大切な人の傍で
パリン……!
ビネイアの細い手首で輝きを放っていたブレスレットに、ひびが入った。
「どうした? ビネイア?」
クラウスの問いに、ビネイアはとっさに腕を隠す。
「なんでもございませんわ。クラウス様」
ビネイアはクラウスに笑顔で答えたが、心の中で一人呟く。
これは、よくない知らせだ……。どうやら、私の魔力を注いだ、あの海の生き物が命を失ったようだ――。
「受け継ぐ者」め……! やはり、一筋縄ではいかないようだな……。
ビネイアは後ろ手に回した手を、ぎりぎりと握りしめた。長い爪が、手のひらに食い込む。
「……明後日には、ノースカンザーランド行きの船に乗れそうだな」
「えっ……?」
クラウスの言葉に、ビネイアは我に返る。
「だいぶ遠回りをした。しかも、最短距離のバルイナ王国からではなく、フィーナ国からの出国。おそらく、『受け継ぐ者』より大幅に遅れをとるだろうな」
「『受け継ぐ者』……」
ビネイアは忌々しそうに呟き、美しい眉間にしわを寄せ、唇を噛みしめた。
「……ビネイア。なにを考えている……?」
「えっ……?」
クラウスは、氷のようなアイスブルーの瞳でビネイアを見つめた。
「……ビネイア。君は、余計なことを考えなくていい。僕の目的は『受け継ぐ者』ではない。やつとはいずれ相まみえるだろう。しかし今は、まだそのときではない。なにも案ずることはない。君は、ただ僕の傍にいてくれればそれでいい――」
「クラウス様――」
クラウスは、ビネイアを抱き寄せた。
「……楽しみだな……! 僕と君が、『光の帝国』を築くのはもうすぐだ……!」
深い闇の中、クラウスは、乾いた笑い声を上げた。
雲一つない青空に、一点の赤。
キースの瞳に映ったのは、赤いドラゴンだった。
「あっ! あれは……! シーグルトっちのドラゴン……!」
赤いドラゴンは空を下降し、海竜のシェルに乗ったキースとカイの傍に近寄って来た。
「ごめんよ……。お前のご主人は、もう――」
キースの青い瞳からは、再び涙がこぼれ落ちていた。
キースを、じっと見つめる赤いドラゴン。
「ごめん……。俺たちを助けるために、シーグルトっちは怪物と戦い、死んでしまったんだ――。助けられなくて……、本当にごめん……」
キースは手を伸ばし、赤いドラゴンの鼻先に触れた。
「……お前のご主人は、最期までお前のことを気に掛けていたよ――。お前は、自然の中で自由に生きていい、そう言ってた――」
赤いドラゴンは、ただキースをまっすぐ見つめ続けていた。
「お前のご主人は、あの島で眠っている――」
赤いドラゴンの瞳は、なにかをキースに伝えようとしているようだった。
頬を撫でる柔らかな潮風。鏡のように穏やかな海面が、日の光を受けきらきらと輝く。
赤いドラゴンは、ゆっくりと長い首を回し、キースの指差す島を見つめた。そして、翼をはばたかせ空高く舞い上がった。
「ごめん……! お前の大切なご主人を……!」
張り裂けそうな、キースの叫び声。
赤いドラゴンは一瞬キースのほうを振り返り、それからまっすぐ飛んで行く。自分の主人の眠る、あの島を目指して――。
キースとカイは、赤いドラゴンの姿を見えなくなるまで見送った。
「……キース」
いつの間にか、サー・ピヨリスク・ピヨノスケもキースのすぐ横にいた。
「あのドラゴン、キースとカイにお礼を言っていたぞ」
「え……?」
「『私のご主人は、お前たちと出会ってから毎日実に楽しそうだった。私は、ずっとご主人に付き従っていたが、あんなに生き生きとしたご主人の姿を、喜びに満ちた笑顔を見るのは初めてだった。ご主人は、お前たちと別れたあとも、お前たちのことをよく私に話してくれていたよ。本当にありがとう。私は、これからもご主人の傍で生きる。いつか、ご主人と私のもとへ顔を見せに来てくれ。ご主人と私に、お前たちのみやげ話をたくさん聞かせてくれ。ご主人も、きっと楽しみにしているはずだ。どうか、元気で……』」
「……! そんなこと、言ってくれてたのか……!」
「うん。ドラゴン語も勉強しておいてよかったよ」
サー・ピヨリスク・ピヨノスケは、つぶらな黒い瞳を涙で潤ませながら、ウインクした。
「ありがとう……! ピヨ! 君は本当に優秀なメッセンジャーだよ……!」
空に立ち上る煙が見えてきた。
蒸気の煙。皆が乗っている、大型船だった。
「あっ……! 船だ……!」
海を割るようにして進む大型船。力強く前進するごとに、いくつもの波を創り上げる。
――アーデルハイト! ミハイル! 宗徳! ユリエ……!
