第一話 起動
人間という体は不便だと思いませんか?
外面と内面という二つの仮面を使い分け、社会という大きな海の中で泳いでいる。飾り付けたうわべ、その中身が真っ黒なんて話はざらだ。この人間社会は本当のことなどちっとも見えない幻想で出来ていて、ただ海という器を作っていれば良かった。
その中で感情なんて重たいものを抱えて水中に漂うから、上手く泳げないあぶれ者が溺れる。それでも人間の体は呼吸出来なければ生きてはいけない。酸素が必要だ。
そんな不便な体なら捨ててしまえば良い。そう、神様が私に言ったような気がしたの。
「この僕が、カミサマなのさ」
「……はい?」
だから私は、今日人間の体を捨てることを決意したのです。
***
私は今、パソコンの前に座っている。起動動作はボタン一つ。古いモデルの為、大きめな振動とモーターの煩い音の後、パソコンはうんともすんとも言わなくなる。
春のふんわりと甘い風が、新築で木の匂いがする家に吹き込む。
やっぱりダメね、と一人呟いて、机の上に置いていた小さなダンボールに目をやった。箱の側面にはイルカの可愛いキャラクターがロゴとして描かれている。
インターネットサービス『ドルフィン』。今やそのツールの名前を知らない日本人はいないだろう。ウィザード社が提供している、日本最大のインターネット検索ツール、それが『ドルフィン』だ。
私は箱を開け、中身を取り出した。なんの変哲もない眼鏡がたいそうな形で梱包されていた。自分で買った訳ではないけれど、テレビCMもよく見るし、高価なものだとは知っていたので、そっと梱包資材を取り外し、露になったメガネをまじまじと見つめた。
これで、ドルフィンへ行ける。
そう考えると、表現しようのない不安と、少しの高揚感が私を包み込んだ。
私は今日、はじめてのネットダイブに挑むのだ。
インターネットを介した情報化社会は発展を遂げ、箱型のパーソナルコンピュータは一昔前の遺物になりかけている。代わって台頭し始めたのが、『ディスプレイグラス』、通称ネットメガネだ。
形状が眼鏡によく似ているこれは、ウィザード社がドルフィンの提供を開始し軌道に乗り始めた頃に発表された、次世代のコンピュータである。
メガネをかけるだけでドルフィンにアクセスすることが出来、獲得した情報はメガネに全て保存することが出来る。普段は通常の眼鏡として使用することも出来ることから、オンラインからオフラインへの移行が簡単に可能となり、情報を引き出すこともメガネのボタン一つですぐに出来るようになったというわけ。何より凄いところは、このメガネで動画などを見ると、その動画を本当に体感しているかのような経験が出来るというところだ。どうやら人間の脳に干渉が出来る特殊な電気信号をメガネから発することで、それを可能としているらしい。ちなみにこの説明は全部教科書に書いてあった。教科書様様だ。
私みたいな機械オンチでは仕組みについてちゃんと理解することなんて難しいけれど、とにかく、このメガネはそういった機能から社会人の仕事用ツールであると共に、若い層には格好の〝お遊びツール〟となっている。
トモダチはみんなこのメガネを使って、ドルフィン内のコミュニティで遊んでいる。私だけ古いパソコンのせいでその仲間に入れないでいるけれど、別段不便と思ったことはなかった。私は別に、まだ働いてもないし、パソコンなんて無くても生活出来るもの。
ただ、授業で来年からメガネの使用が始まるから、その為に買っただけ。
「お姉ちゃーん、箱の方、使えそうー?」
ドアの向こうから弟がそう言って急かした。古いパソコンが壊れていなければ、弟に譲る約束をしていたのだった。
そもそも小学生に上がったばかりの子が、旧型とはいえパソコンだなんて早いと思うのだけど、そんな風な意見は古い考えだとよく言われる。古い考えなのはパソコンがまともに使いこなせない証だっていう男子のからかいに、私はうまく言い返せなかった。
どうせパソコンの授業では万年ビリよ。それは認めるけれど、パソコンなんて無くたって人間は生きていけるわ。
私は箱型パソコンを一瞥し、アレはもう使えないなと答えると、弟の不満そうな声が聞こえた。
まったく、とんだマセガキだわ。あんたにパソコンなんて十年早い!
