第9話 真冬の二十度
真冬という言葉には、嘘がある。
少なくとも、その年の珠江口ではそうだった。
朝は冷える。 夜明け前、李海生が浜へ出ると、風はまだ細く冷たかった。 指先はこわばり、老白の白い毛も少し硬く見えた。
砂の上には夜の湿り気が残っている。 満潮線に沿ったゴミの帯も、朝だけは黙っているように見えた。
けれど、晴れた日は昼になると劇的に変わった。
十一時を過ぎるころから、海面に日がまっすぐ当たる。 十二時には、白いポリ容器の表面がぬるくなる。 十三時ごろには、大きなタイヤの黒い腹が熱を持つ。
真冬だというのに、気温が二十度を超える日が何日も続いた。
海生は最初、それを少し変だと思っただけだった。 冬でも暖かい日はある。南の町では、それほど珍しすぎることではない。
けれど、続くとそれは「記録」になる。 記録になると、もう単なる気のせいではなくなるのだ。
学校が休みの日、海生は昼の十三時に浜へ行った。
老白は連れていかない。 昼の浜は熱いし、ゴミの間に足を入れるのも危ない。 老白の右後ろ足は、まだ弱いのだ。
海生は老白の頭を優しく撫でて、家に残るように言い聞かせた。
「今日はここで待ってて」
老白は不満そうな顔をした。
「昼の浜は熱いんだよ。足が痛くなっちゃうから」
老白は、しっぽを一度だけ床に打ち付けた。 分かったのかどうかは分からない。 けれど、海生が玄関を出るときには追ってこなかった。
浜へ着くと、海生はまず空を見上げた。
雲がほとんどない。 空はどこまでも青く、太陽は高い。 真冬の太陽のはずなのに、光はしっかりと肌を焦がすように当たる。
海生はポケットから温度計を取り出した。 学校の張先生が、壊れかけの古い温度計を一本くれたのだ。
正確かどうかはかなり怪しい。 だから海生は、家の温度計と何度も見比べて、何度ずれるかを何日もかけて確かめた。 完全な道具ではないけれど、何もないよりは遥かにいい。
浜の気温。日陰の気温。濡れた砂の温度。乾いた砂の温度。 潮だまりの水温。海面近くの水温。
海生は、一つずつ丁寧に測っていった。
水温を測るときは、温度計を直接深く差し込んだりはしない。 糸をつけた空き瓶に少しだけ海水を汲み、その中へ温度計を浸す。
張先生は、それでは正確なデータとは言えないと言った。 海生もそれは重々分かっている。 でも、毎回まったく同じやり方を貫けば、変化の傾向だけは見えてくるかもしれない。
海生にとっては、それこそが大事だった。 一度きりの正確な値よりも、同じ方法で長く続けること。
十三時。晴れ。 気温、二十一度。 乾いた砂、二十六度。 タイヤ表面、三十度近い。 潮だまり、水温二十三度。 海面近く、二十二度。
海生はノートにしっかりと数字を書き込んだ。
それから、満潮線に沿って続くゴミの帯に視線を向けた。 冬だというのに、生臭いにおいが弱くなりきらない。
六月ほどではない。秋の最盛期ほどでもない。 けれど、決して真冬のにおいではなかった。
白い発泡スチロールの破片が、強烈な日を受けてまぶしく反射している。 黒いタイヤは、光をすべて飲み込むように不気味な熱を持っている。 ポリ容器の下には、じっとりとした水が残っていた。 水面に、油のような薄い膜が張っているところもあった。
海生は、落ちていた黒い粒をそっと紙に包んだ。
軽いもの。重いもの。 指先に、少しだけ油のような感触を残すもの。 まだ、これが何かは分からない。
けれど、分からないものほど、簡単に捨てたりはしない。 それが海生のやり方だった。
冬になると、アルバイトの仕事は激減した。 魚加工場へ呼ばれる日は、秋に比べて明らかに減っていた。 妹の小雨へ送るための封筒は、どんどん軽くなっていく。
祖父の李守田は、それを静かに心配していた。
「冬は魚も財布も痩せるからな」
祖父はぽつりと言った。 海生もよく分かっていた。
だが、その代わりに時間はできた。 放課後、図書館へ行くことができる。 休みの日に浜でじっくり測ることができる。 加工場で見かけた、あの変形した魚たちのことも、少しずつ記録に落とし込める。
海生はもう、加工場で魚をただ無心に切るだけではなくなっていた。
もちろん、手を止めすぎると王主任に激しく怒鳴られる。 だから、作業をしながら目で素早く数えるのだ。
