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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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14/22

第14話 検査項目にないもの

夏の珠江口しゅこうこうでは、 朝が朝の顔をしていない。

夜明け前でも、空気はぬるかった。 湿った布を口と鼻に押し当てられているような、重さがある。

海風は吹いている。 けれど、体を冷やしてはくれない。 むしろ、腐ったにおいを運んでくる。

魚。 海藻。 古い発泡スチロール。 油。 それから、名前の分からないにおい。

李海生リー・ハイシェンは、浜にしゃがんでいた。 横には老白ラオバイがいる。

老白は、もう海生のそばにいることを当然のように思っているらしかった。 前のように、遠くから遠慮して見ている犬ではない。

海生が歩けば歩く。 海生が止まれば止まる。 海生がノートを出せば、少し離れて座る。 ノートを守っているつもりなのかもしれなかった。

海生は、浜の黒い粒を紙に集めた。

砂の上には、黒い粒が点々と散っている。 すすのように軽いもの。 砂に少し沈むもの。 水に浮くもの。 指にくっついて離れにくいもの。

同じ黒に見えるのに、ひとつずつ少し違った。

「全部、同じじゃない」

海生がつぶやくと、老白が耳を動かした。

「うん。老白には関係ないか」

老白は、鼻先で海生の手をつついた。 早く帰れ、と言っているようにも見えた。 暑いから無理をするな、と言っているようにも見えた。

海生は紙をたたんで、ノートにはさんだ。 そこには、昨日までの記録も入っていた。

黒い粒の温度。 白い粒の温度。 砂の温度。 魚の形。 加工場で見た箱の印。 においの強かった日。 雨のあとの浜。 老白がくわえて持ち帰った紙の歯形。

海生にとって、それはただのノートではなかった。 見たものを、見なかったことにしないための場所だった。


学校へ行くと、教室はもう暑かった。 窓は開いている。 けれど、入ってくるのは風ではなく、ぬるい空気だった。

授業中、海生は何度もノートを見た。

黒い粒のところ。 温度のところ。 魚の形のところ。

数字はある。 記録もある。 でも、それだけでは足りない。 それは、海生にも分かっていた。

昼休み、海生は理科室へ行った。 張先生チャンせんせいは、古い顕微鏡の箱を片づけていた。

「先生」

「来たな」

張先生は、海生の顔を見る前にそう言った。

「どうして分かったんですか」

「昼休みに、ノートを抱えて理科室へ来る生徒は少ない」

「すみません」

「謝ることではない」

張先生は机の上を空けた。

「見せなさい」

海生はノートを開いた。

黒い粒。 温度。 魚の形。 におい。 加工場の箱。

それから、図書館で調べた言葉。 マイクロプラスチック。 ナノプラスチック。 タイヤの粉。 低い空気の層。

張先生は、ゆっくり読んだ。 途中で笑わなかった。 怒りもしなかった。 すぐにほめもしなかった。

それが、海生には少し怖かった。

「先生」

「うん」

「やっぱり、だめですか」

「だめではない」

「でも、すぐに分かるものでもない」

「そうだ」

張先生は、ノートの温度の表を指で押さえた。

「この実験は、おもしろい」

「本当ですか」

「本当だ。ただし、まだ弱い」

「弱い」

「温度計が一本しかない。同時に測れていない。黒い粒と白い粒の量も完全には同じではない。風もある。湿度もある。晴れの日と曇りの日でも変わる」