……さて。私は机の上のメガネをかける。普通の眼鏡より幾分重たく感じるそれのつるの部分を指で触れる。起動スイッチを押すと、目の前の景色が暗くなり、ひとつの光も見えなくなった。
暫くして、女性のような柔らかい声が、頭上から降ってきた。
「この度はディスプレイグラスのご購入、誠にありがとうございます。これより、インターネット〝ドルフィン〟のセットアップを開始致します」
自動でセットアップしてくれるのね。付属の説明書には、ドルフィンのセットアップは音声に従って質問に答えていけばいいだけって書いてあるから、その通りにしてみよう。
「ウィザード社提供のドルフィンでは、インターネットをより快適にご利用頂けるよう独自のサービスにて情報を検索、保存出来るようなシステムになっております。まずは、ドルフィン内を自由に行き来するための貴方の分身、アバターを作りましょう」
アナウンスはそう告げると、画面上に二つの文字を浮かべた。左が青い四角の中に『♂』のマークが浮かんでいて、もう一方は『♀』のマークがぷかりとしていた。
「貴方は男性ですか? 女性ですか?」
迷うことなく女性のマークを選ぶ。すると今度は、
「貴方の年齢はいくつですか」
年齢の設定も必要なのか! 嫌だなあと思いながら自分の年齢を口頭で伝えると、アナウンスがかしこまりましたと応答する。
「なお、この質問は本ツールのご本人登録として記録するものであり、これから行うアバター作成の外見には一切反映されません。アバターはお客様自身でご自由に作成可能です」
ほう、使用者登録だったのね。納得するのも束の間、真っ暗だった画面がゆっくりと明るくなり、シーリングライトに照らされた丸い台と、人間が目の前に現れた。
アバター作成か。聞いてはいたけれど、この自分の分身を使ってドルフィン内を歩くらしい。これは真剣に作らなきゃ、だよね。何百種と選べる部位パーツから、二時間くらいかけて自分のアバターを作り上げていく。
アバター作成完了へと進むと、二時間ぶりのアナウンスが流れた。
「ステキなアバターですね! それでは、これよりインターネットドルフィンへアクセス、ネットダイブの準備を致します。暫くお待ち下さいませ」
ステキなアバター、ね。
目の前に広がる画面には、ライトに照らされた台と、その上に完成した自分の分身が立っている。薄茶色の髪をした、地味な女性型アバター。結局真剣に作ったところで、センスのかけらもない私には髪の毛を少し明るい色に設定することが精一杯で、残りは殆ど初期状態と代わり映えしなかった。
まあ、派手なキャラクターを作っちゃうと、クラスメイトに会った時にからかわれちゃうし。これでいいかな。
そう納得した直後、アナウンスが明るい声で案内を再開した。
「お待たせしました。それでは、これよりドルフィン内へ電脳接続致します」
おお、いよいよなのね。緊張するわ。
「ネットダイブはお客様の脳とインターネットドルフィンを直接交感させる為、ネットダイブ完了までは絶対にディスプレイグラスを外さないで下さい」
注意事項を聞き、思わず背筋を伸ばす。使い古した木の椅子がギシリと音を上げた。部屋の外で弟が叫んでいる声がするけれど、今はそれにかまっていられない。
画面の中では、先程作った自分の分身が、ぼうっと一点を見つめている。口は棒のように閉じて、息をしていない。デジタルデータなのだから当たり前のこと。それでも、息をしていない人形の姿を見ると、自分も同じように口をつぐんで息を止めてしまう。
ドルフィン。一体どんな世界なのだろう。
「……!」
見間違いかもしれない。一瞬だけ、アバターがこちらを見て笑ったような気がした。
「おねーちゃん! パソコンー!」
うわ、と声を上げる暇もなく、メガネが吹っ飛んだ。弟の思い切りの良い背中叩きが炸裂。机の上にメガネがガシャンと落ちる。自分でも驚くくらいの叫び声を上げながらメガネを取ろうとすると、先回りした弟がメガネを取り上げた。
「お姉ちゃん。パソコン! ちょうだい!」
だから、使えないんだって!
「直して!」
お父さんに頼んでよ。お姉は機械が苦手なの!
