第11章 囁く影
深夜二時。
施設の廊下は、息を潜めるように静まり返っていた。
蛍光灯の白い光が規則正しく並ぶその下を、看護師・荒川澄江は巡回していた。
ふと、背後から足音が聞こえた。
――カツ、カツ。
振り返ると、誰もいない。足音は止んで、ただ冷たい風だけが残っていた。
「また……」
荒川は小さく息を吐いた。職員たちの間では、この施設には「去った者の声が残る」と囁かれている。彼女自身、すでに何度か説明のつかない現象に遭遇していた。
翌朝、志願者のひとり、翔子もまた奇妙な体験をした。
洗面所で顔を上げると、鏡の奥に「もう大丈夫」という女の人の唇の動きが映った。
驚いて振り返るが、誰もいない。
胸が凍りつき、手の中のタオルが落ちた。
「……私を、呼んだの?」
その声は、自分にしか届かなかった。
一方、商社マンの光輝は夜中に目を覚ました。
ベッドの横に誰かが立っている気配がする。
「……どちらさまですか?」
返事はなかった。ただ、肩に重い手が触れたような感覚が残り、光輝は飛び起きた。
明かりを点けると、そこには誰もいない。机の上のノートだけが開かれ、見覚えのない文字が書き加えられていた。
《あなたもすぐに仲間になる》
震える指でページを閉じた光輝は、しばらくベッドに戻れなかった。
中沢悟もまた、廊下を歩くときに低い囁きを聞いた。
「――逃げても無駄だ」
声の出所を探しても、ただ非常口のランプが光っているだけ。
悟は足を早め、心臓の鼓動が耳に響くのを感じながら部屋へ駆け込んだ。
――ここは死を与えるだけの場所じゃない。何か別のものが潜んでいる。
探偵・宮本誠もまた、こうした現象に気づき始めていた。
ノートに符号を写し取っていた彼は、ふと廊下の先に見覚えのある少女の姿を見た。
依頼人が捜している娘に酷似していた。
「待て!」
声をかけて追いかけるが、曲がり角を抜けた瞬間、その姿は煙のように消えていた。
代わりに壁に貼られた紙切れだけが残っていた。
《ここでは死んだ者が消えない》
怪異は、静かにしかし確実に広がっていた。
志願者も職員も探偵も、皆それぞれの方法で気配を感じている。
それは幻覚なのか、心の闇が見せる影なのか。
あるいは、本当に“この世ならざるもの”が存在しているのか。
いずれにせよ、彼らの心に深く食い込み、逃れられない重石となりつつあった。




