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棺に花  作者: きくらげ
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義手の神様

これにていったん完結。

 君のことを一言で表すのはとても難しいです。掴み所がないほど平凡で、教室の隅にいるほどでもなく、卒業した時に最初に忘れられる君。マネキンが制服を着て歩いているような人でした。この頃は春になり、制服すら着ていない、ただのマネキンです。

 数日前の君は、高校生だった僕でした。でも今君は高校生ですらない。何者でもない君の不安を、どう表現すればいいのでしょうかね。



 夢見心地の中、美術室で君は君の作った平凡で、平坦で、見るものに何も与えない石膏像を目の前にしていました。その横には絵の描かれたキャンバスが二枚。片方は君が描いたものです。朝の優しい日差しが、それぞれの作品を照らし出しています。

「どうだ、持って帰れそうか」

 美術部の顧問が机の脚をテンテン蹴る音に、枝垂れ桜が花同士を擦り合わせるキシキシとした音が混じって、君は不快感に苛まれます。ゆっくりと頷いてから、一枚のキャンバスが自分のではないことを伝えました。

「ん? ミロのビーナスの絵はお前のだろう。もう一つの方は未完成だからサインがなくてな、お前の像が描いてあるからお前のかと思ったんだが」

 そう言われて君はもう一度、誰の物か分からないキャンバスを見直します。平凡で平坦で見るに堪えない、何もないという特徴を丁寧にその絵は捉えていました。空虚なものを描いたにも関わらずその絵には温かみがあったので、君はびっくりしました。できる限りまで近づいてじっくりと観察しても、きちんと自分の石膏像に見えるのですから不思議です。

 結局そのキャンバスの持ち主は分からず、引き続き美術室に保管することになりました。石膏像は先生に処分してもらうことにしましたので、君の荷物は大きくはないキャンバスが一枚増えただけに収まったようです。

「そうそう、悪いが、今日もよろしく頼む」

 顧問はそういうと机から茶色い封筒を取り出しました。皺のよって乾いた唇が、ぐにゃりと歪みます。頷いて封筒を肩掛け鞄にいれてから、君は美術室を後にします。向かうのは学校からしばらく歩いた先にある総合病院です。今の封筒は、そこに入院している人へ届けるためのものでした。君の荷物には大きくはないキャンバスと、カバンに入れられた茶封筒が増えました。君の黒い髪が、歩みとともにゆらりと揺れました。



山田(やまだ)はもう山田のことをバカにされたくありません。『人類総山田化計画』を実行するときが来たのです!」

 消毒液の匂いがするベッドの上で一人の少女が立ち上がり、そう宣言しました。机の上にあった筆箱がガコリと音を立てます。君は先ほどの封筒を渡しながら、少女に何があったか聞きます。少女は苺色の頬をさらに赤くしながら、むくれた声で言いました。

「……山田が、山田のことを山田と呼ぶのは変だといわれました。ですが、山田は、山田です。私でも僕でも俺でもなく、山田なのです。私などという言葉が山田のことをさすなど、変なのです!」

 そうです、君は君のことを僕と呼びますが、それが君である保証はどこにもありません。代名詞とは時にひどく曖昧なものであることを、少女は知っています。少女の言葉に首を傾けた君は、キャンバスを抱えなおしました。ベッドサイドにおかれた花瓶の中で、花がくたりと萎れています。

「それはもしや、山田にくれると言っていた絵ですか」

 少女は口元がにやけるのを抑えるように、わざとしかめ面をします。君は呆れたように笑いながら、少女の前にキャンバスを置きました。簡単な包装は、少女によってさっさと暴かれていきます。開いた先にいたのは先ほどの平凡なミロのヴィーナスです。

「これは……きれいな人ですね」

 少女はそっと、慈しむように縁を撫でます。少女の髪が風に吹かれて、さやさやと揺らぎます。窓からは静かなどよめきが聞こえていました。君はむず痒そうな表情で、居心地悪そうに足を動かします。

 居た堪れなくなったように、君は病室の外へと逃げてしまいました。ブドウジュースをねだる声を背中に受け止め、君はゆっくりと進み始めようとします。そこにとことこと近づいてくる人影が一つありました。

