第3章:臨戦者の道理(14)
「……何の事だ?」
アウロスの発言を正面から受けたラインハルトの表情が険しくなる。
優秀な剣士特有の研ぎ澄まされた視線がアウロスを襲うが、少年の顔をした研究者は微動だにしない。
ラインハルトは眉間に一本の皺を刻んだ。
「まあ良い。それよりも速やかにそこを退くんだな。今なら冗談で済ませてやっても良い」
「冗談は嫌いじゃないが、時と場所くらいは選ぶ」
「……馬鹿な子供だ」
その言葉を宣戦布告と捉えたラインハルトは、アウロスの身体に対し斜に構えを取った。
どのような相手でも油断をしない――――それは決して強者の必須事項ではないが、強者であり続ける事の必須条件ではある。
そして、その構えのままで開口した。
「ここに入る前に見なかったのか? 倒れていた連中の姿を。宮廷魔術士ですら何も出来ず沈黙したと言うのに、お前に何が出来る?」
「そうだな。例えば……こう言う事とか」
アウロスがぶっきらぼうに言葉を発すると同時に――――ラインハルトの頭上に水色の靄が発生し、そこから雨のような水の粒がその頭に降り注ぐ。
「むおっ!?」
「こんな事とか」
狼狽するラインハルトの頭の周りに、今度は小さなつむじ風が発生。
濡れた髪の毛が掻き乱され、整っていたヘアスタイルが大きく乱れる。
「このような事が出来る」
更に、その風が次第に弱まり、熱を帯びてくる。
数秒後に髪は乾き、世界一寝癖の酷い男の早朝のような頭が完成した。
「お前……おちょくってるのか?」
「芸を見せてやったんだ。見返りに一つ教えろ」
怒りに震える変な頭の男を冷めた目で見据えつつ、アウロスは場違いな要求を口にする。
「魔術士殺し、と言う異名で呼ばれてるのはお前か?」
出現区域。
標的。
魔崩剣。
それらの要素は、ミストから聞かされた危険人物の存在を嫌でも浮かび上がらせる。
「……魔術士はネーミングセンスの欠片もない連中なんだな」
ラインハルトのその答えを肯定と判断し、アウロスは頭を抱えた。
(あの野郎……まさかここまで読んでやがったのか?)
浮かび上がる、凶悪な笑顔。
上司の薄ら笑いは、想像の中であっても精神衛生上良くなかった。
「さて、無駄話はここまでだ」
一方、そんな心中を知る由もないラインハルトは、アウロスの仕草を脅威による萎縮だと判断したのか――――表情にゆとりを戻しつつ、足に力を込める。
「直ぐに総大司教を追う為に、お前にも沈黙して貰う」
「言われなくとも、もうお喋りはしない」
アウロスのその言葉が引き金となり、床を蹴る音と空気を揺らす指が諧調を奏でる。
先に回避を余儀なくされたのは――――
「ちっ!」
ラインハルトだった。
驚異的な瞬発力で接客用の長机に飛び乗る。
その脚には、蛇のような形状の影がラインハルトにまとわり付こうと群がっており、異様な光景を作り出していた。
この術に見覚えのないラインハルトは、本能的にそれを避けるべく横に跳ね、影のない場所へ慎重に降りる格好となった。
距離は約半分程縮まったが、その心中は穏やかではない。
「今の魔術は見た事がないな。それに編綴の異常なまでの速度……お前、何者だ?」
アウロスは答えない。
言葉通りに沈黙を守り、粛々と次の術を準備している。
敵の最大の特徴は、魔崩剣による魔術の無力化。
そんな相手に魔術で対抗するには、知恵が要る。
頭の中はそれだけに集中し、指先ではルーンを綴る。
11の数の文字が、まるで線を引いているだけと言っても過言ではない速さで並べられ、役割を終えると同時に消えた。
命令を受けた魔力は、アウロスの指先に傘を横に向けたような形状の膜を作る。