海生は小さくうなずいた。

「書きました。誤差あり、って」

「それはいい。自分の実験の弱いところを書くのは、とても大事だ」

「弱いところを書くと、負けませんか」

「書かない方が負ける」

海生は顔を上げた。 張先生は、少しだけ笑った。

「本当に調べたいなら、自分に都合の悪いことも書く。そうしないと、相手にすぐ崩される」

「相手」

「役所でも、会社でも、大人でもだ」

海生は黙った。 張先生は、今度は黒い粒を包んだ紙を見た。

「それから、ろ紙のことだ」

「はい」

「水を通して、残ったものを見たんだな」

「はい。でも、ほとんど通ってしまいました」

「それでいい」

「いいんですか」

「分かったことがある。今のろ紙では小さすぎる粒は止められない、ということだ」

「失敗じゃないんですか」

「失敗ではない。使った道具では見えないものがある、と分かった」

海生は、少しだけ息を吸った。

失敗ではない。 見えないものがある、と分かった。 それは、少しだけ前へ進んだ気がした。

「でも、先生」

「うん」

「見えないなら、どうやって役所に言えばいいんですか」

張先生は、すぐには答えなかった。

窓の外では、蝉が鳴いていた。 校庭の白い砂が、夏の光をはね返している。

「海生」

「はい」

「同じ時に起きていることと、それが原因だと決めることは違う」

海生は、少し考えた。

「魚の形がおかしい。黒い粒がある。暑い。においが強い。でも、それだけで、黒い粒が原因だとは言えない」

「そうだ」

「じゃあ、僕は間違っているんですか」

「違う」

張先生は、静かに首を振った。

「原因だと決めつけてはいけない。でも、関係ないと決めつけてもいけない」

「どっちでも決めつけたらだめ」

「そうだ。だから、記録する」

「記録しても、誰も見なかったら」

「それでも、記録する」

張先生はノートを閉じず、手のひらで押さえた。

「役所へ行くなら、私が一枚書く」

「本当ですか」

「紹介状というほど立派なものではない。学校の先生として、生徒の環境観察について相談したい、と書くだけだ」

「ありがとうございます」

「ただし、期待しすぎるな」

「どうしてですか」

「役所は、調べるものが決まっている」

「調べるもの」

「魚なら、細菌、寄生虫、薬の残り、重金属。そういう、すでに決められたものだ」

「ナノプラスチックは」

「普通の検査には、まだ入りにくい」

「どうしてですか」

「小さすぎる。調べ方が難しい。基準も決まっていない」

「基準」

「どこから危ないとするか、どの方法で測るか、どこで採った魚を調べるか。そういう決まりだ」

「決まりがないと、調べられないんですか」

「調べられないのではない。役所が正式に動きにくい」

海生は机の上のノートを見た。

「でも、決まりがないから調べないなら、ずっと決まりはできません」

張先生は、少しだけ目を伏せた。

「その通りだ」

「なら」

「だが、世の中は、その通りには動かない」

理科室が急に静かになった気がした。

張先生は紙を一枚取り出した。 短い文を書いた。

市内中学校生徒による環境観察記録。 魚類の形の異常に関する相談。 食品監督部門での一般的助言を希望。

張先生は署名し、学校の印を押した。

「これを持って行きなさい」

「はい」

「言い方に気をつけること」

「はい」

「町の魚が危ない、と最初から言ってはいけない」

「言いません」

「証明できていないことを、証明したように言わない」

「はい」

「でも、見たものを消さなくていい」

海生は、紙を両手で受け取った。

「それと、向こうは法と基準で話してくる」

「法と基準」

