後日譚:忘却の綴り(38)
幼い頃から魔術士としての才能を見出され、厳しい訓練を強いられてきたサニアには、生きるために二つの人格が備わった。
一つは好戦的な人格。徹底的に赤魔術を叩き込まれた彼女は炎に臆さないため恒常的な蛮勇を求められ、その結果極めて血気盛んな性格を手に入れた。
もう一つは緩慢な人格。彼女が赤魔術を覚えさせられたのは暗殺および証拠隠滅のためであり、暗殺者としての自分を偽装することを求められた。その結果として得たのがこの正反対の人格だ。
アウロスがマラカナンで知り合った少女フレア=カーディナリスも同じように暗殺者として育てられたが、明確な標的がいた彼女とは違いサニアは暗殺者という商品になるために育てられた。たまたま才能があったから、使い道があるから生かされたに過ぎない。
そんなサニアと共に四方教会の一員としてマラカナンの地を駆け巡っていた頃が、まるで遠い昔のようにアウロスには感じられた。
「ぽーっ……」
だが彼以上にサニアの方が遠くを見ている。その視線の先が何処なのかは誰にもわからない。恐らく本人さえ。
「取り敢えず身体を拭かねばならんな。レゼリア、彼女に汗拭き用の布を。着替えは……」
「一応私のがありますけど」
「済まないな。奧に幾らでも部屋はあるから好きな所を使ってくれていい。案内を頼む」
「了解しました。ささ、こちらへどうぞ。大丈夫ですよー、男性陣はどちらも覗きをするようなタイプじゃないですから」
余計な一言を残し、レゼリアはサニアを連れ奧へと向かった。
その間、サニアは一言も発していない。アウロスが彼女と最初に会った時と同じように。
「意識が朦朧としているようだったが……既に高熱に冒されているかもしれんな」
「いや、あれが素なんです。というか人格の一つですかね」
「……知り合いなのか?」
「向こうは覚えていないでしょうけど」
確認してはいないものの、これまでのことを考えればサニアがアウロスを忘れていない可能性は限りなく皆無。だからこそ混乱を避けるため彼女がいる間は黙っていた。
「サニア=インビディア。赤魔術が得意なマラカナンの臨戦魔術士です。殺気を感じたらもう一つの人格が出てきます。そっちは普通にコミュニケーションが取れますよ」
「ということは、今の人格はまともに話もできない訳か」
大雨の件で困り果てているミストにもう一つ難題が降りかかる。彼の立場上、何の非もないサニアに殺気を向けるのは決して好ましくはない。幾らアウロスの助言があっても。
「だが……先程彼女は言葉を発していなかったか? 我々が姿を目にする前に」
「あの人格でも全く喋らない訳じゃないですよ。自分の言いたいことを気まぐれに口にするって感じですけど」
「面妖な話だ」
そう呆れながらも、ミストはアウロスの言葉を全く疑っていない。それは彼に対する信頼とは別に、多重人格への知見が大きな要因だった。
「だがこの世界では然程珍しくもない。精神的に追い詰められた人間が、心を守るために別人格を作り精神を切り替える。よくある……とまでは言えないが、決して珍しくもない防衛反応の一種だ」
「理解が早くて助かります」
「彼女のことはお前とレゼリアに一任するとして……私は本格的に移動手段を考えねばならないな。マラカナンまで徒歩で行くのは非現実的だが、馬車が走れる天候でもない」
「ラシルさんが残っていれば望みはあったんですけどね」
「空路か。確かにハイドラゴンなら雨雲の更に上を翔ることができただろうが……生憎私は高い所が苦手でね」
「偉くなればなっただけ部屋は高い所に用意されますけど」
「その常識を覆すことも、目標の一つだった。教会の一階で誰よりもふんぞり返るのが私の夢だったのだがな」
半分ほど冗談といった面持ちで、ミストは苦笑を浮かべている。彼がこういう顔をする時は基本、現状が面白くない時だ。
「夢の格下げは生易しいことではない。人生の岐路に立たされる度に思い出すよ。私は敗北者なのだと」
「勝ち負けなんですか? それは」
「そうではないと何度も否定を試みたのだがな。結局そう感じてしまう以上はそうなのだろう」
その話で、アウロスは彼が先刻の戦闘で潔く負けを認めた理由を悟った。
ミストは敗北を知り、負けを認める恐怖を克服したのだと。
それは成長とは限らない。失うものもある。故に変化と言うべきだ。
「屈辱だが、おかげで自分を正しく知ることができた。私は期待していたほど優れた人間ではなかったし、懸念していたほど気高い人間でもなかったようだ」
「少なくとも『泥水で汚れるくらいなら仕事をキャンセルする』ってタイプではないですね」
