第1話 港の娘と学芸員の記憶
前作とツインの作品で、悪役令嬢とヒロインの前世を入れ替えてあります。
前作はシリーズ欄に入れておきます。ぜひ読み比べてみてください。結末は大きく変わります。
初日は1日3話 その後は 朝夕1日2話公開で、完成済みです。
第1話 港の娘と学芸員の記憶
シャルロットが子爵家へ引き取られるまで暮らしていたのは、港町でも下層の人々が集まる地区だった。
大通りから外れ、荷車がすれ違うのも難しい路地へ入る。雨の日には水が引かず、壁の低いところから湿気が上がった。晴れれば荷車の車輪が乾いた土を巻き上げ、窓を開けているだけで床に砂がたまる。朝の仕事にありつけた男は桟橋へ向かい、仕事を逃した男は酒場の入口へ戻ってきた。
シャルロットと母の住む部屋では、湯を沸かす薪も惜しかった。食卓に出るのは、薄いスープと固くなったパン。母がそれを小さく切り分けている日は、翌日の食事がどうなるかをシャルロットは尋ねなかった。
「父親は子爵なんでしょう」
近所の娘からそう言われたこともあった。
「そうよ。でも、ここにいるのは私でしょう」
「子爵様のお屋敷へ行けば、毎日肉が食べられるんじゃないの?」
「私が聞きたいわ」
アンリ子爵の顔は知っている。しかし、父の屋敷で暮らしたことはない。母はアンリの妻ではなく、シャルロットもその家の娘として扱われていなかった。子爵の血を引くという話で、腹が満たされたことは1度もない。
路地で交わされる話は、食べ物や仕事だけではなかった。財布を盗まれた、借金を返さない、殴られた、逃げた。そんな話を子供の頃から聞いていた。大人たちが誰の名を小声で呼ぶのか、誰が酒に酔うと手を上げるのか、どの路地を夜に通ってはいけないのか。聞いていないふりをしながら覚えた。
「今日は裏の道を通るなよ」
顔見知りの荷運び人に言われたことがある。
「どうして?」
「あそこで揉めている連中がいる。子供が首を突っ込むな」
翌朝、その路地では血の付いた石畳を水で流していた。何があったのか尋ねる者はいなかった。
毒の話も、遠い国の物語ではなかった。シャルロットが戸口で靴を直していると、向かいの部屋から男たちの会話が聞こえた。
「まだ死んでないのか」
「少なかったんだろう。次は確実にやる」
数日後、そこで名前を出されていた男が死んだと聞いた。シャルロットは母の顔を見たが、母は唇へ指を当てるだけだった。
シャルロット自身も、昔、皿の隅に残っていた粉を指につけて舐めてしまったことがある。母はあわてて吐き出させ、強い声で叱った。怒鳴る母の顔を、彼女は長いこと忘れなかった。
港のガブリエルと付き合い始めたのは、そうした暮らしの中だった。シャルロットよりかなり年上で、日に焼けた肌に、黙っていれば牧師のようにも見える落ち着いた顔をしていた。港では普通に荷を担ぎ、肩も腕も太かった。荷下ろしが終わると、食べ物を持って会いに来ることもあった。
「今日は何を運んだの」
「聞かない方がいい荷だ」
「そんなことばかり言っていると、そのうち撃たれるわよ」
「心配してくれるのか」
「当たり前でしょう」
彼の仲間には犯罪に関わる男もいた。危険な仕事をしていることは分かっていた。それでも、ガブリエルを本気で好きだった。何もかもを打算で決めていたわけではない。
ガブリエルは違法薬物を使っていた。使った後は目つきも言葉も変わり、約束していたことを忘れる。シャルロットはそれが嫌で、ある日、彼が残していた包みを隠した。
「俺の薬はどこへやった?」
「知らないわ」
「お前、隠しただろう」
「使うとおかしくなるから嫌なのよ」
「返してくれ」
「嫌よ」
言い争いの末、ガブリエルは諦めた。薬はシャルロットが隠したままになった。彼から薬を買ったわけでも、もらったわけでもなかった。
ある日、港から少し離れた通りで銃声がした。ガブリエルが撃たれて死んだと分かったのは、しばらく後だった。
「昨日、あの通りで何かあったんですって?」
近所の女に尋ねられたとき、シャルロットは首を振った。
「知らないわ」
知っていると答えれば、誰と付き合っていたか、最後に何を聞いたかまで詮索される。下層では、余計なことを知っているだけで命が危うくなる。部屋へ帰り、母が外へ出たあと、ようやく1人で泣いた。