「食品を安全に扱うための決まりだ。HACCPハサップという言葉も出るかもしれない」

「ハサップ?」

「食品を作る時、危ないところを前もって決めて、温度や清掃や記録を管理する仕組みだ」

「ちゃんとやっていれば、安全なんですか」

張先生は、すぐには答えなかった。

「制度の上では、安全な商品として扱われる」

「制度の上では」

「そこが難しい」

海生は、その言葉をノートに書きたいと思った。

制度の上では。

魚としてではなく。 海としてではなく。 人の体としてでもなく。

制度の上では。


放課後、海生は食品監督部門へ向かった。 老白は途中までついてきた。

建物の前で、海生はしゃがんだ。

「ここは入れない」

老白は入口を見た。 ガラスの扉。 中の白い床。 壁に貼られたポスター。

清潔な作業着を着た人の写真。 そこには、笑顔の家族が魚料理を囲んでいた。

『安全で安心な食卓』 大きな字で、そう書かれていた。

「ここで待ってて」

老白は座った。 日陰は狭かった。 それでも、老白はそこを選んだ。

海生が扉を開けると、冷たい空気が流れてきた。 外の熱が、背中から急に引いていく。

中は、海のにおいがしなかった。 魚のにおいもしない。 消毒液のにおいが、少しだけした。

窓口の女の人は、海生を見ると、少し驚いた顔をした。

「相談ですか」

「はい」

海生は張先生の紙を出した。 女の人は読み、奥へ持っていった。

しばらくして、男の職員が出てきた。 眼鏡をかけている。 声はやわらかかった。

けれど、そのやわらかさは、海生を安心させなかった。

「中学生の観察記録だね」

「はい」

「先生からの紙もある。座って」

海生は椅子に座った。 椅子は冷えていた。 冷房が強い。 汗をかいた背中が、急に冷たくなった。

「魚の形がおかしいものが多い気がする。黒い粒や小さなプラスチックが関係しているかもしれない。そういう相談でいいかな」

「はい」

「まず、確認するね。君は正式な検査をしたわけではない」

「正式ではありません。でも、記録はあります」

「うん。記録はある。でも、行政が動くには、正式な検査が必要になる」

「正式な検査って、何が必要ですか」

「どこで採った魚か。いつ採ったか。どう保存したか。どの店や加工場のものか。どのロットか。誰が採ったか。そういう記録が必要だ」

「ロットって何ですか」

「同じ時期に、同じ場所から出た商品のまとまりだ。あとで問題が出た時、どこまで調べるか分かるようにするための番号だ」

番号。

海生は、胸の奥が少し冷えるのを感じた。

番号は、人を探すためにも使う。 人を消すためにも使う。

祖父の言葉が、頭の中で静かに鳴った。

「それから、何を調べるかも必要だ」

「何を」

「細菌、寄生虫、残留薬剤、重金属。そういう検査項目だ」

「ナノプラスチックは」

職員は、少しだけ間を置いた。

「通常の食品検査項目には入っていない」

「でも、あるかもしれません」

「あるかもしれない、だけでは行政は動けない」

「ないとは言えないです」

「そうだね。ないとは言えない。でも、あるとも言えない」

「だから調べてほしいんです」

「調べるには、検査方法と基準が必要だ」

「基準がない……」

「現時点では、通常の食品安全の基準としては扱いにくい」

海生は、膝の上で手を握った。

ないとは言えない。 でも、あるとも言えない。

あるとも言えない。 だから危険とは言えない。

危険とは言えない。 だから対応できない。

それは、丸い輪のようだった。 歩いても歩いても、同じところへ戻ってくる。

「それに」 職員は言った。 「事業者がHACCPに基づいて管理し、国の食品安全基準に合っているなら、行政上は安全な商品として扱われる」

