後日譚:忘却の綴り(37)
雨音が踊る。時に雷鳴が轟きわたり、風は忙しなく吹き荒れ木々に悲鳴をもたらしている。
デ・ラ・ペーニャの気候は然程長くない夏期と冬期を除けば比較的安定しているが、稀に起こる嵐は他国と何ら変わらず人類に自然の驚異を植え付けていく。川沿いの街では氾濫の発生も多く、魔術士であってもその被害から逃れることはできない。
幸いにして、アウロスたちが現在身を寄せている魔術霊園の近辺に河川はなく、堅牢のため暴風や暴雨で致命的な破損を被ることはない。それでも外出できない不便さは如何ともし難いが。
「どうにも収まりそうにないな。明日からはマラカナンに向かわなければならないというのに」
「第一聖地に何か用事でも?」
「ただの講演依頼だよ。これでも第二聖地を代表する大学の名物教授なのでね。余所から招かれること自体は珍しくもない」
事もなげにミストは返す。
だが――――実際には決してそのような単純な話ではない。
魔術国家デ・ラ・ペーニャには六つの聖地がある。何故六つもあるのかというと、それぞれが『魔術発展の起点はここだ』と主張しているからだ。
魔術の生みの親とされるアランテスの出生地、彼が初めて魔術を編み出した地、本拠地となる教会を発足した地、その生涯を終え魂を眠らせた地――――など、主張の根拠は異なる。だが自分たちの聖地こそが魔術国家の発祥の地であり真の聖域だという強い信念は共通していた。
もっとも、それも過去の話。現在も各聖地において同様の主張を行っているのはごく一部の原理主義者たちだけで、聖地誕生の理由は事実上形骸化している。
或いは今も各聖地が『自分たちこそが本物の聖地だ』と主張し合っている方が、まだ健全な競争意識によって均衡が保たれていただろう。
現在の聖地は数字に支配されている。
第一聖地マラカナン。アランテス教会の本部があり、魔術国家を統べる教皇が暮らしている事実上の王都。このマラカナンがデ・ラ・ペーニャの中心なのは、今や公然の事実であり覆ることもない。
だが、それ以外の聖地に関しては本来明確な差異などない。どの聖地も皆等しく魔術国家の一翼でなければならない筈だった。
けれど現実には第二聖地ウェンブリーに優秀な人材が集い、第三、第四、第五……と数字が増えるに従いその傾向が弱まる。第六聖地ベルナベウに至っては魔術の生産性に関して既に諦めの境地。活気もなく、通常の街よりも寂れている印象すら持たれている。
直接的な原因があった訳ではない。誰か明確な元凶がいた訳でもない。長い歴史の中で、少しずつ差ができてしまった。
この曖昧模糊とした経年変化こそが聖地格差の正体だった。
故に誰も覆せない。数百年、数千年の時を経て変化した地形を元には戻せないように、今いる人間の力だけではどうにもできない積み重ねが生み出してしまった数字の悪魔がそこにはいる。
アウロスが賢聖になって最初に着手したのが、その悪魔への挑戦だった。
「とはいえ、実際に聖地間で有意義な情報交換ができるようになったのはここ最近だ。我が国の重鎮たちは他の聖地から情報を得るメリットよりも、自分たちの情報が流出するデメリットばかりを重視していたからな」
「……そうみたいですね」
アウロスはそのミストの言葉を誰よりも実感していた。
聖地格差を完璧になくすのは不可能。改善も困難。現状維持すらままならない。
そういった風潮の中で、アウロスは各聖地を飛び回り何処に問題があるのかを探り続け、一定の成果を収めた。そしてまだ挑戦は続いている。
しかし今は停滞せざるを得ない。忘れられた人間にできることは何もないのだから。
「だが時代が変わった。聖下が魔術の価値観を変え今までにない方針を打ち出したことで、手元に残したカードだけではこの先生き残れないと老い先短い魔術士たちが危機感を抱いた訳だ。実に面白い手法だよ。普通、国を変えるためには若者に旗を振らせるのだがな。まさか老人に鞭を打つとは……恐れ入る。決して正しいやり方ではないが、この国にあっては極めて有効だ」
「ベタ褒めですね叔父様」
「実際侮っていたよ。現教皇が枢機卿だった頃にはここまでの人物とは予想していなかった。立場が人を変えたか、或いは……余程優れたブレーンがいたか」
「……」
外のけたたましい雨音を聞きながら、アウロスは当事者特有の気恥ずかしさをその音に溶け込ませ、脳を静かに浄化した。
