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黒い海の老白(パトラッシュ)  作者: 東四辻 うみネコ


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12/22

第12話 遠くの海と、近くの体

李海生リー・ハイシェンは、難しい本を読む時、最初にあきらめることを覚えた。

 全部を分かろうとすると、何も分からなくなる。

 知らない言葉が、一行に三つも四つも出てくる。 読み返す。

 もう一度読む。

 すると今度は、最初の言葉を忘れてしまう。

 だから海生は、全部を分かろうとしないことにした。

 一つだけ拾う。

 分からない言葉の海から、一つだけ拾う。

 浜のゴミの帯から、空き缶や金属の容器だけを拾うように。

 その日の朝、机の上には図書館で借りた本が二冊あった。 それから、古いプリントの裏を綴じたノート。

 沈景遠シェン・ジンユエンの名刺。

 そして、空き瓶が三つ並んでいた。

 老白ラオバイは机の下にいた。

 前は、部屋の隅で丸くなっていた。

 けれど最近は、海生の足元にいることが増えた。

 海生が机に向かうと、老白も机の下へ来る。 海生が鉛筆を落とすと、顔を上げる。

 海生がため息をつくと、鼻先を膝に押しつける。

 待つ犬から、そばにいる犬へ変わり始めていた。

「老白、今日は実験する」

 海生が言うと、老白は耳を動かした。

「危ない実験じゃない。たぶん」

 老白は、たぶんという言葉が分かるのか、少しだけ目を細めた。

 祖父の李守田リー・ショウティエンは、流し台の前で粥をかき回していた。

「たぶんは危ない」

爺爺イエイエもそう言うと思った」

「わしはだいたい正しい」

「昨日、塩と砂糖を間違えた」

「だいたい、だ」

 祖父は真面目な顔でそう言った。

 海生は笑いながら、空き瓶のふたを並べた。

 一つ目のふたには、浜で拾った黒い粒を入れる。

 二つ目には、白い発泡スチロールの細かい粒を入れる。

 三つ目には、きれいに見える砂を入れる。

 どれも、同じくらいの量にしたつもりだった。

 正確ではない。

 でも、同じくらいにする努力はできる。

 沈景遠は言った。

 すぐに結論を出すな。 見ろ。

 測れ。

 比べろ。

 残せ。

 海生は、まず比べることにした。

 黒い粒。 白い粒。

 砂。

 同じ日に、同じ場所で、同じ時間だけ太陽に当てる。

 温度計は一本しかない。

 だから、順番に測る。

 完璧ではない。

 でも、完璧ではないからといって、何もしないよりはいい。

 朝食のあと、海生は瓶のふたを布袋に入れた。

 ノートと温度計も鞄に入れる。

 老白が立ち上がった。

「今日はついて来てもいい。でも浜のゴミ帯には入らない」

 老白はしっぽを振った。

「本当に分かってる?」

 老白は、海生の鞄に鼻を近づけた。

 中に入っている本の匂いを嗅いでいるようだった。

 祖父が言った。

「老白は、お前の本より賢いかもしれんぞ」

「本は待ってくれないよ」

「老白は待つ」

 海生は老白を見た。

 昨日、図書館の外でずっと待っていた白い背中を思い出した。

「うん」

 海生は小さく言った。

「老白は待つ」

 浜へ出ると、冬の朝はまだ冷たかった。

 だが、空は晴れている。

 雲は薄い。

 昼になれば、また温度が上がるだろう。

 海生は、満潮線から少し離れた場所を選んだ。

 風が当たりにくいところだ。

 背後には低いコンクリートの壁があり、前には海が見える。

 ゴミの帯は少し離れている。

 老白は壁の陰に座った。

 海生は三つのふたを並べた。

 黒い粒。 白い発泡スチロール片。

 砂。

 ふたの下には、同じ厚さの紙を敷く。

 高さができるだけ同じになるように整える。

 それからノートを開いた。

 冬。快晴。 実験一。

 黒い粒、白い粒、砂を同時に日光へ当てる。

 測定、十分ごと。

 測定条件、安定せず。晴れ、薄曇り、風、湿度で数字が動く可能性あり。

温度計一本のため、同時測定ではない。誤差あり。 温度計一本のため順番に測定。誤差あり。