「行政上は」

「そうだ」

「魚の形がおかしくてもですか」

「形が悪いことと、食品として危ないことは同じではない」

「すり身にされて、形が消えても」

「加工食品としての管理基準に合っていれば、商品としては問題ない」

商品としては。

海生は、その言葉を胸の中で繰り返した。

魚としてではない。 海としてではない。 食べる人の体としてでもない。

商品としては、問題ない。

「でも、僕の記録では、養殖場の箱で形のおかしい魚が多いように見えます」

「個人的な観察記録だね」

「はい」

「それを根拠に、特定の事業者や商品の安全性に疑問を広げると、業務妨害になる可能性がある」

業務妨害。

海生の手が止まった。

「僕は、調べてほしいだけです」

「君がそう思っていても、受け取られ方は別だ。安全基準に合っている商品について、根拠が十分でない情報を広げれば、商売に損害が出る」

「根拠を作るために調べたいんです」

「そのためには、正式な検査が必要だ」

「正式な検査には項目が必要」

「そうだ」

「項目がない」

「現時点では、通常検査にはない」

また輪だった。

冷房の空気が、海生の汗を冷やしていく。 外の熱は消えた。 においも消えた。 けれど、海生の胸の中にある重さは、消えなかった。

「では、どうすればいいんですか」

職員は少し考えた。 困っているようにも見えた。 でも、困っていることと、助けてくれることは同じではない。

「学校の研究として、記録を続けるのがいいと思う」

「研究」

「先生と一緒に、観察をまとめる。必要なら、市の環境学習発表会に出すこともできる」

「発表会」

「そうだ。中学生の自由研究としては、良いテーマだと思う」

海生は、職員の顔を見た。 職員は本当に、悪気なく言っているようだった。

だから、よけいに分からなかった。

海生は自由研究をしたいのではない。 魚が変だと思った。 海が変だと思った。

老白が拾ってくるものも、浜に流れ着くものも、加工場で消えていく形も、何かでつながっている気がした。

でも、その「気がする」は窓口で止められる。 「かもしれない」は紙の上で止められる。

検査項目にないものは、まだ危険ではない。 基準がないものは、まだ問題ではない。

「ありがとうございました」

海生は立ち上がった。 職員は少し安心した顔をした。

「記録を続けるのは良いことだよ。ただし、言い方には気をつけて」

「はい」

「町の産業にも関わることだからね」

町の産業。

魚。 箱。 加工場。 すり身。 養殖場。 運送。 店。 買う人。

全部が、ひとつの大きな網のように見えた。 その網の中で、魚の形だけが先に消えていく。


海生が外へ出ると、熱が一気に戻ってきた。

老白が立ち上がった。 日陰で待っていたのに、背中の白い毛は少し湿っていた。

「ごめん」

海生は老白の頭をなでた。 老白は、海生の手のにおいをかいだ。

消毒液。 冷房の空気。 紙。 それから、いつもの魚のにおい。

老白は、鼻先を海生の手に押しつけた。 怒られたのか、と聞いているようだった。

「怒られてはいない」 海生は言った。 「ただ、丸いところを歩かされた」

老白は首をかしげた。

「分からないよね」 海生は少し笑った。 でも、その笑いはすぐ消えた。

そのまま、海生は保健環境の窓口にも向かった。 食品ではなく、海や空気のことなら、そちらかもしれないと言われたからだ。

保健環境の建物は、食品監督部門ほど冷えていなかった。 扇風機が回っている。 壁には、きれいな青い海のポスターが貼られていた。 海生の知っている海とは、別の海だった。