それは、ラインハルトへ射出されると同時に、回転しながら中央に収束してその先端を尖らせて行った。
空中で形状を変える攻撃魔術は余り例がなく、ラインハルトの脳に混乱と錯覚が発生する。
「気色悪りっ!」
しかし、脳の拘束を直ぐさま解いたラインハルトは、その遠近感の掴み辛い攻撃を鋭い反応でかわし、崩れた身体を驚異的な体重移動の速さで持ち直させ、ほぼ同時進行で足の爪先に力を貯めて、直進の為の力を生んだ。
「おおおおおっ!」
そして次の瞬間には、雄叫びを上げながら突進する。
その速度もかなりのもので、踏み込まれるまでに最低3度は攻撃出来ると踏んでいたアウロスは、心中での舌打ちを余儀なくされた。
予定していた攻撃魔術を取り止め、防ぐ為の魔術を編綴し始める。
「馬鹿が! 結界など――――」
最小限の予備動作で魔崩剣が振り下ろされる。
それを防ぐ為に綴られたであろう障壁は、剣の接触から1秒と持たずに崩壊するだろう――――
これまで幾度となく見て来た光景を一瞬先の未来に重ね、ラインハルトの顔に笑みが零れた。
「――――!?」
だが、その笑みは一瞬で凍る。
ラインハルトの剣は――――結界もアウロスの身体も捉えずに空を切った。
「なっ……」
かわされた――――その事実に動揺する暇もなく、危機察知能力が警鐘を鳴らす。
アウロスが綴ったのは攻撃魔術だった。
しかし、それは敵への攻撃が目的ではなく、その推進作用を期待して放ったものだ。
白い光が右方向に飛び、壁を破壊する中、アウロスの身体はその反動で逆方向に弾け、凄まじい速度で飛ぶ。
更に、その体勢でアウロスは次の魔術を編綴していた。
ラインハルトは戦慄を覚えると同時に、それでも身体を硬直させる事なく、振り下ろした剣が床を『叩いた』際の反作用力を利用し、上体を反らす。
その数瞬後、アウロスの放った冷気の塊が未だ乱雑な状態の髪を掠めた。
「チッ」
今度は口で舌打ちするアウロスに、ラインハルトは得体の知れない異物感のような何かを感じ、本来絶対的に有利な筈の距離を手放す。
身の保全の為のスペースを確保すべく、長机付近まで後退していた。
一方、既にアウロスは次の攻撃の編綴を始めているが、自ら攻める事はしない。
腰を据えて、扉の前を陣取る。
総大司教がこの部屋を去って、既に1分近い時間が経過していた。
「……今からお前を倒して、その扉に施されているであろう封術を魔崩剣で破壊して後を追ったとしても、既に総大司教は安全圏へ退避済みだろうな」
それは、ラインハルトの敗北宣言だった。
尤も、イラついた様子はない。
「さて、これでもう戦闘の意味はなくなった訳だが……背を向ける気はない、か」
寧ろ、変わったものを見せられて喜んでいる子供のような眼で、アウロスをじっと眺めている。
「こんな所で合わなければ、お前とは気が合いそうな予感があったんだが」
その視線が一瞬横に逸れる。
「残念!」
アウロスがそれに気を取られた一瞬の隙をついて、ラインハルトは突進力を一気に爆発させた。
上段の構えのまま高速で踏み込んでくるその速度に、アウロスの脳は回避不能を宣告する。
それを受け、身体は用意していた攻撃魔術を別の回避用の魔術に変更すべく、指を稼動させた。
――――アウロスに、余裕はない。
身体能力では大人と子供くらいの差がある剣士を相手に一対一で勝てる魔術士など、まずいないだろう。
まして、相手は魔崩剣の使い手。
自分は魔術士じゃないと言う言い訳も、戦場では意味を成さない。
ならば何故自分は戦っているのか――――そんな迷いがアウロスの指の動きを堅くさせた。
「しまっ……!」
思わず声が出たその刹那、振り下ろされた凶器はアウロスの左瞼の上を数mm程切り裂いた。
