そういう病気なのよ」

「そんな病気、聞いたことがないよ」

「彰の香りが私の神経細胞を侵すとね、頭が冴えてくるの。とてもつまらない勉強もとてもかったるい生徒会の仕事も、彰の臭いを嗅ぐだけでいくらでも乗り越えられるの」

 心当たりはあった。時々靴下の数が合わないことがあったから。

「汗まみれの服なんて最ッ高。いくつかは、こっそり洗濯機から持ちだしてはコレクションに加えてあるわ」

 服がなくなるなんて思いも――よっていた。

 本当は薄々気づいてた。気づいてて、実は宇宙人に服を持って行かれているんだって荒唐無稽なことを考えて自分を納得させてた。

 僕はバカだ。姉はもっとバカだ。

「彰が修学旅行に行ったときはね、彰の服の残り香で我慢してたの。洗濯した後のじゃダメ。洗剤の香りが、彰の香りをぶち壊すから」

「僕は洗剤の爽やかな香りがとても好きなんだけどな!」

 主張すべきポイントはそこじゃないと、すぐに気づいたけれど、訂正する気も起きなかった。

「クローゼットに仕舞ってあるものだと、二日が限界ね。それを過ぎると、だんだん香りが薄れてきて、効果が薄れてくるの。どうしても我慢しきれなくなってきたときはゴミ箱を漁って、舐めて、やっとドーパミンが分泌したわ。満足できなかったら、私はきっと狂ってた。修学旅行先まで追いかけて行って、寝込みを襲ってしまったかもしれない。……そんな露骨に引いた顔をしないで。いくら私でも傷つくわ」

「引かない人がいたら、僕はその人の顔をみたいよ」

 つとめて冷静に僕は言った。

 姉のぶっちゃけ話を聞くのがこんなにつらいなんて、想像だにしていなかった。

「私は、彰が私の臭いが好きってひかないわよ」

 というか、これだけ自分の性癖をバラし始めたのは、東雲の姉さんに説得された影響だろうか。

 あの人はどんな説得をしたんだろう。ちょっと聞いてみたい気がした。

「姉さんはもっと常識的な人だと思ってた」

「亜紗、って名前で呼んで」

「嫌だよ。っていうか、近づかないで!」

 獲物を射程にとらえた獣が、飛び退いた僕に近づいた。僕がぶん投げた枕さえも愛おしいように、鼻を押し付けて、大きく息を吸っている。


 彰の香りを堪能したくてたまらない。

 彰の香りだけあればほかになにもいらない。


 枕から顔を離した姉の顔は恍惚としていた。女の人が性的に興奮しているさまは、こんな状況でも胸を高鳴らせたが、それと同じくらい恐怖も僕の全身を支配していた。

「彰を私だけのものにしようなんてわがままは言わないわ。あの子と付き合ってもいい。行き着くところまで行ったっていいわ」

 余計なお世話だよ、と心底思ったが黙っていた。

「でも、一日に二度……ううん、一度でいいから、私とスキンシップを図ってほしいの。いつか我慢できなくなるかもしれないけど、当分はそれで我慢するわ」

「ごめん姉さん。僕は姉さんについていけそうもない」

「ついてこれなくていいわ。私が引っ張り上げるもの」

「絶ッッ対、姉さんは狂ってるよ」

 僕は諦めたように息をついた。服を片付けようと腰を下ろす。

 姉の手が、僕の手の上に重なった。

「愛してるわ」

「僕は姉さんのこと嫌いだよ」

「彰がフられても大丈夫。私がいるわ」

 大丈夫、という言葉を何度聞いただろう。

「私が自分の地位のために結婚という手段を選んでも、彰がフリーになったら、すぐに離婚して彰のところにいくからね。神にでも悪魔にでも誓うわ」

「そんな誓い、神さまも悪魔も願い下げだよ」

 姉は僕の口にそっと口付けた。

 これもまた、僕らの幼いころからの儀式だった。お互いの感情に激しい澱みが生じたとき、僕らは一番近いところで接しあった。

「ねえ……やっぱり、最後の一線を超えたいんだけど」

「姉さんもカレシをつくったら? 姉さんみたいな人が好みっていう友だちがいるから、なんなら僕が紹介するよ」

と姉の言葉を無視して言った。これ以上姉の言葉を聞いていたら頭が爆発するような気がしてならなかった。

 姉は露骨に顔を歪めて、唾棄するように言った。

「彰以外の男なんて不潔よ。触りたくもない」

 その基準がどうにも僕にはよくわからなかった。

 服を片付け終えたあと、姉は思い出したように言った。

「どんな未来を歩んでもいいけどさ――」

 いつになく真剣な表情だった。

「彰はそのまま変わらないでよ。私は、こんなダメな私でも見放さない、彰が好きなんだから」

「……僕も姉さんのことは好きだよ。姉弟として、ね」

 姉はほんのりと薄く頬を赤らめ、部屋を出て行った。

 まもなくして夕食を告げる母の声が階下から聞こえてきた。

 僕は何度目になるかわからない、重い溜息をついた。

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