叩かれた背中も痛いし、半泣きになりながら訴えると、ふんと鼻を鳴らしてこちらを蔑みながら、「ジョーホーギジュツカの生徒なの、それで?」と言って頬を膨らませる。どうせ機械オンチよ、ええ。というか、少し毒舌すぎじゃないかしら、我が弟よ。
弟からメガネを取り返し、強制的に部屋から追い出すと、改めて椅子に座ってメガネをかけ直す。画面上には、ネットダイブエラーという文字が浮かんでいた。
まずい。絶対にメガネを外すなって言われていたのに。
電源をオフにする? でも、強制ログオフは良くないよね。
「――アアア」
「え?」
アナウンスの声? それにしては声がガビガビでおかしい。
「――アアアアナタのお名前をごトウロクします」
名前? アバター名のことかな。
メガネに内蔵されているマイクボタンをオンにする。暗い画面の中、エラーメッセージが表示されている下に相変わらず呆然とつっ立っている私のアバターが、ゆっくりとこちらに視線を合わせた。そうして、赤い唇を私の声に合わせて開いてゆく。
(私の名前は、)
「ああああー! もうっ!」
大きな声で再び邪魔が入る。振り返ると半泣きの弟がドアを開けて立っている。
「お姉ちゃん、ぼくをムシするなー!」
ああもう! めんどうだなあ! お姉ばっかに話しかけないでよ。今忙しいのに!
弟をなだめて、箱型をお父さんに預け直すよう伝えると足早に自室に戻る。急いでメガネをかけると、画面には『あなたの名前はaaaaです』という意味不明な名前表示がされていた。全身の血の気が引いていくのが分かる。
何。なんなの、aaaaって、冗談でしょう!
「それでは、インターネットドルフィンの世界へ!」
いやいやちょっと待って下さい。明らかにおかしいネーミングになっているでしょう。もしかして、機械の故障? さっきアナウンスの音声もおかしかったし、そのせいなの?
「また会いましょう。aaaa!」
アナウンスが爽やかに私を送り出す。目の前のアバターは小さく頷くと、画面場がブラックアウトしていった。瞬間、足場が無くなってしまったかのように、自分が落下していく感覚に陥った。
意識が遠のいていく。実際の私の頭は正常に動いているはずで、画面を見ているはずなのに。強く頭をぶつけたような眩みがする。暫く、私はその場から動けなかった。
頬に冷たい感触がしてようやく、呻き声を上げながら私は体を起こした。
「いたた……。どうなってるの? ちゃんとネットダイブ出来たのかしら」
自分の体を改めて眺めてみると、先程自分でデザインしたアバターの姿になっているようだ。茶色の髪に、小柄な女性の体。
手をグーパーと動かしてみる。頭で意識すればその動作がアバターに反映されるということは本当のようだ。
ふと頭上を見ると、ぽっかりと穴が空いている。あそこから落下してきたのか。
「それにしても、ネットダイブって落ちるものなのかな。体中が痛い」
「お嬢さん」
くん、と服の裾を掴まれた。何だと足元に視線を向けると、そこに小柄な少年……風のアバターが立っていて、こちらを見上げていた。
少年の風貌は恐らくリアルで言うところの美少年に分類されるものだった。透明かと思うくらい薄い肌に、さらさらで真っ黒な髪。小さな体に似合わない大きくて分厚い本を腰に下げている。くりくりとした大きな眼に捉えられて、私は思わず息を呑んだ。
「お嬢さん、どこから来たのかね」
少年がもう一度言う。外見の割に年季を感じさせるような物言い。はっとして、あたふたしながらも答えた。
「わ、私はあそこから来たんです」
頭上の穴を指差す。少年は、ふむと考え込むように唇に人差し指を当てた。
「はじめてのネットダイブなんです。まだドルフィンの使い方分からなくて」
「……そう。ところでお嬢さん、特に体の異常とかはないかね?」
「異常?」
「アバターのどこかに破損がないかとか、アバターに違和感があったりとか」
「目に見えるところの損傷はないみたいですけど。一体どういうことですか」
「周りを見てごらん」
「え……」
促されて、はじめて辺りをぐるりと見回した。その異様な光景に、ゾワリと背筋が凍る。
辺り一帯のネット空間はところどころ破損と再生を繰り返している。破損したままの部分は謎の文字化けアバターが腕からビームを発射して修復しているが、破損したデータの破片が宙に浮くと、素手で掴んでパクリとそれを食べてしまい、何をしたいのかさっぱり分からない。そんな意味不明なアバターがそこかしこにウロウロしており、ごくたまにノイズに似た言語を発していた。
リアルで言うところのスラム街の風景に近いこの場所に、私はここが通常の『ドルフィン』ではないと直感的に理解した。
「ここはどこなんです?」
私の質問に、少年は近くにあった浮遊石に座って答える。
「ここは仮想空間だよ。ただし、君の世界で言うところの『インターネットドルフィン』ではないけれどね」
「ドルフィンなのにドルフィンではないって? ちっとも分からないわ」
「君はここへ接続する時、何かアクシデントがあっただろう。そうだな、例えば……メガネを外してしまった、とか」
浮遊石を見上げながら、うっと言葉に詰まってしまった。
「その顔は図星、ということだね」
「……弟にメガネを盗られて。でも、少しメガネを外しただけなのに。これって、もしかしてネットダイブ失敗ってこと?」
顔面蒼白にしながら言うと、少年は否定することなく縦に首を振る。
「君らの世界ではそう言うだろうね。ここへ来たことが何よりの証拠さ」
ここは通常のドルフィンユーザーは来れない場所だから、と少年はさらりと言った。
ちょっと待って、普通じゃ来れない場所ってことは、本当にここはどこなの!