「っ!」
「……浅い、か」
噴出した血で左目を紅く染めたアウロスは、明らかに表情を変えた。
その様子は、戦場を生業とする人間の窮地に追い込まれた姿と何ら変わらない。
ラインハルトは鍔迫り合いをしているような面持ちのまま、その口を開けた。
「剣を瞼の上に受けても目を閉じず、怯みもせず……大したもんだ。どう考えても大学の研究員とは思えんな」
「……」
アウロスは口闘を拒否し、新たな攻撃を綴った。
敏感にそれを察したラインハルトが後方に飛び退く瞬間を狙い、【氷の弾雨】を放つ。
しかし、ラインハルトが魔崩剣を自身の前に構えると、その付近を襲った氷の弾丸はたちどころに消滅してしまう。
防御を終え、剣を下ろしたラインハルトは、左右の壁を眺めると同時に、何かを悟ったかような顔で笑っていた。
「先程から、お前の攻撃には破壊力がまるでない。この部屋の壁が未だに破壊されていない事からも、それは明らかだ。それに、もう足止めの必要もないにも拘らず、常に後手に回っている。最初はいずれ打つ大砲の為に温存しているのかと思ったが……お前、魔力量が相当少ないな?」
その指摘に、アウロスの顔が露骨な程に歪む。
「図星か。つまり、長期戦に持ち込めば問題はないと言う事か……っと!」
総大司教を追う気はとうに失せたラインハルトがそう告げると同時に、アウロスの攻撃が再開された。
それまでの殺傷力のない、若しくは低い魔術とは違い、人の身体を引き裂く程の威力を含有した雷の光がラインハルトの右肩を掠め、オーナー室の窓を壁ごと破壊する。
「一転して今度は破壊力に任せて短期決戦に望みを賭けるってか! 幾ら戦闘慣れしているとは言え、発想はガキ丸出しだな……っと!」
数分間に渡る攻防で気分が高揚したのか、或いは地なのか――――ラインハルトの口調が徐々に荒々しくなって行く。
躍動感を有したその身のこなしは、闘技場で見られる一流の戦士のそれを遥かに凌ぎ、間断なく放たれるアウロスの攻撃を魔崩剣すら使わずに回避しきった。
「どうしたどうした? そんな魔術じゃ俺には当たらねーぞ!」
「くっ……!」
アウロスの顔色が次第に悪くなり、眉間の皺が深くなって行く。
その様子に、ラインハルトがほくそ笑んだ刹那――――アウロスが放った8つ目の魔術が、自身の手元で力なく失速し、消滅した。
「……っ」
と同時に、アウロスは力なく後ろの扉にもたれ掛かり、ズルズルと腰を落とす。
その顔の半分は、既に血に塗れていた。
「燃料切れ、か。そうなると魔術士にはもう何も出来ないだろう。終戦だ」
勝利の確信を語気に含ませ、ラインハルトはゆっくりとした足取りでアウロスに近付く。
そして、満足気な表情を浮かべ、憔悴し切ったアウロスの顔を見下ろした。
勝者に与えられる最大の特権を行使する為だ。
「心配するな。命は取らん。だが、俺の復讐を妨害したその報いは受けて貰わんとな」
「復讐……?」
「そうだ。お前らに配布される教科書には載ってない、忌まわしき過去の怨念を断ち切る為に、俺は生きている」
ラインハルトの顔から笑みが消える。
そして何かを追想するように瞑目し、一つ息を吐いた。
「教えてやろう。奴ら極悪非道の魔術士が7年前、何をしたか……」
目を開け、冥土の土産を用意――――
「いや、いい」
しようとしたラインハルトだったが、眼前で項垂れていた敗者の筈の少年はあっさりとした口調でそれを拒否した。
「……何だと?」
「お前の話は長そうだし、何よりもう準備は整った」
「準備? 一体何……をヲヲっ!?」
危機察知能力に長けているラインハルトは、その素晴らしい動体視力でアウロスの指の動きを捉え、反射で剣を構えた。
