第4章:偉大なる詐術者(27)
後日――――深夜。
【ウェンブリー魔術学院大学】二階、ライコネン教授室には二人の人間がいた。
本来は、客人を招く時間でもないし、そもそも人気がある時間帯でもない。
そして、当然の事ながら、それには理由があった。
「実に遺憾ですね」
月明かりだけが照らすその部屋で、訪問者のミストは淡々とそう呟く。
目の前の男――――部屋の主に対し、何処か蔑むように。
「まさか、ライコネン教授ともあろう御人がこのような規律違反を率先して行っているとは。由々しき事態と言わざるを得ない。残念です」
ライコネン教授の机には、既に何枚もの書類が置かれてある。
いずれも、ミストが教会側から得た『蜜月の記録』だった。
「……」
その書類に視線を合わせる事なく、ライコネンは虚空を眺めている。
その顔に聖地屈指の大学の教授と言う肩書きは、もう似合わない。
「加えて。先日降って湧いた盗作騒動の件も、形式的には無罪放免と言う事で話が付いたようですが……あれだけ私に執拗な攻撃をして来た割に、少々譲渡が過ぎる。何があったのでしょうね?」
大学内における『談合』は許される行為ではない。
発覚すれば、それも大学教授と言う肩書きにおいて多大なダメージとなる。
ミストはそれを示唆していた。
「ま、貴方の口から出されなくても、私の部下を尋問すればそれで済む話ですが」
そしてそれは同時に、身を切る事をも意味する。
尤も、部下が自らの一部だと言う認識があれば、の話だが。
「自分の部下を切り捨てると言うのか?」
「仮に違反があるのなら、然るべき制裁を加えますよ。当然の事です」
「お前がやらせたのだろう! そうに決まっている!」
感情の爆発――――仮面を一枚めくれば、そこにはガルシド=ヒーピャの父親がいた。
彼も本質的には極めて短気。
それを抑える術を身につける事でここまで登りつめたのだが、もう抑える意味はない。
しかし、その効果は全くなかった。
「私は何も知りませんよ。直前にキャンセルした事は謝りますけどね」
「おのれ……」
激昂を見せ付けられても、まるで動じず。
そんな眼前の男を、ライコネンは常に敵視して来た。
危険な人物である事は初対面で直ぐに感じ取った。
いずれ、自分の椅子を奪う為に牙を剥く――――だからこそ、常に彼を警戒し、隙あらば陥れようと目論んでいた。
だが、結果的にはそれを利用される事になった。
全てが計算づく。
ライコネンはそう理解していた。
「では、こちらの意思を率直に述べましょう」
そんなやつれ切った部屋の主を淡々と一瞥しつつ、ミストは告げる。
「私はこの二件に関し、査問委員会に付託する所存です」
「……」
それは――――死刑宣告だった。
立場が下の者から受ける死の宣告は、教授と言う地位にいる人間にとって、これ以上ない屈辱だ。
「教会との件は、既に明確な証拠がここにあります。逃れる術はないでしょう。これが明るみに出れば、貴方の研究者としての人生は終わります」
魔術大学と教会の癒着は、魔術士界の均衡を著しく脅かす。
よって、その抑止力となる罰は極めて重い。
幾ら実績豊かな教授であっても、再起不能となる事は回避しようがないだろう。
「お前とて……」
ライコネンは何かを言いかけた。
しかし、その指摘が全く意味を成さない事を自覚し、口を閉じる。
無念さが唇の震えとして現れたが――――この自制にはそれなりに意味があった。
「そして、盗作の件に関しても、旗色は悪くなるでしょうね。犯罪者には疑いの目こそ向けられても、その言い分に耳を貸す者などいませんからね」
「……私は、敗れたのか」
明確な敗北宣言。
ミストが助教授に就任して以降、両者の間では幾度となく水面下での情報戦が繰り広げられていた。
時に牽制し、時に持ち上げ、駆け引きし合う。
そんな対立構図が今、ライコネンの敗北と言う形で静かに幕を閉じた。
観客はいない。
しかし、その敗北を認める言葉もまた、意味を持った。
「素直に罪を認め、息子さん共々更生の道を歩む事をお勧めします」
勝者の言葉は常に輝いている。
正論であれ皮肉であれ、敗者はそれを嫌でも聞かざるを得ない。
「この年齢で犯罪者となれば、更生の道など残されてはいない。それがわからないお前ではあるまい」
一方、敗者の言葉は常に錆付いている。