ガブリエルから取り上げて隠した薬の包みは、その後もシャルロットの手元に残った。彼が使うのは嫌だったが、薬そのものが犯罪に利用できることも知っていた。
そんな暮らしが変わったのは、アンリ子爵の屋敷から使者が来た日だった。
使者は泥の付いた敷居の前で立ち止まり、革の鞄から書類を取り出した。
「旦那様のご命令で、シャルロット様をお迎えに参りました」
「今さら?」
「先日、お嬢様が流行り病でお亡くなりになりまして。旦那様は、シャルロット様を正式に子爵家のご息女としてお迎えすることをお決めになりました」
使者はその言葉を、葬儀の日取りを説明するような平坦な声で告げた。
シャルロットは母を見た。母はしばらく黙っていたが、娘の上着の襟を直してくれた。
「行っておいで。ここよりは、ずっといい暮らしができるよ」
馬車の中から見える家並みが変わっていった。舗装された道を進み、門をくぐると、子爵家の玄関には洗い上げた石の階段があった。使用人たちは「お嬢様」と呼び、食卓では決まった順で料理が出た。
しかし、匙を置く位置を間違えると指導役の女性に止められた。階段を上がる速度、挨拶の順序、誰に先に声を掛けるかまで、すべてが新しかった。
「もう1度、最初からお願いします」
「はい」
「お嬢様は、これから子爵家の方として人前に出られます」
言われたとおりにやり直しながら、シャルロットは相手が何を望むかを読み取った。下層で覚えた、人の顔色と声の変化から先の行動を予測する癖は、宮廷作法を学ぶ場でも役立った。
貴族社会の人々は、彼女がどこから来たかをほとんど知らない。シャルロットも、自分から話そうとはしなかった。
夜、鏡の前でひとりになると、置き去りにした港の暮らしが急に遠く感じられた。ガブリエルはもういない。誰が彼を撃ったのか、最後まで確かな話は聞けなかった。
◇ ◇ ◇
子爵家へ迎えられてしばらくたった頃、シャルロットは礼法の稽古を終え、机の上に置かれた王立学院の案内を開いた。
表紙には、薔薇の紋章と学院の建物が描かれている。
見覚えがあった。
この建物を知っている。門から講堂へ向かう道も、噴水の位置も。行ったことなどないはずなのに、どの角を曲がれば庭園へ出られるかまで分かる。
次の瞬間、日本で暮らした別の人生の記憶が、一気に戻ってきた。
日本の大学で文系の学部に通っていた、ごく普通の女子大生だった。朝から講義を受け、空いた時間にレポートを書き、アルバイトの予定を確かめる。友人と昼食を食べ、帰宅すれば好きな漫画を読んだり、ゲームをしたりしていた。
駅の改札を通るときの電子音。講義室の蛍光灯。スマートフォンの画面を指でなぞり、友人からの連絡を確かめたこと。帰りにコンビニで食べ物を買い、洗濯機を回してからノートパソコンでレポートを仕上げた夜。風邪を引いて病院へ行った日も、電車を乗り間違えて講義に遅れた日も思い出せる。画面で見た映像だけではなく、毎日を生きた記憶だった。
大学の試験が近づけば教科書を読み返し、課題の締切に追われることもあった。専門的な研究や技術開発に携わっていたわけではない。けれども、好きなゲームにはずいぶん時間をかけていた。
『恋して♡プリンセス! ~薔薇の学園と王子さまたち~』。
画面いっぱいに薔薇の花びらが舞い、王子たちが次々に現れる。そういう、いかにも乙女ゲームらしい作品だった。友人に勧められて遊び始めたのに、いつの間にか自分の方が詳しくなっていた。
あのゲームには、開始時に選べる主人公が2人いた。
1人は、下層で育ち、子爵家に迎えられて王立学院に入る少女シャルロット。華やかな貴族社会に飛び込み、王太子アルベールの心を射止める物語だ。
もう1人は、公爵令嬢ヴィヴィエンヌ。幼い頃から王太子の婚約者として教育を受けており、婚約を守る道も、婚約を失って別の人生へ進む道も用意されていた。
シャルロットを選ぶと、ヴィヴィエンヌは恋の障害として現れる。ヴィヴィエンヌを選べば、同じ出来事が別の側から描かれた。主人公を替えると、登場人物の台詞の意味まで変わるのが面白かった。