「いずれにせよ、マラカナンでの講演は有意義な時間になる。しかしこの天候ではな……明日までに止むと思うかね?」
「嵐にしてはまだそこまで強烈な風じゃないですし、ピークはこれからじゃないですか」
「大した根拠ではないが、困ったことに同意見だ。どうしたものか……」
珍しく、ミストが本気で窮している。マラカナンでの講演に対してかなり意気込んでいた証だ。
「一日足止めされても、一日早く着く速度で移動すれば問題ありませんよね?」
不意に、レゼリアが当然のことを問う。
無論、そのようなことが可能なら苦労はしない。しかし現実問題、どれだけ優れた馬車馬を手配できたとしても通常の馬車より一日も早く第一聖地へ着くことはできない。道は舗装されており、馬の性能だけでそれほどの違いが生じる余地はないからだ。
「実はロスト先輩、緑魔術で馬車の移動速度を上げる研究をしているんですよ。今はまだ実験の段階ですけど……」
「無茶を言ってやるなレゼリア」
カウンターに足を乗せ、半ばふて腐れ気味にミストが天井を仰ぐ。教授室ではまずお目にかかれない光景だ。
「それは短距離を想定した研究だろう? マラカナンまで常時魔術を使い続けるなど不可能だ。魔力が持つ訳がない」
先日の戦闘で、ミストはアウロスの魔力量が少ないと見抜いていた。もっとも、膨大な魔力を有していたところでマラカナンまでずっと魔術を使い続けるなど不可能だが。
「ええ。なので現実的な提案になりますが」
「何か妙案があるのかね? ロスト」
「凝視されるほど大した提言は出せないですよ。予定を早めて今から出発すればいい、ってだけの話です」
「……成程。確かに現実的だ」
嵐の中でも移動はできる。効率と危険性を無視すれば。
「だが生憎、馬車の手配は済んでいる。予定では明日早朝に来てくれるようになっているが……この天候では無理だな。前が見えそうにない」
「なら諦めるしかないですね」
「簡単に言うな。ついでに『余裕を持って日程を組み天候が崩れる前に到着していれば問題なかった』などと糾弾するのも不許可だ。私はそれほど暇ではない」
明らかにここ数日、ここにいなければならない状況ではなかった筈だが、ミストはそう断言した。
無論、下らない嘘で見栄を張るような人物ではない。アウロスの目は本人ではなく情報共有者のレゼリアに向けられた。
「実は今日、人と会う約束を」
「ここに来る予定だった訳か」
「はい。魔術霊園の清掃員の方と」
露骨に眉をひそめるアウロスに対し、ミストは不貞不貞しい格好のまま首だけを向けて迫力のある笑みを浮かべた。
「当然、ただの清掃員ではない。この魔術霊園の清掃を専門としている人物だ」
「普通の掃除でもなさそうですね」
「霊園の清掃は墓石と墓地の美観を維持するためのものだ。魔術霊園の場合、墓石は論文が該当する。ただし紙を綺麗にすることが目的ではない」
「死に論文の中に生きている論文が混じっていないか、確認する作業」
不意に、その場にいる三人以外の声が室内に響く。
もっとも、その声にはまるで覇気がなく、雨音で大半はかき消されてしまっていたが。
「……まさかこの天候で来るとはな。しかしせめて玄関口で声掛けして貰いたかったところだ」
ミストの指摘が暗に示すように、その人物はズブ濡れの状態でここまで歩いて来たらしく、その後ろの床には大量の泥水が足跡となって付着していた。
だがミストに呆れた様子は見られない。寧ろ敬意を示すかのように姿勢を正し、自ら"彼女"の元へ歩を進めた。
「清掃員が室内を汚すのは感心しないが……よく来てくれた」
その清掃員に、アウロスは見覚えがあった。
ただし、彼女は本来この第二聖地の住民ではなかった。
かつて第一聖地マラカナンで身を寄せた、デウス=レオンレイと彼を慕う四人の魔術士によって構成された『四方教会』の一員。アランテス教会とは一線を画したその組織は、魔術国家を根底から変えることを本気で目論み、教皇選挙を勇敢に戦い抜いた。
その四方教会において、彼女は決して中心人物ではなかったが、誰よりも好戦的で誰よりも呑気だった。
相反する二つの特徴は決して矛盾ではない。何故なら彼女には二つの人格が存在していたからだ。
「……」
名を呼べば不審がられる。今の彼女はアウロスを知らないのだから。
だがアウロスは知っている。
彼女――――サニア=インビディアの奇妙な性質を。
「ぽーっ……」
そして面倒さを。