「こんにちは、いつものお見舞いですか」

 看護師さんは滑らかに頭を下げると、君の傍で立ち止まりました。君は一歩後ろへ離れて距離を取りました。

「妹さん、今日はまだ山田の気分が続いているみたいです。これで六日目ですね。また名札を変えてほしいと仰っていました」

 少女は自分のことを認識するのに苦労しているようです。君は週末にはいつも、少女にプリントを届けてあげています。君は背後のネームプレートを振り返りました。そしてふと思い出したように、看護師さんに絵のことを伝えました。

「絵ですか……わかりました、飾っておきますね」

 君が頭を下げると看護師さんも同じように頭を下げ、またとことこと歩いていきます。扉を開けた看護師さん越しに、絵を窓にかざす少女の姿が見えました。そして君は考えます。

 自分って、何だろう。



 駅への帰り道、不意の突風に目をつぶった君は、背後から衝撃を受けました。振り返ると、下のあたりで小さな犬がこちらに尻尾を振っています。首元には黄色い首輪がついていました。

「ショウブ!」

 伸びたリードの先には赤いショールをまいた老婆がいました。君はそっとしゃがみこむと、ショウブと呼ばれた犬へと顔を近づけました。

「すみませんご迷惑を。人にぶつかってはいけないと、いつも言っているのですが」

 老婆を見上げ、気にしていないという風に首を振りました。老婆が犬に近寄ると、犬は老婆の隣へと収まりました。君は名残惜しそうに、ゆっくりと立ち上がります。

「人を見かけると突撃してしまう癖が抜けなくて、油断するとすぐに飛び出してしまうのです。車通りが多い時などはハラハラしてしまって」

「それは、大変ですね」

 聞くと、老婆が春風に煽られたショールを巻き直しているうちに、犬は君へと飛びついたそうです。老婆が下げる頭につられて、君もペコペコと頭を下げました。

「今度こそしっかり目を離しませんからね。あら、なんですかその眼は。もうしないとでも言いたいのですか」

 老婆が犬に話しかけると、犬は耳を垂れ下げて、困ったような顔をしていました。君はその様子をほほえましく見守っています。

「だめですよ、私は貴方が誰かに突撃してしまう子だと、そう信用しているのですから」

 その言葉に君は少しだけ眉根を寄せました。犬は耳をピンと立てて、嬉しそうに尻尾を振っています。

「貴方も、私が必ず見ていると信頼しているでしょう?」

 その言葉にことさら嬉しそうに、ワンと小さく吠えました。老婆は最後にもう一度こちらへ頭を下げると、しっかりとした足取りで去っていきました。春風がもう一度吹き、しかし一人と一匹は真っ直ぐに歩いていきました。その背中を見つめながら君は、新たに生まれた疑問に首を傾げます。

 信じるって、何だろう、と。



 横断歩道を超えたところで、君は後ろを振り返りました。そこにはもう老婆も犬も見当たりませんでした。君はそっと、人ごみにまぎれて帰路につきました。

 家に着くまでにある公園で、君は自販機に近づきます。当たりの表示に眉をしかめると、一つ歓声が上がりました。子供たちがそばの街路樹を見上げていました。近寄ってみるとなるほど、木の上には白い猫がじっとしていました。

 そのまま横へ視線を向けると、そこには少し厳つい男がいました。猫のほうへそっと近寄り、素早く捕まえて降りてきます。

「ほら、嬢ちゃん」

 子供たちの中の一人に猫を渡すと、子供たちは口々にお礼を言って去っていきました。君は少しだけ尊敬したようで、ベンチへ休みに行った男に、近くの自販機で買ったコーヒーを渡しました。

「どうぞ」

「おお、サンキュー」

 男はグビグビとコーヒーを飲んで、懐から取り出したハンカチで汗をぬぐいました。そろそろ正午になる時間、太陽は随分と高くなっています。スキンヘッドの額が、汗でテカテカと光っています。君がじっと見つめていると、男は何を思ったのか少し焦り始めました。