窓口の職員は、海生の話を最後まで聞いた。 そして言った。

「範囲が大きすぎますね」

「範囲」

「海水温、漂着物、魚の形、大気中の粒子、健康への影響。全部を一度に扱うのは難しい」

「でも、つながっているかもしれません」

「かもしれない、では動けません」

「じゃあ、何があれば」

「具体的な汚染源。測定値。基準を超えたという結果。専門機関の分析」

「専門機関」

「大学や研究所などです」

「中学生ではだめですか」

職員は、少し困った顔をした。

「だめとは言いません。ただ、行政判断の根拠にはしにくい」

まただった。

だめではない。 でも、動けない。

ないとは言えない。 正式に、あるとも言えない。

危ないとは言えない。 だから対応できない。

言葉は少しずつ違う。 商売。行政。手続き。 でも、出口は同じだった。

外へ出ると、老白がまた立ち上がった。 さっきより少し疲れているように見えた。

「帰ろう」

海生が言うと、老白はすぐ横についた。


帰り道、海生は市場の前を通った。

魚箱が積まれている。 氷は溶け、水が道路へ流れていた。 銀色の魚が、箱の中で光っている。

その横に、形の少し変な魚が混じっていた。

目の位置がずれている。 背中が曲がっている。 尾びれが短い。

それでも、箱の中では魚だった。 商品だった。

基準に合っていれば、流れていく。 形が悪ければ、すり身になる。 すり身になれば、形は消える。

海生は立ち止まった。

「老白」

老白が見上げる。

「見たものを、消したくない」

老白は答えなかった。 ただ、海生の横にいた。


家に着くころには、空は赤くなっていた。 祖父の李守田リー・ショウティエンは、部屋の前で洗った布を絞っていた。

「遅かったな」

「二か所、行った」

「役所のはしごか。偉くなったな」

「疲れただけ」

「偉い人もだいたい疲れている」

「じゃあ、僕は偉くないままでいい」

祖父は布を干して、海生の顔を見た。

「どうだった」

海生は靴を脱ぎ、老白に水を出してから座った。 老白は水を飲んでいる。 舌の音が、小さく部屋に響いた。

「基準がない」

「うん」

「検査項目にない」

「うん」

「正式な検査には、採った場所とか、保存方法とか、ロットとか、いろいろ必要」

「うん」

HACCPハサップと国の安全基準を守っていたら、商品として安全だって」

「うん」

「商品としては、問題ないって」

祖父は、そこで少しだけ目を細めた。

「商品としては」

「うん」

「魚としては、聞かれなかったか」

「聞かれなかった」

「海としては」

「聞かれなかった」

「食べる人としては」

「聞かれなかった」

祖父は、苦い顔で笑った。

「便利な言葉だな。商品というのは」

「それと、個人的な記録で広げたら、業務妨害かもしれないって」

「業務妨害」

「うん」

「調べてほしいだけなのにか」

「うん」

「なるほど」 祖父は、干した布を見た。 「つまり、見なかったことにする言葉を、きれいに言ったのだな」

「たぶん」

「腹は立ったか」

「少し」

「少しか」

「たくさん立つと、何を書けばいいか分からなくなる」

祖父は、ゆっくりうなずいた。

「それでいい。怒りは、すぐ使うと燃え尽きる。紙に移せ」


夜、海生はノートを開いた。 布の端には、まだ老白のにおいが少し残っていた。

今日の記録。

夏。雨後。腐敗臭強い。

食品監督部門。 冷房強い。外から入ると背中が冷える。 ナノプラスチックは通常検査項目ではない。基準値なし。 正式検査には、検体、採取場所、保存状態、流通経路、対象ロット、検査項目が必要。 HACCP、国の食品安全基準を守っていれば、商品としては安全扱い。 魚の形が悪いことと、食品として危ないことは同じではない、と言われる。 すり身は加工食品として別基準。 個人的な観察記録で安全性に疑問を広げると、業務妨害の可能性。

保健環境窓口。 扇風機。きれいな海のポスター。 海水温、漂着物、魚の奇形、低い空気の層は範囲が大きすぎる。 具体的な汚染源、測定値、基準超過が必要。 「かもしれない」では動けない。

海生は、鉛筆を止めた。 少し考えてから、次の行を書いた。

同じ時に起きていることと、原因だと決めることは違う。 でも、関係ないと決めることも違う。

さらに、一行あけて書いた。

検査項目にないものは、窓口では見えない。

書いてから、海生はしばらくその文字を見ていた。

窓口では見えない。

でも、浜にはある。 加工場にはある。 魚の形にはある。 老白の鼻先にも、魚のにおいとして残っている。

老白は、扉の近くに寝ていた。 寝ているようで、耳だけは動いている。 誰かが階段を通るたび、耳がぴくりと立つ。

海生は老白の背中を見た。

白い犬。 捨てられた犬。 待つ犬。 そばにいる犬。 記録を守る犬。

海生は最後に、もう一行書いた。

役所の窓口は、扉を閉める。 老白は、扉の前で待っている。

その違いだけが、今日の救い。

海生は、鉛筆を止めた。 少し考えてから、次の行を書いた。

同じ時に起きていることと、原因だと決めることは違う。 編、関係ないと決めることも違う。

さらに、一行あけて書いた。

検査項目にないものは、窓口では見えない。

書いてから、海生はしばらくその文字を見ていた。

窓口では見えない。

でも、浜にはある。 加工場にはある。 魚の形にはある。 老白の鼻先にも、魚のにおいとして残っている。

老白は、扉の近くに寝ていた。 寝ているようで、耳だけは動いている。 誰かが階段を通るたび、耳がぴくりと立つ。

海生は老白の背中を見た。

白い犬。 捨てられた犬。 待つ犬。 そばにいる犬。 記録を守る犬。

海生は最後に、もう一行書いた。

役所の窓口は、扉を閉める。 老白は、扉の前で待っている。

その違いだけが、今日の救い。

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