何を言った所で響きはしない。
「……息子だけは、どうにかならんか」
だが、それでもライコネンはそう言わざるを得なかった。
それが彼の敗北の原因であったとしても。
「正直、あれに研究者の才はない。私が失脚し、盗作の件が本格的に表に出れば、再起の可能性も露と消えるだろう。それは……忍びない」
自分を貶めた人間に温情を受ける事がどれだけ矜持を傷付けるか――――
ライコネンの悲鳴にも似た表情が、ミストの目には唯々滑稽に映った。
だが、滑稽である事と、無様である事は違う。
それを確認した後、ミストは重々しく口を開いた。
「厳しい言い方をします。貴方が失脚した時点で、彼にこの大学での居場所はなくなる。それは貴方もわかってるでしょう」
そして、予め用意していた言葉を、項垂れたままの『元』教授に送る。
「私の息が掛かっている研究所を紹介しましょう。ここと比べたら条件面では大きく劣りますが、少なくとも研究者としての道は閉ざされずに済む」
「そ、そうか! 息子を見逃してくれるのか!」
無論、それは同情や温情ではない。
決して表には出さない、侮蔑と優越感によるもの――――でもない。
「ただし、貴方が教授の座を早急に退いてくれる事が条件となります」
ミストの提案は唯一つ。
合理性を追究したものだった。
教授と言う地位にいる魔術士が最後まで戦う意思を見せれば、査問委員会が決定を下すまでに相当な時間が掛かってしまう。
ミストにはそれを封じる必要があった。
「全て、お前の思惑通りになったか」
当然、ライコネンもそれはわかっている。
しかし、わかっていても止められない。
それが力だ。
ミストの力は齢50を越える教授を既に圧倒していたと言う事だ。
「……息子はお前の部下を、そして私はお前を、余りにも意識し過ぎた。そう仕向けたのもお前の策か」
それを認めるかのように、力のない言葉が闇を舞う。
思わず苦笑を覚えたミストは、小さい仕草で首肯した。
「貴方は少々他人を気にし過ぎる所がありましたからね。花を持たせれば、その花に棘がないか探す。そして疑心暗鬼に陥る。息子さんにもその血が色濃く流れているようだ」
「ああ。あれは私の若い頃に似ている。似なくて良い所だけ似てしまった」
「だからこそ、貴方は息子さんを愛した。切り捨てる事が出来れば、この結果はなかったでしょう」
餞の笑み。
本音ではないにしろ、それは大切な礼儀作法だ。
「それが敗因なのであれば、私は最後の矜持だけは守る事が出来たのだろうな」
ライコネンが腰を上げる。
もうそこは自分の席ではない。
眼前の男も、もう敵ではなくなっていた。
「教授就任おめでとう……と言っておくよ。これを最初に言えるのは、私の最後の特権だろうからね」
「有り難うございます。謹んでお受けします」
そして、自分の部屋ではなくなったその教授室の扉に手を掛け――――そこで振り向いた。
「最後に一つ、聞かせてくれ」
「窺います」
「もし君に子供がいて、その子供が君の野望の障害になれば、君はどうするかね?」
明かりを灯していない部屋。
お互いの表情は見えない。
そんな状況でのこの質問に、どれ程の意味があるのか――――
「私に家族がない事でそれは察して下さい」
ミストの声は、最後まで淡々としていた。
「……さようなら。偉大な魔術士よ」
それでも、どこか納得したような口調で別れの言葉を告げ、ライコネン=ヒーピャは去った。
この瞬間――――ミストは教授となった。
現在、29歳6ヶ月。
諸々の手続きで正式な就任には多少時間が掛かるとは言え、半年掛かる事はない。
【ウェンブリー魔術学院大学】史上最年少、そして初の20代教授の誕生である。
「さようなら。偉大な父親よ」
ミストはそう独りごち、自分の椅子に腰を下ろす。
まだ座り心地は良くないが、それは時間が解決するだろう。
敢えて慣れようとする必要もない。
「残念ながら、最初の祝辞は貴方ではなかったが、ね」
ミストは眼前にある、月明かりに照らされている机の上の書類の一枚に目を通す。
それはクレールの盗作騒動に関する報告書。
書いたのはこの件を最後まで自身の拘りで解決に導いた、魔術士ではないと自称する研究者だった。
そして。
その欄外には、極めて短い祝詞が殴り書きで記されていた。
祝 教授就任