それで両方の主人公を何度も選んだ。登場人物や出来事の見え方は変わっても、物語の本筋は基本的に一本道だった。代わりに、王宮や学院の場面を彩る絵が驚くほど美しく、何度見ても飽きなかった。セレディアの王子のように、相手の関心事を理解していれば攻略が進む人物もいた。
恋愛の成果は攻略ポイントで示され、難しい相手へ進むには、それまでに積んだ経験値も必要だった。レポートを提出した夜には、攻略本や攻略サイトを読み込み、誰に何を言えば経験値や好感度が上がるのかを確かめた。攻略本の小さな注釈まで、妙にはっきり覚えている。
そこで、港のガブリエルとの関係を思い出した。彼のような端役の男でも、ゲームなら攻略ポイントは10ポイント。あの頃はゲームの記憶さえ戻っていなかったが、彼女の計算では、すでに10ポイントと経験値を得たところから始められることになる。
シャルロットは案内の表紙を見直した。
「これ……『恋して♡プリンセス!』の学院じゃない」
自分の名前も、王太子アルベールの名前も、あのゲームと同じだ。しかも自分は、下層から子爵家に迎えられたシャルロットその人だった。
ゲームで最初に起きるのは学院での出会い。そこから会話を重ね、王太子の好感度を上げ、ヴィヴィエンヌとの婚約が解消される大きな場面へ進む。
彼女は次々に思い出す選択肢を、頭の中で並べてみた。
ゲームを知っている。ならば、何を言えば喜ばれるかも分かる。下層で暮らしてきたシャルロットには、相手の表情や声色を読む習慣もあった。
画面の中の選択肢を、今度は自分の言葉として使えばいい。
シャルロットは案内を閉じた。学院へ入る日が、急に楽しみになってきた。
◇ ◇ ◇
その頃、公爵令嬢ヴィヴィエンヌには、別の人生の記憶が戻っていた。
日本で生まれ、勉強するためにフランスへ渡った女性の人生だった。
渡航できたのは奨学金を得られたからで、暮らしに余裕はなかった。初めての冬には暖房代を節約し、生活費を計算しながら講義に通った。外国語で行われる授業を聞き取れなかった日は、友人にノートを確かめてもらい、図書館で読み直した。それでも成績を維持し、次の奨学金の審査に備えることをやめなかった。
やがてフランス側の国費による進学の道が開けた。大学院で博物学を学び、科学館の学芸員となった。自然科学の資料を調べ、標本や展示を管理し、来館者に内容が伝わるよう解説を作る。企画の実現には、予算や設備、専門家の協力も必要だった。子供の問いかけから、説明の足りないところに気づくこともある。研究と展示と施設の運営を行き来する、忙しくも楽しい仕事だった。
公爵令嬢となった今の人生は、まるで違っている。幼い頃から王妃候補として教育を受け、外交や礼法を学び、8カ国語を使いこなせるようになっていた。かつてフランス語の講義を理解するために苦労した自分が、今では複数の国の文献をそのまま読める。それは素直に嬉しかった。
婚約者のグランディール王国の王太子アルベールとは、幼なじみである。2人はマレーヌ川の向こう、セレディア王国の学校にも通っていた。両国の王都は川を挟んで向かい合い、アレクサンドル3世橋を渡れば往来できる。
セレディア王都は学園都市として知られる。大学の講義棟、図書館、博物館、美術館、民族学博物館があり、周囲のカルチェラタンには古書店や印刷所が集まっていた。グランディールの貴族の子弟も講義を受けに通う。本格的な研究をする者は、大学の近くに滞在することもあった。
セレディアの王子も同級生だった。3人で試験や教師の噂を話し、講義が終わると書店に立ち寄ったこともある。通りの角には「カフェ・ラパン・アジル」があり、課題を持ち寄って過ごした午後もあった。
セレディアの王子は両生類の研究が好きで、とりわけカエルの話になると熱心になった。アルベールが歴史の課題に頭を抱える横で、王子が動植物の図譜を広げていたこともあった。ヴィヴィエンヌは2人の話を聞きながら、自分の課題を片付けていた。
婚約は王家と公爵家が決めたものだった。ヴィヴィエンヌは王妃となる責任を引き受けるつもりで教育を受けてきた。しかし、その務めを考えるときも、前世で自分の手で仕事をしていた日々の充実感を忘れることはなかった。