「別に怪しいもんじゃねえぞ。今日は休みってだけで、普通の会社員だ」

 男の声に分かっているとでも言うように頷いて横に座ると、男は気が抜けたように肩の力を抜きました。

「最近は子供に話しかけただけで変質者扱いだからよう、困ったもんだぜ。これでも子供は好きでよ、最近はそこのデパートでヒーローショーなんかもしてんだ」

 男の話に顔を上げると、地元では大きいほうのデパートがぶっきらぼうに立っていました。君も小さいころはお世話になった場所で、男は働いているのだといいます。

「最近じゃあメインの怪人役なんてのもやらせてもらえてなあ、子供たちの目がキラッキラしてかあいいのなんのそのって。……代わりに息子にゃ嫌われててな」

「そうなんですか」

 なるほど、息子と話せないから今がこれほど饒舌なのでしょう。君はこっそりそう思ったようです。

「ヒーローにやられるなんて、お父さん格好悪い、悪者なんてやだ! なんて言われちまってなあ……」

 男はしみじみと呟きます。男はコーヒーを一気に仰ぐと、立ち上がって伸びをしました。

「悪かったな坊主、こんなおっさんの一人言をよう」

 立ち上がった男に合わせて、君もゆっくりと立ち上がります。去っていく男の背中を見ながら、君は小さく考えました。ヒーローは正義。怪人は悪。でも、男が悪いわけではないし息子さんが悪いわけでもありません。

 正義って、何だろう。



 家に帰ってきた君を迎えたのは静寂でした。リビングに入ると机の上に五千円札が置いてあります。それを見ていると、ふいに扉の開く音がしました。

「あら、帰ってたの。お母さんこれから出かけなきゃいけないから、お昼と夕飯はそれで済ませて頂戴」

 言うや否や、お母さんはガレージへと向かっていきます。お父さんは泊りになるらしく、今日は帰ってきません。君は五千円札をポケットにねじ込むと、近くのデパートへ向かいました。

 デパートの十五階には書店があります。君はさっきもらった五千円札を早速使おうとしているのか、本を物色し始めました。フロアを物色していると、ふいに君は誰かとぶつかります。

 君がとっさに目を向けた先には、尻餅をついた少年がいました。少年の目がとろとろと溶けていき、次第に泣き声に変わっていきました。

「お母さん……」

 迷子のようだと気付いた君は、とりあえず少年を立たせてあげました。お尻についたほこりを払い、目線を合わせるようにしゃがみこみました。

「お母さん、どこ行っちゃったかわかる?」

 少年は涙を拭いながら、首を横に振ります。君は少し悩んでから、意を決したように少年を真っ直ぐに見つめました。

「お母さんを呼んでもらえるよう、デパートの人に頼んでみようか」

 少年は少し迷った様子でしたが、やがて君のほうにそっと歩み寄ってくれました。君は少年を一階のサービスカウンターまで連れていくようです。立ち上がってエレベーターへ向かおうとしたその時、君はこちらに駆け寄ってくる女性に気が付きました。

「ママ!」

 少年は顔をめいっぱい輝かせ、ママに抱き着きます。ママも少年をしっかりと抱きしめました。そんな二人に近づいてくる影がもう一つあることに気づき、君は少年たちから一歩離れました。焦ったようなヒールの音が響き、長身の女性が短髪を揺らして駆け寄ります。

「あーもう、心配かけて!」

 長身の女性がもう一人の女性ごと少年を抱きしめると、少年は小さくお母さんと呼びました。君は少し目を見開きましたが、安堵の気持ちのほうが強かったみたいです。少年が君を二人に紹介すると、二人は同時にありがとうと言いました。

「無事でよかったです」

 少年と二人の女性は、君に頭を下げて去っていきました。少年は二人の間で、満面の笑みを浮かべています。二人は少年と言葉を交わした後、見つめあって静かに笑いました。その背中をチクチクと、無数の瞳が突っついています。針のむしろのように、ヒソヒソ声がついて回ります。ママと、お母さん。あの家族がどういう関係なのかは、君も、無数の瞳も知りません。それでもヒソヒソ声は、三人の背中を突っついて回ります。長身の女性がそれを打ち消すように、大きくヒールを打ち鳴らしました。三人分の笑顔に満たされたその背中は、どこか暖かい様子です。幸せの形をした後姿を見て、君の胸はつっきと痛んだ気がしました。そして、ふと考えたようです。

 家族って、なんだろう。



 夕焼けが差し込む中、ゆっくりと病室の扉が開かれます。中にいるはずの少女は夢でも見ているのでしょうか、そっと寝息を立てていました。窓の外には喧騒が広がっています。先ほど君の母親が走っていたのは、他ならぬこの山田のためでした。もしかしたら今は山田ではないのかもしれませんが。

