第6章 医療者の葛藤
1. 医師・古平誠司の記録
古平誠司は五十歳を過ぎた内科医だった。
大学病院で長年勤務し、救急や終末期医療にも携わってきた。しかし、命を延ばすことが必ずしも「患者の幸福」に繋がらない現実を、彼は幾度となく目の当たりにしてきた。
人工呼吸器に繋がれ、意識もなく、ただ機械に命を預けるだけの日々。家族は「もう楽にしてあげたい」と涙を流すが、制度や法律がそれを許さない。
――生きることは本当に善なのか。
その問いが心に深く刻まれたまま、彼はこの施設に辿り着いた。
医師としての役割は、志願者の健康状態を見極めること。必要な処方を行い、安楽死に向けた準備を整えること。
「医師が命を奪う」――そう批判されても仕方がない。だが古平は、これは奪う行為ではなく「苦しみを解き放つ行為」だと信じていた。
カルテに志願者の経過を記すとき、彼の手は時折震えた。
「これで本当にいいのか」
自問は尽きない。けれど、その問いを抱き続けなければ、彼は人間であることをやめてしまうだろう。
2. 看護師・荒川澄江の日常
荒川澄江は三十代前半の看護師だった。
小柄で物腰は柔らかいが、眼差しには強い芯が宿っていた。彼女がこの施設に来た理由もまた、前職での経験にあった。
病院で働いていた頃、患者の苦しみを間近で見続けた。延命治療に疲れ果てた人々の呻き、家族の葛藤、医師の板挟み。夜勤のナースステーションで泣き崩れることも少なくなかった。
「本当にこれが患者さんの望むことなの?」
その疑問に答えられないまま、荒川は仕事を続けてきた。
そんな彼女がこの施設で出会ったのは、穏やかな笑顔で眠りにつく志願者たちだった。
「ここを選んでよかった」
そう言い残す人の声が、荒川の心を救った。
けれど、決して慣れることはなかった。
薬を準備する手は、いつも少しだけ震える。志願者の手を握るとき、胸の奥に冷たい痛みが走る。
――私たちは、本当に正しいことをしているの?
その問いは、夜の自室でひとり涙を流すたびに蘇った。
3. 二人の会話
ある夜、当直室で古平と荒川は珍しく腰を落ち着けて話をしていた。
コーヒーの湯気が小さく揺れる中、古平が口を開いた。
「澄江さん、君は……怖くないのか?」
荒川は少し黙り込み、やがて静かに答えた。
「怖いです。毎回。慣れるなんて、きっと一生ないと思います」
古平は苦笑した。
「それでいいのかもしれないな。我々が怖さを失ったとき、この仕事はただの作業になる」
沈黙が落ちた。時計の針の音だけが響く。
やがて荒川が小さく言った。
「でも、私はここに来て……少なくとも“誰かを救えている”って思えるようになったんです。延命の現場では、それを信じられなかった」
古平は頷いた。
「私も同じだ。だが同時に、ここでしか生きられない自分に恐怖を覚えることもある」
二人は目を合わせ、言葉を交わさずに微笑んだ。互いの胸に、同じ重さを抱えていることを知っていたからだ。
4. 揺れる心
その頃、施設では新たな志願者が次々に入居していた。大学生の悟、女子高生の翔子、老夫婦の塩谷夫妻、そして商社マンの杉村光輝。彼らの若さや人生の背景は、古平や荒川に強い衝撃を与えた。
「まだやり直せる年齢じゃないか」
そう思う一方で、「それでもここを選ばざるを得なかった理由」を目の当たりにし、胸が締めつけられる。
荒川は夜勤中、翔子が静かに泣いているのを見かけた。声をかけると、少女は首を振り「大丈夫です」とだけ答えた。
大丈夫なはずがない。だが、それ以上言葉をかけることができなかった。
古平は診察室で悟の健康状態を確認したとき、真っ直ぐな目で「これでいいんです」と告げられた。若者の口から放たれるその言葉に、彼は胸の奥で叫んだ。
――本当は、これでいいはずがない!
それでも、彼はカルテに淡々と記録を残した。
二人は知っていた。
医療者である自分たちが、この施設の存在を正当化していることを。
その重みと矛盾を抱えながらも、彼らは明日もまた志願者たちの最期を支え続けるのだろう。