背骨の曲がった魚。 口のずれた魚。 腹のふくらみがおかしい魚。 ヒレが縮れた魚。 尾が不自然に短い魚。
それを、箱ごとに頭の中で記憶する。 そして作業が終わってから、工場の壁の陰で急いでノートに書き写す。
最初は、それが天然の魚か養殖の魚かまでは判別できなかった。 しかし、よく見ると箱には出荷元の札が貼ってある。
沖から来た魚。 小型船の名前が書かれた魚。 養殖場の番号がついた魚。
その決定的な違いに気づいてから、海生はさらに観察を深めるようになった。
天然の魚にも、形のおかしいものは確かに混ざっている。 けれど、あの養殖場から来た箱の方が、明らかに変な魚の割合が多いように見えた。
見えただけでは、まだ証拠ではない。 張先生なら、きっとそう言うだろう。
だから、ひたすら数えるのだ。 箱の数。魚の種類。変形の種類。天然か養殖か。 日付。気温。できる範囲で、水温。
海生の手製のノートは、少しずつ、けれど確実に厚くなっていった。
紙を買うお金はない。 古いプリントの裏紙を使う。 広告のチラシの余白を使う。 包装紙の白い部分をハサミで切り取る。 それらを集めて、糸で丁寧に綴じる。
祖父はそれを見て、しみじみと言った。 「お前のノートは、まるで貧しい百科事典だな」
「百科事典って、高いの?」
「高いぞ」
「じゃあ、これは世界一安い百科事典だね」
「だが、誰の百科事典よりもよく働く」
海生は、少しだけ誇らしく笑った。 そのノートが、まさか大きな賞を取ることになるとは、この時はまだ夢にも思っていなかった。
きっかけは、張先生だった。
冬のある日、張先生は海生が大切に持っているノートを目にした。 「これは、どれくらい続けているんだ」
「三年前からです」
「毎日か?」
「できる日は、ずっと」
「気温、水温、漂着物、魚の異常、加工場の記録まで網羅しているのか」
海生は、誤解されないように先に言った。 「正確ではありません。温度計も古いし、水温の測り方も簡単です。魚だって、全部を数えられているわけじゃないですから」
張先生は、黙ってノートのページをめくっていった。 「正確ではない。だが、これだけ続いている」
「でも」
「海生、続いている記録というものはな、何よりも強いんだよ」
張先生はその日、海生に『市の学生観察記録コンクール』の話を持ちかけた。
海生は最初、出すのを頑なに拒んだ。 理由はいくつもあった。 紙が汚くてボロボロだ。 字が小さくて読みづらい。 観察道具があまりにも貧しい。 加工場の記録なんて勝手に出したら、主任に怒られるかもしれない。 何より、変形魚の話は、まだ分からないことが多すぎる。
張先生は優しく言った。 「すべてをそのまま出す必要はないんだよ」
「隠すの?」
「整理するんだ」
「同じことじゃないの?」
「違う。お前が見てきた事実を、他人が読める形にするんだ。結論を急いではいけない。海水温、気温、漂着物、そして観察の方法。まずはそこを中心にするんだ」
「魚の記録は?」
「付録程度にしておこう」
「どうして?」
張先生は、少し言い淀むように困った顔をした。 「まだ、お前一人の私的な観察だ。原因も確定していない。そこを大きく打ち出しすぎると、事実を見る前に、周囲からの反発の方が先に来てしまうんだよ」
海生は、完全に納得したわけではなかった。 けれど、出さなければこの記録は一生活かされず、自分の机の中に眠ったままだ。 出せば、もしかしたら誰かが気づいてくれるかもしれない。
海生は放課後、張先生と一緒にこれまでの観察記録を一枚の論文にまとめた。 題名は、張先生が少し学術的に手を入れた。
『珠江口北側浜における冬季昼間海水温と漂着物の観察記録』
ずいぶんと長い題名だった。 海生は、なんだか少し恥ずかしかった。
家へ帰っておじいさんにそれを見せると、おじいさんは首を傾げた。 「題名だけで腹がいっぱいになりそうだな」
「長い?」
「長い。だが、ずいぶんと偉そうだぞ」
「偉そうなのは嫌だな」
「賞を取るつもりなら、これくらい偉そうでちょうどいい」
「取らないよ」
「では、題名だけでも取った気分になっておきなさい」
祖父は愉快そうに笑った。 老白は、いつも通り机の下で静かに眠っていた。
海生は、その白い背中の丸みを見つめながら、一文字ずつ丁寧にノートを清書していった。