 海生は最初の温度を書いた。

 黒い粒、十六度。 白い粒、十五度。

 砂、十五度。

 日陰気温、十四度。

 老白は退屈そうにあくびをした。

「まだ始まったばかり」

 海生が言うと、老白はしっぽを一度だけ動かした。

 十分ほど太陽の光を浴びると、黒い粒の温度が先に上がった。

 黒い粒、二十二度。 白い粒、十八度。

 砂、十九度。

 さらに十分。

 黒い粒、二十六度。 白い粒、二十度。

 砂、二十二度。

 海生は、数字を見つめた。

 黒いものは熱を持つ。

 それは当たり前かもしれない。

 黒い服は暑い。 黒いタイヤも熱くなる。

 学校でも、黒は光を吸収しやすいと習った。

 でも、当たり前のことを数字にすると、少し違って見える。

 黒い粒は、白い粒より早く熱くなる。

 浜の満潮線には、黒い粒がある。

 タイヤの粉かもしれない。 燃え残りかもしれない。

 塗料片かもしれない。

 何かは分からない。

 だが、黒い粒は熱を持つ。

 海生はノートに書いた。

 黒い粒、上昇早い。 原因不明。

 黒色のためか。

 粒の材質か。

 油分か。

 もっと調べる。

 その時、老白が急に立ち上がった。

 海生は顔を上げた。

 風が来た。

 海からではない。

 横からの風だった。

 ノートの端がめくれた。

 古いプリントを綴じた紙束が、ばらけそうになる。

「あっ」

 海生が手を伸ばすより先に、老白が前足を出した。

 紙の端を踏んだ。

 強くではない。

 破らないように、ただ押さえた。

 海生は息を止めた。

 老白は、海生を見た。

 まるで、これでいいか、と聞いているようだった。

「老白」

 海生は紙を押さえ直した。

「ありがとう」

 老白は前足をどけた。

 しっぽを一度だけ振る。

 海生は、胸の奥が温かくなるのを感じた。

 老白は、ただ待つだけではなくなっていた。

 海生のしていることを、少しずつ覚えている。

 ノートを大事にしていること。

 紙が飛ぶと、海生が困ること。

 だから押さえた。

 偶然かもしれない。

 けれど海生には、偶然とは思えなかった。

 記録を守った。

 老白が、記録を守った。

 海生はノートの端に小さく書いた。

 老白、紙を押さえる。

 風から記録を守る。

 書いてから、少し恥ずかしくなった。

 でも、消さなかった。

 実験は昼まで続けた。

 十三時近くになると、気温は二十二度を超えた。

 満潮線の近くは、さらに高い。

 黒い粒のふたは、手で触ると明らかにぬるかった。

 温度計は三十二度近くを示した。

 白い粒は二十四度。

 砂は二十七度だった。

 正確ではない。

 ふたの材質も、粒の量も、完全に同じではない。

 温度計も一本しかない。

 それでも、差は見えた。

 黒い粒は、熱を持ちやすい。

 海生は、さらに次の実験を思いついた。

 瓶に水を入れる。

 同じ量の水を三つ用意する。

 一つに黒い粒を浮かべる。 一つに白い粒を浮かべる。

 一つは水だけにする。

 同じ日光に当てる。

 水温を比べる。

 だが、そのためには瓶が足りない。 同じ大きさの瓶も足りない。

 温度計も一本しかない。

 海生はノートに書いた。

 次回。 同じ瓶三つを用意。

 水量を同じにする。

 黒い粒、白い粒、水のみ。

 日光下の水温変化を見る。

 老白が鼻先を海生の手に押しつけた。

 海生ははっとした。

 時計を見る。

 昼を過ぎている。

 朝から何も食べていない。

 老白も、家で少し粥を食べただけだ。

「ごめん」

 海生は慌てて片づけた。

 老白は怒らない。

 ただ、海生の手に鼻を押しつける。

 休め。

 帰ろう。

 そう言っているように思えた。

「分かった。帰る」

 海生はふたを片づけ、黒い粒を紙に包み直した。 温度計を鞄へ入れる。

 ノートを閉じる。

 老白は立ち上がり、海生の横についた。

 行きは、海生が老白を連れて来た。

 帰りは、老白が海生を連れて帰るようだった。

 家に戻ると、祖父が戸口で待っていた。

「遅い」

「実験してた」

「老白は?」