 そっと窓に近寄ると、ちょうど入り口から死角になっている場所に額縁が見えました。平凡で、平坦で、見るものに何も与えなかったはずのヴィーナスが、愁いを持って夕焼け空を眺めていました。ヴィーナスとおそろいの、平凡で、平坦で、見るものに何も与えなかった君は、もはや疑問でいっぱいになっていました。ベッドサイドに置かれた花瓶が光を反射して、花をキラキラと輝かせています。

「おや、来てたのか」

 背後からかけられた声に振り向くと、開いた扉の先に白衣の女性が佇んでいました。山田の担当の医師が胸元にかけた名札をプラプラさせながら、君のもとへと近づいてきます。

「彼女、今は山田だっけ。もう少し安定してきたら退院も夢じゃないと思うよ。二週間以上持つようなら復学も考えていい」

 先生は眠っている山田を見ながら君に語りかけます。君はベッドサイドの椅子に腰かけると、同じように山田を見つめました。そして少し足元を見つめると、ゆっくりと顔をあげます。

「先生は、胡蝶の夢って知ってますか」

 先生は目を瞬かせ、少し首を傾げました。それから山田のほうに向いていた体を君の方へ向け直しました。

「哲学は専門外なんだが。なんだ、夢だと思いたいようなことでもあったのか」

 君は焦点の定まらない目をフラフラさせ、ある一点で止めました。ミロのヴィーナスです。ヴィーナスは依然、夕焼けに照らされて愁い顔です。

「静かすぎるんです、今が。何もない。学校に行くことすらない。からっぽだ」

「いいじゃないか、自由で」

 自由。その言葉に、君は下唇をかみ締めます。あと少しで血が出そうです。

「蝶は、飛び立てば、消えてしまうんですよ」

 滲んでしまった意思は、どうすればいい。迷子の子供のように、君は口の中で呟きます。先生にはきちんと聞き取れていたようで、首をコキコキと回しながらまた口を開きます。

「それこそ胡蝶の夢だ。どちらでも一緒のこと」

 その言葉に君は、俯くしかありませんでした。かみ締めた唇から、血が少し浮かび上がりました。そしてグルグルと回る頭を揺らし、、もう一度ヴィーナスに目を止めました。窓の傍に進み寄って、夕焼けを目に映します。

「自由って、なんだ」



 夢の淵から薄く目を開けた君は、あたりを見渡しました。そこには何もない、ただ何もない空間が広がっていました。

「ここは夢、なのかな」

「そこに人間というものが関与する限り、鷹揚にして現実が付きまとうものです」

 ふいに聞こえた声に、君はあたりを見渡しました。そこには、僕が立っていました。掴み所がないほど平凡で、教室の隅にいるほどでもなく、卒業した時に最初に忘れられる僕がいました。

「マネキン?」

 マネキンではないはずなのですが、きっと間違ってはいないのでしょう。平凡で、平坦で、見るものに何も与えなかった君は、もう僕とは独立した存在なのです。君は、心を動かしたのですから。

「まあ、これが現実であるという証明は誰にもできませんし、君が今まで生きてきた全てを夢足らしめるものも、どこにもありません」

 僕はゆっくりと君に近づきます。君も僕のほうにゆっくりと、でもしっかりと突き進みました。君と僕は何もない空間の中、真っ直ぐと向かい合いました。少しずつ霧が晴れていくように、空間が形成されていきます。君と僕は、何か、舞台のようなものの上に乗っているようでした。

「君にとっての夢は、どっちですか」

「……どっちも、違う」

 君は口をヘの字に捻じ曲げて答えます。君は今日一日で、いろんなことを思ったのだと思います。自分のこと、信じること、正しいこと、家族のこと、自由のこと。あるいはすべてが夢なのかもしれません。そして僕は、僕自身の疑問を投げかけます。

「ねえ、愛って何だと思いますか」

 君はしかめていた顔をさらにぐんにゃりと歪めました。六つ目の疑問は君の首を絞めるでしょうか。それとも君はすぐに答えを見つけ出すのでしょうか。僕は賭けに出たに相違ないのです。

「君は今日いろんなものを見て回りながら、いろんな愛に触れたと思います。そこで僕から君に聞きたい。君の、愛の、かたちを」

 ふいに、涙がポロポロと零れてきました。僕は知っています。君に、愛を聞くのは、酷いことだと。君の居場所を僕は見つけられなかった。学校にも、家族にも、どこにも。どこにもいない君が、どうして愛を見つけられると言うのでしょうか。本当に迷子なのは君です、君なのです。居場所のない君、信頼するものを持たない君、正義を、家族を、自由を知らない君。そして、そんな君を形成してきた僕。