海竜のシェルは長い体をくねらせてスピードを上げ、船に近づく。
「本当にありがとう! シェル、ピヨ!」
キースは声を張り上げた。嬉しさで、白い歯がこぼれる。
「よかったな! キース、カイ! 見てみろよ! 皆、手を振ってるぞ!」
船の甲板に、皆の笑顔があった。
「みんな……! ごめん……! ありがとう……!」
輝く笑顔。皆の笑顔には涙も光っていた。喜びの涙。
シェルは、船の甲板まで長い首を伸ばし、キースとカイを無事送り届けた。
「キース……!」
アーデルハイトが、キースに抱きついた。
「カイさんも……! ご無事で本当によかった……!」
ミハイル、宗徳、ユリエもキースとカイのもとへ駆け寄る。
サー・ピヨリスク・ピヨノスケと海竜のシェルは、皆の笑顔を眺めて満足そうにうなずき合った。
「キース! カイ! それじゃあ、またな……! いつでも島へ案内するからな……!」
「ありがとう! ピヨ! シェル! 君たちも、どうかお元気で……!」
サー・ピヨリスク・ピヨノスケは翼を振って挨拶をしてから青空を勢いよく飛び、海竜のシェルは巨大な体を海に潜らせ、それぞれ島の方向へ帰っていく。
「キース……。その細身の剣……。もしかして……」
アーデルハイトは、キースの腰に下げられた剣、シーグルトの剣を見つめた。
「ああ……。これは、シーグルトっちの剣なんだ……」
キースは、震える指先で細身の剣をそっと撫でた。
「……昨日の夜、ピヨに聞いたわ……。シーグルトさんが、亡くなったって――。でも、シーグルトさんって……、どうして……」
「シーグルトっちは、俺の師匠なんだ――」
「師匠……!?」
「うん……。俺が、依頼した。シーグルトっちは、ずっと俺の鍛錬に付き合ってくれてたんだ……」
「シーグルトさんは、本当に素晴らしい師匠でした――」
キースとカイの瞳には、涙がたたえられていた。
ミハイルと宗徳は顔を見合わせた。
「そうか……! キースとカイ殿が毎朝出掛けていたのは……!」
宗徳の言葉に、キースとカイは静かにうなずいた。
「黙ってて、ごめん……。心配かけたくなくて……」
「キース――」
アーデルハイトは、それ以上なにも訊かなかった。ただ、黙ってキースを抱きしめた。ただ、強く、強く抱きしめた。
「カイ……。大丈夫……?」
妖精のユリエがカイの肩に止まり、カイの黒髪を優しく撫で、首元に寄り添った。
多くを語らなくても、皆には伝わっていた。
キースとカイにとって、シーグルトがとても大きな存在であったことを。
そして、皆はわかっていた。シーグルトが死を覚悟の上、皆を守ってくれたのだということを。
「……シーグルトさんのドラゴンが、船から逃げ出してしまったって、さっき船員さんたちが騒いでいました……。もしかして、彼は自分の主人が亡くなってしまったことを感じていたのでしょうか――」
遠くの空を見つめながら、ミハイルが呟いた。
「さっき、会ったよ……」
「え……」
「シーグルトっちのドラゴンは、シーグルトっちの眠る島に行ったよ――」
「そうでしたか……」
皆、黙とうを捧げた。キースたちをはじめ、船長も、海の民の末裔たちも、船員たちも、乗客も、はるか遠くの島へ向かって。
「……きっと、ピヨやシェルや、オルダさん、それから人魚のヤーナとロッタもいるから、シーグルトっちもシーグルトっちのドラゴンも、寂しくないかな――」
「ええ……。あたたかな皆の傍で、安らかに過ごせると思いますよ――」
キースとカイの心には、赤いドラゴンに乗り、片手を上げて挨拶するシーグルトの笑顔が浮かんでいた。
船は進む。目的地、ノースカンザーランドへ。
深い悲しみと再会の喜びを乗せて。
いくつもの波を生み出しながら進む。