結果が返ってきたのは、冬の終わりが近づいたころだった。
張先生が教室へ入ってくると、いつもより少しだけ声を張って告げた。 「市の学生観察記録コンクールで、我がクラスの李海生の記録が、見事『優秀賞』に選ばれた」
教室が一瞬、水を打ったように静まり返った。
それから、パラパラと数人が拍手を始めた。 陳明月は、真っ先に嬉しそうに手を叩いた。 ほかにも、何人かがつられるようにして拍手を大きくしていく。
海生は、張先生に促されてその場に起立した。 立ったものの、どこに視線を向けていいのか分からなかった。
張先生が解説を続ける。 「身近な環境の変化を、長い間ひたむきに記録し続けた点が極めて高く評価された。特に、真冬であっても快晴時の十三時前後に浜辺の温度が大きく上昇するという指摘、そして漂着物の種類と量を継続して記録した内容が素晴らしかった」
張先生の言葉は、海生を心から褒めていた。 それなのに、なぜか海生の背筋は少しだけ冷たくなっていた。
教室の後ろの席から、劉偉の冷やかすような小さな声が聞こえた。 「おい、ゴミ博士が本当に賞を取っちゃったぞ」
隣の男子がクスクスと笑う。 いつもの、からかってくる四、五人だった。 海生はそういう言葉には慣れている。慣れたくはないけれど、慣らされてしまっている。
しかし、その日は少し違った。 前の方の席から、いつもとは明らかに質の違う声が響いたのだ。
「観察記録って言ったって、ただ浜辺でゴミを眺めてただけでしょ」
声の主は、黄佳怡だった。 クラスでもトップクラスに成績のよい、優秀な女子だった。 いつも清潔できれいなノートを使い、先生の質問には完璧に答える。 試験の順位では、時々海生と激しく点数を競い合うこともあった。 海生が満点を取ると、彼女は次の試験で必ずそれ以上の結果を血眼になって狙ってくる。 これまで、海生に直接嫌がらせをしてくるようなタイプではなかった。少なくとも、これまでは。
黄佳怡の隣に座る男子、周凱も吐き捨てるように言った。 「小学生の自由研究みたいなもんだろ。僕たちはちゃんと理科室で実験計画を立てて書いたのにさ」
「でも、お前らは入賞しなかったもんな」 劉偉が後ろから余計なからかいを入れると、周凱の顔が瞬間的に真っ赤になった。 「うるさいな!」
張先生がすかさず咳払いをする。 「静かにしなさい」
教室は一応、静まり返った。 けれど、そこに漂う空気は、さっきまでとは完全に変わってしまっていた。
それまで海生を日常的にからかっていたのは、主に劉偉たちだった。 クラスのガキ大将とその仲間たち。 「臭い」「ゴミ博士」「魚箱」 そういう、分かりやすくて幼稚な言葉を投げてくる相手だった。 言われれば傷つくけれど、構造としては単純だった。
けれど、黄佳怡や周凱は全く違う。 彼らは普段、先生たちに手放しで褒められる側の、いわゆる優等生だった。 ノートがきれいで、発表が上手。 家には立派な勉強机があり、何でも揃う参考書があり、コンクールに応募するなら親が上質な紙をいくらでも買ってくれる。そういう恵まれた生徒たちだった。
その子たちが今、海生に向ける目が、明らかに変わった。
そこにあるのは、同情ではない。 単なる軽蔑だけでもない。
――激しい、やっかみだった。
海生は、その感情の言葉をまだ正確には知らなかった。 ただ、自分に注がれる視線の温度が、痛いほど冷たく変わったことだけははっきりと分かった。
休み時間になると、劉偉たちはいつものようにニヤニヤしながら机にやってきた。
「おい、優秀賞!」
「賞金とか出るのかよ」
「もし出たら、高級なゴミ袋でも買えよな」
ドッと起きる笑い声。 海生は何も言い返さず、ただ静かに黙っていた。
すると、黄佳怡が自分の席へ戻る途中に、海生の机の横を通り過ぎざまに言い放った。
「いいよね。家が貧しいと、ただのゴミ拾いまで『感動的な観察記録』に仕立て上げてもらえるんだから」
海生はハッと顔を上げた。 黄佳怡は、海生と目が合った瞬間にフイッとすぐに視線をそらした。 自分でも少し言いすぎたと思ったのかもしれない。けれど、絶対に謝ろうとはしなかった。
周凱が同調するように小さく鼻で笑う。 「先生たちも好きだよな、そういう苦労話みたいなの」