 ポロポロしていた涙は、次第にボロボロ、ボタボタへと変わっていきました。目じりから頬を伝い、どんどんと零れ落ちていきます。何もなかった空間は、もはや何もないとは言えない状態になっていました。頭上には空が広がり、足元には石の舞台が広がっています。

 君は大きく一歩踏み出して、僕との距離を詰めました。僕の目の前で真っ直ぐに立ち止まると、濡れた頬はそのままに、僕をじっと見つめました。

「泣くな」

 君はそっと僕を抱きしめました。僕よりほんの少しだけ低い位置で、僕より少し傷んだ髪が、ゆらゆらと揺れています。きっとこれが、君の愛の形なのです。

 ああ、僕を抱きしめるこの腕だけは、愛に違いない。そこに一部の疑問の余地もないのです。

 どのくらいこうしていたのでしょう。夢が壊れる時間なのか、夢に落ちる時間なのか。君と僕の境目はずいぶんと曖昧になってきました。君の意識はズブズブと沈んでいき、僕の意識はフワフワと中空に浮かんでいきます。僕を抱きしめていた腕がゆっくりと離れていきますが、もう涙は止まっているので問題ありません。

「では、お達者で」

 僕は真っ直ぐに君を見下ろして、少し迷ってからそう口にしました。君は少し驚いたようにこちらを見つめて、優しく目尻を下げました。

「うん、君も」

 遠い君の声を背に、登っていく意識の中で、僕は舞台を見下ろしました。石でできた掌が、僕らを優しく救い上げています。その掌と、すでに見えなくなった君を見つめました。達者で、どうか達者で。

 ずっと、僕の神様には腕がないのだと思っていました。だから、僕を救い上げてはくれないのだと。きっと、あれは、失われた左腕なのです。

 そうして僕は、あいを知ったのです。




 目が覚めると、ひどく平凡な朝だった。ゆっくりと身を起こして、カーテンを一気に開く。眩い朝日に、とっさに腕で目元を覆った。そのまま、少し血管の浮いた左手を見つめる。握りしめる。そこには確かに、生きている温かさがあった。指先が少し冷えているのが分かる。

 平凡で、平坦で、見るものに何も与えなかった君は、いなくなってしまった。君でなくなってしまったこれからを、何として生きていけばいいのだろう。何として生きて、何をして生きていくのだろう。

 それでも、生きているのだから、歩かなければいけないのだろうと思う。君が僕を見つけてくれたように、君が僕を見ていてくれたように、僕も、僕の未来を見つけなければいけない。

 僕は、あいを知っているのだから。


 オムニバス形式の六作、いかがでしたでしょうか。オムニバス形式にしようと画策したのは実は二作目からなのですが。

 途中から割と細やかな部分にも気を使って文章を書いています。実はつたないながらにも、工夫しているのです。

 黒沼は自分のために動くため、菅の内心を慮ることはしません。

 イクスは赤を間近に感じています(某日本文学家のリスペクトでもある)。一度だけ神を神様と呼びます。神を敬称略するのは、神を信仰できなかった彼女の、最後の抵抗でした。

 コニウムの話には妹のことは一切出てきません。彼女が妹のために行動したかどうかは、彼女にもわかりません。

 炭田さんの二種類の幻覚は、それぞれ似通ったタイミングで発症していますが、理由はそれぞれ別の物です。できるだけ難しい言葉を使って書こうとしたため、全力で疲れました。

 トニックはフィズに起きた出来事を他人事として処理しきれませんでした。最初の方と最後の方の施行に、その差は出せていたでしょうか。

 僕、と君、の距離感は、徐々に開いていきます。それぞれの節が今までのオムニバスと、少しだけ繋がっています。「手」という文字を最後以外では使わないように気を付けました。実はこういう文字制限などはほかの部分でも行っています。例えば魔王様は太陽と共演できません。


昔に書いたものを読み返すむずがゆさは何かを書いたことがある人ならだれにでも理解いただけると思いたいです。しかし私にとって彼らは自分の子供同然のため、恥であるとは考えたくありません。故にここで吐き出しました。わあい。


次回、ちょっとしたおまけを載せて、一応の終わりにしたいと思います。

気が向けば昔書いてた裏話集も載せたいですが。

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