しかし圧倒的な初動の遅れを取り戻せず、アウロスが放った魔術【雷の鳴弦】は、ほぼ最高精度でその強靭な肉体を捉え、蝕む。
「があああああああああっ!!」
その衝撃に耐える事は、どれ程卓越した戦士であっても不可能に近い。
ラインハルトは剣を持つ握力すら奪われ、金属音と共に膝をついた。
「ね……燃料切れじゃなかったと言うのか……?」
「お前らみたいなエリートっぽい顔の連中は、自分が有利になると大抵油断してくれるから助かる」
「くっ……」
アウロスは――――攻撃魔術より相手の視覚、聴覚に訴える魔術を得意とする。
先程の燃料切れも、出力して直ぐに失速して消えてしまう光を編綴し、そう演出しただけだった。
こう言った魔術を使う魔術士などまずいない為、演技力がなくても騙せる確率は高い。
姑息で卑怯な手法ではあるが、魔力量の少ないアウロスなりの戦い方だ。
常に相手の性質を洞察し、有効な手段を模索し、組み立て、行動に移す。
その為に消費する精神力は――――筋力や魔力の比ではない。
「心配するな。命は取らねーよ。だが散々人を小馬鹿にした報いを受けて貰おうかな。取り敢えず全部の生爪を9割剥がしてプラプラにしてやろう。千切れそうで千切れないイライラ感と激痛が程よくブレンドされて異世界の扉を開く事受け合いだ。つーかそのフザけた髪型は何だコラ。殺すぞ」
そう言う事もあり、アウロスの精神的疲労はピークに達していた。
「待て待て! もう何から是正すれば良いか迷うくらいムチャクチャな事言ってるぞ!」
「知らねーよ。後、歯も9割抜きな。プラプラの歯同士が擦れ合って小気味良い音色と疼痛を奏でてくれそうだ。つーかいつまでそのフザけた髪型でいる気だコラ。殺すぞ」
「ちょっ、え? 本当にやるのか? マジで? おい、シャレにならねえって!」
完全に目の据わったアウロスに、戦いが済んだ後の清々しさなど微塵もなく。
ダメージで動けないラインハルトに近寄るその姿は、墓場を彷徨う悪霊のようだった。
「あれ? にーちゃんの声か?」
「!」
しかし、その悪霊は瞬時に消え失せた。
消したのは、扉の向こうに現れた無垢な子供の悪意なき参入――――
「オルナ!? お前、何でこんな所に……」
「好機!」
人間の身体は精神と密接な繋がりを持っている。
心が折れれば肉体も膝を付き、心が弾ければ肉体も躍動する。
アウロスの予想だにしない余所見は、ラインハルトの身体に潤滑油を注ぐ事になった。
「がはっ!」
ラインハルトの放ったボディーブローが、アウロスの肝臓を正確に射抜く。
身体的には標準以下のアウロスにとっては、これだけで深刻なダメージになってもおかしくはない。
だが、苦痛で顔を歪ませ膝を折る程度で済んだ。
「チッ、予想以上にダメージが大きいか……」
「……っ」
両者暫し睨み合う。
しかし、どちらが不利かは明白だった。
それを察していたラインハルトは剣を拾い、アウロス――――を横目に扉を魔崩剣で斬り裂く。
すると、鉄の棒で硝子細工を殴りつけた時のような派手な音と共に封印が消失し、扉が開いた。
「おいガキ! この決着は何時か必ず付けるからな! 首を洗って待ってろ!」
と同時に、扉の傍にいたオルナを無視し、広く長い廊下を走り去って行った。
「にーちゃん! なんかすっげーヘナチョコな感じだぞ!」
「お前の所為だっての……ちくしょ、待ちやがれ魔術士殺し!」
ここで逃がすと厄介な事になる――――そう言う予感めいたものを感じ、アウロスは重い身体を引きずるようにして後を追う。
それに小さい影が一つチョコチョコと付いて来た。
「なー、あいつ何だ? どろぼうか?」