「慌てなくていい。少し変わったところだけれど、ネットの中ということには変わりない。僕が統治する庭だからそうそう危険でもないしね。あ、その辺のゴミデータには関わらないことだ」
「ゴミデータ? もしかしてこの子達?」
側にいたウサギの形のアバターを指差す。ウサギは破損した床データの欠片を集めては口いっぱいに頬張っている。少年はこくりと頷いた。
「ドルフィン内のNPCデータが破損したり、廃棄されたデータが集まって出来たのが彼らさ。破損しているから、少し刺激を与えると暴走するものもあるのが難点だが、関わらなければ害はない」
「ひっ」
思わず飛び退く。ウサギは自分より遥か上に浮く少年を見上げると、ぴょんぴょんと跳ねながらどこかへ去っていった。
あのウサギだけじゃない。この辺りには変なデータ、ゴミデータ、というのだろうか。それが多い気がする。それに、この少年と自分以外、まともなアバターがいないような気がするのは気のせい……?
「ここは一体……?」
「ドルフィンであってドルフィンでない場所。ここはカミサマの世界なのさ」
「カミサマの世界?」
「そうさ」
すっくと少年は浮石の上で立ち上がると、腰に手を当て胸を張る。神様なんてインターネットはおろかリアルにもありはしない存在を堂々と言ってのけた彼は、ふふんと笑って自分を指差す。
「そして、この僕がカミサマなのさ」
「はい?」
「む……それは信じていない顔だね」
私は苦笑いした。だって、知り合ったばかりのネットユーザーに自分が神様だなんて言われても、信じられる訳がない。そもそも神様って何よ。何をしてくれるって訳? ネットの神様なら、ドルフィンを使ってるみんなのお願いでも聞いてくれるのかしら。
自称カミサマは髪の毛を掻きあげ、若干ナルシストっぽく溜息を吐いた。
「ま、僕のことを信じようが信じまいがどちらでもかまわない。下手に信じて、やっかいなことをされるのも困るしね」
「だったら言わなければ良いのに」
「コホン! さて、本題だけれど、ネットダイブに失敗してここへ来たと仮定しよう。ここはネットのゴミデータが集まるゴミ捨て場。あまりここへ迷い込むユーザーはいないのだが、ネットダイブに失敗したなら事故でここへ落ちてしまったことは十分に考えられる」
そこでだ、とカミサマは私を指差した。
「僕が君をちゃんとした〝ドルフィン〟へ帰してあげよう」
「ここから?」
「そうさ。僕はカミサマだからね、任せておきたまえ」
いちいち偉そうだな、パッと見は子どもなのに。それとも、そういうアバターを使った大人が優越感に浸りたいだけに神様ごっこでも繰り広げてるのかしらね。
「それじゃあ、一歩半、そこから下がってくれるかな」
「下がるの? いいけど」
データ破損で床が抜けているところを避けながら一歩半下がる。カミサマさんはよろしいと満足げに頷くと、ベルトに引っ掛けていた大きな本を片手に持って広げた。
本は古めかしい雰囲気で、表紙は糸で文字が縫われていたところを見ると、高価なアバターオプションか何かと見受けられる。縫われた文字は一本の木を模して縫われていた。
分厚いページの中を慣れた手つきでパラパラ捲り、これだ、と一人声を上げて少年は本から顔を上げる。黒髪がさらりと揺れて、長い前髪の奥の瞳がキラリと輝いているのがはっきりと見えた。
カミサマさんは私を見下げると、次第に吹き始めた風でページが飛ばされないようにもう片方の手で本を抑えながら言う。
「これから君に見せるものは、君がドルフィンで生きていく時には秘密にしていてほしい」
そう前置きして、カミサマは小さく何かを呟く。風の音で何を言ったのか聞こえなかったけれど、その言葉をきっかけに本が光を放ちはじめた。本の上で何か円のようなものが浮かんでいる。ファンタジーの本で見たことがある――――魔法陣というものだ。
(なに、あれ。ドルフィン特有の特殊なエフェクト?)