「老白が帰ろうって言った」

 祖父は老白を見た。

 老白は疲れたように床に座った。

「いい犬だ」

 祖父は静かに言った。

「お前より生活を分かっている」

「うん」

 海生は素直にうなずいた。

 祖父は少し驚いた顔をして、それから笑った。

「珍しく反論せんな」

「今日は老白の方が正しい」

「いつもかもしれんぞ」

「それは少し嫌だ」

 昼食は、残った粥を温め直したものだった。

 海生は老白にも分けた。

 老白は、いつもより早く食べた。

 遠慮が、少しだけ薄くなっている。

 海生はそれを見て、うれしかった。

 祖父も見ていた。

「濡れた服が、少し乾いたな」

「何の話?」

「遠慮だ」

 海生は老白の背中を見た。

 遠慮は濡れた服みたいなものだと、祖父は前に言った。

 時間をかければ乾く。

 老白の遠慮は、少しずつ乾いているのかもしれない。

 午後、海生は図書館へ行くつもりだった。

 老白が立ち上がった。

 またついて来るつもりだ。

「今日は家にいて」

 老白は海生を見る。

「午前中、疲れたでしょ」

 老白は動かない。

 海生は困った。

 祖父が言った。

「連れて行け」

「でも、また外で待たせる」

「待つ犬は、待てるから待つのだ」

「寒いよ」

「今日は昼のあとだ。寒くなったら帰れ」

「一人で?」

「お前が一緒に帰れ」

 海生は祖父を見た。

 祖父は真面目な顔だった。

「本より犬を先にしろ」

 海生は少し黙った。

 そして、うなずいた。

「分かった」

 図書館では、老白はまた外で待った。

 ただし、今日は海生が長くこもらなかった。

 一時間だけ。

 そう決めた。

 借りる本を探し、必要なところだけ写す。

 ナノプラスチック。 生物の体内への取り込み。

 炎症。

 酸化ストレス。

 成長への影響の可能性。

 魚類の発生異常との関連を調べた研究は少ない。

 条件が難しい。

 原因は一つではない。

 海生は写しながら、何度も自分に言った。

 すぐに結びつけない。

 でも、切り離しもしない。

 分からない。

 だから、並べる。

 図書館を出ると、老白は入口の横にいた。

 昨日より、少しリラックスして座っている。

 海生を見ると立ち上がった。

 しっぽを振る。

 海生は、今度はすぐに駆け寄った。

「今日は早いでしょ」

 老白は鼻先を海生の手に押しつけた。

 海生は笑った。

「分かった。早いだけじゃなくて、ちゃんと帰る」

 帰り道、露店で芋は買わなかった。

 封筒に入れる金が少ないからだ。

 その代わり、家に戻ってから老白に粥を少し多めに分けた。

 老白は食べた。

 食べ終わると、海生の足元に座った。

 夜、海生は机に向かった。

 今日の記録。

 冬。快晴。 黒い粒、白い粒、砂の温度比較。

 黒い粒、日光で温度上昇が早い。

 十三時ごろ、黒い粒三十二度近く。白い粒二十四度。砂二十七度。

 測定誤差あり。条件不十分。

 次回、同じ瓶で水温変化を見る。

 図書館。 ナノプラスチック、生物取り込みの可能性。

 魚の奇形とはまだ結びつけない。

 並べて見る。

 海生は少し考え、最後に書いた。

 老白、風で飛びそうになったノートを押さえた。 老白、手を鼻で押して帰る時間を教えた。

 待つ犬から、そばにいる犬へ。

 書いたあと、海生は老白を見た。

 老白は机の下で眠っている。

 白い背中が、海生の足に触れていた。

 ほんの少しだけ。

 でも、離れていない。

 海生は鉛筆を置いた。

 難しい言葉は、まだ分からない。

 ナノプラスチック。 海面マイクロ層。

 エアロゾル。

 低層百メートル。

 どれも遠い。

 けれど、老白の背中の温かさは近い。

 近いものがあるから、遠いものを調べられる。

 海生は、そう思った。

 外では、冬の海風が路地を通っている。

 海の上の空気には、何が浮いているのか分からない。

 でも、部屋の中には老白の寝息がある。

 その寝息だけは、まだ何にも汚されていないように聞こえた。

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