「お前は来るな! 来たらもう魔術見せてやらないからな!」
「……むー」
オルナが不満旺盛な顔で足を止めた事を耳で確認し、アウロスは改めてラインハルトの背中を追った。
既に回復しつつあるアウロスとは違い、ラインハルトの身体は明らかに痛んでおり、走る速度はアウロスの方が若干上だ。
それを知ってか知らずか、ラインハルトは中庭の見えるバルコニーへ辿り着くと、何の躊躇もなくそこから下へと飛び降りた。
「……野生動物かよ」
その様子を見ていたアウロスは、思わず血みどろのジト目で呟き、ラインハルトの飛び降りた場所から、その下の中庭を覗く。
3m程の高さがあるにも拘らず、そこには何事もなかったかのように着地し、直ぐに駆け出す脱兎の姿があった。
どうやら、身体能力の高さは常識外のレベルらしい。
アウロスは心中で頭を抱える。
今から階段使って降りても到底、間に合わない。
逃げる敵を追うような魔術も、思いつかない。
思考が視界を一瞬遮断する。
――――刹那。
「ぎゃあああああああ!!」
断末魔の悲鳴とさえ捉えられる絶叫が、静寂の闇を切り裂いた。
そして次の瞬間――――
「なっ……!?」
バルコニーから身を乗り出すアウロスの眼前に突如、黒い何かが現れ――――そして消えた。
それは人だった。
アウロスの瞳に焼き付いたのは、2階のバルコニーの更に上から落ちて来た――――
黒ずくめの女性だった。
(まさか……)
混乱には2つの理由が在った。
1つは、決して常軌を逸した動体視力を有している訳ではないアウロスの目に、何故これ程はっきりと落下する人間の姿を捉える事がで出来たのか。
そしてもう1つは、その女性の顔。
それは確実に見覚えのある顔だった。
しかも――――笑っていた。
1つ目の謎は、女性が着地する直前に解けた。
彼女の周りには、凄まじい勢いで旋風が発生しており、それが重力をある程度相殺していると推測出来る。
当然、魔術によるもの。
しかし普通、こんな事は出来ないし、実行する気にもならない。
緑魔術で強力な風を発生させ、空を飛ぶ――――と言う実験は、魔術史の中で腐る程行われているが、成功例は皆無に等しい。
これまで数多の人間が負傷、若しくは命を落として来た。
しかし、アウロスの眼前にはそんな犠牲者を嘲笑うかのように、優雅に、そして上品に地面へと降臨する女性の姿がある。
勿論空は飛んでいないが、それに近い印象を受けた。
そこまで見届けたアウロスは、一旦視界を切り、1階へ伸びる階段めがけて全力で疾走した。
等間隔で設置された高級松明の光が徐々に輪郭を帯びる中、一階の中庭に辿り着く。
息を切らせたアウロスを、待っていたのは――――
「……何故、ここにいる」
腰まで伸びた黒い髪。
猫のように少し寂しげな目。
病的に美しく整った顔立ち。
すらりとした体型。
そして、頭を覆う三角の帽子。
初めて会ったあの日と何ら変わらない――――魔女と呼ぶに相応しい姿だった。
「あら。奇遇ね」
そしてその女性は、初めて会ったあの日と何ら変わらない、人を見下したような、或いは目の中に入っていないかのような口調で、アウロスを迎えた。
その傍には、うつ伏せで倒れているラインハルトの姿がある。
ピクリとも動かないその身体に、アウロスは生命の有無を判断しかねた。
「殺したのか?」
「……」
ルインは口頭では答えず、妖艶な薄ら笑いを浮かべたままラインハルトの身体を蹴った。
その衝撃に、一瞬だが確かに指が動いた。
命はあるらしい。
「……他にも聞きたい事は山程あるが、教えてはくれないんだろうな」
「試しに聞いてみたら? 血まみれのその顔を涙でクシャクシャにして跪けば、もしかしたら答えが零れてくるかも知れないでしょう?」