本の上に浮かぶ魔法陣は青く光る。多分、私が見たことのある中で一番綺麗な青は沖縄で見た海の青だけれど、その青よりも澄んだ色をして美しかった。
「それっ」
カミサマは浮かんでいる魔法陣を掴むと、フリスビーのようにこちらへ投げる。ふわりと飛んだ円盤は、地面へ下降していき、あたしの目の前に落ちた。するとたちまち魔法陣が天に向かって一本の光の柱を形成する。光の柱は小さな光の粒子が集まって、上から下へ流れているようだった。
「魔法みたいだわ」
「魔法なんてこの世には存在しないさ。ここはネットの世界、プログラムを知れば誰だって、何だって出来る。所謂ハッカーなんて言われている奴らの魔法のようなプログラム破壊や侵入も、知識と技術があれば君だって出来るのさ。モラルの点を除けばね」
「あなたはハッカーなの?」
「いいや。僕はカミサマさ」
再び自信を持って少年は答える。その目はきりりと真っ直ぐなものだった。
「さあて、お喋りが過ぎたようだね。君、この魔法陣の上に乗りたまえ。なあに、心配することはないさ。一瞬で終わるからね」
私はそう促されても、その場に立ち尽くしてしまった。色々な事柄が頭を駆け巡る。
この魔法陣は実は罠で、アカウントを奪われてしまったりだとか、個人情報を抜き取られてしまうんじゃないかとか、自分の身を心配した。旧型検索エンジンであれば使った経験があるから、何がダメで何が良い、という判断は機械音痴の私でも出来る。でも最新型のドルフィン内(ここはドルフィンのゴミ捨て場らしいけれど)では私の知識は微塵も役に立たないだろう。魔法陣のエフェクトなんて見たことないし。
「どうした。早くしたまえ。君だってこんな奇妙な場所に長居したくはないだろう」
「で、でも。この上に乗って本当に大丈夫か分からないし。大体あなた何者なんですか。こんな不思議なエフェクト出して、自分のことカミサマだなんて言って!」
「それが真実だからさ。嘘はついていないつもりだ」
だんまりとしていると、カミサマはくくっと喉を鳴らして笑い、信じられないかと半分諦めたように呟いた。そうして立っている浮石から飛び降りて、周囲を飛び跳ねている文字化けしたウサギを避けながらこちらへ歩み寄ると、カミサマは片手に抱いた本を私に持たせた。
「一体なんです?」
「これはね、全ての情報が詰まった『真実の本』なのさ。実際に持ってみて、〝重い〟と思うだろう」
確かに重たい。重たいと脳が感じているだけでリアルの私は何も持ってはいないけれど。
「カミサマとなった者は、この本と共にこの世界で生きるのさ。世界全ての情報を持ってね。だから君がこのドルフィンで何を検索、情報を取捨選択しても僕には分かる。君が得た情報もまた、僕には管理すべき情報だから」
「……言いたいことが理解出来ないわ」
「ふふ、こういうことさ」
カミサマは私に本を持たせたまま、適当なページを開いて勢いよくビリッと破いた。まさかの出来事に叫び声を上げてしまう。カミサマはそんなことおかまいなしに、私から本を取り上げると、代わりに破いたページを私に握らせた。
「僕はカミサマだから、君の居場所なんてすぐに特定できるだろう。その証明としてそれを持っていたまえ。君が僕を必要とした時、僕は必ず君の前に現れる」
カミサマの手が私のアバターに触れる。仮想空間にある体だというのに、触れた指先が暖かく感じた。これもメガネが脳に干渉しているからなのだろう。
カミサマは私の両手を包むと、きゅっとそこに力を入れ、祈るように囁く。
「神に誓って、そうしよう」
神様なのに神に誓うなんておかしいわ。……まあ、困った時に来てくれるのは頼りになるから嬉しいけれど。
そう伝えようとした矢先、目の前の少年が両腕をこちらに向かって伸ばすのが分かった。分かった時にはもう遅く、そのまま突き飛ばされていた。あっと声を上げる暇もなく、後方の魔法陣へ尻餅をつく。視界が澄んだ青色で染まっていき、聞こえていた辺りの変な生き物たちのノイズも消えていく中、目の前で小さく手を振る少年が私に向かって口を開く。
『ありがとう』と。