海生は、拳を握り締めたまま何も言わなかった。 何か一つでも言葉を発してしまえば、自分の中の何かが完全に壊れてしまう気がしたからだ。
陳明月が、少し離れた席からその様子をじっと見つめていた。 海生の元へ近づこうとして、途中で足を止めてしまう。 周囲のクラスメイトたちの鋭い目が張り巡らされている。
彼女はそれでも、少しだけ海生の机の方へ足を進めようとした。 けれど、黄佳怡が冷たい目でそちらを睨みつけると、明月はそれ以上動けなくなってしまった。
海生は、そんな明月を責めるつもりなんて少しもなかった。 誰にだって、止められない周囲の目がある。差し出せない手がある。 以前、校舎の裏で誰にも見つからないように卵焼きを分けてくれた、あの時の彼女の優しさを、海生は今でも鮮明に覚えている。それだけで、もう十分だった。
放課後、張先生は海生を職員室に呼んだ。 「賞状は来週、全校生徒の前で渡される予定だ」
「はい」
「本当によくやったな、海生」
「ありがとうございます」
「ただ、クラスの中が少し騒がしくなるかもしれない」 張先生は、静まり返った教室のある方向へ目を向けた。 「気にするな、と言っても難しいとは思うが」
「大丈夫です」
「大丈夫な顔をしていないぞ」
海生は返す言葉がなくて黙り込んだ。 張先生は海生の肩にそっと手を置いた。
「記録は、これからも形を変えずに続けなさい。賞を取ることは目的ではないんだから」
「はい」
「それと、例の魚の件は、まだ慎重に扱うんだぞ」
海生は小さくうなずいた。
慎重に。 その言葉の意味は頭では分かる。 分かるけれど、加工場にあるあのすり身用の桶を思い出すと、その「慎重」という大人の言葉が、どこか酷く冷たいものに思えてしまうのだ。
学校の敷地を出ると、真冬の夕方の突風が吹き抜けた。
朝よりも遥かに冷たい。 昼間にはあれほど熱くなって二十度を超えていたというのに、夕方になるとまた世界が急激に凍りつき、体が小さく縮こまる。 一日の温度が、激しく往復している。
海生は家へ真っ直ぐ帰る前に、少しだけ浜辺へと足を伸ばした。
太陽はすでに大きく傾き、あの黒いタイヤの表面はもう完全に冷え切っていた。 満潮線には、また潮に流されてきた新しいゴミがいくつも転がっている。
いくら拾っても、いくらきれいにしても、海は毎日、容赦なく何かを置いていく。
どれだけ先生に褒められても、学校では笑われる。 どんなに必死に記録しても、まだ何も原因は分からない。
海生は砂の上にしゃがみ込み、あの不自然な黒い粒を一つ指で拾い上げた。 丁寧に紙で包む。 そして、カバンからノートを開いた。
『真冬。快晴。十三時ごろ二十度超えの日が続く。 冬でも浜の表面温度が高い。 養殖場から来た魚の箱で、変形魚の割合が高い気がする。 ――まだ証拠ではない。
観察記録、優秀賞を受賞。 教室の反応に明らかな変化。劉偉たちだけでなく、黄佳怡、周凱も加わる。 理由は、やっかみか』
そこまで書いて、海生は鉛筆を握る手をピタリと止めた。
やっかみ。 その言葉は、自分の手製のノートに書き残すには、あまりにも泥臭くて大人びていた。 けれど、今の周囲の空気を表すのに、それ以外の言葉がどうしても見つからなかった。
海生は、ノートの最後に絞り出すように一行足した。
――褒められると、敵が増えることがある。
書いたあと、しばらくその文字をじっと見つめていた。 真冬の冷たい海風が、ノートの端をバタバタと容赦なくはためかせた。
浜辺には、黒いタイヤと、白いポリ容器と、細かく砕け散った発泡スチロールが相変わらず転がっている。 遠くの海にある養殖場には、白い浮きが整然と並んでいた。
太陽が水平線の向こうへと沈んでいく。 昼間のあの奇妙な熱は、跡形もなく消え去っていく。
けれど、海生の胸の奥には、昼の熱とはまったく違う、別の熱が消えずに残り続けていた。
賞を取ったことへの嬉しさでは決してない。 周囲への怒りとも、少し違っていた。
それは、一度見てしまった現実の不穏な形を、もう二度と「見なかったこと」にはできないという、ひたむきで孤独な熱だった。
その熱だけは、冬の冷たい夕風に晒されても、どうしても冷めることはなかった。
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