「どうやらそのようだ」
苦笑しながら、ミストはカウンターの内側に置いていた革製の鞄を腰に吊り下げ、出入り口の方へ視線を向ける。徒歩での出立を選択した証だ。
「非現実的じゃなかったんですか?」
「途中で嵐が止めば、最寄りの街で馬車を借りられる。それに賭けるとしよう」
豪雨の中を一人で歩き、あとは運任せ。それはミストらしくない選択のようでいて、実際はこれ以上ないほど彼らしい決断だった。
「……一つ頼まれてはくれないか?」
「留守番ですか」
「話が早くて助かるよ。マラカナンでの講演が終わり次第直ぐに戻る。事後承諾になるが、フォグ教授には私から話を付けておこう。その間、この魔術霊園を好きに活用してくれて構わない」
「サニアはどうするんですか?」
「彼女は清掃員だ。仕事が終われば勝手に出て行くだろう」
厚手の外套に身を包み、ロングブーツを履いたミストはアウロスと向き合い、視線だけを後方へと移動させる。
「レゼリアは……好きにさせておいてくれ。あの子は血縁者の中で一番私に似ている。お前の忘却について何かと協力したがるだろう」
「どういう意味ですか?」
「こう見えても好奇心の塊でね。もし私が何のしがらみもなく自由の身であったなら、お前の現状に強い関心を抱いただろう」
「彼女は教授の道を進まなかった貴方……ってことですか」
「親友になれそうかな?」
「無理ですね」
そう答えたアウロスは――――珍しく口元を綻ばせた。
「最後に一つ忠告しておこう。忘却魔術に囚われるな」
「……何故?」
「人間、誰しも第一印象を引き摺ってしまうものだが研究者も同じだ。初期衝動、最初の閃きや思い付きをどうしても引き摺ってしまう。そこに何のアドバンテージもないとしてもだ」
アウロスにも思い当たる節がある。
初志貫徹。
それはアウロスの人生訓そのものと言ってもいい。
だがミストの言うように、最初に思い付いた忘却魔術が正解とは限らない。そこにバイアスをかける理由もメリットもない。
無論、ミストがこう言ったからといって忘却魔術が不正解とも限らない。フラットな視点で見極めなければならない。
「お前の身に降りかかったのは紛れもなく超常現象だ。魔術士だからこそ、それを魔術に当てはめたくなる。そういう心理の存在も常に考慮しておきなさい」
「……頭に入れておきます」
そう本心で答えつつ、アウロスはふとミストの言葉から一つの仮説を思い浮かべた。
「一つ質問していいですか?」
「構わんよ。何かね?」
「俺たち魔術士が超常現象=魔術とつい捉えがちなのはその通りですが、だったら……」
これといった具体性があった訳ではない。ただ何となく疑問を抱いたに過ぎない。
「魔術の超常現象、なんてものは存在しますかね」
「……」
一般人から見れば、魔術とは超常現象そのもの。何もない所から炎や雷を出し、空間を閉鎖するその力は超常的としか言い様がない。
けれどそれは魔術士にとってはただの能力。日常的に目にするものだ。
ならば、魔術の中にも超常現象が存在するとしたら?
魔術士さえも超常的だと唸るような規格外の魔術が存在するとしたら――――その線引きは一体何処にある?
「邪術にしても結局は魔術の体系の範疇ですから、超常的とは言えませんよね」
「そうだな。あれはあくまで人類には制御できない力というだけだ。途方もなくはあるが我々にとっては超常的ではない」
ミストは暫し考え、そして天を仰ぐ。
まるで子供が大人にするような質問だったが、故にそこには本質が存在している。ミストもそう捉えていたからこそ、熟考の価値があると考えた。
そして、答えは出る。
「お伽噺の類ではあるが……もし"これ"が存在するとしたら、超常的な魔術もまた存在するかもしれないな。我々の想像を絶する、魔術の基盤をも揺るがすような魔術がまだこの世にあるのかもしれん」
妙に勿体振るミストに対し、アウロスは思わず半眼で睨む。ミストがこのような出し惜しみをする時は、決まって彼自身が楽しんでいるだけだ。
「魔術は24のルーンから成る。24種類の文字を魔具を使って綴ることで、体内の魔力を魔術に変換できる。長きにわたる魔術史において、この基本構造が崩れたことはない」
だからこそ、24の文字で組み立てることが魔術の大前提であり、同時に限界でもあった。
ならば――――限界を超える可能性が存在するとしたら?
「もし……この世に25番目のルーンが存在するとしたら、魔術の超常現象はいとも容易く生じるだろうな」
まさしくそれはお伽噺だった。