表情は笑みを浮かべたまま、まるで他人事のようにそう述べる。
アウロスは小馬鹿にされていると判断したが、疲労によって頭が働かないので放置を決め込んだ。
しかし、それすらもルインには滑稽に映るのか、笑みは絶えない。
「この男の身柄は私が引き取るから、ギルドの方には貴方から宜しく言っておきなさい」
ルインは右手の人差し指に髪の毛を絡め、弄ぶように動かしながらそう宣言する。
その姿が月明かりに照らされ、アウロスの目を侵食した。
美しい花には棘があり、良薬程口に苦い。
それが世の常ならば、この女性もまた、その理の中に身を置いていると言える。
「その言葉に強制力は?」
「どうでしょうね。従わなければ、その消耗し切った身体が搾りカスのように萎びるかもしれない、と言っておきましょうか」
「あんた、サキュバスだったのか」
「……誰が淫魔ですって?」
ルインの右手人差し指が怪しく光る。
「冗談くらい言わせてくれ。獲物を横取りされて苛立ってるんだ」
アウロスは若干ルインの戦闘力に興味を惹かれたものの、身の安全を優先した。
無論、言葉は本音ではない。
「哀れなものね……ま、良いでしょう。特別に許してあげる」
「そいつはどうも。ついでに理由も教えて欲しい所だが」
「フッ」
鼻で笑う。
「そうね。貴方の働きで楽が出来たのだから、御礼くらいはしておきましょうか」
意外なその答えに、アウロスは一瞬戸惑いを覚えた。
だが、表面に出ないよう取り繕う。
その様子を見抜いたルインは終始嘲笑いを浮かべたまま、髪から指を離した。
「死神を狩る者」
「……?」
「私は極一部の人間からこう呼ばれている。それがそのまま、理由になるでしょう」
そう告げると、話はこれで終わりと言わんばかりにアウロスから背を向け、再び指を光らせた。
そして、まるで名のある指揮者のような指捌きで魔術を編綴する。
綴られた8つの文字が消えると同時に、ルインの右手がぼおっと赤く光った。
その手を天に向けてかざすと、光は花火のように遥か上空へ打ち上げられ、小さな爆発を起こした。
「何かの合図、か」
「用は済んだでしょう? 早く消えなさい」
これ以上ここにいればどうなるか――――笑みの消えたルインの瞳がアウロスを恫喝する。
それに反抗する程の体力も魔力も精神力も残っていないアウロスは、暫くルインと睨み合い、大きく息を吐いた後、中庭を後にした。
去り際に何かの物音が聞こえたが、それを確める気力は残っていなかった。
「少年!」
フラフラになって一階の廊下を彷徨うアウロスに、少し野太い声がかけられる。
乱雑な足音と共に向かって来たのは、顔を上げるでもなくグレスだと理解できた。
「無事だったか……いや、無事ではないな」
夜の闇に覆われたアウロスの血みどろの顔を確認し、その声が沈む。
「大した傷じゃない。それより、オルナは保護したか?」
「ああ。あの後、骨を……加勢に行こうとオーナー室に引き返したら、ちょうどオルナ様がそこに」
予想とはかけ離れたものを拾ったらしい。
「それで、どうなった? まさかお前が奴を?」
「生憎逃げられた」
事実と然程変わりない嘘を吐く。
グレスにそれを看破する材料などある筈もなく、納得と驚愕の入り混じった微妙な表情で感嘆の声を漏らした。
「そうか。それにしても良く生きていたな。魔崩剣の使い手を相手に」
「世の中に俺より強い奴が何人いようと、俺は生き延びなきゃならない……」
それは使命でも約束でもない。
まして、意地や願望などでもない。
ただの意思だった。
「……少年? おい、少年!」
そして、その表示を最後に、アウロスは思考と意識を閉ざした。